サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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「涙のhappy new year」

ハウンドドッグの昔の曲に「涙のBirthday」ってあったが、
ジュリーもおんなじもの背負ってるのかな、しょうがねえな、というタイトル。

こういうエコーがかったくぐもった声は「天上の人」からのお達しを受けている
気になるが、そのわりに歌詞は「メール」だの「携帯の機種」だのが新鮮だった
時代にとことん寄り添った内容。

「僕のことを思う君がかわいそう」なんて、もてる男だから言える言葉だな。
いや、どんどん言って欲しい。

「俺たち最高」

いきなりの力強い手拍子に身が引き締まる思いだ。
男声のコーラスも、「ヨイトマケの唄」の美輪明宏のうしろで
「エンヤートット、エンヤートット」とひたすら連呼する男たちが思い出され、
勇気づけられる。

「Caress」

「触れる つかむ 揺さぶるー」と、ジュリーならではの声の広がりが生きる。
それに合わせてどんどん身体がのけぞっていきそうだ。

「勇気凛々」

ミック・ジャガーの「Let’s Work」をジュリー流にしたらこうなるとも言えそうだが、
鈴が鳴る「りんりん」と、勇気りんりんをかけたあたり、ジュリーらしい他愛のなさ。
かと思うと、いきなり「心頭滅却」だなんて、小難しい熟語も用意されていて、
これまた、らしいと言えよう。

間奏のギターが甘く懐かしい。
そのあとで拗ねたように「キューンキューン」と入るのも、犬ころのようで可愛いな。

「桜舞う」

泣きのエレキギターから始まるが、クラシック調の背景が落ち着く一曲。
「君を残してどうして行けるだろ」のメロディーが切ない。
「僕を残してさっさと行かないで」の歌詞も切ない。
ジュリーのなかに、こんな心情もあるのかな。

「weeping swallow」

うって変わって叫ぶようなシンセサイザーをバックに、
「正義の味方」ウルトラマンが登場。
って感じだな、と思ったらやはり「平和を惜しむ」とか、
「子供たちのため」といったフレーズが散りばめられていた。
これもジュリーの一面なのだろう。

「遠い夏」

ドラムというより、「出たな、太鼓」と思わせる。
しまいには木魚にさえ聴こえてくるが、この限りなく規則正しい
「トントコトントコ」という素朴なリズムに癒される。
そしていつしかトランス状態…にまではならないけれど。

途中で入るジュリーの「つぶやき」の色っぽさとのコントラストがたまらない。

「now here man」

ポップなノリの軽さにマイナーが入る。こういう歌謡曲っぽさを入れてくれると
安心する。そこがジュリーのロック。

「じわっとじわっと」他の、ひょっとしてGRACEねえさんらしい言葉遊びが炸裂。
ピアノも大活躍。
だんだんアメリカのミュージカルを見ている気分になって踊りだしたくなる。

「Aurora」

出だしは「億千万、おーくせんまん」を髣髴とさせる、またもや歌謡曲だが
だんだんニューミュージック風に聴こえて来る。
郷ひろみから始まり、ユーミンに着地した、といった感じだろうか。

「未来地図」

また力強い手拍子が始まった。
だけどこの感じが、アルバムを底通するものかな。
この手拍子があとあとまで未練がましくチラチラ顔を出すところがいい。
これもユーミンみたいなアレンジだが、その分ジュリーの声が優しく響き
ロックの硬さがあぶり出される。




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「ぼんち」を観て、ジュリーの歌声は遺産だ(死んでないって!)と改めて
思ったが、そう、手元にないCDを少しずつでも揃えていくんだったと、
さっそく会場で「俺たち最高」を求めてきた。

「何これ、サイコロ!」と子供に目を輝かされて初めて、このボックス型ジャケの
デザインがサイコロだと知る。さすが子供。その野性の目に曇りなし!
私の目が曇っているだけか。
私は赤い水玉のチラチラした…、としか認識していなかった。
言われなければ、永遠に認識することはなかったかもしれない。

ほんとだ、これサイコロじゃん。見事なまでのサイコロの羅列。
どういう法則で並んでいるのか、とにかくこういう所にまず
目をつけてあげないとな、聴く前に。

…と、もったいつけてるのは、まだよく聴いてないからなので、
できたら明日、感じたことを書いてみたいと思います。

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私は関西人だが関西弁がうるさく聞こえることがある。
でもこの舞台で飛び交う、昔ながらの「チョケ」や「てんご」「ざんない」
などの言葉や、普段着の大阪弁はとても耳に心地よかった。
「大阪締め」まで聞けて嬉しかった。
こういう伝統も大切にしようという思いが込められているのかな。
「そういえば食い倒れ人形なくなるらしいなあ」と、ふと寂しいことを
思い出したりもした。

比較的小さいホールだからか、ジュリーの「色気ダダ漏れ」ぶりは
遠い席にもビンビン伝わってくる。つややかな声も今日も健在。そして
ちょっとした仕草や表情に、彼の魅力は凝縮するんだなあ。
人の話を聞いているときの、羽織をペラペラもてあそぶ仕草や
うんこさん座りで石を喧嘩売ってるように投げる、油断するなよという
不敵な表情など、ふっと流れてしまう、留めておきたい一瞬の積み重ね
でも、観客の足を運ばせるのかなあ。
食事の一幕でうなぎを前に「オウ!」と目をハートにする演技などは
食いしん坊ならではのリアルさがあった。
そのわりに一粒ずつしか食べないのは何か事情でもあったのか。

戦時下の緊迫した状況でも人々は「ワインレッド」などの和製英語を
「そりゃあかんやろ、えんじ色やろ」などと茶化しながら仕事する。
当時の日本でも実際の日常風景ってこんなもんだったんだろう。
それが兵隊に獲られるときは一変した、かしこまった敬礼を見せる。

なにもかも失っても、残った希望を頼りにぼんぼんは再起を誓う。
それまでの遊興も、すべて肥やしになっているのだ。
それはやはりいつでも本気だったからなのだろう。
「男はやるときゃやる!」という、甲斐性を伝えてくれた。



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三島由紀夫と沢田研二 
サムライ的刀を携えた者は、同時に無を携えている。
ジュリーも、いつでも無になれる「どこでも禅」のワザを備えた人物に見える。
しかしそれは順応性のある素晴らしい資質である反面
ある危険性も内在しているとはいえないだろうか。

たとえば「自分を無にすること」ができるわけだから、相手にわざと
「こうなってしまった自分」というのを、見せ付けることも可能になるわけだ。
自分はどうなってもいいのだから、ひとつの「サンプル」になることも厭わない。

彼は中学時代のクラブのしごきに対しても「僕はされるのは平気なんですよ」
と答えている。へたすると自虐的ともとれそうな発言だ。
そこで思い出されるのが、私には三島由紀夫になる。

ジュリーもその一編に出演した映画『MISHIMA』でも描かれた、
三島の自衛隊駐屯地での自滅行為は、観客を意識したパフォーマンスであり、
誰に何を見せ付けたかったのか、という捉え方も可能ということだ。

三島は軍隊を愛していたがそれは身体の求めるそれだった。しかし
自衛隊がいざとなればあてにならないことを身体をはって示したのだろう。
どうだ、誰も身体を張れるヤツはいないのか!と。そして彼にとって
その身体を葬ることは、身体を乗り越える、すなわち同じところをぐるぐる
しているだけの憂国を乗り越える、真の愛国を示すパフォーマンスだったのか。

それはちょうど母に対する思いが強いゆえの、愛憎こもった茶番劇であるかの
でもあり、「こんな息子に誰がした」的、甘えをも内包した、
盲目を超えた無償の愛への希求にもつながってくる。
同時に、これほどまでに自分は無を携えたサムライであるという
存在意義の表明であったのかもしれない。

同じ無を携えているように見えても、ついにかっこよさに殉じてしまった
とも言える三島に対し、ジュリーは再生の意志を示している。
無に抗うように生きる彼は、けっして破滅することのない、
成熟したロックを黙って教えてくれているかのようだ。
たとえカッコよくても自滅していいわけはないだろう!と。
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野性の証明 
きのう「親が先回りしすぎると子供がダメになる」と書いたけど、
それでダメになるなら、子供も子供じゃないか。

抵抗力があれば、親や周りがどうであろうとそれを乗り越えて、
何度でも再生できるはず。
現代っ子であろうが何っ子であろうが、等しく可能性を秘めている。

乗り越えるというのは、親なら親の、いいところも悪いところも
わかったうえで受け入れるということ。
肯定するのではなく、現実を引き受けることだ。

抵抗力をつけるには、どうすればよいのか。
たとえば「知りたい」という欲求は、満たされた現代にあっても
ひとつの飢餓感となりえる。
欲しいものを与えられすぎる現代にあっては貴重な欠乏だ。
そうした欠乏をみずから用意していくということも大切ではないか。

「軍隊にグッと来た」というムードがきっかけであっても、そこから
「知りたい」という好奇心に突き動かされて険しい山を登っていくうち
見たくもなかった現実にひきあわされることだってあるだろう。
そのとき現実を正視できれば、ひとつ乗り越えたことになる。

「ミック・ジャガーはサムライだ」と書いたのも、
エピソードに見られる、彼の相手に対する細かな配慮は
民族を超えていると思ったからだ。
相手を受け入れられる強さを持った人間だからこそ
親のように親身になった心配りもできるのだろう。
そのとき、なに人であろうと、人は武士であり騎士でありえる。

「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」
という言葉があったけど、強くなればこそ優しくなっていくものだとわかる。
現代にあるさまざまなアイテムで士気を高めることもその手段なのだ。

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ミック・ジャガーはかつて語録集『永遠の反逆児』において
「僕の好きな音楽を教えてあげようか?マーチングバンドだ」と語っていた。
私から見ると彼も勇ましい軍隊の行進などにグッと来るタイプに思われる。
あるいは「女王陛下にひざまずきたい人~」と言われたら、
反射的に手をあげそうだ。

別にどんな音楽が好きだっていいと思うのだ。
「戦争を連想させるから」というものだって存在を許されていい。

趣味嗜好に口出しはできないし、たとえば子供に
「こんな音楽聴かせたらこんな風になる」などと、
一面的な発想で取り上げる必要はない。

「何でも子供第一にするべき」などと考えているから、かえって子供を
変に育ててしまうのだろう。自分が第一で当たり前だ。
先回りしてお膳立てするから、何でも人のせいにばかりすることにもなる。

小学校の懇談会はほぼ全員の親が出席、人を待たせて延々とお悩み大会。
よくそんなに話すことがあるなあと思う。

また「自分より子供」は、「自分より人」にもつながるだろう。たとえば
人助けをして亡くなった人を、ことさらに持ち上げる傾向があるけど
もし彼が「人助けはしなくてはならない」との暗黙の声に導かれた結果、
亡くなったとしたら、それこそ、とんでもない犠牲者だ。

それより好きな音楽を聴いて、士気を鼓舞されて、あるいは慰安されて、
明日からも生きていけるほうがずっといい。
基本的に「癒されっぱなし」にならなければいいのではないだろうか。

自分のためになることが、同時に人のためにもなっているというあり方が
自然だと思う。
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日本では年末公開だというマーティン・スコセッシ監督の
ストーンズ映画「Shine A Light」、今からとっても楽しみなのだが、
そのサントラ版のジャケットのミック・ジャガーに目が釘付けだ。

ミックの顔をこういう角度から見たのは初めてだなあ。
のけぞり方もすごいけど、顔がまるで別人のようだ。

今の、ガリガリ博士のようなミックではなく、60年代の
貴公子のような彼の、いかにもイギリス人、という顔がすきなのだが、
その面影が少し残るような…
だけどそもそもイギリス人らしい顔ってどんなんだ?

同じイギリス人でも顔型にはいくつかのパターンが見られる。
たとえばカミラ夫人や、デビッド・ボウイの属するグループ(そっくりだ)。
それをもう少し正統派にしたような、デビッド・ベッカム系。
それらをこの際まとめた延長を、こってりと濃くした007のジェームス・ボンド系。

これらを私はあまりイギリス人とは思えない(イギリス人だって!)。
だって彼らにはバッキンガム宮殿の近衛兵の
黒い毛皮の帽子が似合わないもの。
「ほーら、チェルシー、もひとつチェルシー」というCMの
「あなたにも、チェルシー、あげたーい」と片言の日本語の子供を
優しく見守る近衛兵のお兄さん、みたいじゃないじゃないか
(そういう設定だったかは、まったく保障できません)。

とにかくそういうのが私の理想のお兄さん像であったし、
若き日のミックは確かにその顔を持っていたのだ。
たとえば「小さな恋のメロディー」の主人公の少年はたしかああいう顔だった。
おぼっちゃまのたくさん出る「アナザー・カントリー」のような学園映画も
見てみたが、ああいう顔にはあまりお目にかかれなかった。
むしろ「時計じかけのオレンジ」の主人公の顔が近い。

もっと飛躍すると最近「これは…」と思ったのが、
ドイツのゴールキーパーのカーンだ。
ミックの顔はひょっとしてドイツ系なのか。
ミック個人については相当調べたつもりだが、そのようなデータはない。
いや近年のミックはシュワルツネガーに似てきてしまったけど…

ちなみにキースとは同じイギリス人とは思えないほど違うなあ。
キースは、缶コーヒーのCMで三原順子を嫁にもらうことを迫られている
トミーリージョーンズに似ていると私は思う。

いずれにしても、そうやってあれこれ空想を楽しむのとは別に、
「昔は美しかったんだけど…」と言われるくらいの人間の方が好きだ。
なぜだろう、ドラマが感じられるから?
いや理屈はいい。
近衛兵が好きなように、好きなものは好きなんだ。

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BSフジで「ワイルドワンズ武道館公演」にゲスト出演したジュリー、を見た。
テレビで今の彼を見るのはスマスマ以来だろうか。

まず思った。ワンズはみな若々しいと。
彼らに比べると残念ながらタイガースは
かなり老けているのではないだろうか(特にシロー)。

彼らはまず叫んだ「ついにやってきたぞ!夢がかなったぞ!」
これがやはり若々しさの秘訣かな。
40周年記念の夢の武道館らしい。

彼らのライブは途中少しあきて、加瀬邦彦が頑固にかぶり通した、
黒いピタッと頭に吸い付いたような帽子を剥ぎ取りたくて仕方なく
なったりもしたが、ほぼ全曲にノルことができた(途中でちびまる子に
チャンネル変えられるまでの命だったが)。
「想い出の渚」もよかった。
このおじさんたちと同じフォークやロックが好きで良かったと思った。

さてジュリーだ。
どうしたのだろう、のっけからひどく大汗をかいている。
やっぱり身体が重いのかな…
いや今年はもう少し顔もすっきりしているはずだ!
「君だけに愛を」「TOKIO」を熱唱。
ジュリーは、なによりも誰よりも、声に底力があった。
歌手はこうでなくっちゃ。

今度のアルバムタイトルは「ロックンロールマーチ」というそうだけど、
おもちゃのマーチみたいで可愛らしいな。
こういう気取りのなさを見ても、今現在の見せ方をわきまえているような、
大人の人たちだな、ワイルドワンズにしても。
成熟していながら未熟をも演じるロックンローラーなんだ。
がんばっておじさん…とつぶやいてみると、涙じゃない、
なにか熱いものがこみ上げてくる。

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バスに乗っていると修学旅行生の団体が目に入った。
出発しそうなバスに向かって突進したが間に合わず、と思ったら
女子たちが「キャー!」と叫んだため、行きかけたバスは気づいて
急停止、ドヤドヤと乗り込んできた。

恐るべし、女子パワー。
男子たちは揃ってポカーン。「え、止まったの? 乗っていいの?」
いいなあこのチームワーク。乗客は「なにごと?」とマユをひそめていたけど、
もしこのバスに乗れなければ一巻の終わりであれば、柔軟性の欠けた
男子は生き残れないのだからなあ(こんなこと普通考えないなあ)。

その他の社会的弱者とされる老人や子供が、その想像を絶する行為で
結果的に、いい働きをすることもある。

日常では、境界線を踏み外す行為をしたら、無礼者扱いをしそうな
沢田という男が、「結界」を解けばそこは聖なる祭りの世界。
妖気に満ちた、非日常のジュリーワールドだ。

性別不詳の芸は、女のたとえば柔軟さを取り入れて、
仲良くしましょうという平和への意志だ。

この世に存在が許されていないかのような者の象徴、妖怪や鬼や悪魔。
そうした陰と、光。日陰者とスター。女と男。
相対するものが調和してこそ秩序は保たれる。

調和するのは、相手の中に自分を見つけることができたから。
そのとき人は、自由を得ているのだ。
陽は善、陰は悪にあらず。
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「挑戦」は防護服 
昨日書いたこととも関連するが、あいさつというのも「私とあなたは違う」という
ことの表現ではないだろうか(する必要のないあいさつもあるが)。
ルールさえ守っていれば、その内側には誰からも支配されない独立した宇宙がある。

茶道では、あいさつの折には必ず、前に扇子を置くようにと指導される。
あなたと私の間には境界線がある、という意味の「結界」だという。

ずるずるべったりの関係を嫌う人間ほど、
礼儀を重んじるということもあるのではないか。

結婚も同じだろう。恋愛だか、なんだかわからない期間を過ぎれば、
あとは果てしない生活が待っている。言いたいことは言っていいし、ありようも
さまざまだけど、なにより夫婦間の秩序に重きが置かれて当然だ。

何が秩序かを知るためにも、ストイックな自分への挑戦が不可欠となる。
それを身にまとえば、他から制裁されないための防御服ともなる。
本当のロッカーは、見えない刀を携えている。
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偉大な男はマゾヒスト 
「自分に素直に」といっても、それだけでは言葉が足りない。
やはり強くなければ生きていけない。
ニーチェの言葉を引こう。

――登山の喜びは、山頂を極めたときに頂点に達する。
しかし私にとって、一番の楽しみはけわしい山脈をよじ登っているときである。
けわしければけわしいだけ、心臓は高鳴り、勇気は鼓舞される。

ジュリーがあえてムリ目の夢を設定しそれに賭けるのも、
もっともっと強くなりたいから、じゃないだろうか。
強くなるために自分をきたえて、ひどい目にも遭いたがる。
その意味で兵士でありマゾヒストだというのだ。
もちろんサドマゾは表裏一体という事実も一方ではある。

また、ビッグになればなるほど、神にはなりたくない、という彼らの偉大性が
明確になる。そこを察して彼らを適度にいたぶってあげるのもひとつの愛情で、
彼らが偉大だと認めてこそ。「ご神木」のように奉っているつもりの囲いで
我々から隔離され、いじってあげないのでは腐ってしまいそう。

ミック・ジャガーは「Put Me In The Trash」の軽快なリズムに乗せて
たしかに「僕をゴミ箱につっこんでくれ」って歌っているのだ。
つっこんであげようではないか。

だからと言って、相手も見定めず、たとえば会社で無理難題を押し付けられて
つぶれかかっているという、さっこんの課長クラスのご主人に
「あなたも家事をするべき!」などといたぶって
本当につぶれてしまってはシャレにも何もならないけれど。




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人間も動物なのだから、判断の基準は快か、不快かでしかるべきだ。
ところが私たちは上から受け継がれた「あるべき善」によって、
勝手な判断基準で人を救い出そうとまでしている。

たとえば一家心中をするような親も、ひょっとすると子供をあやめることが
救済だと思っていた場合もあるかもしれない。自分が犯罪者になったら
子供が将来かわいそうだ、というあるべき理想像によって。

何がかわいそうなのだろう、たとえば普通の家庭を持てないことだろうか。
そんな「あるべき善」は、人によっては持たないほうが幸せということもある。
事件によって保護される子供より、見過ごされている子供たちのほうが
実際はもっと悲惨な毎日を送っているのかもしれない。

ジュリーのように「好きなものは好き」、「いやなことはイヤ」
「おいしいもの大好き!」みたいにもっと野生的に、
快か不快で判断することを恥ずかしいことと思わず
素直に小出しにしてはばからなければ、
蓋をしていた人間らしさがあふれてプッツン、ということも防げるのではないか。

動物より人間は上、と思いすぎてはいないだろうか。
上下じゃなくて、人間の偉大さというのはまた別にあるものだ。
現に動物が人間より優れているところもある。
彼らは人間のように、辛いからといって現実を曲解したりしない。

「灰とダイヤモンド」の「獣の叫びを忘れてしまい、ォォ…」という性別を越えた
色っぺぇ吐息は、ジュリーが彼なりに正しく生きているから出せるのだろう。
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おせっかいは禁物 
昨日ドラマにかこつけて「目を覚ませ!」とは書いたが、同じようなことは、
たとえばキリスト教系(?)のある団体だって言っている。
「目覚めよ!」という冊子を見たことがあるだろう。
詳しくないが、目覚めてみたらそこは天国だった、というケースもありそうだ。

私は以前、教会に通っていた(先の団体じゃないが)。しかし礼拝以外の、
婦人会などと称して、みんなである特定の個人のことを祈ったりすることが
苦手だった。私なら自分のいないところでこんな風に祈られたくはない。
悩みの歓迎されるここに通うとだんだん骨抜きにされそうだ、と。

そんなことに端を発して次第に教会員の考え方、ひいてはキリスト教団体の
それに疑問を持ち始めたのだが、それでも、今思うとそうして集まって癒されることが
必要な時期、だって人にはあるのだ。

私にはもうその時期は必要ではなくなった、だけなのかもしれない。
要するに自分さえ持っていれば、どのような団体でも自分のために活かせばいい。
そしてその、自分を持つことが「目を覚ませ!」という意味だ。

だから何も、天国で夢見ている人にゆさぶりをかけて起こさなくてもいい。
時期が来たら目覚めるかもしれないし、目覚めないかもしれないけれど、
それが生きるカテになっているのなら、どうこう出来るはずがない。

一方、昨日「天使になれなくても生き延びろ」とも書いたが、
だからといってどんな悪いことをしてもいいわけがないのはもちろんだ。
それでもたとえばジュリーがいつか「濡れ手に粟の者は、いつか破綻する」
とライブトークで言っていたように、原因があって結果があるのだから、
他人はその者に対して何もする必要はない。
私が正しく導いてあげようなんて、おこがましいことだ。
自分だって明日の命も知れぬチンピラなのに。

つい人にちょっかいを出したくなることはあるが、そこは抑えなければならない。
ジュリーが後輩に対する接し方について本で語っていたように、
「向こうからアドバイスを求めてきたら、おせっかいにならない程度に相手をすることは
ある」でいいんではないだろうか。

ダメになるのならダメになる理由がある。それを人間の力でどうこうできるものではない。
ニーチェ流に過激に言うなら「ダメになりそうな者がいれば、そっと背中を押してやれ」
(慰めてやれではなく突き落とせの意)。
それぐらいでちょうどいい、他人がそれ以上のことをして彼の時間を無駄にしてはならない、
ということなのかもしれない。

それでも生きてさえいれば、その人間はいくらでも希望が持てる。
発想の転換をすることも可能だ。
だからとりあえず生き延びろ、というわけなのだ。
自分に正直にしなやかに生きていれば、いつしか、弱さもしたたかさになるだろう。
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…にしても、「傷だらけの天使」は実際アキラ(水谷豊)が天使だったのかもしれない。
オサム(萩原健一)に、うるさがられても足蹴にされても、
「アーニキ~」と片足にしがみついていた姿には、
純粋を絵に描いたような清らかさがあった。

どこかに利害がからんでいるこの世にはありそうでない、こうした兄弟関係は
ドラマだから成立し、ひとつの理想の純愛として人々の心に残る。
毛布を頭から被って死んでいたアキラをオサムがドラム缶の風呂に入れ、
一人で弔うシーンは忘れられない。

だからといってあのドラマは同時に、「天使」はこの世では生き残れないことも
示唆していたのではないか。
兄貴に盲目的に付き従っていたアキラは死に、オサムは生きるという事実は、
私たちに「天使になれなくても生き延びろ」と、伝えていたのではないだろうか。

犬よりは猫が好き、とたしか言っていたジュリーにも、
アキラのような忠犬ハチ公性があるから、気まぐれな猫の自由さに
憧れるところがあったのかもしれない。
しかしその自由を得るには、目を開けて疑え、間違ってもいい、葛藤し、
そして兄貴を超越しろ、と彼の行動は語っていたようだった。
盲目は破滅に向かうのならば、人間が天使になるにはまず覚醒することしかないからだ。
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以前にも書いたように、私の記憶ではジュリーは
ミック・ジャガーのみならず高倉健にも憧れていた。

しかしジュリーは超人ミックのみならず、高倉をも乗り越えたのだ。
それはたとえばどういうことか。

古くからの男性のステレオタイプであるような、高倉の歌にある
海の男が、顔で笑って心で泣いてでも、港の女と別れていく、
という設定に、ジュリーは待ったをかけたのだ。

…もちろん、相手は田中裕子である。
「なんで別れなあかんの?」とでもいうようにジュリーは、
身をもちくずさんばかりに田中との恋愛に没頭し、
持ち前の感情的な面をわれわれに、これでもかと見せつける結果となった。
兄弟の契りは何があってもゆるがないのに、女性とはすぐに別れられるのか?

それは「オカマ野郎」と野次られようと、どこが悪いんだ?とばかりに
ステージに立ったジュリーとどこかでリンクしてくる。
男らしさってそういうことなの?と。

憧れてる、とはいっても、こうして見ると、していることは兄に対する
弟の反抗のようなことばかり。ケツまくって舌まで出していそうなジュリーは、
ショーケンに「アーニキー」と鼻声でつきまとう水谷豊のような「弟」ではないのだ。
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ひろみ郷や、ミック・ジャガーが超人なら、
ショーケンやジュリーは、「昔はかっこよかったんだよ、あれでも」
(ごめんなさい)と言われかねないナチュラル派だ、みたいなことを
昨日ちょっと書いた。
「花の命」は短くて…われわれ日本人向けのサンプルとも言えるだろうか。
しかし花が散ってからがしぶとい、僕たちどっこい生きてます。

超人ではないジュリーは、たとえばドームについても「そりゃ、満員御礼に
越したことはないが、なにも満員でなくてもいいんだよ、だってそれが自然でしょ?」
と現実的に思っていそうな気も。

…私はけっしてドームがそうなると予測しているわけではない。
私ごときの考えの及びもつかないようなことが用意されているのかもしれないから。
ただキャラ的には、たとえば途中で「だめそうだ…」くらいの弱音をつぶやいて見せ、
それでいて最後にはなんとか帳尻を合わせる、みたいな姿をイメージはできる。
まるで音楽劇「ぼんち」のうたい文句のようじゃないか(ってまだ見てないけど)。

団塊の彼ら(誰?)は、ある面「やるだけやったけど、これが精一杯です」という
人間らしさをアピールする役割を担っている世代、とも言えるんじゃないだろうか。
その点ええカッコしいではないのだ。
悪く言えば中途半端さであり、言い換えれば、フーフー言いながら走るセクシーさだ。

それは、夢は大きければ大きいほど、現実も厳しいものになるけれど
夢は大きく持ってナンボでっせ、という彼らのメッセージになり得るかもしれない。
厳しい現実の中で、よろめきながら奮闘する人間の悲しさ、そんなところにも
セクシーはあるんだよ、と。

現状への不満で一杯だったり、あるいは現実に向き合っていないと、やたらとセキュリティや
目に見える「確実」によりすがろうとすることになるんだろうな。
でも結果より過程が、瞬間を生きることが大事なんだ、ジュリーはそんなことも教えてくれる。
「野生児」ジュリーにとって、暖かくなったこれからが活動の本番なのだろう。

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今のジュリーも素敵、いい年を重ねている、などと口では言えても
映像などを見るならやはり昔のものを…と思ってしまうのもまた人情。
そんな、竜宮城の乙姫様が「玉手箱を開けないで」とお願いするような
「いつまでも若く美しいままのジュリーでいて」という、ファンの
むちゃくちゃな願いも、ジュリーは理解はできるはず。

たとえばミック・ジャガーであれば、そんなファンの思いにできるだけ答えようと
過酷なトレーニングを重ねるのではないだろうか。
もちろんジュリーだって、努力は重ねてきた。だけど最後には
「開けないで、言うならなんで玉手箱を渡すんじゃ」とか言い訳しながら
玉手箱を開けてしまい、白い煙を思いっきりあびたあとが今の姿、
ということもできるのでは。

山口百恵が「赤い」シリーズで実験室に迷い込み、放射能をあびてしまうように
ほんの少しのいたずらっ子的好奇心と天邪鬼、そんなある意味の男らしさが根底に
あるのかもしれない。

芝居などであれば、役柄によってはむしろダイエットなどしないほうが
いい楽なものもあろう。だけど、太るとてきめんに身体が重いライブでは
もちろん今のジュリーでも少しは絞り込もうとするだろう。
だけどそれでも今の彼は、あまり過激なことはしなさそうだ。
あくまで「重いから、しぼっただけ、だたそれだけ」。

ミックのライブが超自然なら、ジュリーはあくまでナチュラル。
疲れたら疲れたと言うし、歌詞を間違えたらわかりやすくボロボロに崩れ落ちていくし。
だって開けてはいけないって言われたら開けたくなるのも人情だし、それもまたロック
なんだもん。
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私が以前通った(ジュリーも通ったという)京都の鴨沂高校というところは
制服がなく、下駄履き以外なら何でもOKという学校だった。

そこで新入生の私は紫のジャケットに黒のタイトスカートといういでだちで、
マユを細くして髪にコテをあてて通った。
精一杯おしゃれしたつもりでも、それは結局ヤンキーファッションという
カテゴリーに入れられてしまうものだったが、当時はそれがカッコいいと思っていたのだ。
他の生徒に怖がられても、それが自分たちの力とさえ勘違いしていた。

もちろん人の趣味自体はとがめることはできない
(かの「美智子さま」でさえ、制服のスカートをみずからひっつめていた、
しかもそれは学校始まって以来のことだった、と聞いたことがある。
タイトスカートが好きな人はいるのだ)。

ただ、風紀を乱してはいけないとされる学校という場で、規則がないのなら
あえて波風を立てまいとするのが、成熟しているということなのかもしれないのに
そうした暗黙の了解のわからないイナカモノとみなされたのか、
学校には何も言われなくても、周りの者にはいろいろと言われることにもなる。

いや彼らは特に「いい」とも「わるい」とも言わず、
ただ見たまま聞いたままの感想をウワサするだけのこと。
そして狭い京都の町では、ウワサは瞬く間に広がるのだ。

そういう方面では我らがジュリーも例外ではなく、京都のおばあさんの中には、
彼について未だに「あの不良の」、としかインプットされていないのでは、と感じる人もある。
不良というのもいい悪いでなく、ひとつの表現だけれど。

ジュリーは「不良時代」のなかで、「ぐれていた若い日」のことを
「いくつかの過ち」を悔やむと結論づけている。
そしてここがジュリーの偉いところだと思う。
けっして「かっこよかった俺」などとは勘違いしていないところが。
何をしたのかは知らないけれど、あやまちはあやまちとして、きちんと引き受けているのだ。
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ややこしいA型 
血液型というのが科学的に根拠のあるものなのかどうか
未だに不明だが、まあ「あるもの」として徹底的に語るのも楽しいじゃないか。
そこでA型の人々である。

彼らは「奥ゆかしさ」を重要視しているような気がする。
さりげなく奥ゆかしいことをするのも、実は重要視しているからだろう。
どこまで相手に気づかれずに奥ゆかしいことができるか
自分に挑戦している気さえするほど。
さりげなさへの挑戦。こう書くとかっこいいだろう。

たとえばジュリーが、大勢での会食の際、人に気づかれずに「お会計」を済ませ
涼しい顔で外に出て、誰かにお礼を言われると、逆に恥ずかしそうにしていた、
なんてエピソードを見聞きするにつけ、「A型だなあ」と思う。

じゃあ彼らは最後まで相手に気づかれないことを良しとしているのだろうか。
そんなことはないだろう。
さりげなさに挑戦している彼らは、ここでも相手からさりげなくお礼を
言われることを、どこかで期待しているはず。
ただチャンピオンのように手をつかまれて、「この人が払いましたよーー!」と
笛を吹いて太鼓を叩いて欲しくないだけなのだ。

ここがA型のややこしいところだ。
やらしいところと言ってもいい。
でもそれが人間じゃないだろうか。
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「幸福のスイッチ」 
上野樹里が「のだめカンタービレ」あたりでおなじみになったせいか
最近レンタルDVDを見かけるようになった。
彼女の小粋なファッションは、この映画でも楽しめたが
顔は今より少しふっくらしている。

彼女が「美術の専門学校へ行きたい」というのを、
親父であるジュリーは反対する。「金の無駄」。
ここまで言い切るジュリーが好きだ。

親というのはキホン反対するもの(結局は行かせてしまうのがジュリーも人の子)。
そして子供はその規制をぬって、コンクリートから雑草が出てくるように
成長してナンボじゃないだろうか。ど根性大根を崇めている場合じゃない。

見ていて嫌な気分になる、四方八方のヘイにガラスの破片を突き刺した家、
というのも、ごくたまに見かけるけれど、たとえそこまで厳重にしていても
やる気があれば、ジュリーが「太陽を盗んだ男」で演じたように
「アーアアー」なんてターザンの真似をして、空からロープで押し入ることを
考え付く事だってできないことはないのだから。

電気屋を営むジュリーのことを「あの人は外面の天才。お客さんにはニコニコして
家族は被害にあってきた」と、被害者ぶりばかり強調していた上野樹里(この人の
親はひょっとして沢田研二ファンか?)が、次第に変わっていくところが見もの。

三姉妹である彼女の姉たちは「そんなこと言ってはいけない」と優しくたしなめる。
そんな姉たちを被害者の自覚がない、と断じる樹里だが、姉たちだって
そうなるまでには葛藤もあったかもしれない。
上野樹里のような葛藤をむき出しにするタイプはある意味たのもしいが、
一歩間違うと「すべてイヤ」になってしまいかねない。

そんな彼女に実はジュリーは、自分を重ね合わせていたのではないだろうか。
だからその純粋さが「すべてイヤ」にならないよう、自分をいつわることなく、
「うちで売ったモンはとことん面倒みなあかんのじゃ」と、仕事に生きがいを
求めていく。相変わらず張りの良い怒鳴り声がここでも聞ける。

この怒鳴り声もそう聞くと、自分にカツを入れているようでもあるけれど、
実際問題、怒鳴るのなら誠心誠意怒鳴らなければ、子供に通じないのだ。
必死で怒鳴れば子供もビビリ、とりあえず言うことを聞く。
言っている内容をどう捉えるかは、それから先の子供次第だ。

「うちのような小さい店はアフターサービスが売りなんだ」。
そうだ。「何かしら」で特化していかなければ生き残れない小さい店。
そんな店だからこそ生きている実感を味わえる、ジュリーのそんな声が
聞こえそうな映画だった。
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世の中クイズ番組があふれているが、この間は「タイムショック」を見た。
昔よく見ていた、中学の先輩にあたる田宮二郎がゴルゴ13のような顔と、腹に力のある
低音で「ターイムショック」とやるそれは、その堅苦しさ、渋さと、クイズ番組という、
程よくくだけた設定のアンバランスがなかなかいいバランスを生んでいた。
3問しか正解できないと、椅子がくるくる回るのも、見ているほうはおもしろかった。

この間見たのは、椅子がトルネードスピンのように回転する現代版。
ブアーっと白い煙まで噴き出して、これでもか、と怖がらせてくるが、
いや、昔のただシンプルにくるくる回されるほうが、ずっと気分が悪くなって
実際の効果が高かったはずだ。

宮崎美子と、浅木久仁子が、驚異の回答率で才女振りを競っている。
そして最後に勝ち残ったのは宮崎美子。
終始、申し訳なさそうな笑顔だ。

私はこの人がデビューした頃、コマーシャルで見て、その申し訳なさそうな笑顔を
とても可愛く思い、好きだった。
「今の君はピカピカに光ってー」という歌をバックに、大きな胸をゆらして
ジーパンを木陰で脱ぐ。恥ずかしそうなのにしていることが大胆(このCMに出るという)。
「少年ジャンプ」でこの人の特集をやらないかなーなんて思ったものだ
(なんで少年ジャンプなのかよくわからないけど)。

今も一見どこにもいそうな小柄な感じの可愛いおばちゃんになっている美子。
答えが正解するたびに申し訳なさ全開だ。
「神主に女性はなれる?なれない?」という問題には
きっぱりと怒ったように「なれる!」と答えるのにもかかわらず。
まるで女性が正解してはいけないみたいなメッセージに思えてくるじゃないか。

美貌が武器ならそれを使えばいいし、頭がいいのならそれも堂々と
すればいいのに、さてはあの顔、本人意識してないんだな。
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つい最近まで頻繁に流れていたイオンのコマーシャル、
なんかひっかかった。
小谷実可子が髪をセットしてセレブレイトスーツを着込んだママ役をして、
「がんばってきたママたちの、ごほうびの日なんですから」とかいうもの。

入学式の日に子供そっちのけではしゃぐママを描いた去年の一本は
夫が「子供が主役じゃないのか」とつぶやいていたが、
そういうことではない。別に誰が主役だっていいじゃないか。

夫のようなことを言う人が多かったから、ではないだろうが
今年のそれは、申し訳なさそうに「いいですよね」と言っている。
誰に言い訳しているのだろう。

「ごほうびの日」というほど、私たちは日頃すごいことをしているとも思えないし、
だからってスーツを着るのにそこまで遠慮することもない。
必要なら買う、それでいいんじゃないだろうか。

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或る発見 
私は関西在住だが、関東地方にはなぜか両親が、しかも別々の県に住んでいて
年に一度、孫をみせにスキー旅行を兼ねて行くことに、ここ数年なっている。
妹とその子供たちも一緒だから、けっこう大所帯だ。

今回の旅行でもいろいろと発見があった。
たとえばそのひとつ、集合写真を撮るとき。
私の父がカメラマンになる場合はこんな感じ。

「写真を撮るときにはなんて言えばいいんだ?」
と聞くから、「はいチーズ、でもバターでも、なんでも…」と答えると、
どう聞き間違えたのか、
「チーズで、バター!」
と言って撮る、その言い方がトボケて妙なので、みんなで笑っていい感じ。

いっぽう、私の母が撮るときはいつも
「みんな笑って。そんなかっこしないでちゃんとして。」と
いきなり強制モード。
納得できない思いで、笑うに笑えない感じ。

意外にも、娘がここで口を開いてくれる。
「お父さんとおんなじー。お父さん、いつも自然なところを撮らないんだもん」。
そうそう。うちの夫と母は、こういうところも、そっくりなのだ。

写真館で記念写真を撮るわけじゃあるまいに、みんなが笑うまで撮らないから、
こちらもいいかげんだれてくる、そんなタイミングで撮られてもなあ
(それにしても日頃はパパと誰より仲良しの娘、本人いないところで
ずいぶんシビアなことを言う。息子など抵抗からか、わざと変な顔して
まともに映ったためしがない)。

笑いの中ならば、そこでたとえ教訓をたれたとしても聞く耳を持つだろう。
しかしこういうことが多いと、心は閉ざされて、独自の世界というシェルターへと、
逃げ込みたくもなる。

そして、母のこういうところがイヤで逃げてきたはずの私は、結婚で
みずから同じようなタイプに縛られに行ったのだった。
みずから「TOKIO」の重装備に縛られた、あわれなジュリーの姿のように(?)。
おもしろいことだ。怖いことだ。ありがたいことだ…






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