サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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三島由紀夫と沢田研二 
サムライ的刀を携えた者は、同時に無を携えている。
ジュリーも、いつでも無になれる「どこでも禅」のワザを備えた人物に見える。
しかしそれは順応性のある素晴らしい資質である反面
ある危険性も内在しているとはいえないだろうか。

たとえば「自分を無にすること」ができるわけだから、相手にわざと
「こうなってしまった自分」というのを、見せ付けることも可能になるわけだ。
自分はどうなってもいいのだから、ひとつの「サンプル」になることも厭わない。

彼は中学時代のクラブのしごきに対しても「僕はされるのは平気なんですよ」
と答えている。へたすると自虐的ともとれそうな発言だ。
そこで思い出されるのが、私には三島由紀夫になる。

ジュリーもその一編に出演した映画『MISHIMA』でも描かれた、
三島の自衛隊駐屯地での自滅行為は、観客を意識したパフォーマンスであり、
誰に何を見せ付けたかったのか、という捉え方も可能ということだ。

三島は軍隊を愛していたがそれは身体の求めるそれだった。しかし
自衛隊がいざとなればあてにならないことを身体をはって示したのだろう。
どうだ、誰も身体を張れるヤツはいないのか!と。そして彼にとって
その身体を葬ることは、身体を乗り越える、すなわち同じところをぐるぐる
しているだけの憂国を乗り越える、真の愛国を示すパフォーマンスだったのか。

それはちょうど母に対する思いが強いゆえの、愛憎こもった茶番劇であるかの
でもあり、「こんな息子に誰がした」的、甘えをも内包した、
盲目を超えた無償の愛への希求にもつながってくる。
同時に、これほどまでに自分は無を携えたサムライであるという
存在意義の表明であったのかもしれない。

同じ無を携えているように見えても、ついにかっこよさに殉じてしまった
とも言える三島に対し、ジュリーは再生の意志を示している。
無に抗うように生きる彼は、けっして破滅することのない、
成熟したロックを黙って教えてくれているかのようだ。
たとえカッコよくても自滅していいわけはないだろう!と。
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