サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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私は関西人のせいか、東海道新幹線で東京方面に行くたび
静岡あたりからぼちぼち聞こえてくる東京弁を耳にすると
一抹の寂しさを覚えるとともに「気取ってんじゃねえ」みたいな
牙を心の中でむいても来た。

だけど実のところ私は関西弁があまり好きではない。
というより、堂々とした関西弁が好きではないのかもしれない。
たとえばテレビでゲストコメンテーターの知識人の語る
「関西弁は市民権を得てるでしょ」、というドウドウップリが。

どこの神経に触れるのか、チャンネルを思わず変えたくなってしまう。
「標準語しゃべれよ」といいたくなる。
東京に来て公の場に出るのなら、標準語だろう。

「関西弁何が悪い」と思っているから、沢口靖子のように
何年たっても芝居に関西のイントネーションが混じるような
ことになるのではないか。
いや、不器用なだけだったらごめんなさい。

その点ジュリーの京都弁はまだ自然だ。
お笑い芸人も、あっちが発祥なのだから無理ない。
しかしどこからが「自然」なのか線引きは難しいということは
単なる好みであって、べき、べきでない、では語れない。
好きでないことは自分がしなければいい、それだけだ。
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歌舞伎と宝塚 
昨日、初めての宝塚体験を子連れでして来た。
「親子観劇DAY」というのは、観劇前に
参加者150名ほどが、別室で撮影会をしたり、
ビデオで「宝塚歌劇とはなんぞや」をたたきこまれると
いったイベントで(こわい)、事前にとったらしい
アンケートをもとに、若手の宝ジェンヌが質問に答える
コーナーもあった。

たとえば直樹じゅんは、日頃心がけていることについて
「自分をかっこいいと思うこと」だと答えていた。
なるほど、それがスターのオーラの秘密なのかもしれない。

そのあと大劇場での月組公演を見る。
1階A席の前のほうで、初心者にとっては見やすいかも。
下の子供がおとなしくできないのでは、と心配もしたが
幼稚園のお遊戯会のプロフェッショナル版と理解したのか、
思ったより興味を持って見ていたのでホッとした。

最初は「わっ、女くさ」と思ったが、すぐに
オーケストラや舞台演出、すべてがあいまった
華と夢の世界に入り込んでいった。
とくに最後の燕尾服と色とりどりのドレスの組み合わせでの
ワルツは圧巻だった。

男でも女でもない個人の集まりが、歌舞伎にしても宝塚に
しても、男はより男らしく、女はより女らしく表現されるのは
何だろう。

結局それが一番安心する様式美なのではないか。
見ていてグッと来るのはやはり、歌舞伎なら見得を切ったような
口上であったり、宝塚なら大階段という、「らしさ」を前面に
出した「おなじみ」のクライマックスなのだ。
それは、安心の涙ではないだろうか。
人間は変わらないものに安心する。

歌舞伎の女役が女より女らしく
宝塚の男役が男より男らしいのは、
そこに演者の隙のない緊張感があるからかなと思った。
そのうえで、頼るもののない哀愁が背中に感じられる者が、
性差を超えた男なのだろう。
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突っ込みまくったまま序章で止まっているので
書評にはならないのだが、感じたことを書いてみよう。
著者によれば、これまでのさまざまな知見から、
「男と女の間には深くて暗い川がある」ことは間違いないのに
世の中にはそれを認めたがらない人が多いという。
つまり女性らしさとは、後天的な学習でのみ作られるものと
信じている人がいて、なぜ男女差があってはいけないと考えるのか
わからない。
ふむふむ…

なぜ男女差があってはいけないと考えるのだろう。
と、思って読み進めると、たとえば「男性は自分より背の低い女性を
見ると保護欲がそそられるものだ」とある。もちろん例外はあるけれど
その例外を持ち出して、鬼の首をとったように攻め立てるのは
人間の本質を理解できていない、という。

たしかに例外だけを言う者の目的は、相手を言い負かすこと
だったりする。それでは進歩がないだろう。
だけどあまりにも、例外を「切り捨てる」ような表現が多いので、
男女差があってはいけないという極論さえ出てきたのではないか。

アンケートをもとにした傾向による、としっかりうたってあっても、
それからずらずらと並べられる事例の表し方には、
どれも首を傾げてしまう。
たとえば、女性というのはきれいなものが大好きで、
花に3000円払っても欲しがるが、男性なら100円でももったいない。女性は何より快を重視し、恋愛にも命をかける。
男性は社会的な位置が不明瞭だと精神的に不安定になる。
女性は経済的に困らなければ、働かなくても平気だ。

例外をあげるな、といわれそうだが、これらの例は
やはり作られてきた性差ではないのだろうか。
たとえば男でも花の好きな人は「男のくせに」といわれて育つ。
なぜ例外が発生するのかということを解明するのは科学では
大事なこと、というのなら一般論がなぜ発生するのか
の解明も聞いてみたい。

女性は嫌いな男性から触られたら、ゴキブリか蛇にでも
さわられたようなおぞましさを感じる。
そうだろうか?
どの例をとっても、自分も含め逆の事例ばかりが思い浮かぶ。
例外をあげてわめきたくなる人の気持ちも分かる気がしてきた。

そして、男性は「女性にとって何でもないところで傷つく」
というくだりで私は本を閉じた。
それは、「相手に見下されたり、拒絶されたり、疑われたり、
軽蔑されること」だという。
男性の受けるショックは、女性の何倍もあるのだという。
「男を殺すのに刃物は要らぬ、ちょっとなじればそれでいい」
のだそうだ。
たしかに「男の傷つきやすさ」って独特だな、と思ったこともある。
でも女性だってしっかり傷ついていて、傷つきたくないから
図太いオバハンになっていくのだ。
これじゃ、女性には何も気づかわなくていいみたいに聞こえる。

細かい事例よりも、もっと大きなところで男女差はある、と思う。
たとえばこの著者の全体を流れる表現の仕方こそが
男のものと感じるし、
女性には、男性に「コイツ、マジでバカじゃないか」と
思わせるところがたしかにある。
そして、そういわれることを女性自身喜んでいるような
ところもある。

もちろん本質を見極めようとする態度は大事だ。
だからこそ、鬼の首を取ったような反発も出てくるのだろう。
「性差に興味がある」という点では反対者も著者と同じ場にいるのだ。
反発を経てあらためて、「男女間には深くて暗い川がある」
という論にかえるなら、それがその人の真実だろう。

(と、ここまで書いて、著者を検索してみると、セクハラで
逮捕されていた。恥ずかしながら知らなかったが、本文中の
嫌いな男に触られておぞましがる女の特性はどう理解できるのか。
自分が「嫌われている」とは思わなかったのだろうか。
それとも「例外」に希望をたくしたのか)
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草むしりと抵抗 
小学校の、いわゆる奉仕活動というものに
たずさわる機会が多い。
昨日は暑いなか朝から校庭の草むしり、夏休み前は1年生への
本の読み聞かせ。はっきり言って親が駆り出され過ぎだと思う。

さすがに昨日は何人か教員も来ていて、それは去年より多かった
というが、どこまでが学校の仕事かという線引きは難しい。
地域によっては、報酬をもらわない限り、親は一切の奉仕はしない
というところもあるらしい。それも一理あるだろう。

だけど逆に何もかも親におんぶに抱っこの地域に住んでいて、
順番が回ってきて「私はポリシーがありますので
やりません」なんて言えるだろうか。
「給食費を払わない親」のように強くは出られない。
彼らもたった一人で「払わない運動」を展開しているわけじゃ
ないと思うが、そんな弱い人間だからこそ、地域のルールに従って
最低限の仕事はしたほうがマシと思う。
無心にすればなんでも楽しいだろう。

疑問や批判を持ちながらも、おろおろとルールに従う、
という実際の行動をとって初めて
どうしても譲れない抵抗感が蓄積して、社会のことに
興味を持ったり、いざというとき意見ができるのではないだろうか。

奉仕に来ているのはだいたい同じ顔ぶれだ。
私のように、今回は役員だから仕方ないと観念しているのではなく、
だからって心から喜んで奉仕したい人ばかりではない、
言って見れば「参加しない人」の分までいつも駆り出される犠牲者だ。

奉仕すれば善という考えで、「抵抗感」がみえてこないから
いつも頼られてますます仕事が増えて、
だから、何もしない人を非国民扱いのような目で見るようにさえなる。

そういう「うるさそうな人」は近所にもいる。
何かというと、人のやることなすこと気になるような
姑チックなことを言うので、敬遠していたのだが
のっぴきならない状況で一緒に働いてみれば、
否応なく「ふれあい」が生まれて、見方も変わることがある。

昨日の草むしりのときも私が冗談で
「今日はウォークマンを持ってきてるんだけど、
そんなことをしたら顰蹙を買うよね。特にあなたに真っ先に
何か言われそう」などと言ったら「うるさそうな相手」が、
その言葉を受けて

「不謹慎やわーって?」などとボケてきた。
案外みんな自分のことをどこかでわかってるんだ。
それを、何の接触も持たなければ、お互い誤解が広がるばかり、と
いうこともある。

そんなふれあいをした上に、一緒に作業してみれば、
達成したとき、スポーツのあとの爽快感とともに
抱き合わんばかりの連帯感まで生まれるのには困ってしまう。
やっぱり行かないほうがよかっただろうか。


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タカトシの、タカ 
「いまさら」だが、6歳の息子に「ライオンを着ているほうがタカ
だよね」と、何度も確認してやっと覚えたのだが、
最近彼から目が離せない。
彼はジュリー以上に「憧れ力」の強い人だ。

そう最初に思ったのは、「踊る!さんま御殿」という番組で、
たくさんのタレントが身の回りの話題を語っていたとき、
タカがひとり自信喪失をして落ち込んでいた姿を見てからだ。
誰だったかが、とても面白い話をして、タカは、「僕には
とてもあんなふうにはできない」と、マジで悩んでいたのだ。
その場でその人に弟子入りしそうな勢いだった。

違う番組で、コンビ結成秘話を聞いたが、そのときも彼は
トシが好きで好きで、くっついて廻って、コンビを組んでもらった
と語っていた。やっぱり…

また、好きになった女の子には、ふられてからも毎晩家を訪ねては
外から窓を見つめていたという。

こういう人を「純情」というんだろうなあ。
一歩間違えばストーカーだが、こんなに誰かに憧れることのできる
純情を、曇らせずに一生持ち続けられれば幸せなのかもしれない。
いや、あの年までそうなのだから、もう一生だろう。
こうなれば本物に間違いないのではないか。

私も彼のエキスが欲しいと思ったが、純情も本物でなければ
神(?)からのプロテクトもないのではないだろうか。

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沢田研二と桂春団治 
私が熱くジュリーを見つめていたのは、だいたい70年代後半から
80年代の頭くらいなので、彼の演劇などはあまりよく知らない。
でもいつものように大まかに、伝わってくるものを述べるとすれば、
彼のような、地道に生きている者にとっては、たとえば「桂春団治」
など、スケールの大きな人物は、ひたすら憧れと崇拝の対象となり、
だからこそ、実人生ではできないことを、つまり芸のためなら
女房も泣かすことを、思いきり演じてみたいのかな、とも思った。

もちろん動機としてはそれもあるだろう、だけどジュリーはそこで
きっと「だけど」と足を踏ん張るのだと思う。
彼が桂春団治について語っている記事を見つけた。

「落語を一新しようと周囲の抵抗をものともせず突っ走った人。芸はすごかったにせよ、ひどいこともずいぶんやった。まずエネルギッシュなところを見せ、みじめな晩年との落差が出せたら」。

エネルギッシュに、周囲を巻き込んで、前進していく者は魅力的だ。
圧倒されるままに、そのスケールの大きさに無理も通ってしまう。
逆にとことんケチな者は、スケールの小さいセコイ奴としか見なされないところがあるけれど、でもそれはひたすら「迷惑をかけたくない」
という主張なのかもしれない。

沢田研二は、その「落差」にこそスポットを当てていたのだった。
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石立鉄男 
石立鉄男といえば、「ちー坊」としか思い出さなかったが、
この間亡くなったということで、ワイドショーで取り上げられていた。
かなり自由奔放な生き方をしていたようだ。

妻との間に2人の男の子を儲けながら、早々と別居し、
プレイボーイでならし、晩年「子供の顔も知らない」とのたまう始末。
だけど「自由奔放」と、「なーんにも考えてないんだねー」といわれるような生き方とは違う。
何年か前に京都のホテルで、バイキングの料理を皿に取っていた
彼を目の前にしたが、気難しそうな顔をしていた。
あまり、楽な感じではなかったような覚えがある。

彼はとにかく「形式」を嫌い、親戚の集まりにも参加しないのは
もちろん、妻との入籍にも積極的ではなく、
息子にも事前に「結婚式には呼ぶな」と釘をさしていた。

私の父も、彼と全く同じタイプで、私のときも妹のときも
結婚式には出てくれなかったので、
石立の息子の「資格がないと思っていたんでしょうね」という
言葉に「そうなのかも」と思った。

亡くなる3年前に息子と3分だけ(!)会ったという。
いつものように照れたままで、ろくすっぽ会話も無いままだろう
ということは、私の父もそうだからわかるが、
それでも何かしら伝わったものはある、のだという。

私には「責任は果たしたんでしょう」という息子の言葉の
意味がよく分からなかったのだが、
そう感じる息子には、石立の血がしっかり流れているな、
というのは伝わった。
誰かの歌ではないが「こうとしか生きようのない人生」というのはある。それを身体からにじませていれば、伝わる者には伝わるのか。

石立の「形などどうでもいい、思いが強ければそれでいい」という
生き方は、しかし数年前の週刊誌のバッシングに見られるような
誤解につながってしまう。私はそれを読んで石立というのは
とても冷酷で、わがままだという先入観を抱いてしまっていたのだから。この世は人間しかいないということは忘れちゃいけないだろう。

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山口小夜子とジュリー 
山口小夜子が57歳で亡くなったそうだ。
最新主演映画の一幕を見たが、まったく老けていなくて
びっくりした。化け物的美しさとはこのことだろうか。

その映像で表現されていたカラフルな幻想世界にまったく
違和感なく順応している、誰よりも個性的なのに実体のない
どこか陰性の魅力を持つ彼女の、お茶目?な一面にスポットを
あてた、『小夜子の魅力学』という本があった。

美容法や日常生活を語ったそれに、彼女の選んだ何人かの
男性が登場し、その一人にジュリーがいた。

だからその本を買ったのだが、残念ながら今手元になく
そこになんと書いてあったかも覚えていない。
ただ、横浜という港町で生まれ育った小夜子の、根っからの
インターナショナルさは、同じ早川タケジの衣装を身にまとって、
メイクを施したジュリーにしみこんだ背景とは、
まったく違った香りを放っているように見えた記憶がある。

2人は鈴木清順監督の「ピストルオペラ」でも共演している。
共演と言っても、ジュリーはいきなり殺されるらしいが、
こちらも映像の美しさが印象的な映画だそうだ。
彼らの強烈な個性は、色に溶け込む点で共通していたのだろう。


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以前から一度「宝塚歌劇」なるものを見物したいと
思っていた。
阪急沿線の駅で配られる「TOKK」という情報誌に
「親子観劇DAY」として、A席5500円となっている。

「これだ!」と思い、電話してみた。
…何度してもつながらない。
いいかげん心細くなったが、そんなときの常で
変な根性が出てきて、「もう一度」「もう一度」と
チャレンジしてみる。

「これはきっと人気があって、電話が殺到しているんだ」
と、ぼんやり思い始めたとき、初めて応答があった。
とても嬉しかった。
ちょっと半泣きが入っていたかもしれないので。

子供2名に大人1名と告げる。
「お一人様5500円で、16500円となります」

事務的な声に耳をうたがう自分と、
「やっとつながった」と感激覚めやらぬ純情な自分が
意識のどこかで交差すると同時に
「取り消しはききませんがよろしいですね」という
遠くからの悪魔の声に、それでも「ハイ」と返事をしている私、
「なにやってんだ、早く取り消せ!」と心で叫ぶ私が入り乱れる。

私は親子ペアで5500円だと思っていたのだ。
だってそうでしょ、ぜひこの機会にという宣伝文。
なんでわざわざ「親子観劇DAY」なんて謳ってあるんだ。
まちがうじゃないか……
お安いのだと。

こんなこんな6さいの、何も分からない坊主に5500円。
きっとすぐに「出よう」というに決まっている。
この前の姉のピアノの発表会も一時たりと
じっとできなかったこの坊主を連れて…
必死でなだめて観劇どころじゃない自分が思い浮かぶ。
苦行に行くのに交通費と高い観劇代なんて払うんじゃなかった。
暑さで頭がくらくらしているところに魔が差したとしか言えない。

「シャンシャンを使用しての記念撮影が付いております」って
いったいなんだ? そんなもんいらないや!
その分、安くしてくれ…

またもや半泣きになりながらも
いつまでもネガティブになっていてもしかたないと
かぶりをふり、涙を拭いて
「楽しみだねー」と上の女の子に言ってみる。

6歳の坊主は「絶対行かないよ」という返事。
でも、ほら、演劇だから目先が変わっていいかもしれないしね。
必死で明るいママを演じる私。

…と、いうわけで澤田研二の前に宝塚に行くことになった。
こうなったら元を取ってやる。
秋になる頃男役のファンになっていたら、また一興ということで。
シャンシャン。
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昨日まで夫の実家のある広島に帰省していた。
猛暑の中、ファミリープールで丸焼けになったことに加え
身体がおかしくなる寸前で戻ってきた。
他所の家は1週間が限度だろう。

友人がフレンチレストランを予約してくれていた。
丘の上にたつ「シェ・ヤマライ」という、牡蠣のオイスター焼き
で有名なところだ。

一通りコースを食べ終え、お茶でもしに2次会へという段になり、
「どうしてもトイレを見ておかねば」という予感があり、
席を立った。

「泉の池」という表札を見たとき、「お、予感があたりそうだ」
とワクワクしながらドアを押した。
2畳半くらいのスペースに、反比例するかのような小さな
便器がポツンと設置してある。
そこの部分の敷物は、姑の家にもあった、芝生を模したビニールの
マットだ。
けっして趣味がいいとは言えまい。

よっこらしょと腰を下ろすと、目の前には、動物だの教会だのと
いったオブジェが並んでいる。ひととおり観察したあと
ふと横を見て驚いた。

壁一面の、こちら側に傾斜した鏡に、まさに今の私が
大写しになっているではないか。
「こりゃ楽しい!」
私は笑いをこらえきれず、立ったり座ったりしているところを
映しては、ひとときを過ごした。

「ぜひ行ってみて!」と私は友人にすすめた。
2人は順番に席を立ったが、帰ってきた顔に特に変化はない。
聞くと、目の前のオブジェに気をとられ、2人とも一様に
添え書きを読んでいたという。

「そんなことより、もっと楽しいことがあったのに!」
私は、「そんな添え書きの情報などどうでもいい」から始まり
ヨコの鏡に丸写しになった自分の姿が、どんなにこっけいだったか、
嬉しそうに語りだした。

「だからあなたたちはいけない」といわんばかりの傲慢さで、
得意げに説明する私が、「それで立って拭いたときね」と
言ったくだりに2人は反応し、
「それは普通ではない」と反撃を開始した。

「ふつう、座って拭くでしょ」
「そうそう、腰を少し浮かせて」
「そうそう」

フランス料理の店でする話題ではない、と見て取った2人は
それでもなお「じゃあ、拭いた紙を見る?見ない?」など
無邪気に話題を広げる一方の私を制すような、けげんな目の光を
発し始めたので、さすがに席を立った。

しかしこれだけ話題を提供するトイレが、気取った店にあるというのは
どういう意図なのか、いや意図などないのかもしれないが、
面白いなあ、と少なくとも私は思ったのだった。

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沢田研二のファンという家に安住したくない。
私はもっと、難民のようでありたい。
固定したとき、彼にとやかく説教されそうでイヤだ。

とやかく言わずにいられない、彼の率直さは好きだけど。
「お客様は神様です」なんて持ち上げておいて
後ろ向いて「べー」と舌を出しているのではないから。

だけど、ファンと言っても、誰のものでもないのだから。
そういう位置から、興味のあるところに自由に出入り
できるようでありたい。
今日は沢田かもしれないが、明日は違うかもしれない。
あえて無党派層、みたいなスタンスがいいと思う。

といいつつ、京都会館参戦を楽しみにしている。
またそれについてもレポートしてみたい。
今日から帰省のため、しばらく記事のアップは休みます
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「同じ土俵」が共同体 
安倍さんも、なんだか虫の息の様子だが、そもそも彼は
政治家にはなりたくなかったと聞いたことがある。
彼が自分のしたいことをしていれば、彼本来のよさが
生かせたのかもしれない。
だって、「美しい国」うんぬんの、きれいごとを言っている
目は遠いところを見ているようだった。

やる気のないままで、フワフワしたことを言ったり
現実味のないことをすると、
人間の「保存」しようとするエゴだけが肥大して犠牲者が出てくる。
エゴがあるからこそ、全体を把握する礼が必要になる。

野党であれ、与党であれ、「本気」の人だけが
同じ土俵に上がることができる。
本気だからこそ、考えが違っても、いつかは普遍という
共通項にたどり着くと信じられるのだ。

沢田研二も、「僕がしたかったのは野球だけ」発言にも
見られる、もともとのやる気のなさを抱えていた。
だけど、なにかしらの状況で、やらざるを得なくなったとき、
彼は開き直りにも似た、粘り腰を見せてきた。
いわば、そこでもう一度、自らが選びなおしたのだ。
そうなって始めて、「生きなおす」ことができる。
頼るものを失くす、逃げ道をふさがれる、
あるいは自らふさごうとするとき、
エゴ抜きの野生は蘇るのだ。

さて、安倍さんはどうだろう。
変なふうに蘇られても困るけど。

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今からでも遅くない 
20代の頃は出版社にいて、広告の仕事をして
なんとなく、おしゃれなマスコミ業界にいるという、
フワフワした感覚で、日々の業務をこなしていただけだった。
今思うとおぞましい。
どうしてもっと、全体像をつかもうと努力しなかったのか。
「生きよう」とはしていなかった。
しかも、上司からどやされたら今度は結婚に逃げた。
いつも現実の矛盾点ばかりを数え上げて、目の前の仕事に
本気で取り組んでいなかったような気がする。
でも、遅くはない。
今、だから私は自分なりに世の中のことをもっと知ろう、
考えよう、全体像をつかもうと、少しは努力するようになった。
もちろんまだまだ、だし、能力には限りがあるけれど、
そこではじめて「私はこれだけのものだ」という安心ができる。
なんとなく全体を感じることができるのだ。
地に足をつけるのは、いつだって遅くはない。
私は幽霊じゃなく、人間になりたい。
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憲法を改正するか否かを、私たちの手にゆだねようとする
案もあるようだが、今回の選挙でどうなって行くのだろう。
もちろん、本来は、国民が主体となるべき政治なのだが、
そうなっていないことはもう証明されているだろう。
だから実際そんなことが決まったら、またメディア操作とか
うまいことされる恐れがある。

実際にこうした案が出されることで、今まで関心のなかった人も
興味を持つ点では、いいことだと思うけれど。
切羽詰ったときに、昨日述べた、野生のエネルギーは出てくるから。
その意味では、物事何でもいい機会にはなりえる。
ただしそれは「生きよう」が前提となっていなければいけない。

テレビに出る人(出た人?)でありながら、キホン客観的な沢田研二も
はっきりと「テレビが出てきてからおかしくなった」と言っている。
どうおかしくなったか、考え出すと長くなるけれど…

例えば教育も、テレビがない時代だからこそ、子供たちは
素直にそれを受け、教育本来の実際的な、いい面を吸収した。

だからと言ってテレビがすべて悪いのではない。
映像のリアルは、色々なことを教えてくれるし、
テレビでたとえば何かを先導していても、それを受ける側に
しっかりした目があれば、影響されることはない。
テレビの存在そのものを否定する考え方は、
何かを先導しようとするそれと同質だ。
子供だから危険だとか、そんなこともない。
それをいうなら、細木数子に叱られて涙を浮かべている
女の子たちの方があぶなそうだ。
叱られる内容そのものよりも、なにか力強いものに引っ張られて
行きたい願望の方が強そうだから。その意味では
ビリーズブートキャンプも同じかもしれない。

何かを決めるときは、その決める本人が、自分は今どこに立っている
のかをわかっていなければならない。それは本当の意味で
「生きたい」ということだ。人間すべて、生きたがっているとは
限らない。もちろんそれがいい悪いではなく、「過程」だ。
ただ、それらの人も混同して、一方向に進んだり何かを決めよう
とするのは無理があると思う。

生きたいと思うから、心から泣いたり笑ったりできるのだろう。
また「食べる」ことも「眠る」ことも、おろそかにしないのである。

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昨日、ジュリーの「暴行事件」謹慎の際、
「男らしさのようなもの」をなくすことへの恐れを
語っていたと述べたが、その男らしさとは何だろう。
それは「生きたい」という、野生のエネルギーだ。
この質を前に、男らしさも女らしさも同等ということになる。

自分が本気で「生きていこう」とするとき始めて
相手の状況にも思いやりが出てくるのだ。
それを、自分を抑えて抑えて、人のために尽くすことに
力を尽くしていたら、エネルギーは枯渇してしまう。

その意味で先にも述べた「アメリカの独立精神」は永遠性を
秘めていた。アメリカの自分勝手さや、神をも従わせようとする
万能感は、一歩間違うとひどいことになるけれど、それでも
貪欲さばかりの目立つ「アメリカニズム」を十羽一からげに、
「悪」とさだめ、自分たちとの差を強調することは
「生」への冒涜ともなる恐れが出てくるのだ。
基本的に何人であろうと替わりはなく、
環境の差だったり、何よりも「個人差」なのではないか。

日本にもいる「恥を知らない人々」が、簡単に
「あいつらの側」に置かれることには
警戒しなければならない。
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ジュリーは以前、好きな野球選手として、
張本や江川をあげていた。
江川と言えば、現役時代、阪神入団を嫌い、
ごり押しで、巨人に入ったいわくつきの人物だ。

阪神ファンのジュリーは、それでもそんな江川の
生命力を、応援したい気持ちになったのではないだろうか。
物事の、それがいいとか悪い以前のエネルギーには
希望がある。

それは言って見れば、アメリカの独立精神ともリンクしてくるし、
戦後の草一本はえない廃墟の中から、立ち上がってきた
日本の生命力だ。それがすべての前提だったのだ。
ジュリーの世代は、そうしたことに影響を受けていると思う。

しかしその生命力は、たやすく保存欲と結びつき、
浅ましさ、見苦しさともなる。
それが沸点に達したとき、外部から制裁を加えられる恐れが
出てくる。

彼の「暴行事件」というのも、それをしでかした本人が、
これを成敗されることによって
「僕の男らしさのようなものが、消えてしまうのなら怖い」
と言っていた類の要素を含む。
もちろん、実際にしてしまったことについては、
ジュリーはみずから謹慎を申し出て、反省したのだが。

エネルギーを守るためには、自らが自らを縛ることも必要と
判断したのだろう。
でもそれが過ぎれば今度は、人間は死んでしまう。
「恥を知る」ことも大切だが、恥を知りっぱなしでは
犠牲になりかねない。
自分で自分を守る以外、誰が守ってくれるのだろう。



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