サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
page top
スポンサーサイト 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
page top
沢田研二と猫 
沢田研二は猫を飼ってるらしい。
私の記憶では、彼はたいして動物愛好家とも思えないので
猫好きになったとすれば、おそらく田中裕子の影響だろう。
嫁入りの際たくさんの猫を連れてきた、という話を聞いたことがある。
ジュリー、ぞっとしただろうな、と思った記憶があるのだが…

それでも彼は猫にエンがあるようで、昔ラジオで猫の霊と交信する話を
していた覚えがある。

家の近所にたくさんの猫がいるところに移ると、きまって猫に頼られたらしい。
疲れて寝床に入ると、夢うつつに猫の霊が現れて、彼の身体の上で
「カリカリ…カリカリ…」とやるのだそうだ。
どんどん重たく、そしてトラのようにでかくなるらしい。
こわいな。

しかしジュリーはもう手馴れたもので、「よしよし、どっか行きなさい」みたいに
落ち着いた対処をすると、楽になるのだと言っていた。
猫たちは彼のどこに親和性を見出して集まってくるのだろうか。
そして今はどうなんだろう。飼っている猫が死んだらすごいことになりそうだが。

犬よりは猫が好きと言っていたのも覚えている。
絵的に猫の似合う人でもある。
それにしてもタイガースの「イエローキャッツ」はいいな。
あの耳について離れないハーモニーと、ギターサウンド。
あ、タイガー、猫科…

スポンサーサイト
スポンサーサイト
page top
今年は「源氏物語」があちこちで話題になっていたようだ。
同じく今年何かと話題になった(なったのか?)ジュリーが、
光源氏を演じた80年放映のドラマがあった。

動画を見かけたので覗いてみる。
そうそうこの資生堂のCMが合間合間に流れていたっけなあ。
BGMはもちろん『女たちよ』から。
「あねといもうと~。どちらがあたためてくれる?」って
もちろん姉(私)でしょ。

「源氏物語」にしろ、「魔界転生」にしろ、ジュリーが演じると
「ロック時代劇」のようになる。
伝統と革新の夢のコラボか。

ジュリーはたとえばサッカーがもてはやされていた頃も
「サッカーより野球だ」と頑固オヤジの一面を見せていたし、
時代劇にもすすんで出演した、古典を尊びたい思いが見える。

しかしそれはあくまで「古きよきものを守りたい」ということで
伝統的なものに固執しているわけではない。
逆に、伝統をすべて破壊してしまえば、極端から極端へ移行してしまう。
伝統におかしなところがあれば異を唱える抵抗のBGMがロックだ。

ロックだからって自分たちだけが高みにのぼったような傾向が
いつのまにか形成されとすれば、それもおかしな伝統かもしれない。
そこを大衆に引き戻そうと歌謡曲があるのであれば、それが抵抗だ。

そこには、理想を示すのも大衆に対してでなければならない、
特権階級に居座っている場合じゃないという主張がある。

「源氏物語」の貴族たちも、繊細な恋愛絵巻を繰り広げているのだが
見方を変えれば「何もすることがなければ、もうあのことしか頭を占めなくなるのか」、
ということにもなる。しかし人間とはそんなものなのだ。

そういえば昔、レコード大賞に「大衆賞」というのがあって、
ジュリーは「危険なふたり」で受賞したが、あれが彼らしい。
取り逃がして悔しがっていた「最優秀歌唱賞」よりも。

ひるがえって最新アルバムの「希望」で歌う
「苦しんでる一人のため」も、大衆のことなのかもしれない。
page top
きのう、ジュリーが意識して女になろうとするところに男がにじむ
ってなことを書いてみたが、そこに働くのは意志の力だ。
「こころざし」ってものだ。
反逆、と言い換えてもいい。
そうだ、ミックのみならずジュリーも「永遠の反逆児」だったのだ。

志のなかの男性という無意識。
生のなかの死。
そして死に抗う反逆者。
「メインストリート」のならずもの。

単に女装好きというだけでは、いくら私とてそそられはしまい。
その違いはわかってしまうものだ。
彼らはイッタきり戻ってこないかもしれない。

「行ったきりなら幸せになればいい」、とジュリーは歌うが
戻って初めて後始末まできっちりしました、ってことだ。
男も女も演じられるけど、いつでも個人に戻ってこれる。
大切な日常のために、祭りを意識して演出するくらいでちょうどいい。
夢から覚めて、ひげ面のヌーボーとした素顔のジュリーがいましたとさ。
それは、性別など超越した強い個人だ。

アンチエイジングだって死ぬまでステージに立つ事だって
反逆だろう(人に迷惑かけちゃいけないが)。
それに徹底できない太ったジュリーは人間らしいな。
いいのフェロモンにじみ出てるから。
それも意志における死だ。
page top
沢田研二が自らメーキャップする動画はご覧になりましたか。
ひげをゴシゴシするところから始まるあれです。
すごいですね。歌舞伎役者のようです。
そう、化粧をする動作が、完全に女のものではない。
男ならではのダイナミックさだ。

あの顔に陰影という陰影をつけていくさまは見事だ。
顔がキュッとひきしまって出来上がり~。
画家がキャンバスに向かって、いっきに作品を仕上げるみたい。
ジュリーはあんまりアーティストという感じはしなかったが、
完成への勢いが、ちょっと冷めた岡本太郎入ってる。

そういえばボーイジョージの化粧道具というのが昔公開されたが
色とりどりのアイシャドウの入ったそれは画家のパレットのようだった。
しかし思わず「きったねーな、なんだこれ!」と言いたくなった。
手垢だらけみたいなパレットに絵の具のようなシャドウが無秩序に並んでる。
こういうところも、ケータイまでラメラメの着せ替えをする女性とは違うのか。

というより、それは人それぞれだ。 男だって可愛いモン好きもいれば、
手垢が気になって気になって丁寧に拭い取ることに、命をかける人もいるだろう。

意識をしなければ、男は女っぽく、女は男っぽくなってくるのも
ごく自然なこと。しかしその自然とは、手の入っていない荒れ果てたものだ。
それはそれでよさはあるけど、無意識に美は宿らない。

意識して、一般に「女のもの」とされている化粧をすればするほどに
沢田研二の男らしさは際立つ。
それはちょうど、男もののシャツをガバっと着ると、女性らしい身体のラインが
浮き出てくるように。

ちなみにあのメーキャップアーティストのIKKOという人の、ちょっぴり抑制のきいた
「どんだけー!」も、本人はかわいいつもりだが、男ならではの傷つきやすさが
にじみ出ちゃってるようだ。

ジュリー、ステージでは「もうそろそろ化粧はやめたい」と言っていたが
あの職人メイク、ずっと続けて欲しい。
page top
沢田研二の『生きてたらシアワセ』については、ドラムの力強さに魅せられて
いまやタイトル曲ばかりをピックアップして聴いている状態だ。
結果として、その都度「相手は田中裕子?」な女性との私生活を歌うジュリーの
機微に直面することになる。

ここに出てくる「ともに白髪のならば」という歌詞、ミックジャガーのベストにも
入ってる「イヴニング・ガウン」とどこか似ている。
例のカリフォルニア・スマイルをしてしまうために「クレイジーだ」と誤解されている
主人公は、相手の女性のブロンドの髪がグレイに変わるまでに、いろいろなことが
できると歌うのだが、この主人公がミックならば相手はブロンドの髪が自慢の
ジェリー・ホール(当時はまだ婚姻関係)だったのではと容易に想像できる。

ジェリーとの間柄はもう恋愛関係もとうに過ぎた夫婦のそれで、しみじみしていて、
ミックもそれを受け入れているのに、どうして離婚したのか。
そりゃ向こうから切り出されたからだけど、「愛してるよ」なんて言葉を後ろ向いて
舌を出しても言えそうな「向こうの人」なのに、ミックはそれができなかったのかな、
案外不器用だったのかなとも思える。

沢田研二の「生きてたらシアワセ」のほうは、その不器用さに対して
「感謝している」とか、言葉に出して「言っていいんだよ」と男に向かって
励ましているように聴こえる。

不器用だけど、そこに男らしさの源泉というものもあると言いたそうだ。
たとえば男らしさの代名詞のような高倉健は、そんなペラペラと感謝やねぎらいを
口にできそうにないだろう(若い人はあまり知らないかもしれないが)。

奥さんも不満はあっても、「そこがまたいいのよ」とその人を選んだのは自分
なのだという自覚が必要かもしれない。

口に出して言わなくては、相手には伝わらないらしいと、気づいていても
「取り乱してしまう僕」だけど、そこであえて思いを伝えてみよう。
それが歌詞にある「言っていい」なのではないか。

「不器用ですから…」なんて言って許されるのは高倉健だからだと思って、
言えないことを言ってみることが、時代のどんな風も受け止めることにつながればいい。
page top
ミックジャガーの「メモ・フロム・ターナー」はやはりいい。
(まだこのアルバムしつこく聴いてるの?と自分に突っ込み入れてみるが
ウォークマンの曲の入れ替えがおっくうで、同じのばっかり登場してくるので
それらはもうたとえばジュリーのなら全曲そらで歌えるほどに聴いている)

何がいいって60年代のにおいがプンプンするのだ。
この曲が挿入された映画『パフォーマンス』で、長髪、厚化粧のミックが
アコギでブルースを奏でる場面がとてもシュールで私好みで
できることならこちらの曲をCD化してほしいくらいなのだが。

これこそキースじゃない、ということはストーンズじゃない、ミックにしか
出せない強いミック色ってものだ。あの2人は着ている服の趣味からして
まったく違うが、ミックはファッションにまでその趣味が一貫している。

たとえばジャンキーで知られるのはキースのほうかもしれないが、
ミックがドラッグを否定しているかといえばそうじゃないのだ。
ただその内容によって変わってくる。

ストーリーをよく覚えていないのでなんだが、この映画の全編を流れる
サイケデリックは、平和主義過ぎてどこか生命力の希薄ささえ感じさせるミックが
精神を高揚させるために使うドラッグではなかったのだろうか。

同じようにひとことで「暴力」と言っても意味あいが違う。
ミックはこの映画について「暴力に対処するにはそれを芝居がかって
演じることだと言っている」とコメントしているが、相手の憤懣やるかたない
気持ちやかまって欲しい気持ちを解放してあげたいという目的で
その「劇場」があるのなら、それはやみくもに
「暴力」あるいは「暴力映画」とカテゴライズできるのか、ということになる。
ファッションでしか見ないことこそ、「乱暴」ってものじゃないか。

この映画もドラッグや黒魔術など目先の変わったところばかり
表面的にもてはやされ、あげくストーンズの「アンダーマイサム」は
暴力亭主を歌ったものだ、なんて誤解もいいところの話に発展する。
それこそが、恥ずべき暴力じゃないか。

このように暴力と言ってもさまざまなのに、
暴力反対!みたいに被害者意識の塊みたいになって突っかかってこられても
こっちはそんなつもり全くないのに…という暴力もあるだろう。

まあストーンズが売れればそれでいいと、ミックは何も言わないのだが、
こうやって実像とはだいぶかけ離れた彼の像ができあがっていくなかで、
彼の、救いようのないほどの優しさは見過ごされてきたのではないだろうか。

熱くなりました…

page top
タイガースには、お抱えの作詞作曲者がついていたが
ジュリーはあれでいて、当時から「作曲する努力」も行ったりしていたようだ。

きのう「彼はアダモも好きだったようで」と書いたが、
アダモのステージを見て「あのオッサンにできるんやったら」と作曲を始めたらしい。
ジュリーならではの、「ジュテーム!」の出所もこの辺りにさかのぼる。
アルバムでは『ジュリーⅢ リサイタル』に「ヘイ・ジュテーム」が入っている。

「インシャラー」の出だしなど、モロGSだ。
グループサウンズがそれらを真似したの?なんて野暮なこと聞きっこなし、
と絵文字で話をにごすこともできるが、そういう問題じゃない。
どっちが先、じゃなくてつながっているのだ。

出だしを聴いて「演歌だ」と思ったら異国のラテンミュージックだったり、
行ったこともない国の民謡が懐かしかったりするのはよくあること。
そういう、境界をとっぱらったところにGSというオリジナルが成り立っている。

GSというのは、もとはブリティッシュ・インヴェンションの影響があったとしても
その上で、多国籍の音楽をごった煮感覚で表現しているところがよかった。
多国籍はすなわち無国籍。
それってすなわち平和を意味しているんじゃないか。

言葉で言えば何かと差しさわりのあることも、音楽なら罪がない。
日本の生んだGSの素晴らしさはその辺に存在していると思う。
page top
沢田研二がキャバレーまわりの歌手のようなピンクのスーツで歌う
「MON AMOUR JE VIENS DU BOUT MONDE」の映像を見た。
なんていかがわしいんだろう。

考えてみればここで何度か伝えた、レコーディングにそれなりのドラマが
あったであろう「いくつかの場面」を、ステージで歌う際、
例のくだりでわざわざ声をつまらせるジュリーというのも相当いかがわしい。

嘘なのか本当なのか、フィクションかノンフィクションか
わからなさそれ自体を演出しているようにも見える。

この曲はパリでヒットしたというが、日本語版の「巴里にひとり」を
聴けばわかるように、へたすると演歌と手をつなぐほどカラッとしていない曲で
どこがフランス人に訴えたのか興味のあるところだ。

フランス人といえばミシュランガイドに選ばれた店が大盛況で嬉しい悲鳴というのを
テレビで見たが、同じく温泉か何かが選ばれた大分かどこかの人々は、
「ミシュラン?」とみんな知らなかったというのが面白かった。
東京こそが本当の田舎なのかしら。

「巴里にひとり」の曲調はある地点で「おまえがパラダイス」に無理なく移行できそうだ。
GSサウンド含めこれらをつなぐのは叙情性だろうか。

ジュリーはアダモなどのシャンソンも好きだったらしいが、
意外と含みのあるメロディーが好みなのかもしれない。
だからって演歌ほど閉じてしまうと方向が違う。
この含みといったものが、同時に彼のいかがわしさを解読する鍵かもしれない。
私は彼のいかがわしさも好きだが、それでも失わない一片の良心がもっと好きだ。
page top
沢田研二と黒いマリア 
だけど本当の自分ってなんだろう。
昨日、ジュリーはギリギリのところで自由を求めた…なんて書いたが
素の彼も、我々の知っている彼も実際それほど変わらないのかもしれない。

ファンは本当の彼が知りたくてああでもないこうでもないと詮索する。
それほどまでに熱くなって知った彼は実像とそう離れるものではないだろう。
しかし彼のほうを見ずに夢で目がふさがれている場合はどうか。
「嘆くことしか知らない黒いマリア」だったら。

ふとしたときに、人間らしい一面を何気に見せただけで
なんだそうだったの、なんて明らかに幻滅されてしまうと
相手の夢を壊して悪かっただろうか、でもそんなに勝手に
夢を見ないでくれと思うことはあるだろう。

相手にとって自分がそんな存在とは思いもよらなかった、夢を与えたいという思いと、
相手にとって自分が神のようになってはいけないという思いの
せめぎ合いが生じることもあるのではないだろうか。

だんだんとこれはまずいぞ、こんな極道者を神とまで思わせるのはどうか、
冷や水ぶっ掛けたほうがいいんじゃないか、みたいになってくる。
自分はジュリーというスターだけれど、腐れば臭いことを
見せておかなければと、あえて幻滅させる道をとることだってありえる。

ジュリーはもともとそういう、わざとがっかりさせるようなところはあった。
たとえば今動画で流れる昔のCMにはジュリーの化粧シーンが映るが
なぜカッコよくルージュをひく、じゃなくノーズシャドウなんだろう。
ベースメイクしているところなんて、よく考えたらかっこ悪いじゃないか。
自分だって鼻を高く見せたいという人間なんだ、と言っているようにも見える。

その延長線に3枚目や情けない役を演じることがあるのではないだろうか。
がっかりさせる相手は女性ファンとは限らない。
男性の方がロマンチストで神経質、美意識が強いようなところもある。
たとえば女性とはこうあって欲しいという思いから、
好きな女性がうんちしたといって幻滅するほどになっては、それは変だけど
そういうところが人間にはあるものだ。
ジュリーだって黒いマリアの「化粧がはがれて震えている」醜い姿からは
目をそらしたいはず。

だからって、ジュリーがわざと太った、とまで言っては「だったとさ」という
お話みたいで、現実味がない。
彼の食いしん坊と、おまけに酒好き、単なる体質の変化という原因も大きいかと思う。
だけどそればかりではないとすれば、そういう理由も一部あるのではないだろうか。

同じようにジュリーが「勝手にしやがれ」以降の路線から撤退したのも
前のように売れなくなったというのも一部あるけれど、
そればかりではないだろうと思うのだ。

page top
沢田研二という名前は、本名だそうだ。
もっとも彼は、そういう話になっても「いや厳密に言えば沢の字と研の字が
違って、点がついて」と言い出す、きっちりした人だが、本名は本名だろう。

デビュー当初、沢ノ井謙という名前になりかかったが断ったそうだ。
どうして沢ノ井謙なのか、内田裕也の考えることまではわからないが、
その名前がどうしてもイヤだから断ったというよりも
ジュリーには、それ以上に本名でデビューしたいという意志があった。

それはなんだろう。
たとえばなぜ芸名が松田聖子なら良くて蒲池法子ではダメなのか、
なんとなくわかる気はするが、松田聖子という名でアイドルになっても、
蒲池法子は守られている。

どんなにその名がもてはやされようと、本当の自分はどこか違うところにいる
から傷ついても大丈夫…と思うことも、2つ名前があれば、より易しそうだ。
それはしかし同時に、商品としての自分をことさら意識する結果にもなる。
ひたすら求められている自分を演じ、本当の自分が行方不明になってくる。

ジュリーは自分に何が求められているのかを理解していた。
いいたいことも言えない、かごの鳥に甘んじる覚悟もした。
だからこそなおさら、どこかで素の自分をわかってほしいし愛して欲しい、
そんな強い思いを、逃げ隠れのできない本名に凝縮したのではないだろうか。

彼が本名に価値を置く背景には、ギリギリのところで自由を得たい、
純粋を守りたい、そんな願いが秘められているのかもしれない。
どんな状況にも左右されない自分を常に見据えていることを、
彼は本名と、みずからつけた「ジュリー」の名にかけて表明している。
page top
「ヤマトより愛をこめて」のジャケットは、
ありそうでなさそうなジュリーの目を閉じた
横顔のアップが使われていた。
あれにキスをした人は、私だけではないだろう。
顔をジャケットと平行にして、唇だけそっちへゆがめるのは
至難の業だったが。

この曲が主題歌に使われた「宇宙戦艦ヤマト」は、
単細胞には理解が難しそうな話に思われたが
仕方ないので映画館に足を運んで見た。
おかげで大人気アニメの基礎知識くらいは身についたようだ。

映画館で聴く「ヤマトより愛をこめて」は、やはり一味違った。
レコードで聴いてけっして好きではなかったし
ジュリーがこれをなぜ?という疑問がぬぐえなかったが
(裏話があれば知りたいところだ)、
それはちょうど、「アマポーラ」を聴いて歌がうまいのはわかるが
それがどうした?というのに似ている。

私はロック系のバラード、マイナー調は好きだが、
こういうバラードそのものはどうも、かったるいと思ってしまうようだ。
「背中まで45分」も永遠かに思われた。

話を戻そう。
これだけを聴きに映画館に来た人は少数派だったようで
映画が終わって制作者の名前がスクリーンに流れ始めると同時に
そそくさと席を立つ人がやはり多かったが
椅子に深く座りなおして、暗闇の中に響き渡るジュリーの声を聴きながら
静かに名前が流れていくスクリーンを見続けるのは
格別だった。
わざわざ足を運んでよかった、と思えたのを覚えている。

「アマポーラ」がかったるいという方は
このようにシチュエーションを変えて聴いたらどうだろう。
page top
先日の「いくつかの場面」レコーディング・エピソードについて
「あれは、加瀬じゃない、大野だ」という新たな説が寄せられたので、
正確を期すために、さらに紹介させていただく。
原文のまま抜粋して引用すると

> 当初、加瀬さんがダメを出したというのは初耳でしたが、このテイクが採用された経緯はミキサーの吉野金次さんの書かれた本に書いてありました。
> 原文そのままではないのですが、確かこのような内容だったと思います。
>
> この曲のレコーディング中にジュリーが感極まって泣いてしまった時に「ライブ録音じゃないんだから録り直しましょう」と言う声もあったが、最終的にプロデュースされた大野克夫さんが「これでいこう」とOKを出された。
>
> 以上、細かいニュアンスは違うかもしれませんが概ねこのような感じだったと思います。
> なので録り直しはしていないのかと思っていましたが、普通は一応もう1テイク録った上で検討するという方が理にかなっていると思いました。
> 録り直した方のテイクも聴いてみたいものです(間違ってリハーサルテイクが収録された「あの娘に御用心」は正しい方のテイクも発売されましたので…)。


ビギナーズラックじゃないけれど、リハーサルの方が力が抜けて出来が
いいということもある。ちょっとしたニュアンスの差をとらえて判断するのは
プロデューサーだ。加瀬さんかもしれないし大野さんかもしれないけれど、
彼らはジュリーが歌う「いく人かの人たち」なんだろう。
って、ここで私がへたにまとめるより
J.コレクターさんのジュリーへの思いがそのまま伝わればいいだろう。

page top
昨日の続きだが、三船敏郎が「生麦、生米、生卵…」と歌っている間、
ジュリーはどうしていただろう。
そりゃもう、ヨコでこれでもかとハジケて踊って三船を盛り立てていた。
こんな苦虫かみつぶしたようなオッサンにそこまでしなくても、と思うほど。

その弾けっぷりは、誰かが演じている間、大げさな拍手をおくる久本雅美の
身を捨てた全身全霊さに重なるものすら感じる。

似たような拍手を明石屋さんまもするが、「相手を立ててます」感には欠け
自分が受けてます感に比重が傾くので、やっぱりマチャミだ。
いやこういうタイプだから素晴らしいというのではないが、
これもジュリーの一面であり、ふてくされているだけの男じゃない。

それに比べて、三船敏郎は出てくるだけで価値があるのか、つったったままで
許される。もちろんそれなりの声色で「生麦…」を歌い、こわもてで通すのも役割だが。

人には主タイプと、従タイプがあるのでは、と思えてくる。
例えばこの人はマネージャーや、秘書や、あるいは奥さんに向いているな
というのも、ひとつのわかりやすい従タイプだろう。
どちらの役割なら自分を活かせるか、分析を怠って形ばかりにこだわり
例えばやみくもに主になろうとして時間がもったいなかったということもある。

そもそも人間はみんな従なのだと知れば、両方の立場を理解しようとし、
相手を思いやりながら自分の役割を演じることができるのではないだろうか。
ジュリーはその意味では主を演じているが、
誰かの子分になったとしてもいい働きをしそうだ。
志を同じにする親分を熱望するゆえの、あの踊りなのか。
page top
沢田研二と三船敏郎 
『8時だヨ!全員集合』は、子供が志村けんを気に入ってしまったために
もう1枚ジュリーが出ているという巻を見てみる。
私にとってはこれらも昔ビデオにとってイヤと言うほど見直した映像のひとつで、
血となり肉となっているほどで、志村とジュリーの「かがみ合わせ」ほか
数々のコントを今見たところで特に再発見はないが。

だけどその巻では少し感じたことがある。
「少年少女合唱隊」で、ジュリーとなぜか三船敏郎が出演していた。
これももう何度も見た映像だが、あらためてジュリーは「こういう人たち」には
一目置くのだな、と感じた。

三船敏郎は娘の美佳をテレビでよく見かけるくらいで私は詳しくないが、
彼や高倉健へ向けるジュリーの視線は、昨日述べた矢沢永吉ら音楽仲間への
それに比べたらもう無条件で、盛り立て役でも何でもします!という感じだ。
ジュリーの志を形成する、ある一片を表現する人々なのだろうか。

それでも三船を前に指定の歌を、むしろいつもよりのびのびと歌えるところが
ジュリーたるゆえんだ。
そこは、マディ・ウォーターズと共演という緊張する場面で
全身でのびのび歌うミック・ジャガーにもだぶる。
ジュリーもミックもどちらかと言えば固くなるタイプにもかかわらず
こういうことは平気なのだ。
何かを一瞬にして超えてしまう。
いつもミックにケチをつけるキースも「あの時、俺はガチガチだったのに
ミックのああいうところはすごいよ」と感心している。

さて歌い終わったとたん、素に戻ったジュリーは、手を震わせるようにして
次に歌う三船に対して「どうぞ!」というようなジェスチャーをする。
それは「おひかえなすって」のポーズであり、
これこそ私が昔から見てきた数々の映像にすくっと際立つ、
ジュリーの主張らしい。
page top
沢田研二と矢沢永吉 
矢沢永吉や吉田拓郎は常にジュリーを意識してきた、いわば隠れファンだったようだ。
『成りあがり』ではなく、矢沢永吉本人が書いた本というのがあったはずだが
(『成りあがり』だって矢沢の本には代わりはないが)
ジュリーについて、コンタクトをとりたかったが相手にされなかったようなことが載っていた。

ジュリーは徒党を組んだ仲良しロック村みたいなことはしたくないんじゃないか。
それならあえてフリフリのアイドルになって背を向けてしまうみたいな。
まだしも演歌畑の歌手となら、意識せずに仲良くできたようだ。

矢沢永吉やキャロルは中学時代によく聴いたし好きでもあったが、
当時の男子に大人気の、わかりやすいワルである矢沢に比べたら、
ジュリーはナヨナヨして見せておいてその実もっと筋金入りだ。

あの頃、そんなジュリーを好きな男性がいても、それこそ隠れファンにならざるを得なかったし
今もなお古くからの女性ファンが大勢を占めている状況で肩身の狭いところがあっても
だから余計に当時から密かに注目してきた彼らが、ネットなどで数年前から熱く
マニアックに語り始めているのだろう。

さてジュリーは何に背を向けたかったのか、それはたとえば今の
ロックがどうしたこうしたと、コマーシャリズムに乗って言っている
矢沢永吉のある一面じゃないだろうか。

いや、もちろんコマーシャリズム自体を否定しているのではない。
ただ、CMで「ロックだぜ」のようなことを言ってお金をとるくらいなら、タイガースで
「イエローキャッツ」と歌いながら猫のフリをするほうが恥ずかしくないということだ。
(ちなみに猫のフリはしても、ブリブリにはならないのがジュリーだ)

で、そういうことを踏まえたうえで、どっちがロックだったかを長い目で見て
あえて言えば、ジュリーに軍配が上がる気さえする今日この頃である。
それはある意味ほとんどパンクの域に入ってくるほどの激しさだ。

時代に逆らうことなく、しかし最終的に大勢に背を向けた格好になっている
ジュリーの現状には、流れに乗っても流されない意志の存在がある。


page top
『いくつかの場面』はこの表題作もいいが、「遥かなるラグタイム」など
好きな曲が多い一枚だった。作詞は西岡恭蔵。

西岡恭蔵には「プカプカ」という代表作がある。
70年代に桃井かおりが推薦していたのを見て知った。
彼の愛妻を歌ったもので、のちに妻が病死した際、彼もあとを追うように
自殺するのだが、そういう悲しい結末が暗示されている歌のようにも
聴こえてしまう。

奥さんがいかにスイングが好きなのかが「プカプカ」に出てくるが
遥かなる「ラグタイム」というのも、奥さんの影響か。

ジュリーは「生きてたらシアワセ」で「悲しい結末はごめんだ」と歌う。
そして、ジュリーの周辺には常にこの悲願が漂っている。
男がそんなことでどうするんだとでも言うような。

人は自分を知って信じてくれる人のためにこそ死にたい。
だから一生をかけて居場所を探し求めているといえる。
だけど相手なしで生きていけないようでは自立していると言えない。
自立した上で「対話」が必要なのだと、ジュリーは歌っているのではないだろうか。
page top
沢田研二と加瀬邦彦 
maaさんから(名前を出してよかっただろうか)、
『いくつかの場面』の収録時、ジュリーが歌っているうちに感極まって
泣いてしまったほうのテイクは当初、加瀬邦彦にダメをくらっていたという
エピソードを教えていただいた。
ジュリーはレコードができてから、そちらが使われていたことを知ったそうだ。

「ちょっぴり涙」のハートウォーミング・ストーリーだなあ。
返事を出してから気づいたが、だいぶ前の記事に私は
「ジュリーは嘘泣きしたのかもしれない」と書いた覚えがあるので、
そこは訂正しておかなければならない。
そんなはず、ないな。

もっともジュリーが大ボケ人間で、レコードを聴いて「あれ?これ違いますよ」
などと言い出したら、なんのドラマにもならないわけだが。
加瀬邦彦も面目たたず。
ジュリーが「加瀬さん…これって…」と目を輝かせ
ひしっと抱き合わんばかりになって初めてストーリーだ。
page top
20年以上前だが「幕末青春グラフィティ 坂本龍馬」というドラマを見た。
その後映画化などされたかは定かでないが、井上陽水や吉田拓郎など
主役の武田鉄矢のフォーク仲間(?)が集まり、またBGMにはビートルズを
使うなど、ユニークなつくりだった。

武田鉄矢といえば「母に捧げるバラード」で有名だが、彼が福岡教育大学を
8年も留年したあげく中退した、というエピソードと重ねて聴くと、母親への
せめてもの「お詫び」の歌に思えてくる。母は口では「どこへでも行って来なさい」と
言うだけに、武田はよけいに申し訳なくなり、細々と生計から学費を払い続けた母の
「まっとうな道」への予防線をつむいでいく執念に報いたとでも言おうか。

彼は知ってのとおり、バンド名も「海援隊」とつけるほどの坂本龍馬の大ファン。
しかしその龍馬を自分が演じていいのかという思いはなかっただろうか。
憧れは憧れとしてとっておきたい、自分がそのものになったら、全然違うものに
なってしまう、といった、それこそ申し訳ないような、くすぐったい気持ちには
ならないのだろうか。

もちろんそのような思いがあったとしても、ドラマの話が来たら断る理由には
ならないだろう。彼は張り切って主役に臨んだ。

沢田研二は、「刺客」の役に選ばれる。
武田鉄矢にとっても「誰に殺されるか」は、重要だったんじゃないだろうか。
そしてジュリーならば、相手に不足はなしといったところか。

彼ら、と一括りにしては失礼だが、フォーク、ニューミュージックの御仁に
切りかかっていくジュリーの存在に、役柄を超えたあるスタンスの暗示さえ
ほのみえる。
page top
ミックジャガーの最新ベストアルバムにも
「ついそればっかり聴いてしまう曲」が出てきている。
「Old Hubits Die Hard」と、「Evening Gown」
「Put Me In The Trash」あたりだろうか。
今回話題の曲というのもあるが、これらがやはり聴いてて落ち着く。

なんだろう、クサイ言い方で赤面するが、男の哀愁が感じられるのか。
映像でも、「ワンダリング・スピリット」のライブが
過去のもので一番よかった。
ストーンズとしての、どう見られているかまで計算しつくされた飾りを
脱ぎ捨てた、身の置き所のないような素の彼がそこにはいて、
これでこそソロでやる意義もあるってものだ。

その意味で「シーズザボス」は、キースじゃないがどうしてこれを
ソロでする必要があるのか、といったものだった。
もちろん「ファンは映像も見たいだろう」と、MTVという時代の流れに
積極的に乗ったサービス精神の旺盛さもミックならではで、
その辺も出ているこれはこれでまたいいのだが。

そればっかり聴いてしまう、と言っておいてなんだが
このベスト版の選曲の雑多さイコールまとまりのなさにも、
私のようなミーハーファン本位に過ぎるところが出ていないとも言えず、
(ミック自身、ミーハーのきらいがあるんだろう)
やっぱりキースがいてくれてよかったなあと今更ながら思う。


page top
昔、ムッシュことかまやつひろしは「我が良き友よ」を歌っていた。
下駄を鳴らしてやってくる奴は、腰に手ぬぐいをぶらさげていて、
これこそ古きよき時代の「バンカラ」ってものだと、イメージせざるを
得なかったが、バンカラになるために、手ぬぐい下げればいいってものじゃない。

そのことを揶揄したわけではないだろうが、
友川かずきは「生きてるって言ってみろ」で、
「腰に手ぬぐいぶら下げて~死人でもあるまいによ~」などと、
ジャカジャカと激しくギターをかき鳴らし、
東北なまりのきいた独特の世界を繰り広げていた。
(東北人、小沢一郎と連想されては気の毒だが)

ジュリーはムッシュともたくさん共演してきたが、どちらかといえば
「死人でもあるまいによ~」に近い心情があるのではないか。
つまりファッションだけでバンカラを気取るお気楽さはたまらないと。
身なりにかまわないという本来の価値が転倒するのだ。

私のジュリーに対するイメージは、一言で言うと体育会系でバンカラ、そこに
どうしても行き着くのだが、たとえば体育会系の上下の礼を重んじる態度は、
間違った方向に行けばリンチ殺人にもなるし、バンカラも同じように
自己陶酔野郎になりえるということだ。

そんな野郎はイヤだというジュリーの嗜好のひとつの表れか
今年は「千の風になって」気持ち悪い発言などもあったわけだが、
気持ちは分かる気がする。

何が本当のバンカラなのか、それを証明するのは難しいけれど
身をもって示したい、そんな思いの表れがこうした勇み足ともなる。

そうしたバンカラを証明するために彼は身なり構わず女装をし
平気で女性のような声も出し、化粧もし、年上を誘惑し、
ジュテームと跪きもしてきたのではないだろうか。

page top
沢田研二こそ団塊の鑑 
ジュリー自身は、ロックであろうと、歌謡曲であろうと
区別すること自体に強いこだわりはなかったように見受けられる。
ロックだからどうした、という開き直りさえ感じられた。

PYGにおいてもジュリーは「難しいこと」は
何も語ってこなかったけれど、その実誰よりも
仲間とともにした行動に対する責任を感じていたのではないだろうか。

つまりPYGで彼らが世に問おうとしていたことに対して、
その行く末を今でも案じているのは、ジュリーなんじゃないだろうか。

世代論でよく言われることに、団塊の世代というのは
社会に牙をむいて投石していたかと思うと、
企業戦士の先頭に立って生きた、変わり身の早い
いいかげんさがあるといったものがあるが、
対処の仕方によって、それはいいかげんにもなり、
存在意義にもなる。

ビジネスマンであろうと商業音楽であろうと、どう関わっていくか
その姿勢によって変わってくる。

ジュリーは団塊だからどうだ、ということも一切言わないけれど、
先頭に立って、彼らの尊厳を示しているのではないだろうか。

現にPYGという立場でやろうとしていたようなことを、
今ジュリーは彼なりの仕方でメッセージしているじゃないか。

そこには、具体性を示すことのできる状況にするために模索してきた
戦略がある。そして動機としては、自分たちのとった行動に対しての、
ジュリーらしい、きっちりした後始末があるように思われる。


page top
沢田研二と井上 堯之 
昨日いただいたメールで、田園コロシアムでピーこと瞳みのるの歌の
とき、ドラムを叩いていたのはジュリーだったことが判明。びっくり!
ご指摘ありがとうございました。

さて、今日もとりあえず思い込みの世界をどんどん展開していこうと思う。
きのう、タイガースからPYGへの移行には「平和」を歌った
「坊や歌っておくれ」の存在があると言ったが、
おそらくPYGでカミュに触発された世界を表現したり、
積極的に平和を語りたかったのは岸部おさみの方で、
ジュリーは積極的な言及はしていない。

ジュリーのスタンスは、いつものように「みんながするならする」。
彼は根っからの寂しがりやさんか。
しかしPYGのある種、難解な世界はタイガースのそれとは対極にあり
従来の観客、ティーンエイジの女性たちは首をかしげた。

そしてロックシーンのステージに立ったPYGへの「投石」は、細かく言えば
他のメンバー、スパイダースやテンプターズからのメンバーへ向けられた
ものではなく、「タイガース的なもの」に対してだったかもしれない。

もうひとつ付け加えるなら、それとは逆に岸部的あいまいさ、に対してだろうか。
どうせなら徹底して死ぬまでフリルを着続けろや、とでも言うような。

井上 堯之は当時、複雑だっただろう。
のちに井上バンドとしてジュリーのバックを務めたときも
ジュリーの「タイガース的なもの」を壊さないように、無表情で参加していた
らしいから。
それを象徴するのがあの「ドレミファドン!」で「憎みきれないろくでなし」を
歌うジュリーの「イッタ表情」という演出に対して、どこ吹く風の
井上の表情だったとしたら、仕方ないとはいえ寂しいものがある。

彼は、あくまでロックバンドとして参加しながら
「自分たち」とジュリー側の間に常に境界線を設けていたのだ。
それは「ジュリーのため」と言いながら、「自分たちを守るため」でもあった。

井上バンドと決別するときの「井上さんは僕に何もしてくれなかったね」という
ジュリーの言い草は、信頼している相手への依存の言葉であるとともに、
こうした事情もからんでいたのではないだろうか。
ジュリーはいつも寂しかったのだ。
一緒に泥を被って欲しかったのだ。
涼しい顔なんてして欲しくなかったのだ。
page top
これと『Jewel Julie』のみ、なぜかカセットで持っていたため
万難排して手元に残ったらしい。後者の気の触れたような化粧をした
ジュリーのジャケットは、持っていても損はなかったのだが。
それにしても「コロシアム」、なんていい響き…

まずはおなじみのローリングストーンズナンバーで幕開け。
「ホンキートンクウィメン」に「サティスファクション」。
「サササササ・サティスファクション」と発音するような、ちょっとした遊び心が
ジュリーらしい。のちの「ダーリング」の指舐めポーズに通じる
他愛ないが素晴らしいアイデアだ。

次の「スージーQ」は、ストーンズもカバーしているが、ジュリーのが情緒があって
私は好きだ。こぶし利かせんばかりに自己流にアレンジして歌うのが常。

メンバー紹介が入り、最後の「ボーカル、ジュリー」を自ら言ってめっちゃ照れている。
ミック・ジャガーもある日他のメンバーに名前を告げられて顔を隠して照れていたが、
何が恥ずかしいのか。しかし私の好みの男性の特徴はこの部分に集約されるらしい。

70年収録でシローが在籍している。彼はビージーズメドレーを歌う。
ピーの「ルーキールーキー」も可愛らしい。当然ながら太鼓を叩きながらの歌で、
「うんマンマーパパ、うんマンマー」のところでサリーのコーラスが加わる寸法だ。
(サリーは楽器がベースなら声もバス)

レイチャールズの「ファッドアイセイ」ではピーはついに絶叫している。
解散後、きっぱりと引退する激しさが、こんなところにも顔を出しているのか?

「みなさん、立っていただいてますか?」など、ジュリーのあいさつは
どれもかしこまり調。
しかし、これが普通じゃないか。演出とはいえ客を客とも思わないような
現代のMCは、いつから始まったことなのだろう。

「大きな声で歌ってください」を「大きい」と関西のイントネーションを使ってしまった
ことにまた照れて、「誰にでも間違いはあるんです」と開き直っていた。
そんなことで、ジュリー…
そう思うと今の関西弁丸出しの彼はずいぶん図々しくなったのね。

後半はタイガースメドレー。今リバイバルヒットしている「花の首飾り」からスタート。
シローがいるってことはボーカルはトッポじゃないってことだが、別に私はかまわない。

「美しき愛の掟」。名曲だが、これをたとえば西城秀樹が歌ってもよくないだろう。
やっぱり、GS、タイガース、このシチュエーション、むせび泣くエレキギターが
三位一体となってこそだ。

まだ未発表だったという「坊や歌っておくれ」。この頃から平和を前面に出した
曲を歌い始め、それらはのちのPYGへの導入部となる。

最後のあいさつでジュリーが声を詰まらせているのは、解散が決まっていた
からだろう。たくさんの観客にジュリーは感激していたけれど、
このうちの何人がこのあとのPYGについてこれたのだろうか。

page top
もう先週のこと、ドラゴンズ優勝の際落合監督が、パーフェクト達成かという
ピッチャーを交代させたことについて賛否両論あったが、
その理由にその人の価値観が表れることもあるな、と興味深かった。

例えばうちの夫の場合は当日「もしパーフェクトを達成したとしても
ここでたった一人にスポットライトを当てるよりも、優勝で全員に花を持たせたい
という配慮があったのでは?」などと言っていた。
他のメンバーを思ってパーフェクト達成に話題が行くことを避けたということか。

さすが夫、いいこと言うわ、大統領!と大きくうなずきかけて
ん、待てよ?と頭を定位置に戻す。

そこまで全体ばかりを思うのは配慮があるようでいて、個人にとっては
あまりにも寂しくないか? 私みたいに文句ばかり言っている者はまだしも、
「これでいいんだ、みんなのためだ」と自分に言い聞かせすぎている者の、
幾重にも積み重なったどろどろした塊が、
ある日突然「ワーハッハッハ!」と爆発して、怪獣のように
コントロール効かなくなったら、どうするんだ。

こういう人は例えばジュリーのように、いつまでたっても頑張っている人を
つかまえて「いつまでも栄光をひとりじめせず後進にゆずるべき」などと
言い出しかねない。

だけど団塊の世代だからって、なにも引退して田舎に移住して
ソバを打たなければならないことはないし、その上の世代だって
ひがな1日囲碁を打っていたい人ばかりじゃないだろう。
年寄り引っ込んでろ、と言われてもなあ。

ピッチャー交代反対だった人イコール「個人尊重」の人とも言えないし
ピッチャーが「豆がつぶれた。もう投げられません」と言ったという話も
あるから、実際のところは監督のカンとしかいえないのだろうけれど。
page top
昨日とりあげたスクラップブックは、どこかへ行ってしまった。
犯人は、異常にきれい好きなのはいいが、人の物をよく確かめずに
捨ててしまう恐れのある母親だろうか。
まあもう20年以上前のことだ、時効か。
引越しも多かったし、肌身離さず持っておかなかった自分も悪いし。
(ボーイ・ジョージの切り抜きは先日出てきた…)

ちらっとそれらを見てみたいと思う日もある。
同じように昔の日記も、読み返したい日もあるが、もうない。
日々を克明に記録した大量の日記の方は、自分の手で捨てたのだ。

日記が毎日続くということは、書くことがそこそこ好きなのかもしれないと思った。
それを大切に嫁入りのとき持って行こうとしたが
母親の「昔の恋人のことが書いてあるような日記、だんなさんに見られたらどうする」
という言葉に「それもそうだな」と素直に従って、生ゴミと一緒に捨ててしまった。

自分の人生を生きているような気がしていたが、母親の影響を受けてるのだ。
例えば専業主婦の歴史は浅いのに、サラリーマンの妻が一番いいみたいな
影響を知らず知らず受けてきたようだ。

その生き方を選択した以上、旦那がすべてという価値観になっても無理はないが
それは変だ。 旦那が代わりに生きてくれるわけじゃない。
第一、うちの夫はそんなものが目の前にあっても読まないだろう。

世の中にはいろいろな人がいる。なのに、
旦那がすべてだった頃の私はいちいち「裏切られた!」などと極端に発想していた。
その頃、野村さちよが野村監督について
「あの人はB型だから、私がおでこにこーんなダイヤをはりつけていても
気づかないわよ」と発言しているのを聞いて、妙に安心し、また
あながち血液型も根拠のないことではないと思ったものだ。
(監督は野球のことしか頭になかったのかもしれないが)

話はそれたがそれらが2度と戻ってこなくても消化したものは
しっかりとあって、私なりのジュリー像として息づいている。
またその裏づけを取る作業も楽しくなってくるのだ。

自由な身の上だったら、今ごろ収拾がつかなくなっていただろう。
家に縛られてみるのもいいものだ。
障害があるほど燃えるということもあるし、自分なりの幸せも発見できる。


page top
ジュリーの載った雑誌の切り抜きは何年もしていた。
その記事が欲しいためにわざわざ雑誌を買うのだ。
「ヤングレディ」や「微笑」はご存知だろうか。

ゴシップ中心の女性週刊誌より少し大ぶり、厚手で、
他の週刊誌のように表紙に芸能人を使っていないところが、またあやしい。
表紙モデルは一様に西洋系の、髪をクリンクリンにして、つけまつ毛までつけた
バッチリメイクの美女だった。

内容に関してはよく覚えていない。
「ヤングレディ」の方が読み応えがあった気もする。
「微笑」は、エッチな話題が満載で、あまり興味なかった。
もう少し勉強しておくべきだったろうか。
いや用があるのはジュリーの記事だ。
興味がない雑誌に限ってそのたった1ページの記事は
のどから手が出るほど欲しいものだったりするのだから仕方ない。

この2誌の記事が意外といいセンついていたように記憶する。
もちろん「明星」、「平凡」もあったが、切り抜き用には
月刊誌ほど適さないものはない。カッターづかいの達人には
なっていたが、閉口した。

たくさんの情報のどれを切り抜くかを選ぶのは自分だ。
だからスクラップ帳としてまとめたそこには無意識のうちに
自分が反映されている。


page top
けさのワイドショーは昨日の中日優勝、なぜ完全試合の直前で
選手を交代したのか?という話題で盛り上がっていたが、
昨日はゴダイゴが出ていた。しかし朝の番組にゴダイゴが出るなんて、
結成当時の彼らのセルフイメージからすると、いけてないことになるのかもしれない。

元はロックバンドだったのに、70年代後半、急にメジャー路線で売れ始めた彼らに
ついたファンは、とたんに9歳から15歳が主流になったという。
「アイドルグループのはずじゃなかった。ガードが甘かった」とタケカワユキヒデ。

どこかで聞いたセリフだ。ブライアン・ジョーンズか。
そうそう、あのタイガースさえアイドルグループのはずじゃなかったという。
ミッキー吉野はGS時代はそうした意味においては成功していたのだろう。
ザ・ゴールデンカップスを、ジュリーは横目で「チクショー好きなことできていいなあ」と
うらやましがっていたかもしれない。
(のちにミッキー吉野グループと組んでツアーをしている)。

かつて憧れから横浜の本牧に住んでいた私は、伝説の「ゴールデンカップ」に何度か
足を運び、黒人のとなりでオズオズとステップを踏んでみたりもした。
そこに出演していたことからこの名前がついたという彼らは、無国籍テイストの
GSのなかでも飛びぬけて異国情緒あるバンドだった。

GSをリアルタイムでは知らない私たちにとってゴダイゴはその極上のところを
手っ取り早くテレビで味わわせてくれたのではないだろうか。
どう見ても日本人のタケカワやミッキーだが、マジで何人かわからなかったほど。

ボーカルのタケカワが「英語の歌詞でいこう」と決めたコンセプトが
その楽曲と相性よくマッチしたのだろう。
のちに「ホーリーアンドブライト」や「ビューティフルネーム」のピュアな感じも
加味されてとてもよかったなあ。

タケカワは最後に「カッコよく年をとっていると言われるのが一番嬉しい。
あの頃を懐かしむ人は、ぜひ今の活動を見て欲しい」としめていた。
はい、わかりました。
page top
「ドントルックバック」をピータートッシュと歌っている映像、
最初ミックジャガーが出てきたとき、木村拓哉かと思った。

アイドル然としたミックを見ていると、
ジュリーにしてもミック、木村にしても、みんな女性のような、
こう言ってはなんだが、小男だと気づく。

ローリングストーンズがクリントンと握手している映像など、
クリントンがガリバーに見えたほど。

ジュリーや木村拓哉も、あれでがっしりした大男だったら
ひょっとして男性たちに嫉妬されて大変だったのかもしれない。

かつてデブ専を名乗ったこともある私には、今のジュリーもまたグーだけど
スリムということには、見た目の肉体を超えた何かがある。
絞り込まれた細いきゃしゃな肉体だからこそ、
私たちの想像力を喚起して、どこまでも大きく、雄雄しく
イメージすることが可能になるともいえるのではないか。

だからイメージの彼らはあんなにもたくましいのだ。
そう思ってあらためて、ワイルドさを目一杯表現する近年のミックの映像を見ると
転んでは立とうとするヨチヨチ歩きの赤ん坊を見ているような
人間の無限の可能性にまで思いを馳せることにもなる。

ハングリーさや、エネルギー、ありとあらゆる感情表現が
スリムな肉体という無を通ってダイレクトに伝わってくる。
ロックの神も舞い降りてきそうだ。





copyright © あんな人・こんな人ナナメ読み all rights reserved.
Powered by FC2ブログ
custamize&material by
http://flaw.blog80.fc2.com


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。