サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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放送禁止になった「おそうじオバチャン」で描かれる女性は、
モップを使って朝から晩までビルの便所をみがいているが、
そんな自分をけっして客観的に見ることはない。
「うちの便所はもういやや」とちょっぴりホンネをもらすだけだ。

客観的に見てしまえば、そんな掃除の仕事なんていやだと言い出す人は
多いだろうし、それを言い出せば、人から見れば充分おばちゃんであることも
数に入れなければならなくなる。
若さだけが価値ではないのに。

客観的に見ることはないが彼女はちゃんと、
「わたしゃビルのおそうじオバチャン」と名乗っている。
「一日働いて2千円」ということも知っている。
ちょっとお手本にしたくなるような人だ。

歌を歌って仕事をすれば、今日も一日が終わる。
それはつらい一日だろうか? そうは見えない。
ブルースとは、もともとはそのような、綿花畑で働く黒人から自然発生した
労働歌である。
仕事を終えて家に帰れば、あとは「夢」を取り出し、ためつすがめつし、
愛撫しながら眠りにつけばいい。
「おそうじオバチャン」では、そんな彼女の秘密の夢とは何かが語られる。
そこには忘れかけていた女らしさを思わせる、恥じらいさえ透けて見えるようだ。

客観的に見たら、「なんじゃそれ」という夢であっても、彼女にとっては
何にも変えられない生きるカテなのだ。

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仕事を求めて故郷からはるばるとシカゴに出てきたが、
「うまいことやってる」やつらに比べ自分だけは落ちぶれてしまった。
死のうにもピストルさえ買えない。
めくらの友達も死んでしまったから、飲み屋でいま一人ぼっちだ。
その時ふと…

「俺によく似たそこのオッサーン」
と、彼は隣人に声をかける。
憂歌団を聴きに来た観客たちはここで、いっせいに声をあげ
狭い会場は熱気に包まれる。

聴いているこっちも出口のつかめなくなる状況に、一筋の光が
さしこんだように、死から生への転換という希望をそこに見て
連帯意識が一気に高まるのだろうか。
彼は明日の晩、メンフィスすなわち原点に帰るつもりになる。

落ちぶれている者、社会的弱者、彼らの愚痴、やるせなさを
憂歌団はただ歌う。けっして肩を持つわけではない。
音楽で彩りながら、ただひたすらに描写していくだけ。

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憂歌団の歌は暗くない 
憂歌団の歌には、救いがある。
「いやんなったー、もうダメさー」などと、救いのないことばかり
歌っても、「だけど腐んのはやめとこう」と結論していたりする。

「日の目を見るかも、この俺だってー」と希望を持って
それでもダメでも、「これでまたー1から出直しやり直し」と
ブルースのリズムに乗せたコツコツとした言葉遊びを
採り入れてみることで、繰り返すリズムのよさにふと我を忘れ、
一歩引いたところから思わずクスリと笑いをもらすような
発見をしてまで、なおも生き直そうとする。

そうだ、「お前一人が女じゃねえさ」と元に戻るだけなんだ、
もう苦しまなくていい。
そこからまた一歩前進すればいい。

何も絶望することはないのだ。どんな場であれ友達は見つかるし、
朝になれば日は昇る。

彼らの歌には、自分の襟首を自分でつかんで「まっさら」の位置に
戻すことのできるユーモアがあるのだ。
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ジュリーアルバム、マイベストの第2位に「海にむけて」が
浮上してきてしもた。アレンジがいいなー。

テレビで昨夜、大沢誉志幸のヒストリーを見ていたら、デビュー前、
売れないバンドを抱え途方にくれていた彼にある日突然、作曲の依頼があり、
それをきっかけに彼は売れっ子作曲家になった、というのだが、
その依頼というのがジュリーの「お前にチェックイン」。
インデアンのかっこした懐かしいジュリー、久しぶりに画面で拝みました。
かしわ手は打たなかった。
大沢誉志幸、大抜擢だったんだな。

動画では、歌謡大賞を受賞したジュリーを観た。
「危険なふたり」だ。赤いフェイクファーをまとったおなじみの場面。
私はこのとき、まだジュリーのファンではなかった。
7歳の分際で「わがままそうなヤツだ」と思っていたのだ
(ん?当たらずとも遠からず?)。
ところがその5年後に大ファンになって、桜田淳子と密会した車をミゾに
落としただの、なんだのという、12歳のガセネタに一喜一憂するまでになった。

続いて黒い衣装で「ディオコメティアモ」を歌うジュリー。
これは「ハッ!」でおなじみの「悪い予感」と並んで、
彼の、壮大な劇に組み込まれながらも何にも染まらない女豹のような
怪しい魅力をあますところなく伝えてくれる不思議な名曲だ。

次はいかれた赤いジャケットとおなじみの白いシルクハットで「Juke box jive」
を歌うジュリー、「カバー・オブ・ローリングストーン」を歌うジュリー。
この歌、すごく懐かしいんだけどアルバムの一曲かな?
途中で出てくるポスターも全部欲スぃー、と思ってたらテロップで
香川県知事の選挙速報なんかも出てきて、これまた不思議な番組だー。
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ジュリーのバックバンドだった井上バンドは、長髪ひげづらで
けっして大人たちに親しまれる爽やかさはなかったし、
それに加えてロックをガンガン鳴らされた日にゃーと、
険しい顔で見られたこともあっただろうが、
たとえば「太陽にほえろ!」では、老いも若きも男も女も
彼らの曲にいやがうえにも高揚したり、しみじみしたりした。
誰も「井上バンドだー」とは思わなかっただろうけど。

「太陽にほえろ」で、犯人が出てくる怪しい場面では
ミョーンミョーンミョーンミョーンミョミョミョミョーンと、
それどこの民族楽器?と聞きたくなるようなテクで盛り上げてくれたし
ジーパンやマカロニ、テキサス(私はこれくらいまでしか知らないなあ)
といった若いデカが全速力で走るシーンでは、
チャランチャランチャラン、チャランチャランチャランチャンと、
井上の合図でいっせいに、風を切るさまを軽快に表現してくれたし
最後にボスこと石原裕次郎がさっそうと登場し、ビルの屋上で
部下の肩をポンと叩くシーンでは、タラターン、タタターンと
バックで沈むピンク色の夕日にふさわしい、
泣けてくるようなプレイで渋く幕を下ろしてくれた。

それにしてもボスは出番が少なくていいなあ、と思ったものだ。
七曲署のデスクで電話を取るシーンや、背広のポケットに手をつっこんで
人生を語るシーン(?)くらいしか覚えていないもんなあ。
若手に走るだけ走らせて、いつも何やってたんだ?
絶妙のタイミングで登場するのは、彼らをよく見ているからこそなんだけど。
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届きました、スイカ!
以下は、さっそく聴いた感想です。


<ROCK’N ROLL MARCH>

クイーンばりに、大会場で観客がいっせいにこぶしをあげる姿、
うん、いやでも浮かんできますな。
そのときは「ダー!」って言えばいいんですね。

毎日を戦っている戦士同志なら、きっと分かり合える言葉の羅列。

<風に押されぼくは>

作詞の安珠は、アンアンなどの雑誌にもよく出ていたモデル、写真家。
ジュリーにもたびたび詞を提供している。
その華奢なイノセントさが歌にもよく出ているが、途中で一転、シリアスに。

ジュリーのファルセット、本当の女声のようだ。
元はみんな女だったんじゃないかと思わせる。

<神々たちよ護れ>

ジュリー作詞。歌詞は今の社会を憂うメッセージがつまっているが、
ジュリーの皮肉っぽい歌い方と、アップテンポの曲が好き。

<海にむけて>

「永遠のアイドル」ジュリーの、激しく愛を希求する歌。
愛は形じゃないんだと、彼は命をかけて訴えているようだ。

僕は君のあとで逝くこともできるらしい。
さすがジュリー、強いね。

<Beloved>

穏やかなアコギの調べが心地よくてポトリと堕ちていきそう。
涼しい木陰で全身を優しくもみほぐしてもらっているような。

<ロマンスブルー>

ンー、ベィビーナウ! で、「どこまでもついていきます!」と言いたくなった。
本領発揮のけだるさ。
ロマンスグレーって言葉もあるけど、この世界の広がり方の違いはなに?

<やわらかな後悔>

どこまでもジュリーについていく柴山さんの素直な曲調に応えるように
切々と織りなすジュリーのやわらかな歌声…

<TOMO=DACHI>

一世風靡セピア登場か!みたいな元気なイントロが、さこばの人柄をうかがわせる。
友達ができたことを感激している、このジュリーの純情っぷりはどうだ。

「生まれも育ちも違う」からこそいいらしいが、京都と大阪のことかな?
同じ関西でもえらい違うから。
しかし「ダチ」といい「BUT」といい、懐かしい表記だ。
この「BUT」、一時は女子が猫も杓子も使っていたっけな。

さこばも内心とっても嬉しいだろう。
ジュリーにこんな直球投げてもらって…。

<我が窮状>

おごそかに静かに語りかける、侵してはならないこと。
ジュリーの若い声が、涙は形じゃなく「ここ」に生きると歌う。

<Long Good-by>

あの時、一緒に帰っていたら友達。
それができなかったってこと。
彼らは友達じゃない。シンプルだけど厳しい歌だ。
でも一度、一緒に飲んで欲しいな。

<護られているI love you>

これもアコギがみずみずしい。
間奏のピアノにうっとり。
身の回りを綺麗にする、大切なことだ。

護るという字が出てきたのは2回目だ。
守るという字との違いを考えてみたくなる。

アルバムタイトルからしたら「ロックらしくない」と思いそうだが、
「ロック」もまた目に見える形だけじゃなく、生きる姿勢だったり
そういうことにも使っていいんじゃないかな。

彼らは死を抱えて生きているんだ。


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「絆」を動画サイトで見ることが出来た。
ジュリーこの歌のときはまさしく熱唱だ。
泣きそうなほどの感情を全身で表現している。
最後の満足そうな笑みは、「お前のその足で立ち上がれる日」が
来たことを、心から喜んでいるのだろう。

「捨てぜりふ」。これ、何度聴いてもいいですね。
力まかせに女のほっぺたひっぱたくところなんて、役者やのう。
堂にいってて、よろしいなあ。
「ミュータント」。これも妖怪やらしたらピカ1のジュリーに合ってます。
アレンジも、いやでも怪しい雰囲気かもし出してて。
詞に目を転じると、これまた深そうだ~。
赤い口で吸われたくなること、うけあいです。
「TOKIO」。これは、打ち消そうとしてもどうしても浮かんでくる、
あの強烈なパラシュートスタイルに原曲の良さがかすんでいるかも。

「てれふぉん」とタイトルされているのは、これどのアルバムだったかなー、
シンプルないい曲。ジュリーが電話で話す映像が次々切り替わって出てくる。
どれも昔の、重々しい黒電話だっていうのが、また何とも言えませんな。
くろ、くろ、くろ、もうたくさんだ! と言いたくなるほど。

そういや、たまに白や黄色のポップな色の電話もあったけど、
そういうのは鳴り方も一味違って音色が美しかった覚えがある。
黒のように「リーーン!!」じゃなく、「プルプルプル…」のような。

ドラマに出てくるそんな電話に憧れたものだ。
おこられてるようなのより、優しいのがいいですもんね。
「リーン!」と鳴られると「やかましい!」と噛み付いてしまいそう…

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沢田研二のニューアルバム、25日発売!というのは頭に入ってたんだけど
もうすでにかなりの人の元に届いているらしく、私も負けじと、やっと(?)
注文したがまだ届いていない。楽しみ。

ジャケットは赤と黄色のスイカですね? 
タネ無しスイカ…種も仕掛けもないってことかな? 
中身を聴いたら意味もわかるかも。

それまでしばし動画を…ってことで「星のプリンス」を久美かおりに
捧げているタイガースのジュリーを見た。タイガース、いい曲多いなあ。
じょじょー性っていうの?質のいい童謡を聴いているみたい。
フランス人形抱いていた…なんてのもありましたなあ。
今もおばあちゃん家の戸棚にありそうな(あれを抱くわけじゃないだろうが)。
しかしあれはオカッパ頭の日本人形のような怖さはなかったな。

白いミリタリールックに身を包み、足をかたっぽずつ出すダンスをするメンバー。
揃ってるのか揃ってないのか知らないけど
いいアンちゃんたちが一生懸命あんなことして…たまりませぬ。
らららんらんらん、らららんらんらん…

一転して真っ裸のロックンジュリー、ロッドスチュアートの「ボーンルーズ」
歌ってます。
井上バンドともつれあって、からみあって…もう、最高じゃないでしょーか!
終わった後にインタビューする泉谷しげるも眼光鋭く、若武者のようでよろしおます。

あと、この「THE FUGITIVE」は、アルバムの中で一番好きだった。
ラストの「キャンディ」なんてよかったな。
全曲英語の…ロンドン録音だったかな?
どなたかがコメントしていたけど、ほんと、ジュリー発音いいですね。
いい加減な仕事してません。
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うちの母や姑など、あの年代の人にとって、高橋秀樹がバラエティーに
出ていることは信じられないことらしく、口をそろえて「まあ高橋秀樹が
こんなところに出るようになったとはねえ」と同じことを言う。

高橋秀樹というと、私には「桃太郎侍」が思い出されるが、侍というのも
あのような2枚目だったり、体格のいい、背の高い役者が演じると
より迫力が増して、より本物っぽく見えるのだろう。

その本物、というのが曲者で、実際の本物というのは案外もっと貧相で
弱そうだったりして、なのにけっこう剣の達人だったりすると、それこそが
リアルというものなのか、とも思う。

その点「武士の一分」の木村拓哉などは、その小柄な頼りない感じが
リアルだったともいえるが、その痩せた小柄さというのは、かえって
いくらでもこちらの想像の翼をはためかせてくれて、それこそ何にでも
変身できるところがある(実際ドラマでいろんな役に変身している)。

ジュリーも、現在の彼というのは、誰がなんと言おうとあの様子なのだが、
昔の彼は痩せていて、だから余計に想像の世界では年齢も体型も超越して、
そのうえで「私だけの彼」になることも可能だ。
そしてそれの何が悪いのだろう。

イエス・キリストだって長髪のイケメンということになっているが、本当に
そういう感じで実在していたと思いたいもの。
現実さえ無理やりにねじまげなければ、それでいいじゃないか。

想い出を共有し、妄想を共有し、その変身ぶりを競い合う。
「この人には負けた!」という美化ぶりがあるなら、怖いけど見てみたい。

美化するから、いろんなことが成し遂げられるということもあるんだから。
あの世などないかもしれないけど、パラダイスを信じたい気持ちは
共有してもいいのではないだろうか。
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見えないものを信じる 
『聖書』というのも、解釈の仕方によってさまざまに受け取れる。
断片だけで解釈しようとすると、人殺しさえ可能に見えてくる。
興味を持って全体を通して読んで「何を言っているのか」を感じ、
矛盾を噛み砕き吸収することが必要だ。

断片が正しいなら、どうして大人たちの道徳では忌み嫌われてきた
ストーンズやタイガースが、時代を超えて若者の支持を受けるだろう。
彼らの不快さは、もしかすると心地よかったのかもしれない。

世界を支配する科学技術文明の背後にはキリスト教がある。
しかしそれは大人たちの考えた教えかもしれない。
何にも惑わされない目で見たとき、キリストの実際したことと、
大人たちの都合で決めたことには食い違いが生じるかもしれない。

たとえばキリスト教では、動物よりも人間の方が偉いことになっているけど、
キリスト自身はそんなこと一言も言っていないかもしれない。
光と闇が生まれ、動物が生まれ、そのあとで生まれた人間が
それらを管理していいとは言ったらしいけど、管理の仕方を
考えたのは私たち人間なのではないだろうか。

ニーチェやミックジャガーは、キリスト教を批判はするが、キリストについては
していない。彼らはキリスト自身を信じているようなところがある。
キリストが侵略戦争を奨励するようには思えないからだろう。
そして、そんなミックの行動、生き方には、仏教にさえ通じるところがある。
人を罰することをしないのだ。

ジュリーしかり、大人たちに虐げられてきた者たちは、だからこそ
矛盾をかぎわけたその若者の目を、きっと今なお持ち続けているのだ。


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若さと「若さ」は違う 
昔の倫理の時間に教わったような、
基本的なことが見過ごされていては、人の道は始まらない。
でも「見えるものがすべて」と思っていたら応用が利かなくなる。
人間は安きに流れやすいものとすれば、ただ「守ってるだけー」
になるのも時間の問題だ。

「見えるもの」はどうあれ、困っている人を見過ごせないとか、
何かを拒むとか、そうしたフェイントをきかせるには
暗闇をクンクンとかぎつけながら進むことが大切だろう。

ジュリーのセクシーさにも、そうした野性の匂いがぷんぷんする
から惹かれるところがある。「何が何でも生き抜いてやる!」といった
真剣さが伝わってくるからだ。自分が生きるのに必死なのだろう。
「生きる」を前に、若いも年よりもない。

彼はだから、昔の映像などから若いファンも増えてきたといって、
ニコニコと彼らのほうを向いたりはしないのではないだろうか。
「僕たち平行移動でいきましょーねー」と往年のファンたちと
手を取り合っているように見える。

そしてその「来るもの拒まず、去るもの追わず」のような淡々としかし
しっかりと前を向いている姿勢が、若者にも訴えかけるのではないか。
「ついてくるな」と言ってもついて行きたくなるのが本当、という気がする。

若さは可能性に満ちている。
だけど若さは、矛盾だらけの自分にさえ耐えられないほど未熟だ。
だとすれば矛盾、未熟をも吸収できるジュリー世代の「若さ」が、
今こそ「抵抗」にふさわしいのではないか。

真剣に生きていれば、「生きたい」は「人を蹴落としてでも」にはならないはずだが、
そこはジュリーであれ人間には限界がある。だから謙虚にもう一度原点に立ち戻って
再生する、それが還暦なのではないだろうか。


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久しぶりにストーンズの初期の頃の曲をたくさん聴いた。
まずデビュー曲といわれる「カム・オン」から聴いた。
これはミックが「思い出すのもおぞましい」とばかりに2度と
聴けない曲のひとつみたいだが、テンポが速くて聴きやすい。
彼らであって彼らでないようなところが好きだ。

初期の中でも本当に初期の、ミックの少年っぽい低音の声のものが、
不安定で荒さもあるけど私は好きだ。「ハート・オブ・ストーン」とか
「マザーズ・リトル・ヘルパー」とか。
「アズ・ティアーズ・ゴーバイ」とか。

タイガースの初期の歌も、ジュリーの声が低い。
ベテランのつくりこんだ低さではない、たがやされてない、
今になっては貴重な青臭さだ。

もっと低音になると、その頃から老練の魅力のあったサリーがいる。
この「テルミー」をたしか得意としていたのではないだろうか。

子供の頃にタイガースの曲をすりきれるほど聴いたので、
初めてストーンズで原曲を聴いたとき懐かしく感じた。

どっちがオリジナルでもいいじゃないか、という気さえしてきた。
ストーンズもタイガースも青臭いのに変わりはないなら。
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「原罪」という前提に立っていえば人間は、行動をおこせば、
それだけ罪なことをしてしまう可能性が大きくなる存在。
だからといって、それを怖がって何もしなければ、そのことがまた
いつしか罪になってしまう。

そんな罪の意識に縛られるのがいやなら、とりあえず自分の判断で
自分に手かせ足かせをはめて、とにかく行動するしかないのではないだろうか。
そのとき、他人の話も聞いてみようかと、受け入れることができる。
そして体験して初めて自分の血肉となる。

行動して、現実と闘って、この世に確実なものはない、と知れば知るほど、
依拠すべき変わらぬ法であったり、ルールが必要と思い知る。

行動せよ、と言っても「書を捨てよ、町に出よう」でなければ
ならないのではない。
家にこもっているからといって、行動していないとはいえない。
コツコツと、ひそかに何かを積み重ねていっていることもある。

だけどたとえば「太陽を盗んだ男」のように原爆を作っているのだったら
どうだろう。人を殺してはいけない、に抵触するのではないだろうか。

そもそも殺してどうしていけないのだ、と考える人だっているだろう。
しかし世の中の決まりは、法であれ宗教であれ、殺してはいけないことに
なっているのだ。それは逆に「目に見えるものばかり」に頼っていてはわからない
が、どこかできっとつながっているはずだ。

本当のことはどこにもない。ならば、だからこそ理想を追い求めていく。

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何年かぶりに故郷に帰って、ふと昔なじみの店に立ち寄ると、
同じ店主が同じようにそこに居る、それだけで、震えるような感動を
覚えることはないだろうか。「ああ、ずっと続いてたんだ」と。

私がミックジャガーのことを書き始めたのも、それと同じできっかけはその
「ローリングストーンズ、まだやってたんだ!」という感動だった。
それは安心感や、それにともなう「まだそこに居たの?」みたいな
優越感さえ入りまじったような不思議な気持ち。

相も変らぬ同じメンバーで、懐かしい曲のオンパレードで、だけど
フロントマンのミックは、その厳しい毎日の伝わってくるような若さを保って。

一つのことを続けていく、ということは、必ずしも偉いこととは限らないが、
続けていないから偉いわけじゃない、と気づく。

たとえば「還暦を祝う」という行為もそうした感動の延長にあったら素敵だ。
「えっ沢田研二って、ジュリーってまだ続けてたんだ!」という驚きから始まって、
静かな感動、そして素直な「祝いたい気持ち」、思わず口をつく「おめでとう」。

彼らにとって「生きる」はライブを続けることなのだ。
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利休が命をかけたこと 
「死は存在せず。なんとなれば、われらの存在するかぎり死の存在はなく、
死の存在あるとき、われらは存在することをやめるからなり。」―― エピクロス

ちょくちょくお世話になっている、画面下方の格言集から引っぱって来た言葉だ。
言葉の断片だけですべてを判断することは慎まねばならない。しかし
この言葉をわかれば、死ぬことは怖くないし、同じように苦しみにさえ耐える
ことができるのではないかと思う。生きることを全身で実感できるのだ。

人間の寿命が尽きるときは、いとも簡単に尽きてしまう。
自然の前にあまりにも無力でちっぽけな私たちだからこそ、
与えられた生を、精一杯生きる。

茶人の千利休は、豊臣秀吉に逆らって切腹を申しつけられたと伝えられている。
秀吉に従えば生きながらえたのに、自分の信念を曲げなかったのだ。
それは前記の静かな心境があったから貫けたのだろう。
命をかけても貫くべき自己というのは、彼の中で密かに育まれて行った。
それはいつでも自己を貫いていれば、けっして育まれることはなかっただろう。

どうしても譲れない局面で、秀吉に迎合して生きながらえる生など、
彼にとっては無いに等しかったのかもしれない。だから切腹を受け入れる
すなわち死を選び取ったのだろうか。

一説によると利休の死は、秀吉の海外出兵に対する無言の抵抗だったという。
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ココロは実体がない 
ジュリーはテレビの世界で大人しくルールに従っていた、と
いうことを述べたが、それはどのような従い方だったのだろう。

それは恐らく「自分を抑えて」従っていたのとは違うだろう。
「自己」を抑えている限り、自己は強烈に存在するのだ。
それでは自己主張しているのと同じ。
長続きはしないだろう。

そこで彼の「どこでもドア」ならぬ「どこでも禅」、無になるワザが
役立つ。たとえば無になれば誰とでも仲良くできるのだ。

「全員集合」での志村けんとのコントが、あんなに楽しそうなのも、
何かから解放されたような悦びでもあるとともに、
きっと単に心から楽しんでいたのだ。その瞬間瞬間を。

売り子なら売り子になりきって、あのイケズなジュリーが
先輩売り子の志村のしごきに「ハイ!」「あっ、またやっちゃった!」と
ほら、Mになりきっているようだ。

そもそも心は実体のないもの、「つかまえた」と満足すれば、
次にはもうそこにはない。
だからスイッチひとつで燃え上げることも出来る。

昨日書いたミックだって、ギョロ目をしながらも
そんな情けない自分をさえ、楽しんでいたかもしれない。
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放送禁止曲といえば、ストーンズで有名なのは、
「Let's spend the night together」(邦題「夜をぶっとばせ!」)である。
アメリカのエド・サリバン・ショーで生放送するのに、
「一緒に夜を過ごそう」を「一緒に時を過ごそう」つまりナイトをタイムに
替えろといわれたのだ。どうやら冗談ではないらしい。

このエピソードは「ミック・ジャガーはカメラが回りだしたとたん、そのまま
ナイトと歌った。まあ彼ならやりかねないことだ」と、まことしやかに語り伝え
られているが、それはやはり偏見に基づいた伝説といわざるを得ないだろう。
実際の映像で彼は、これ以上はっきりしようがないほど
ちゃんと「タイム」と歌っているのだから。

ただし彼は「タイム」と歌うたびに、目玉をギョロっと上にあげて見せた。
そこが何度見ても面白いところなのだが、気をつけて見ていなければ
見過ごされてしまうだろう。
ファンであり、熱く見つめるからこそ気づくポイントなのかもしれない。
ミックと「山」「川」と合言葉を言い合っている気分になってくるのだ。

しかしこうして見るとミック・ジャガーという人は禁止措置を受けるたび、
葛藤や逡巡を経ながらも、結局は従ってきたんじゃないか、とも言える。
放映後しばらく経た雑誌のインタビューでは「やっぱりあれは間違っていた」
などと後悔していたりするのだ。こうした「情けねーな、ミック」と言われそうな部分
はエピソードとして切り捨てられていくのも無理もないのだろう…。

しかしそれはただの臆病ではない、ということは昨日述べたとおりだ。
葛藤や逡巡が後になって生きてくるのも、ルールに従うからということはある。
「いつか抜け道を見つけてやる!」といった怨念も、彼らが長く続けている
理由の一つにあるのかもしれない。

ジュリーにしても、彼がテレビに毎日のように出演していた全盛期、
ルールに従いながらも、どこかしらその「ミックの目玉」に相当するような
仕草だったり、表情だったりという、沈黙の業があったように思う。
そしてそれを見ていた私は、もちろん彼のルックスや音楽に惹かれる
ところが大だったにせよ、何よりもその業に魅せられ、応援していた
のかもしれない、と今ふりかえることができる。
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もう一度、反抗と抵抗 
昨日ミックジャガーはパンクから揶揄されても支持さえした、と書いた。
支持というのは例えば個人のドラッグ裁判に関わったり、ということだが、
考えてみれば「奴らは終わった」などとからかう者を、なんとか
受け入れられはしても、支持なんて出来るだろうか? 
なかなかできるもんじゃないですよ?

そこはやはり西洋人、キリスト教の影響が強いと思われる。
にわか仕込みじゃない気迫がある。
我々がムリにそれをするなら、やめたほうがマシじゃないだろうか。

長い歴史に裏打ちされたものを見ずに、たとえば我々が表向きの自由や
あるいは本当の愛に憧れても、そんなものは世の中のどこにもないのかも
しれない。真実は足元にしかない。

だけどミックにも譲れないものがある。それが昨日述べた「発禁」への反発だ。
ただし「反発」というとちょっと違う。たとえば、その「トイレの落書き」に対して、
「ワイセツのどこが悪い!私は大好きだ!」とムキになるのはやっぱり
「発禁」と同じように不自然じゃないだろうか。不快なら不快でいいのに。

それはちょうど、必要以上に問題視されて教科書に載らないことを
目指しているようなものだ。それはいつしか「いいですよ、どうぞどうぞ」と
教科書に載せられ支配される危うさがある。同じ穴の狢だ。

日本でも多くのミュージシャンがわざと放送禁止曲をテレビで歌ったりした。
それは、タブーに挑むエネルギーという価値はあっても、
放送の現場に行くのは「さあ捕まえてくれ」と言っているようなもの。
つまり自己満足になってしまう可能性の方が強い。
わざわざテレビに出る必要はないでしょう、ということになってしまう。

これらの表現も「存在を許されていいのだ」という彼らの主張が、
それでは逆効果になる恐れがあるのだ。

かつて高田渡は「自衛隊に入ろう」という歌をつくったが、
曲解され入隊への宣伝に使われそうになった。
それから彼はいっさいこの歌を歌わなくなったという。
やはり限界を知ることは必要なのだろう。

先述のジャケットを、ミックは結局世の中に折れて、真っ白にして出した。
それは彼のささやかな「抵抗」だったのかもしれない。
やはり真実などどこにもなかったのだ。
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このあいだ「大事にする」と身体は萎えてしまう、と書いた。
ロックも同じで、たとえばブルーハーツの「パンク・ロック」じゃないが
「吐き気がするだろ、みんな嫌いだろ」的、アンチエッセンスを適宜注入
してこそ、その精神も成立するのかな、とも思う。

パンクだけ、反抗だけなら、それはいつしか破滅への道をたどってしまう
かもしれないことは、多くのミュージシャンが証明しているところであったりする。
では破滅しないためにどうすればいいのか。
反抗を凌駕した「抵抗」、すなわちロックの精神がある。

さまざまな事情を知り、人の心情をくめばくむほど、「反抗」はできなくなるものだ。
だけど「当たり前のこと」がつぶされるのを見るに忍びないから、「抵抗」するのだ。
抵抗するのは、反抗で終わらないため、ひいては破滅しないため。
こんな世の中やってられるか、という反抗から始まって、だからこそ物を考え、
最後には受け入れるため。

「抵抗」の手段として歌や映画などの作品はあるのではないだろうか。
何も扇動していない、どうとでも取れる表現法だ。

それらは本当に、何も主張していないのだ。
「こう主張している」ととるのは、受け手の自由だが、それ自体は
何かを指し示してはいても、主張はしていないはず。

ミックジャガーはかつて、『ベガーズ・バンケット』の物議をかもしたジャケット
について、「ワイセツさを感じるなら、それはそいつの心の問題だよ」と言った。
「トイレとその落書き」という表現に、何を想像してもいいけれど、
言ってもいないことやら、架空の人物やらを総動員して、
無を有にまでしてしまう、つまり「発禁」にまでしてしまうのは、受け手の心だと。

たとえば映画も、「ときめきに死す」は、私には「肉体主義への反発」とも
とれたが、別の人が見たらまた別の見方がある。これら作品は、まっこうから
「それは違う」という反抗は断じてしていないが、なんらかの抵抗がある。

そう考えると、ジュリーの作る音楽も、抵抗だ。
彼は芸能界において歌手の立場を守り、沈黙を守り通してきた。
その分さまざまなことを考えてきたのだと思う。
それを今やっと、作品として世に問いかけているのだ。
歌うことは誰にも止められない。

作品について色々と言いたくなることもある。
誰だって発展途上だし、変わっていくものだとはわかっていても
悲しいかな人間は、良くも悪くも思い入れが強ければそれだけ、
手出し口出ししたくなるものだから。
でもそうしたものも全部飲み込んで、彼らでさえ成長していくのだ。
だからミックジャガーは、かつてパンクの連中に揶揄されても、
そのエネルギーを愛し、支持さえしたのもしれない。
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けっこう前になるが、「大人の資格」とかいう番組を見た。
いろんなタレントを隠し撮りして、わざと怒らせ、反応を楽しむというもの。

そういえば似たものに昔「スターどっきり丸秘報告」とかいうのがあった。
ジュリーは、あまり出ていなかったな。
ブーブークッションだったかを敷いた椅子に腰掛けさせられて、
「ブー!」と鳴らして、わーい、おなら出たーみたいな他愛ないものなら
出ていた気がするけど。

「スターどっきり」は、スターの寝起きを突撃する、というのが目玉だった。
かわいいアイドルがくしゃくしゃになっているだけで、見ごたえあった。
割と近年では、田代まさしがレポーターをはりきってたが…

さて「大人の資格」では、嶋大輔がとうとう怒鳴り始めた!
アンガールズが先輩と共演するのにわざと遅刻したり、横柄な態度を
これでもかと取るのだ。楽屋裏で2人は「もうかんべんしてくださいよー」と
泣き出しそうになりながらも、精一杯怒らせに努めていた。

嶋大輔は、二人が遅刻してきた、そのことからしてイライラしていたから、
いきなり切れたわけじゃない。「横柄な態度」にいちいち面白いくらい
気分を害していたのが傍目にもありありとわかるから、
「オイお前らいいかげんにせえよー!」と怒り始めたというのは理解できる。
嶋大輔自身も自分が何に怒っているのか理解できているだろう。

理解できなかったのは、にしおかすみこというタレントだ。
タクシーに乗っているんだけど、運転手が仕掛け人で道を間違えたり、
行き先が把握できていないのはもちろん、タレントになれなれしく話しかける。

なれなれしく話しかけられた時点で不快になっていればよかったと思うのだが
「はい飴どうぞ」と運転手がミスをごまかすように渡すアメまで
いちいち全部受け取って食べるのだ。居眠りしそうになる身体を立て直してまで。
しかも「ありがとうございまーす」といちいち感謝して。

運転手はますます横柄になって行く。きわめつけに「あれをやれ!」と言い始めた。
いやそういう口調ではなかった。「やってくださいよー」という軽い言い方だ。
その軽さという衣で内容はあいまいなものに変わる、ということはありがちだけど、
訳したら「あれをやれ!」に違いない。
彼女はテレビでおなじみになったらしい芸を言われるがままやって見せた。

彼女は結局、変なところでタクシーを降りることになる。
道がわからずに乗客を引っ張りまわしたあげく、にしおかの居眠りをさんざん
ノリの軽い世間話でぶったぎった運転手は、疲れて客をよそに居眠りしている。

そして理解できなかったのは次だ。にしおかはなんと、3千円(多めに)を置いて
「運転手さん起こしてはかわいそう」とばかりに、「ここでいいですよー」と
そっと車を降りて行ったのだ。

テレビだから演出もあるのかもしれない。
売り出し中のタレントであれば保身に走ろうとするのも無理ないとも考えられる。
「ぶっそうな世の中、変な運転手に殺されでもしたら」と想像することもありえる。

だけどお金を多めに渡すというのは、一体全体どういうことなのだろう?
今までのこと全部許すから、せめてお金を払わないで降りてくれ!と
ワラにもすがる思いになってしまった。
ほら、親切にも居眠りしてくれてるんだから! 

これが「大人の資格」ならそんな資格いらない、と思わせるには充分の番組だった。



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船場吉兆が食べ残しを使い回ししていた問題で、女将という人のコメント
を聞いたが、平身低頭で謝りながらも、「お客様の手付かずの料理」という
表現をしていた。これは考え方だから人それぞれなんだけど、ああ、
そういう認識であれば、何度でも繰り返すだろうな、と思った(ばれない限り)。
責められているから謝っているだけだ。

京都でも老舗というか、昔からあったな、おいしかったから久しぶりに入ってみよう
という店は多いだろう。相変わらずお客さんは多いが、それに甘えてか、
ちょっとしたところに手を抜いていたりすると、敏感な人にはわかるのだと思う。
心から「快」を求めている人には。
それで「ああ変わったな。もう行かなくていいや」と静かに心に決めている人も
いるだろう。
そう、行かなければいいだけのこと。

京都だから、老舗だからと、何されても「こういうものか」と受け入れるお客さん、
それはそれでいいのだ。なにひとつ悪いことはない。

だけどその人たちには、みんなが騒ぎ始めたからといって尻馬に乗って
一緒になって、鬼の首でもとったように責める資格は、本当はないと思う。
たとえ食べ残しを出されても、何もそれで死ぬというわけではないんだから。

何があっても無批判を貫き通せるなら、それはそれで筋が通っているだろう。


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沢田研二「大阪物語」 
この映画のキャッチコピーは
「お父ちゃんもお母ちゃんも、私以外はみんなアホ」。
そう、みんなこんな風に思うんだな。
結局さほど違いはないだろうに。

いや、でもこの発言ももっともかな、と思えてくるほど、主人公は美しく聡明な娘。
この娘が街を放浪する場面で、スケベなサラリーマンにナンパされて
「いや、わからん」と拒んでいた場面がリアルでよかった(私もスケベか?)。

娘の親に当たるジュリーと田中裕子は、夫婦漫才師だ。
二人はジュリーがかこった愛人に子供が出来て離婚するが、例外にも売れない。
夫婦漫才師というのは離婚後またそれをネタにして人気を取りに来るらしい。
その逆手を取って意地でも離婚しない、そして今はもう離れられなくなったような
大助花子もいるが、芸人は生きていくために、私生活から何から切り売りするのが
普通だ。

今実際にテレビで大活躍している若手漫才師の顔もちらほら見える。
千原兄弟? チュートリアルかな?という場面もあったな。
みんなまだ吉本の研究生かそれに毛が生えたくらいだったんだろう。
他にもいろんな漫才師や、ざこばの娘や、坂田利夫の顔もあった。
そしてミヤコ蝶々が語る場面…あの独特の口調には不思議と癒される。

田中裕子については、私はいわゆるアンチではないが、なんだかとても
冷静な目で見てしまうことはたしかだ。
たとえば「顔は綺麗なのに、手がやけに生活じみているな」とか。
そういえば彼女はこの手がコンプレックスだったらしく、恋愛時代、
さかんにジュリーの手を褒めていたな、とかさ。

あとは「あのハスッパなセリフのよみ方は、桃井かおりあたりをお手本に
しているんだろうか。だけど桃井かおりと違って、この人がそれをやると
本当に「怖く」なってしまうな、くわばらくわばら…」とか。

それは単に、高音との違いが激しすぎる「低音の声の彼女」が好きではない
んだろう。「こんなところでいきなり服を脱ぎ始めんでも…」という感じで。
あとは大阪出身らしく、大阪のおばちゃんを好演している、と素直に思う。
ジュリーと商店街を歩きながら「このエロジジイ」「すかたん」と言い合うところが
とてもおかしかった。

舞台で倒れたジュリーを心配そうに見つめる裕子や、事故で頭に包帯を巻いた姿
でベンチの隣に座る裕子を色っぽく見つめるジュリー。ええよかったですとも。

ジュリーというのは、こういう「破天荒な生き方」や「大阪的なもの」「B型的なもの(?)」
あるいは「落ちぶれていく生き方」などにある意味憧れ迫る人生だったのかなと思う。
だけどこれらは、ジュリー自身がしっかりしていなければ、演じることは出来ないのだ。


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身体との付き合い方 
昨日記した「肉体主義」への抵抗といえば、イギリス人もそうなんじゃないか。
たとえばクイーンのフレディ・マーキュリーは、その出っ歯どうにかならない?
と言われなかったとも限らないが、それでもそんなこと全くお構いなしに
大口開けてシャウトしていたし、あまりに堂々としているせいか
こちらも「そんなことどうでもええやないか」と自然と思うようになる。

ミック・ジャガーだって、数々の整形疑惑や、若返りの薬やってる疑惑を
かけられながらも、年齢を重ねるごとに確信できる「やっぱ出っ歯なの?」
という周知の「どうにもならない現実」についてはなんら頓着していないように見える。

そりゃ彼もせっせと歯のホワイトニングに通ったり、のちにそこにダイヤモンドを
埋め込んでみたり、アボガドを飲んだり(?)、毎日のトレーニングを欠かさずに、
というラインまでは努力しているようだ。

だけどそれは人間だから小奇麗にするに越したことはない、という意味の努力で
あって、彼の戦略的に変化する発言とは別に、「実はトレーニングは幼い頃からの
単なる習慣」という裏話があったり、本人が「あまり誤解しないでくれ」といった趣旨の
ことを言っていたりするのだから、本当に言葉通り受け取ったほうがよさそうだ。

だからそれは肉体主義への「反抗」ではない。
「アメリカ的」なものについても、なんら反抗しているわけではないのだ。
彼らは、ただ当たり前のことを当たり前に示しているに過ぎない。
何が自分に必要で何がそうでないかをわかっているだけ。

「努力はするけど」という必要性を感じるだけでも大きな違いだ。
たとえば楽しい作業だからと、時のたつのを忘れていても、
いざそれを終えたとき、身体がことのほか疲れていたりする、
ということはあるだろう。

気力はすべてを凌駕するわけではないとわかる。
かといって、では身体を大切にしようとすると、身体は萎えてしまうのだ。

言えることは心身ともにあなどれないということ。
本当の意味で身体を大切にするとはどういうことか、
その辺を踏まえたとき、昨日記した三島由紀夫の発言も活きるのだと思う。
何のために努力するのか、それは、現実から目をそらさないでいるためだ。

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週刊誌をペラペラとめくっていると、吉永小百合のインタビューに
目が留まった。いつのことか、映画「動乱」の撮影中のエピソードだ。
彼女が撮影の合い間にスタッフや他の役者と暖をとっていると、
ふと共演の高倉健の姿が見えないことに気づいた。

彼はなんと極寒の季節、休憩中だというのに外に出て寒さに耐えていたの
だという。

陸軍将校の役作りにかける高倉の姿勢に吉永は感銘を受けたようだったが、
こうしたストイックさは、それがどんな人物であろうと、人の心をつかむのか…
とふと、ジュリー主演の「ときめきに死す」を思い出した。

主人公の青年は「性格に難あり」と言われそうな偏固な人物で、愚かな行動を
するが、沢田研二は彼の、酒タバコもやらずひたすらトレーニングに励む禁欲的な
「日常」に男を見て、この役に惹かれたのかな、と思った。

三島由紀夫の『若きサムライのために』を紐解くと、
こんな文章に出合う。「危機というものが男性に与えられた一つの観念的
役割であるならば、男の生活、男の肉体は、それに向かって絶えず振り絞られた
弓のように緊張していなければならない」。

彼はまたこうも書いている。
「われわれの心の中には、日本的な、肉体を侮蔑する精神主義が残っている
と同時に、一方では、アメリカから輸入されたあさはかな肉体主義が広がって
いる。そして、人間を判断するのに、そのどちらで判断していいか、人々は
いつも迷っている。私は、やはり男といえども完全な肉体を持つことによって
精神を高め、精神の完全性を目ざすことによって肉体も高めなければならない
という考えに到達するのが自然ではないかと思う。」

「男といえども」という言葉から、三島はここでいう「精神主義」の内包に「男」を
置いているのだな、と読み取れるが、ジュリーもこのような論に立ち上がって
拍手したいような自分と、努力しても太ってしまう自分とのせめぎ合いが
あったのかなとも思える。

それでも今この年齢に達したジュリーが、ロックを歌っている、もうそのことだけで
感動的じゃないか、ともいえるし、年齢を問わず「若き~」がロックならもう少し…と、
酷なことを要求したい思いと両方ある。こちらもせめぎ合いだ。もちろん「倒れたら
元も子もないでしょう」といった大人のロックを、彼は伝えてくれているのだ。

いずれにしても例えば「アメリカ的なもの」を無批判に取り入れてきたように見える
郷ひろみよりは、肉体主義にならざるを得ないスターという立場にあってなお、
ある抵抗感を持った「ジュリー」が、私は好きだったのだけれど。
スポーツジムに嬉々として通う彼、など想像つかないもんなあ。
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動画サイトで 
「ごようじん ごようじん」とタイトルされたものも見た。
このライトな大瀧 詠一の曲に、ネズミ小僧の小走りのような
ジュリーの歌が入るのが好きだった。 コーラスが
あまりに繰り返されるから、しまいに「ヨージンゴ ヨージンゴ」に
聴こえたりしたな(ごめんなさい、私のジュリーの追憶が幼くなりがち
なのは、10代のまだ子供だったせいだ)。

動かない動画って、最近のはやりなのだろうか。
すこぶるつきの編集のものも見かけるな。

「ザ・ベストテン」で、京都の名所を教えてくださいという
お便りに答えるジュリーというのも見た。
「そんなこと急に聞かれてもなあ」という顔をしていた。

しかしそこで、突然早口になり、よどみなく説明を始めるところが
なんというか、次男坊らしいというか、彼の調子よさだ。
「そうでございますね」みたいな、妙にかしこまった口調をするときは
裏に困惑が隠されているのではないか。

やはりというべきか、彼は幼い頃から慣れ親しんだ家の周辺の
名所をいくつか、駆け足で紹介してお茶をにごしていた。
京都の人だから逆に、そこしか出てこないのだろう。

そしてちゃっかりと友人の漬物屋を紹介していた。
そういえば友達だと聞いたことがあるな。
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久しぶりにジュリーの動画を覗いてきた。
いやあ、堪能いたしました。ジュルッ。

異国を訪問する合い間のインタビューに答える若き日の彼は、
どこか宙をさまよっているような、ぼんやりした
雰囲気を漂わせながらも、愛想よく振舞ってはいるが、
同時に油断のならない隙のなさを携えている。
笑っても、けっして笑いっぱなしにはならない。

ちょうど若き日のミック・ジャガーが、「黒くぬれ!」を歌う前の
インタビューでビートルズのことを聞かれて、「そんなこと関係ないだろ」
と言いたげな表情を浮かべているのと重なった。
へんなこと聞いたら噛み付いてやるぞ、とでもいう勢いで。

そう、ジュリーもどこか、噛み付きそうなのだ。
ミックが動ならジュリーはもっと静的だけど。
コントやバラエティ、その他なんでも来いの空間に参加しながら
こっちに入ってくるなよ、といった自分だけの領域を持っているような。

「シーシーライダー」を熱唱する場面というのも見た。
そう、この「アウッ!」のシャウトがこれだけシャープに決まる人も
めずらしい。

そしてやっぱりPYGの曲はいい!
「花・太陽・雨」に「戻れない道」、いい!
独特の世界だ(言葉が見つからない…)。

動かない画像での「メモリーズ」も懐かしかった。
シングルでは一番好きだったんじゃないかな。
なんというか、人間臭くないのだ。
それって、ジュリーらしくないから好きだったのかな。

ジャケットの顔も憑き物が落ちたようだし、
歌声も少しかすれが入るとは言え、余分なものが削ぎ落とされている。
雑味なし!のビールのようだ(甘口だけど)。




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