サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
page top
スポンサーサイト 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
page top
「サムライ」で、沢田研二は小さな日本刀をかざしながら
「片手にピストル~」と歌っていたけれど、
それは、ロックという名の「抵抗」じゃないだろうか。

だけど人間、ポップに優しくなりたいものだ。
否定ばかりしている自分なんてイヤになってくる。
抵抗なんかしたくない。素直が一番!
とすべてを悟る朝もあるだろう。

抵抗が強いからこそ、実はそれを信じたい人間の心理は、
ある日突然にも、すべてを捨ててどこかに入信したり、
誰かに「入門させてくれ」と押しかけたりさせる。
純粋な思いは、まさか人に迷惑かけているはずなんてないと。

宗教でなくても、たとえば左がかった自分の信念に
耐えられずに極端に右に固定することもある。
または、必要以上に反省をし過ぎたために、その反動で
極端に我を押し通す人になってしまったり。
「欧米のものはみんな悪い!」としたり。
「アジアは悪い!」というのも同じだ。

純粋な思いは、まさか単に葛藤に耐えられなかっただけ
などとは思いもしない。

純粋な思いがエライのではなく、
葛藤に耐えていくほうがずっと努力が要る。
葛藤を嫌って神になろうとした人は一杯いるのに、
それを踏みとどまるのが本当の「信者」だ。

葛藤に耐え、ストイックにみずからのスタイルを変えなかった
ジュリーの頑固は、あるとき「女神」の息吹によって柔らかくされ、
彼の言う「真のスーパースター」への道を歩ませたのかもしれない。
それはまた時代の息吹だったかもしれない。

同じ曲でも映像でも、普遍的なものは、
時代が変わってまた新たにされ
受け入れられることを彼は証明してくれているようだ。
それは懐メロであって懐メロじゃない。
なおかつデビュー40年、今も現役で走り続けている、
日々新たにされている彼がいる。

研二という名前に現れた「サブ」という宿命は、
しかし人間そのものを表している。
単にローリングストーンズの真似ではなく、
彼にとってその先には神が見えるようなスターを吸収し
もう一度提示したものこそがオリジナル(人間)だ。

アメリカのサブのような存在とも言える日本の
抵抗と葛藤とは、本当は神のサブでありたいのに、という
悲願だったかもしれない。
しかし闇雲に反対して潰された経験を活かして、
自分を守りつつも安定に居座らず

そしてもう一度、後世に受け継がれるべき伝統、
見かけは同じであっても新しいそれを選び直そうとする
そこには、就職が決まって仕方なく髪を切ってきたのではない、
みずからネクタイで首をしめて、戦うビジネスマンになろうとする
自主性があった。

団塊世代の代表選手である沢田研二というオヤジは、
そのまま人間を証明している。
そのBGMは、いつでもロックだった。
スポンサーサイト
スポンサーサイト
page top
命を捨てて男になれと言われたら、
あたしゃ女の腐ったのでかまわないと
いう歌(加川良「教訓Ⅰ」)がある。

でもその「女でいい」と開き直る過程には
葛藤があるのだ。
理不尽な命令をされて「ふるえなさい」というのは
「ふるえてもいいんだよ」という励ましであって
最初から何の抵抗もなく震えてしまう人のためにあるのではない。

これは、さんざん「男だろ!」と理不尽なことまで
押し付けられてきた者たちの叫びである。
震えるオカマなんて本当はなりたくないのだ。
慰められているそこには、こぶしをにぎって
男泣きのポーズを取っている(池乃めだかではない)
人間が居なくては成り立たない。

先日娘のドッジボール大会を見に行ったら
彼女はほとんど動かずに、「逃げる」ことしか考えていない
ようだった。
それは、見ている側にとっては退屈きわまりなく
「ほらほらもっと勇気をもって最前線に出ろ!」とか
「がっしり受け止めて行け!」などと彼女しか見ていない親に
とっては、どやしつけかねない事ではあるが、

とことん逃げ回るのも、ひとつの生き方なのだ。
優勝までしたのだから、余計考えさせられる。
でも、いざ逃げ切れないほどボールが目の前に来て
死ぬか生きるかの事態で、いきなり勇気を出し、
ドガっという音も鮮やかに受け止められる
臨機応変さがそこにはあるのかどうか。

おそらく、逃げ回ることしか念頭になければ
やられてしまうだろう。
我に返って「ああこれ、ドッジボールだった。
助かったー」と言えば澄むことかもしれないが、
夢から覚めないまま死んでしまうこともあり得る。

何でも子供の言いなりになる親のように、
ふにゃふにゃしている所を上から目をつけられる
羽目になるというのにも似ている。

恐れから逃げていれば、自分が何をしているのか
わからないだろう。

だから命を捨てないために、女になれというのを
鵜呑みにしてはいけないのだ。
葛藤を経て「女でいい」と開き直ることから始まって
異性を選び取るところまで行くのは自分自身だ。

おそらくジュリーは「懐メロ歌手」になりたくないと
いうよりも、細木数子にあることないこと
どやされて、涙を浮かべてうなずいているタレントには
なりたくなかったことだろう。

page top
ジュリーのビジネスもかけひきも、すべては芸能界で
生き残るために必要なことだった。
独立も、それをできる勝算がなければできない。
彼のたとえば「次男の意地」という身体性だけでは潰される。
ビジネスという意志がそこになければ、成立しない。
そしてその「スター性」は志という光を見ている。

たとえば、他人のことを気の毒と思う心は
自然発生的なものだ。その意味で美しくもないし、
別段えらくもない。
そこで相手に同化までしていたら、共倒れになり
結局は人のためにも自分のためにもならないだろう。
何よりも自分が生きていく意志がなければ、
何も成し遂げられない。
志として成立しないのだ。

自分の強みは何か探すのも、生き残るために必要だろう。
一見弱みと思えるものの中に、それはあるかもしれない。
目に見える強さがすべてと思い込み、ごり押しをするなら、
とてもセクシーとはいえない。

「スター」には、セクシーさが必須条件だろう。
セクシーだから、惹かれてしまう。

彼に惹かれたもの(例えば私)にとっては
単に恥ずかしがり屋の素の彼が、恥を忍んでステージに立つことを、
「こんなのは本当の恥ではない」というメッセージとして
受け止めることもできる。
もっと大きな恥じは見えないところにあるのだと。
彼の意志(恥を忍ぶ)を、志(メッセージ)として
感じることができるのだ。

そして、人に「それは恥だ」と言われることが恥とも限らない
などと思う。
たとえば私は、文章を書いていてあるときふと、
自分の書いたものと同じ内容に出会うことがある。
「この人の文章をとったわけじゃないのに」と言い聞かせながら、
もしかしたら私の思いや意志が、無意識に取捨選択や蓄積という
作業をして、かつて読んだものと同じことを書かせているのか
と思ったりする。

あるいは、読んだこともないが、その人と同じことを考えていた
のだ。その意味で、「オリジナルはない」のである。
だけどそこで、他人の文章を自覚なしに書き写す意識とは
見えない差が生じる。

あるいは初めから「とってやろう」という意識では、
誰もがどこかでつながっているという、繰り返される
悠久の歴史に思いを馳せるような、
目の覚める感動は得られない。
そしてそれは、誰にも知られなくとも、
自分にとっては、恥ずかしいことかもしれない。
それが本当の恥ではないだろうか。

「規範意識」の強い人ほどそうした精神の自由を
得なければ生きていけない。
「美しい」もの(誰にとっても美しいものなんてない)
を見たり聴いたり、身体を動かして
バランス感覚を養うこともひとつだろう。

ジュリーの芸にそうした意味を含ませるのは、
規範意識の強い自分なのかもしれない。
仕事の上ではどんな恥でもかきまっせ、俺は見世物でっせという
スタイルは、私にとって自由へのメッセージだ。

沢田研二は何も言っていないのに、
それを観客はそれぞれに、尊い志にまで昇華することができる。
だけどそれはやはり彼が光のほうを向いているからだ。
本来、人間のセクシーとは光のためにあるはずだ。


page top
沢田研二(今日は誕生日だ。いくつになったんだろう)
の魅力のひとつに、端的に言ってしまえば
「ヤクザっぽい」があげられると述べた。
あくまで「ぽい」ところがミソだが、
そのアウト・ロー志向に見えてくるのは、
野生のエネルギーだ。

彼は直情型で感情的なところがあると言われてきたが、
それは、怒ることにも誠心誠意だったからだ。
相手と真剣に向き合えば、怒ることにも必死になるだろう。

女性ファンによく怒るというのも、言い換えれば彼は
相手を適当にあしらうという意味での、浮気のできない人
かもしれない。
いつでも本気、それは自分の生をひたむきに生きていること。
その野生的なひたむきさがセクシーなのだ。

彼の、怒ることにも食べることにも、恋にも必死というのが、
野生の証明であるが、そこに浅ましさはあるだろうか?
いやない。

本当の意味で野生的になれば、浅ましくはないものだ。
それは本当の意味で、自分を大切にするということ。
いくら善人でも、身の破滅につながることをするなら
それはおバカさんといわれても仕方ない。

法を守っているから、決まりから外れていないから、
主流にいるから、みんなと一緒だからと安心し、
もっと大きな不自由に気づかない多くの人々。

野生的だから法を守れないのではない。
人一倍守りたいから、群れを外れたくなる。
人一倍信じたいから疑ってかかる。
孤独に耐えられるのは、自由が待っていると思えるから。
その自由とはもしかしたら、不自由の中にあるのかも知れない。


page top
沢田研二のナベプロ王国独立、事務所設立には
反骨精神と、全体の中で孤軍奮闘する個人が表現された。
いつも「バンド」と一緒でないといられない臆病な彼の、
強烈な自己主張だ。

同じく彼の属する団塊世代のシンボル、全共闘とは
何を表しているだろうか。
それは、団体でしか語られなかった彼らの意地であり、
むしろ個人の証明ではないだろうか。
それは「水で火を消す」という自明性に眠らされていた
人々に冷水を浴びさせ「火で水を消す」こともできるのだ
と行動で示そうとした個人の集合体である。

もちろん、戦争時がそうであったように、そこには無数の
「お付き合い」する人々がいた。
しかし付き合いだからといって葛藤がないわけではなく、
むしろ、だからこそ譲れない個は、そのなかに強固に
息づいていたりする。

主流を成した者たちは「それをわかるように示さなければ
進歩はないだろう」と動いた者であり、
リーダーという肩書きは特にない。
あくまでバンドに埋もれたいとする沢田研二のスタンスと
ここでも一致する。

全体と私は、身体と心のごとく切り離せないもので、
どちらか一方に閉じこもってしまっては、
自由は得られない。そのために戦ったのだ。
しかし闘いには多くの犠牲がともなった。
何か崇高なもののために自分を犠牲にしてもいとわない思いは
不本意な形で終わった。

一度戦った事実、人を傷つけた事実はもう変えられないけれど、
それを正面から見据えた上で、戦いを無駄にしないためには
「あの頃はよかった」と過去に浸るのではなく、
そこで得られた個人の尊厳とは何か後の者に伝えることだろう。

それがたとえば映画「幸せのスイッチ」で、
仕事に命をかける市井の電気屋を
淡々と演じることであってもいい。

個人というものは「訓練」を受けなくても、立派に
自立していけるのだということ、それを実感したものは
他の者を侮蔑することなく、日々の暮らしにまい進し、
いざという時はみずから身体を張れるものだということ。

戦うとは戦争や全共闘である必要はない。
スケールが違っても、身を引き裂かれる思いや
エキサイティングな思い、さまざまな思いは
日常の中で、充分経験できるはずだ。
その思いは、かつて誰かが経験し、
歴史の中に永遠の営みがある。

その営みを意図もなく引き継いでいく、
そこに対立や競争はない。
page top
平岡正明著『山口百恵は菩薩である』の巻末のレコード評を、
むかし何度読み返したことだろう。
そして「オタク」というのは、世の中で一番幸せな人々では
ないかとも思ったものだ。

山口百恵はそこでも語られていたように、「清純派」で売り出された。
「赤い」シリーズで演じた悲劇のヒロインのように、はかなげなマユを
八の字にして、数々の困難に耐え、しかし最後は白血病で散ってしまう
ような物語と、彼女の特に初期の歌はとてもよくマッチしていた。

「犠牲的精神」というのはこのことである、とそれらの歌は
教えているようだった。
愛するあなたのために、何もかも投げ捨てます。
私はどうなってもいい。人知れず消えてゆきます。

それは、こういうタイプの女性が好きか嫌いかということよりも、
その手の歌のメッセージのあまりの強さゆえに
思わずコレクション欲がそそられてしまうほどだった。

そういうこともあるので、人の好き嫌いはあてにならない。
激しく何かを「好きだ!」というのは、
「嫌い」の裏返しということも大いにありえる。

山口百恵の歌は「初恋草紙」のような古典テイストにも
特徴があったし、また「イミテーション・ゴールド」あたりから
「ツッパリ路線」も演じたものの、いずれにしても
そこには全体にソフトフォーカスのかかった世界があった。
しかしその「美しさ」を丸ごと一本の白いマイクに託した彼女は
ステージ上にそれを置き去りにして、
後ろも振り返らず、風のように去っていった。

そのしょぼんとした後姿の、
なで肩は「女性」のか弱さを象徴し、
しかしその同じ肩にあるケロイドの生々しさは、
結婚というものの正体を暴いているようにも見えた。

彼女は私生児として育ったせいなのか、「幸せな結婚」に
こだわった。それは22歳という若さも、たくさんのファンも
一瞬に凌駕する夢だったのだろう。

人気の絶頂で、一人の男性のために引退するなど、
多くの男性には理解ができなかっただろう。
彼らには生活がかかっているし、そこまでの結婚への
思い入れもない。

しかし彼らは女性を神に仕立て上げることはできた。
阪神タイガースを蹴って、ごり押しで巨人に入団した
江川を「男らしくない」と嫌うことはできても、
ここまで積み上げてきたキャリアを全部投げ打つ女性を、
「女らしくない」とは言わず、理想的女性像として
祭り上げた。そこには依然として「犠牲的な」という
但し書きがついているように見えた。

しかしそれは、本当に犠牲だったのだろうか。
いやむしろ女性だからこそできる、何をも犠牲にしない
自己実現への意志だったのではないだろうか。

以前ここで、アンコールに見る沢田研二と山口百恵の違いを
語った。形式的なアンコールを受け入れられず、
カーテンコールに徹した百恵に対し、ジュリーはまわりくどい方法で
ファンに「アンコールとはどういうものか」を一から教えようと
したというものだ。

そのジュリーの粘りと、百恵のあっさりかげんの対比は、
そのまま2人の芸能界における態度と言っていい。
ファンに厳しいが彼らを見捨てることはできない沢田研二と、
今でも菩薩のようなイメージでありながら、
目の前に燦然と輝く自分のやりたいことにまい進した
山口百恵の違いだ。
前者は「ウザイ」と言われることもできる。
後者は潔い日本人の鏡と崇められることもできる。

もちろんそれは、どちらがいいか悪いかではない。
ベクトルの違いであって、主張は同じかもしれない。
ただあえて「犠牲的精神」と呼ぶならば、
それは百恵ではなく、むしろファンのために
ナベプロを捨てたジュリーだろうと思う。

しかしそれは断じて犠牲であってはならない。
自分を犠牲にするものは、他人も犠牲にする。
だから彼はその勇気ある決断の際に、
ままにならない強い女性の「息吹」を必要としたのだろう。
その「個のパワー」とは、白いドレスに象徴される
ぼんやりした「純潔」にはなく
百恵の「ケロイド」に象徴されるリアルな生活感にあるのだ。
page top
「ロック検定」や「京都検定」といった、
サブカルチャーのテストが話題になっているが、
非教養主義的サブカルを「学ぶ」ことに懐疑的な声もある。

日本人のことだから、こういうのも真面目に取り組んでしまい
そこには何らかの危惧があるのだろうか。
でも、そこに少しでも「ワクワクした思い」があるのならば、
それが何であろうと、否定することはできないと思う。
ワクワクした思いのパワーほど強いものはないし、
それは志に変わる「可能性」を秘めるからだ。

これらは「オタク度」の競い合いにもなりえるが
競争を持ち込むことでしぼむ「ワクワク」があるとすれば
自然淘汰されたということで、必ずしも競争が悪いのではない。

さて沢田研二の「次男性」について、昨日ふれた。
そういえば彼のコスチュームはみな、ミック・ジャガーの
お下がりのようだったと。
そう思うと「チュルルル…」というバンドとのコーラスまで、
ストーンズの2番煎じ?の「お前にチェックイン」など
サブの象徴にも見えてくる。
「HOLD ME TIGHT」の繰り返しが「アホみたいアホみたい」と
聴こえなくもないが、サブをあなどってはいけない。

私にとって沢田研二の魅力は、まさにそこにあったのだ。
それは羽をつけて踊りながら、僕アホみたいと言っているような
哀愁だったかもしれない。

私はそうした諸々に惹かれて彼のファンになったことで
彼からローリングストーンズを知り、
そこから欧米のロックのよさにも触れ、と進歩し、いや
進歩と思ったらそうではなく、またジュリーに戻るという
興味の移り変わりを楽しんできた。
そこに知識が、ほんのちょっぴり生まれたとすれば、
それは思わぬ副産物だ。(検定には落ちるだろう)

でもそれが自然と、沢田研二の「ロックを伝えよう」とする
メッセージを、受け止める意義に添う可能性があるのならば
けっして悪いことではない、と思うのだ。
「こうするべき」の入る余地はない。

サブカルと言えば、日本が世界的に知られたのはアニメだ。
しかし世界に伝わったのは、アニメそのものというよりも、
そこに込められた「きめ細かい技術」じゃないだろうか。
「こうしてやろう」という意図のない部分だ。

欧米から入ってきた文化を日本流にアレンジしようなどと
意図していないが、それをただ心を込めて作り
また世界に発信するそこには、どこに存在するか自分にも
わからない、「個のパワー」が宿っている。
何者にも屈することないそれは、世界を生かす。



page top
ネット情報だが、なんでも以前ジュリーは、コンサート会場で
女性ファンに説教のようなことをして、
「チンピラヤクザイモ」とののしられていたらしい。

彼が何を言ったかは知らないが、それに対して「チンピラ」と
いったのはきつかったか。
そこに「ヤクザにもなれないチンピラ」という意味が込められて
いるならば、なおのこと痛いところを突いたのかもしれない。

沢田は次男坊で、目の上のたんこぶの存在は自分を脅かし
また、主流になれないようなコンプレックスが小さいときに
形成されていたとしてもおかしくない。
その次男に「チンピラ」は禁句だ。(ここでも連発してしまった)

彼は自伝の中で、「幼稚園に行くのも、兄貴について行く。
いつも誰かのあとをついて行くと。タイガースもそうです。
PYGのときもそうでしたよ、」と分析していた。

宿命というのは抗えないものらしく、彼はファッションにしても
ミック・ジャガーの2番煎じのようなところがある(それは私が
ミックのファンになってわかったことだが)。

ミックの名言「ピンクのスーツについて考えられないようじゃ
ロックンローラーといえない」通り、沢田はシルク生地の
ピンクのスーツで、ある時は紅白歌合戦の応援席に陣取り、
ある時は賞を貰って動揺した和田アキ子に手を引かれて、
意味もなく花道を歩いたりした。

「お前にチェックイン」の化粧にしても、「ダーリング」の水兵ルック
にしても、それは、えっこれも?あれも?というほどだ。
お兄ちゃんのお下がりばかりを着せられたであろう次男の宿命が
よく現れているではないか。(当時はお下がりを断固拒否したらしい)

でも、次男には次男の意地があるのだ。
芸能界の主流を成す最大手の渡辺プロからデビューし
大スターになった沢田研二は、だから余計にその中で肥大化した
意地を果たすために脱退し、独立精神を見せようとしたのではないか。

それは今で言えばジャニーズ事務所にいてはできないようなことを
するためにだろうか。
たとえばいくら木村拓哉が、アウトローの雰囲気を演出したところで
それはすべて事務所の傘下でしかない。
(ちなみに木村は長男だが、果たして独立するのだろうか。
したとしても次男ほどの屈折した負けん気はないのでは?)

沢田は常に「自分の手で何かをしたい」と言っていた。
「ミック・ジャガーは自由でうらやましい」だとか。
欧米と日本の事情の違いを知ってか知らずかの
そんな愚痴が、ないものねだりにうつったこともあった。

山口百恵が、「専業主婦にならなければ死ねない」とばかりに
すべてを投げ打ったように、ジュリーもその魂は、幼少時を
懐かしんでいるのかもしれない。
あるいはPYGで、観客に野次り倒された想い出をもう一度と、
ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング
ストーン」を地で行っているということもあり得る。

ヤクザっぽさがジュリーのひとつの魅力であるという
説に反論はできない。
それは、彼のアウト・ローへの憧れではないだろうか。
大人しく体制に従う者が長男の象徴ならば、
自分はアウトローを表現してみたい。

そしてその真意は、「少数派」によりそったロックをするために
本物の「はぐれ鳥」になってやろうとした所にあるのではないか。
それが「金魚のふん」と言われるほどに兄貴にくっついていきながら
静かに燃やしていた彼の闘志ではないだろうか。

page top
沢田研二には華がある。
声にも姿にも。
華奢な身体は舞台ではひときわ大きく華やぐ。
そのオーラの秘密、キーワードを「むき出し」としてみよう。

たとえばブログで、毎日なにかを発信していたからといって
それでその人のすべてを見せていることにはならない。
ブログという、ごまかしようのない「むき出し」のなかに、
環境に屈しない人間の「意志」は浮き彫りになる。

機械は何かをカバーする役目を果たすこともある。
沢田研二の時代の歌手は、歌が下手でもそれがむき出しにされたが、
現代は機械の発達でさまざまなごまかしが可能になったという。
しかしジュリーは、「機械によって助かっているというのは、
反対じゃないか。かえって細部まで再現されてしまう」
と語っている。

彼の語る、細部が「むき出しになる」ことで
失われるものとはなんだろう。
神秘性もひとつ考えられる。
それは彼の「夢を売る」志には反するかもしれない。

しかし彼は「ス・ト・リ・ッ・パー」のなかで、
「弱いところも見せちまえば綺麗に変われる」と歌う。
(そこで頭を指差していたのは、記憶に間違いない)

カバーしようと、言い換えればごまかそうとするものは、
かえって「むき出し」になり、「見せちまった」むき出しは、
見えない何かに、「ぼかし」を入れられるということだ。
そのぼかしとは、プロテクトされるものともいう。
彼のスター性もそうだろうか。

「むき出し」といえば「思いきり気障な人生」の
ライナーノーツに、本番前の楽屋で鏡を見ている
ジュリーの姿が収められている。

それらは、12歳の私にとってあまり見たくない光景だった。
ジュリーは歯をむき出して、クソだかヤニだかをチェック
しているのだった。
その顔は、とってもマヌケでショッキングだった。
(いや誰でも歯をむき出せば同じ顔になるだろう)

かと思うと、次には芝居がかった顔で百面相をしている。
なんだか悲しかったのはなんだろう。
白いタイツの王子様が迎えに来てくれるような夢が
くだかれてしまったのか。
しかし、それで彼のオーラが損なわれるわけではないのだった。
むしろ、その自信のある態度には、後ろをふりむかない者の
隙のないオーラがある。

歯をむき出しても(ミック・ジャガーならシャレにならなくても)
夢に変わる可能性は別のところにある。
例えばジゴロという人々は夢を売る。謎めいたところが
神秘的に見えたりもするだろう。
が、それで最終的に女性がだまされて、嫌な思いをするのなら、
それは無責任な夢だ。
だからといって、まったく女性の自立性を無視して「幸せにする」と
彼女を全面的にもたれかからせても、無責任になりえる。

相手に責任を取るのではなく、自分に取ろうと思うなら、
相手にも厳しさを持って接することになると言うことだ。

沢田はドラマ版「同棲時代」に出演後、萩原健一との対談で
誰かが辛い思いをすることになるのなら、僕は初めから
同棲などという選択肢はとらないと明言していた。

それは、たとえばフランスではアリかもしれないが、
日本という国に当てはめると危険が伴うといった、
あらゆる状況判断にもとづいた発言かもしれない。

無意識の志はない。
もう人生の幕は上がっているのならば、目を覚ましなはれ。
「志」を見据えて着実に夢を追いなはれ。
と、彼は言ってくれているようだ。

page top
沢田研二は、例えばファンに道端で会ったとき
そこでサービスするのが果たして僕の仕事かいな、と
ずっと納得いかない思いを抱えてきたと言う。

まあ、誰の言うことも一理あると思ってその言葉を
素直に受け入れてみれば、
彼の仕事というのは、夢と感動を与えることであって
ファンの瑣末な要望にまで、ひとつひとつ答えていたら
それ以上削る命はどこにもないだろうとの理解もできる。

沢田研二のことを書いた本で昔読んだ覚えがあるが、
彼はあるとき照明係とあることで言い争いをした。
それは、歌が終わった後のピンスポットの消え方が
早すぎると彼が抗議したことから始まったそうだが
争っても埒が明かないと見て取った沢田はひとこと
「僕は、顔が見せたいんだ」とホンネをもらしたという。

商品である自分の顔を客観性を持って使おうとする、
全体を見た発言に、照明係も納得したようだが、
それは「夢を与えよう」とする者の真摯さからなる
迫力でもある。

同じく人々に感動を与えるのも、そう簡単ではない。
しかし人は感動をしたときに初めて、自ら動こうとする。
そこには損得勘定の混じらない自主性がある。
彼がファンに期待した夢とはそれではないだろうか。

今、彼がスマートな身体を維持した上でロックをしていたらもっと
感動的だったかもしれないが、それは仕方ない。
しかし前にも書いたが、どんなバランスがビジュアル的に受け入れ
られるか、それは神でないとわからないので、太ったジュリーの
ロックコンサートの消防士姿に涙するファンもいたかもしれない。

夢と感動を与える、仕事という聖域を堕落させてはならない
思いは、彼に自分で自分をしばるストイックさを与える。
page top
私はミック・ジャガーについての本で、彼がいかに
女性たちに肉体を痛めつけられてきたのかを書いたが、
沢田研二にも「Goddess(女神)」という、それと似た
シチュエーションを歌ったものがあったことを知った。
とげに刺されたり、爪でかかれて痛みを知らされるというものだ。
彼18番の「ジュテーム!」を聴ける一曲でもある。

痛みを知った男性はそこで初めて、相手を思いやることができる。
言葉の裏側にある、感情を理解できる。
沢田研二の「完ぺき主義」とはそうした「女性」をとりいれる
方向にも現れているのではないだろうか。
恋をすれば、そこには補い合い成長しようとする
生命力が生まれるのだ。

昨日レストランで英会話の先生なのだろうか、アメリカ人らしき
男性を取り囲んだ女性たちが「キャー、かわいい」と歓声を
上げている場面に出くわした。
どうやら彼は自分の幼い息子の写真を見せているらしい。
たくみに英語を操る彼女たちは、日本人のその辺の子供の写真に
ここまで全身ではしゃいでみせるだろうか、と思うと
白々しさを感じた。

もちろん「あっち」の人々は日本人のような以心伝心では、
もうひとつ伝わらないものがあるのだろうから、
日本以上に論旨や感情ををはっきり伝えるべきなのはわかるし、
日本人の以心伝心が甘えを生むこともわかる。

だからどっちがいいとも言えないが、それはちょうど
女性同志なら伝わることが、男性にはもっとはっきり
言ってやらないとわからないわよ、というのにも似ている。

だけどそうやってニコニコしていては、本人にも相手にも
見えなくなるものが多すぎる。
たまには痛みを知らせることは男性にとっていいのかも知れない。
(といって血を見せていたら洒落にならないが)
それはお互い、最終手段を取らないことへの知恵でもある。

最終手段と言えば学校は、調子に乗った保護者を法に訴えて
裁こうとしているらしいが、そうなる前にもう少しドロくさい
係わり合いが必要だったのかもしれない。
それは保護者の愚痴に何時間も付き合うことや、子供の
送り迎えをすることではなく、しっかりと意見を述べることだ。
さんざん下手に出てサービス業のようなことをしたあげく、
その反動で、今度は変に高圧的になったり、何を言っても
耳を貸さなくなってしまう。

何もアメリカのように、何でもかんでも訴訟したり、
家族の写真を誇らしげに見せることが正しい人間像とは
限らないということも、もう一度振り返ってみたい。

だから、わかっちゃいない恋人や夫にガツンと行かないように
チクッと刺すことも、「女性」の務めかもしれない。
刺すほうもラクじゃないが、彼はそれを受け入れるだろうか。

page top
「女の辞書に不可能はないよ」という言葉を、肩をすくめ
悪い意味で使う男たちにとって、パリス・ヒルトンの再収監は
頬のゆるむ出来事だったかもしれない。
こうなるとまだ同性である女たちのほうが同情的に
なるところもある。

私はむしろ、彼女が「何も食べずに泣いていた」ところに
貴族っぽさを見た。要するに「豚小屋のえさ」を食べるくらいなら
死んだほうがマシという…しかしこんなことを夫に言おうものなら
「けっ」と言われそうだ。

男にとって悪いものは悪いし、「女らしくない」女性がそれをする
のは、さらに許せないのだ。
しかし「悪いもの」を決め付けるとき、そのもの自体を
良く見ているといえるだろうか。
女性はその意味で善悪を超えて、例えば好きな男性なら
刑務所に入ろうが、ついて行きますというところがある。
「みんなは悪い人だというが、私にゃいつも、いい人だった」。

昔、お水の世界に足を突っ込んでみた頃、
この、松尾和子の「再会」を覚えてよく歌った。
「ちっちゃな青空、監獄の壁をああ見つめつつ泣いてるあなた」
母親世代、ひいては男から受け継いだ「女の幸せ」や、
作られた女性像というのは数あれど、
むしろ「女性らしさ」があるとすれば、
この箇所に思わず涙がにじむ、そっちこそかな
と、私は思う。
(そしてこういう「ジュリーかわいそー!」と感情ばかりが
先走ってしまった女性ファンは、彼に「おふくろうるせえな」とでも
いうように追い払われたりする。)

その頃の私は歌いながらも、この男性がどんな悪いことを
したのかはどうでもよかったが、
今思うと、全共闘運動でつかまった彼、であってもおかしくない。
そして私たちはこの歌で涙しつつ、その自由であり
不自由でもある激しい姿に、自身を重ね合わせている。

全共闘とは縁がなかったジュリーであるが、この歌に涙する
熱さを持っていたとしても、それはあくまで「男」の立場でのものだ。
「この人可哀想」などと思っちゃいない。
自分にしか興味がない冷たい人間である。

しかしたったひとつの「涙」を重ね合わせようとする
意志を持つとき、男女は、あらためて互いの立場に
寄り添うことを試みるのかもしれない。

沢田研二の芸、女装は女性の領域を侵すものではない。
そこに彼はせめてもの畏敬を込めているように思われる。

page top
ストーンズの物議をかもした「ベガーズ・バンケット」の
トイレの落書きを写したアルバムジャケットのように、
トイレという空間だからこそ語れるホンネがあり、
また人々は、何よりそれが見たいのではないだろうか。

「祭り」には神が宿るというが、そういうホンネの場には
見えない「真実」があり、だからこそ、そこでエスカレート
するものがあっても、彼らは究極のところで自己規制すると
信じられる。その意味でトイレこそが神聖な場かもしれない。

ネット社会も、そういう落書きと似たところが
あるが、しかし野放しが過ぎてまったくの無法状態では、
かえって何も面白くなくなるものだ。
規制があってこそ、そこに秘め事的なワクワク感がある。

それを根たやしにすることは、だから神に対する
冒涜であり、人間の思い上がりである。
規制を作る、以上のことをしてはいけないのだ。
変に自由主義になるとかえっておかしくなるというのは
ストーンズのジャケットを禁止するという考え方に
現れているが、そんな資格はあるのだろうか。

禁止措置を受けた彼らは一時は折れて、真っ白なジャケットを
発表した。この真っ白というのは抗議の意味もあるのかも
しれないが、意外と男性ファンの間では、こちらのほうが
実は好まれていたりするのだ。

トイレのジャケットには、アーティストとしての彼らの表現が
含まれているから、ミックはそれを否定されたことを
憤ったが、生身の男性としての彼は、案外白いジャケットのほうが
「清潔でいいじゃないか」などと思っていたりするのではないか。

彼ら男たちがそうした本性をむき出しにして、権威の傘を着れば、
自分には理解できない人々のことを「汚い」と切り捨てる
こともしかねない。それは上から押さえつけられていた
ホンネが、いびつな形であらわれたのだ。

放っておいたら自然にバランスがとれるのに
無理な力を加えることが、やがて戦争にまで結びつく。

女性の方が清潔そうに見えて意外とその身体は、生理や出産と言った
「血肉」と親しい間柄にあり、そういうものを受け入れやすい
かもしれないのだ。「OH!ギャル」の「女は誰でもスーパースター」
というのはその意味かもしれない。

そして沢田研二の「女嫌い」は、ファンを罵倒するといったこと
よりも、「OH!ギャルは好きじゃない」というところにこそ
あらわれているのかもしれない。
作詞の阿久悠ほど大人になれないという。

「ご清潔」な彼からすれば、「彼女たちに不可能はないだろう、
あそこまで何でもアリじゃ…」と嘲りたくこともあったのか。
「不正」の象徴は女性だということか。

ジュリーが「恥ずかしくて修学旅行の風呂に入れなかった」
というのは、「昔の子供にしてはめずらしい」のではなくて、
彼が男性だからということも関係あるかもしれない。

しかしそれを「おかしい」としてしまえば、
ジュリーも「そうなのかな、僕おかしいのかな」となって
本当の自分がつかめなくなることもある。
彼のその個性こそが、スター沢田研二をつくったのだし、
「おかしいのかな」と目をつぶらずに、男を守り通してきた
強さが彼にはあったということだろう。
すべては性別を超えた自分を知ることから始まるのだ。

page top
沢田研二の名盤「思いきり気障な人生」の1曲で、
マンズワインのCMでも有名になったが、
隠れた男尊女卑ソングという説がある(誰が言ったか知らないが)

もっとも作詞は阿久悠なので彼の願望?かもしれないが、
女性に対して、
「はすっぱな口、きいてもいいよ」だとか、
「酒も少しくらい飲んでみたっていいさ」など
たしかに命令口調であり、そしてそれを歌う
ジュリーにも、あながちまんざらでもない同調が見える。
「ジュリー、お前もか!」と言ってみようか。

沈黙のジュリーを取り巻く作品は、彼自身の代弁者で
あるごとくピタッとはまっていたりするのだ。

だいたいタイトルからして、大人のしゃれのわからない私は、
人に頭から酒をかけるな!と憤りたくなる。
「カサブランカ・ダンディー」も阿久悠で、
聞き分けのない女のホホを張り倒すなんて、
ジュリーが歌ったらまた暴力事件か?と思われそうだ。

男尊女卑と言えば、ストーンズの「アンダー・マイ・サム」
などもそうで、ここまであからさまではなかったにもかかわらず
どれほど「女性団体」から締め上げられただろう。
日本だから通用するという側面もあるのかもしれない。

しかし、秩序を守るという意味で、男性をたてる、
誇りを持たせるというひとつの知恵があってもいい。
むやみに反発する態度は、逆の方向に利用される。

伝統的女性観、結婚観には見直されるべき点は多いが、
しかしこうした秩序をまったく失ってしまえば、
それは古い価値観に縛られているのと同じである。

たとえば「環境問題は、いま何よりも大切です」と言って、
環境を守るライフスタイルを押し付けようとするなら、
それがいかに正論であっても、反発を生み逆効果になることすらある。
それなら暑さにあえぐ老人など弱者の映像を黙って
ナマで見せた方が有効かもしれない。

環境問題はライフスタイル重視の側面だけではないはずだし、
男女の関係は「結婚がすべて」ではない。
阿久悠は「麗人」のなかで、「アレもタブー、これもタブー」と
一般に言われるタブーとは逆の規制を持ち出すが、
(しかしそんな歌詞を超えて、ジュリーは「お金チョーダイ」
(は、タブー)といったフリをつけていて、彼らしいユニークさだ)

がんじがらめの中でこそ燃え上がる、たったひとつの愛が、
あるいは夢だったり理想が、何より強いものとする
この歌詞を考えれば、
誰よりも女らしい女性の中には男がいたり、
男の中の男は、女性っぽかったりするのだと、
ジュリーの赤いネイルと「アハーン」という鼻にかかった声に思う。

彼に男らしい「骨」がなければ、彼のおかまっぽさを
誰が「かっこいい」と思うだろうか。
page top
団塊世代というのは、全共闘運動を経て(いや集団就職で
「ああ上野駅」をした人のほうがずっと多いかも)、
筋金が入っていそうで、強面で強固に意見を押し通す
タイプかと思いきやそうではない。

一見押しが強く、熱く語るのが好きだが、
「これはこうだ!」ではなく、肌ざわりは
「そう?それならやってみたら…」という感じ。
「そうかもしれないね…」「あれもあればこれもあるね…」
きっぱりしてないから、あんまりリーダー向きじゃないな、みたいな。

むしろそのあとの世代のほうが「シラケ」を名乗りながらも、
変にフェミニズム的に、「結婚しません」と言ってみたり
激しく何かを言いつのる感じの人が多かったように、
私のそれほど多くない対人経験からは思う。

もっとも私がジュリーを初めとする彼らをよく見ていた頃は、
彼らの30代から40代までで、だから頼りなかったのか。
それでも私の親より上の世代とは明らかに違った。
封建主義的な押し付けをしないせいか
こっちもラクできないな、一緒に考えなきゃという感じ。

だけど頼りなくて自信がないのは、世代を問わず
基本的に人間みな同じだ。
上の世代にしても自信のなさから空威張りしてたところもあるし
下の世代にしても、既成概念への反発心だけが肥大化したのかも
しれない。

だけど人間そんなものなら、自信満々にならないでくれ、とも思う。
団塊は、どっちかというとその人間らしい頼りなさを
素直に出し、言いたいことを「行動」で示してきた人々
なのかもしれない。

私はつまるところ、ジュリーのそんなこだわりのなさが好きだった。
スターでありながら、一緒に手をとってオロオロしてくれそうな…
だけど底には、秩序を重んじる芯の強さも併せ持つような。

彼は「僕は無口なんだ」と言い、それは「はあ」と言っている
間に人々はその10倍を語り、「そうですか」と言ってもまた語り
してくれたからだということらしい。
以前イチローと松井の対談というのを見たとき、
松井があまり反応しないので、イチローは一生懸命
話題をふって、それを自分で答えて、という感じで話していたが、
あんな感じなのだろう。
だけどそういう松井のような「泰然自若」というのと
ジュリーのはまたちょっと違う。

むしろ、物事を知れば知るほど、「はあ」としか言いようが
なくなるよなーと思うのだ。

色んな立場を知れば、「気の毒だ」とも思うだろう。
だけど自分にはどうすることもできないのなら、
個人の生になおさら真摯に取り組もうとするだろう。
それが彼のハングリー精神ではないか。

彼の無口は、上の世代から受け継いだ価値観と
外から入ってきた自由精神とのハザマにありながら、しかし
しっかりと自分の足で立とうとする者ゆえの沈黙だ。

ジュリーと同世代の男たちは、彼の化粧や長髪を見て、
「ナヨナヨした女みたいな奴だ」と
切り捨てたくなる自分もあっただろう。
ビートルズ世代とは言え、それでも多くは
ロックなどに縁のない人々だ。

だけど、その「何でも受け入れてみよう」精神と、いたずらっ子の
ような好奇心で同世代のジュリーを見れば、40年にわたる彼の
芸能活動の根底に、自分と同じ「男」を見直したに違いない。

それは盲従ではなく、「従っておけば大丈夫」という
守りや刹那ではなく、もっと「くどい」抵抗と粘りである。
(うっとうしがられそうだ…)

彼の女装は、けっして抵抗がないのでなく、
「こだわりのなさ」ゆえだ。
どんな立場の人間も認めたいとする平和への意志なのだ。
そこには葛藤があり、自分を見つめなおす意識があり、
そのうえに「男」を選びなおす作業がある。
最終的に「みんなで渡ればこわくない」になったとしても。

page top
ミック・ジャガーは中年過ぎてもスレンダーな体型を維持して
来たし、それを沢田研二は「ロッカーの鏡」と仰いでいたような
ところがあったが、実情を知ればむやみにうらやましがることも
なかった。なぜなら、

ミックがいつまでも暑苦しくならないのは、
これはミック本人の「企業秘密だ」という言葉に象徴される
努力の結晶以外にも、彼の育ってきた、食べるものもない戦時下
という時代背景がもっとも大きいと、彼自身が語っていた。
彼らはたとえ細くても底力があるのだ。

あとは、ミックの父親の映像を見た人ならわかるだろう。
つまり、彼らの体型はそっくりだ。
いわゆる痩せ型ってやつ?(マンマや)

だからジュリーもクヨクヨしている暇に、いつもの晩酌の
おつまみを少し減らせばよかったことかもしれない。
彼はあれで、充分スタイルのいいおじさんなのだから。
(スターでなければ)

ジュリーはある時は「僕決めました。おいしいものを少し食べる、
その方法が一番いい」などとラジオで語り(でも誰だって
そっちの方がいいんじゃないだろうか。ジュリーのように高価な
ものが少し食べられたら幸せだろう)、ある時は「よし
ゴルフはしゃくだからテニスをしよう」などと、
それはさまざまな決意表明をしていたようだが、

その舞台裏では食べたものを口に指を突っ込んで吐き出したりと
壮絶な現実もあったようだ。
またある時は、カニの身をほじくり出すことのみに専念した。
同じ宴会に出ていた人がひとしきりしゃべって飲んで、
しばらくして彼を見ると、まだほじくり返していたという。
それはそれは丁寧にほじくっていたそうだが、
食いしん坊の自分を忘れるほどに「ワザ」に命をかけるのも、
ダイエット法のひとつとしてリストに加えていたのかもしれない。

それでもそんな、あらゆる努力のあとを微塵も見せない
「涼しい顔」は、彼最大の魅力と言われても来た。
彼はまた人を「蹴落とす」ような真似はいっさいすることなく
しかし芸能界でとことん生き抜いてきた人物だ。

そんな彼に「貪欲」という文字がふさわしくないのは
食欲を忘れるほどワザに夢中になる、ということも
ひとつだが、
彼にも幼少時の時代背景という賜物があったからではないか。

それゆえに培われたハングリー精神がベースにあったから
こそ、彼の「無欲」はオーラを放って輝いたのかもしれない。
生まれたときから物にあふれた、それ以降に生まれた者が
それを身につけようったって、そう簡単にはいかないだろう。

近頃の若者は覇気がないと言われるが、学校ではなにも考えずに
右向け右を要求され、現実感を失ったまま、一方ではラクに株で
儲けている大人の価値観に影響され、
一方では汗水たらしても報われない大人を見という、
情報過多の渦の中で、頑張っても仕方ないという
頭の良さばかりが育ってきたとも言える。
夢を失ってしまえば、いい意味の貪欲さは育たない。

もちろん若者だって色々だが、ジュリーはそんな彼らに
堕落した貪欲ではない、本物のハングリー精神を伝えられる、
最後の世代のスターだったのではないだろうか。

page top
何だか得体の知れないもの、ほど怖いものはない。
小さい頃、祖母によく「子取りに取られるで」と脅かされた。
それは人さらいのことであり、今で言う「誘拐犯」だが、
「誘拐」という何の含みもない言葉より、「コトリ」という
言葉の響きのほうが、ずっと恐ろしかったのを覚えている。

「サーカス」も結局はその延長にあり、子取りに取られた子供は、
そのあとサーカス団に売られるというものだ。

沢田研二は『我が名はジュリー』のなかで、「サーカスに子取り…」
と言われたと、同じことを語っていた。

世代は違うが、同じことを言われていたと
ちょっと嬉しかったが、
彼がそこで言う「紙芝居は怖かった」というのは、
私の世代にはもう廃れていたのでよくわからない。

しかし替わりにたとえば「恐怖新聞」などの、
「これを読むと、自分も寿命が縮んでいくのかな」といった、
心の隙間からすっと入り込まれるような漫画などがあり、
怖さの種類としては似ているのかな、と思う。

ジュリーは「街頭テレビ」の世代だが、そういう老若男女の
娯楽ではない、暗い妖しさが紙芝居にはあったのだろう。
大人たちは「あやしの森」に子供を行かせることを嫌った。
そこには蛇女などのおどろおどろしい絵があり、
標準語を話す紙芝居屋がくばるお菓子を大人は
「不潔だからもらうな」と言っていたという背景があった。

しかし「行っちゃいけない」と言われると行きたくなるものだし、
「悪い言葉を使っちゃいけない」と言われると使いたくなるものだ。
そこに何かワクワクするものがあるのかと、子供たちは怖いながらも
こぞってハーメルンの笛ふきについて行ってしまう。
そこで大人の制限が過ぎると、フタをした好奇心があとから
溢れて、かえって収拾がつかなくなることもある。

沢田研二の小さい頃はまだ「夜」は夜らしく暗い、そんな時代
だったから、その「闇」のイメージで怖いものも多かっただろうし、
紙芝居や本などで想像力をきたえることができた。

彼はその中でも特に「怖がり」だったらしく、
戦争映画も怖くてすぐ出てきてしまうは、
キスシーンも見ていられないは、という臆病さだった。

そんな彼がどこかで「美しき天然」は自分の心の歌だと語っていた。
彼はその歌詞に衝撃を受けたそうだが、
私はその曲を注意して聞くようになった。
それはサーカスの、特にピエロが出てくるときに背後で流れる、
そこはかとない哀愁が漂う曲だった。
日本人好みに短音階を用いて作った、初めてのワルツだという。

それからというもの、私はジュリーとこの曲を重ね合わせて
見るようになってしまった。
「サーカスに売られた子はどこに行ってしまうのかな」と
思っていたが、スター沢田研二こそが、それだったのかもしれない。

page top
ジュリーら団塊世代が、大騒ぎをして挑んできた
「レコ大2年連続宣言」に代表されるような数々の記録は
その後の若手にまさに「やすやすと」塗り替えられていく。

そうした事実だけを見れば「ちょっと俺たちバカみたい」
かもしれないが、若手には彼らのような思い入れがないかわりに
もっと大切なものを見失っているかもしれない。

目に見える時代の移り変わりのなかに、目には見えないが
変わらぬ人間の営み、永遠性がある。
単に「でかいことをしてやる」ではないそれらの理念を、
ジュリーは言葉でなく彼の芸で示そうとする。

たとえばあの「カサブランカ・ダンディー」で
ウイスキーの携帯ボトルを宙に上げたり、
「ダーリング」で帽子を両手でつきあげて、
そのまま脳天に落とす、みたいなサーカスわざの
思い切り良さにはどれほどの勇気が示されているだろう。
それは今見ても「新しい」ではないか。

これがあるから、見ている私たちはワクワクするのだ。
そして「ダーリング」の帽子は、何度も頭から滑り落ちた。
帽子やボトルを空に飛ばして受け取ることについては
元野球部というのは関係あるのかどうか、自信満々で
放り投げていたが、それを受け損ねるなんてことも
中にはあっただろう。

彼の冒険心は、まさしくこういうところで表現される。
失敗することが充分想定できる、大げさに言えば
いや大げさじゃなく生きるか死ぬかのライブ感覚。

それでもそんなミスは、彼のエネルギッシュでダイナミックな
動きにまぎれていたし、それ以前に何よりも実は、
「失敗したっていいんだ」と、彼の行動は伝えていた。

ジュリーはこうした行動で、言葉以上の何かを伝えてきた。
彼自身は人一倍悩みながらも、行動は潔く思い切りよく
見えるのは、そこに彼の意識を超えた働きの存在があるからか。

それはこういう、心配性なジュリーの「炎の中の綱渡り」で
あったり、かっこ悪さを含めた「俺のすべてを見せてやる」、
だから「お前のすべてを見たい」と迫ってくるロック魂かもしれない。
page top
昨日触れた「きめてやる今夜」の初披露時、ジュリーが歌詞をトチり、
思わぬ失態を演じた裏には、どんな事情があったのか
さらにネチネチ推測してみるなら、こういうことだ。

彼は「背中まで45分」で、一種の冒険をしたと前に述べた。
それは「勝手にしやがれ」から続く、出しても出してもヒットの
路線を省みて「こんなことでいいのか」と、そのルーチンワーク
に疑問を持ち、「本当のスーパースターを目指す」とコンサートで
宣言しながら「聴かせる歌」を歌おうとした。

それはグループサウンズ時代からの彼の悲願だったと言ってもいい。
彼は何度「歌を聴いてくれ」と、ただ騒ぐだけの
ファンにステージから訴えてきただろう。
彼らのおかげで自分はあると知りながらも、彼らは何を見ているのか
聴いているのか、自分で分かっているのか?といった、
納得いかないじれったさは背中合わせに張り付いていただろう。

それがたとえば「レコード大賞、初の2年連続を狙います!」と
いう、団塊世代らしい前人未踏に挑戦した際、
そこに「LOVE抱きしめたい」なんて地味な曲を持ってきてみる、
という主張にあらわれていた。

ファンなら手に汗握る決戦当日、ジュリーは「抱きしめたい」を
これまで見たこともないほど、見事に歌いきった。
「完璧だ」としか言いようがなかった。

そして「レコード大賞は…デケデケジャーン! ピンク・レディー!」
とやられたときの、彼の「アチャー」という渋い悔しそうな顔は
「本気だったんだな」と思わせるに充分だった。

この出来事は、いくらうまく歌おうが、何しようが、
大賞を選ぶのに、なーんの関係もありません、という
冷たい事実を彼に突きつけているようだった。

これらの賞は自分で掴み取るものではなく、「あげたからな、
覚えとけよ。そしてあとはよろしく」みたいな、
政治的なものがあることを彼は思い知らされる。

そんな流れで何曲か、TOKIOでひとつのピークをみた
ハデハデ路線を経て、ついに出した「背中まで45分」は
思ったとおりコケ、「いいんだ、ほんとのスーパースターに
なるんだもん」と我に言い聞かせてみるものの、
生来の心配性がその流れにも棹差すという中で
「戻りたいけど戻れないー」というちょっぴりの心の右往左往が、
あの「夜ヒット」のどん底ジュリーだったのではないだろうか。

つまりこれでいいと知りながら、「やっぱり売れてなんぼだ、
この歌でなんとかせねば」のような頑張り虫は、言い聞かせても
言い聞かせても、「もぐら」のように顔を出し、必要以上に
力が入ってしまったという。

彼は常に「これでいいのだろうか」と現状を振り返り、
安定に疑問を持ち冒険をしようとする、ロックンローラーだ。
だから葛藤と共にあり、それは切り離そうたって切り離せないのだ。

page top
1984年、「夜のヒットスタジオ」で新曲を披露する
ジュリーは緊張していた。
ピリピリとした空気がスタジオを包んでいた。
ああそれなのに…

この番組では、出演者が登場すると、次の歌手のヒット曲を
メドレーする形で紹介がすすめられていく。「誰々さんのうた、
ちゃんと歌えなかったらどうしようと思いました」という歌手が
いたり、1曲しか歌のないものは、マンマその歌で紹介されたりと、
のっけからドラマに彩られる。

司会の芳村真理の華やかな衣装も番組に彩りを添える。
ところがもう一人の司会の井上順はそんなとき、
「真理さーん、今日も素敵ですね。よくそんなのが着られますね」
「またどうしたんですか、そのかっこは!」という感じで
けっして素直にほめたことはないのだった。

それでもその言葉を「やーね!」などと受けながらも、
毎回、「どう?私の今日の衣装」みたいに、
得意そうな顔で登場する芳村真理は、ある意味尊敬に値した。

今思うと「ベストテン」の久米と黒柳の関係性にも似ていて、
ひとつのテレビ界のお約束だったのか。

そんなドタバタをよそに、ジュリーの緊張感はますます高まって
いるように見えた。今日は「きめてやる今夜」を初めて披露するのだ。
手抜かりは許されない。

人間、緊張感も大切だが、力を抜いて身体を柔らかくして
することのほうが、ずっとうまくいく気がする。

ましてや沢田の出番は、最後のオオトリ。
それまで緊張を維持していたら、ガチガチを通り越して
グアングアンになっていそうだ。

ジュリーってよく歌詞を忘れる人だな、ということは気づいていた。
ごまかし方にたくさんのパターンができるほど、それは
少ない回数ではなかった。
よりによってこんな日に…

いやあれは、緊張感という魔物が歌詞を忘れさせたのだ。
としか思えないほどジュリーはかたくなっていた。
歌の最中、ふっと歌詞を忘れ、ごまかし方も見つからぬまま
その場に立ち尽くすしかなかったとき、彼の胸には何か
去来したのだろうか。

いやまさしく「まっしろ」だったのだろう。
シリアスな顔のまま、立ち尽くしていた時間は永遠のよう
だっただろう。私もそうだった。

後ろには、もうラストだからなのだろう、出番を終えた
出演歌手が、取り巻くように立っている。
彼らはもう緊張もほぐれ、「沢田さんだ」「沢田さんの
ステージ、しっかり見てやろう」という尊敬の思いと
くつろぎのなか、そんなときこそ発揮される隅々までの
観察力で彼を見ている。

沢田が立ち尽くしていたときの彼らは、同じように深刻な顔で
固まっていた。
「うあぁ」とじりじりした居たたまれない思いだったかもしれない。
だけどテレビを見ているものには、ちょうど「みんなのゴルフ」の
ギャラリーのように、噴出しに「…」をつけて立っているように
しか思えなかった。
「沢田さん沢田さん」と言ってもしょせんライバルだ。
その時の空気は今も忘れられない。
「凍りつく」というのはこのことかと学習するほどだった。
ああ歌詞が出てこない……



page top
昨日の「ジュリーがライバル」の記事に関連した
動画を送ってくださった方がいたが、
そこでもジュリーは歌の最中に顔を映され、
用意したかのようなおどけた顔をしていたので、
なんだか可哀想になった。

ジュリーというのは、そういう時にとても心穏やかでいられない
人なのだと思う。「どーしよーどーしよー」と胸が高鳴り、
そんな自分がいやで、あとから「ねー僕って暗いでしょー
陰気でしょー」と、つい卑下してしまう。
ま、日本人の典型という見方もできるかな。

そんなジュリーにとって「TOKIO」はやり過ぎだったかもしれない。
「俺たちひょうきん族」を知ってからは、ジュリーのほうが
たけちゃんマンを真似しているように見えてしまうという、
「TOKIO」のコスチュームを見たとき、「ジュリー…ついに
そこまでやっちまったか」と思ったものだ。

「仕事だ」と割り切っているからできるものの
素の彼は、修学旅行でお風呂に入るのが恥ずかしいあまり、
「お腹が痛い」と嘘をついたという、人一倍デリケートというか
自意識過剰と言うか…みたいな人であるという。
それが「TOKIO」だなんて…私にはわからないが、
死ねと言っているようなものなのかしら。

彼のそんな人間味は、TOKIOのサイボーグ化を防いでいた。
あの小林幸子、美川憲一の紅白「衣装」合戦のひな型であるかの
ような大仕掛けのパラシュート、電飾をたくさんつけた衣装も
ジュリーの場合、そこにあまり化粧っけのない顔や、
ふんわりした長髪、たどたどしいスイッチの入れ方、
そして彼の声といった「人間味」を持ってくる
ことで、なにかをコントロールしていたのだ。

そんなジュリーはこれを歌っていた頃どんな心境だったのだろう。
ひとつ推測すると、「勝手にしやがれ」以降、数々の派手な
ヒットを飛ばしてきた彼にとって、「ロンリーウルフ」は
予測よりもヒットしなかったのではないだろうか。

あの頃の勢いなら、このような地味な曲をここに入れても
まだ行けるか?とふんだものの、パッとしなかったのが、
「今年はもうあかんから、マッチに一等賞をゆずる」ような
弱気な発言に表されていたのかもしれない。

そして次に出した「TOKIO」を、恥という恥をかなぐり捨てて
歌った挙句、彼は胃潰瘍で倒れ入院している。
ベッドで彼は「俺なんか一人ぐらい居なくたっていいんだ」と
いじけていたらしい。

日本の働くおとーさんジュリーにとって、「TOKIO」の
「安らぎ知らない遊園地」は、身も心も蝕むほどに、
ハードだったのではないだろうか。

それでもその経験は、「居なくたっていいのは皆おなじ」と
彼を再び原点に戻したのかもしれない。
page top
かつて「ジュリーがライバル」という、わけわからないが、
つい口づさんでしまう歌があった。
ジュリーがライバル、打ち落とせライバル、と八重歯を見せた
可愛いスマイルでバンババンバーンと怖いことをしたあと、
「あなたの勝ちねー」とお色気を出され、(勝ったんかい)
いきなりライララライラと、
結論をうやむやにしてしまう恐るべし歌、
それを番組で共演中のジュリー本人は、
どんな気持ちで聴いていたのか。

山口百恵の「プレイバックパート2」のように、「みーどりの中を」
で始まる1番だけが主に歌われるようなシチュエーションであれば
まだ心安らかだろうが、それもフェイントで、いきなり
「勝手にしやーがれ。出て行くんダロ」と
百恵ちゃんの巻き舌のきいた2番に切り替わったら、
とたんに落ち着かなくなるのではないか、と想像する。

その、強がりばかり言うけど本当は寂しがりやな「あなた」は
自分のような気がして、「夜のヒットスタジオ」のひな壇に
座るのも腰が浮いてしまうのではないだろうか。

それでも「自意識過剰だよ」と言われればさすがのジュリーも
お得意の肩をすくめたポーズをするっきゃないが、
「ジュリーがライバル」と、ここまではっきり名指しされれば
「ハイ私です」と頭を掻くしかない。

それはあの、中森明菜「ミック・ジャガーに微笑みを」と
肩を並べる本人、逃げも隠れもできませんソングの代表と言えよう。
だが、いかんせんミック・ジャガーは海の向こうの人、
またこれは「アルバムの中の一曲」というオブラートに
くるまれた、その意味少しのミステリアス・テイストを持った歌。

それにくらべて「ジュリーがライバル」のあからさまさは
テレビを見るこっちが居たたまれないほどだった。
そしてついに、恐れていたことが…

一度、石野真子が歌っている後ろで座っているジュリーが
いきなりアップになったことがあったのだ。
その時彼は、おどけた顔をしたのではなかったか。
それはたしか志村けんの顔真似だったと思う。

(それはアイーンの原型であり、おそらく真のオリジナルは
60年代ビートルズのジョン・レノンであったはず)

もっとも、そうでもしなければ素面では聴いてられない
あの頃のアイドル・ソングって一体なんだったのだろう。
ライララライラ、ライラララーイ…


page top
沢田研二「勝手にしやがれ」でピアノを弾いていたのは
羽田健太郎だったのか。
どこまでも澄みきった音色が記憶に残っている。

ジュリーはこの曲で、レコード大賞ほか各賞を総なめにした。
いわゆるハデハデ路線の幕開けが、高らかなファンファーレ
ならぬピアノのイントロダクションとともに始まったわけだ。

歌のフリはすべてジュリーが考えているというが、
「勝手にしやがれ」では、のっけから勢いよく
滑り込みセーフのようなポーズを2回もするなんて
よく考えたものだと、ただただ感心するばかりだ。
(滑りすぎて、すんでのところで転ぶ一歩手前で
ブレーキをかけるなど、けっこう綱渡り的フリだった)

ミック・ジャガーもよく被っていたシルクハットを
あんなふうにナナメに深く顔を隠すようにかぶり、
あげくにそれを客席に円盤投げするなんて、
他の誰が考え付くだろう。
(あとで回収していたらしいが)

私は当時、2番の歌詞の「朝までふざけよう」とする場所は、
「ワンマンショーでー」ではなく「あのマンションでー」だと
思っていた。

赤い靴はいてた女の子が、ひい爺さんに連れられて行っちゃった
のかと思うような、まだワンマンショーという言葉や、
そこに含まれる大人の事情など、まるっきり飲み込めてない
子供だった。(今でも飲み込めてないが)

だけどその子供の目にも、羽田健太郎をバックに
ステージ上で滑り込みセーフを繰り返すジュリーの、
「やったるでー」という気合だけは、
激しくも透明なピアノの音とセットでこびりついているのだ。

page top
クラブで歌っていたデビュー前のミック・ジャガーを見初めた
人物は「あれはセックスだ!」と思ったという。
予測どおり人々はその動物的な動きに魅了された。
彼らの欲求不満の解消を提供していたのだとも言える。

彼は当初はブルースをしたくて、バンドを組んだのだが、
そのうち需要ということを飲み込み始め、ロックバンドに
甘んじるようになった。
ブライアン・ジョーンズは飲み込めず、そのせいか
色んな楽器をいじって葛藤したあげく駄々っ子と化した。

私という素人が先入観なく見た限りでは、
たしかに若き日のミックとキースが
「腰掛けた状態で」歌っている「PRODIGAL SON」より
日本の憂歌団のうたうブルースのほうがドーンとお腹に来るし、
マディ・ウォーターズとストーンズの共演の映像など、
ミックがキムタクに見えて仕方ないほどだった。
なんというか、マディ・ウォーターズの手の平でふっと
飛ばされそうな羽のように軽い若造と言うか。(失礼!)

だから(かどうかは知らないが)、彼らは彼らなりのやり方で
腰をくねくねさせてセックスを強調し、ロックを奏でながら、
生き方や音楽にブルースをにじませる方法を
取っていくしかなかったのだと見える。

それでも結果的に、目に見えるブルースのみを求めた
ブライアンより、いや彼の分まで、コテコテに
充実したブルース人生を送っているのだろう。
ロックのルーツはブルースでもある。

もともとイギリスのバンドはビジュアル重視と思うが、
キース・リチャーズは「ストーンズに映像は必要ない」
と反対していたという。

キースとミックのこのような考え方の違いは、その後すわ解散と
いうまでの仲たがいに発展したが、それだけミックは、
この点に関して強硬に意見を譲らなかったようだ。
ロックにビジュアルは断じて切り離せない、という信念だ。

元祖ビジュアル系のストーンズが本家なら沢田研二は分家だろうか。
彼がウケたのはなんと言っても、シアトリカルな魅力につきる。
彼は意識しないまでも、フランスの映画に出たり、
ストーンズのファッションや曲をアレンジしたりと
一貫してヨーロッパ志向だった。

それは彼をとりまく作り手たちの意向が反映されているだろうが
ジュリー自身のかもし出す雰囲気に充分見て取れる。
ビジュアルで目に見える「リアル」を重視する、
その見えない空気に、ある信念がかもしだされることもある。
それは「まやかし」を拒否し、真の信仰を守る態度かもしれない。

ロックは第二次大戦後のアメリカで草の根的に発祥したものだという。
それは一言で言えば、大人たちに押し付けられた道徳への反抗だ。
たとえば当時の音楽業界に反映された、生々しさの排除からなる
「放送禁止」などの措置の一方、
黒人などへの人種差別は根強く、省みられることはなかった。
そんなまやかしに対して、若者が生命力を煮え立たせ、
自然発生した音楽だ。
だからたとえば日本の学生運動などにはBGMにロックがふさわしい。
というか、その行為そのものがロックという言い方ができる。

GS出身の歌い手の多くがアメリカよりイギリス志向になって行くのも
そんな背景があるとは言えないだろうか。
page top
ところで「給食費を払わない親」ってどこにいるんだろう。
少なくとも私の周りにはいない。いや密かにいるのか?
それでも彼らの大半は、信念があって払わないのではなく、
騒がれているから「払わなくていいんだ!」みたいになった
んだと思うけど。

報道が過熱すると、どこかにいるネッシーのように
(古過ぎるか?)「どうしようもない親」というひとつの
概念が、途方もなく巨大化されてしまい、少しでもモラルに
欠けたことをしようものなら「やーい、ネッシー」と言われそうで
誰の中にもネッシーはいるんだよという基本的なことがおざなりに
されそうな気がする。

私が以前ストーンズファンのサイトに投稿したとき、
初め「ストーンズファンでロックファン?なんか怖そう」
と思ったがために、会ってもないのにイメージがだんだん
ふくらんで、ぼさぼさの長髪にへび革のブーツをはいて
目が鋭くてほっぺたに傷のある(どんなんだ?)
謎の男へと成長した。
そのまま妄想がいびつになれば、そのうちその男は
手に包丁を持つかもしれない。そして、あれあれ
いつのまにか怪獣になっちゃった!なんて
偏見にもほどがあるってものだ。

実際思い切って投稿してみると、「どう思いますか?」のような質問
に「僕はこう思います」などと真摯に答えてくれる普通の人だったが。当たり前だ。

イメージという実体のないものは、人を作る。
ビートルズとストーンズだって、もともとチョイ悪の若者という
意味で両者変わりはなかった。
それを、一方は品行方正、一方は不良というイメージで
売り出されたために、死ぬまでその役割をひきずっているのだ。
最初は事務所の方針に従って、そのうち人々の期待に応えたくなる。
人には途方もないサービス精神という、慈愛心があるんじゃない
でしょーか。

人々の期待というのは、たとえばミックの「俺たちが病院や施設を
慰問した時は何の話題にもならなかったな」という言葉に象徴される。
(それにしてもストーンズはどんな顔で施設を廻っていたのだろう)

ジョン・レノンは「愛こそすべて!平和平和!」という正攻法で、
ミックは、「愛なんて平和なんてくそくらえ」という
反逆を前面に出して、ともに平和をメッセージしてきた。
ミックがジョン以上に純粋に「愛こそすべて!」と
思っていてもなんら不思議じゃない。

「危険なことは自分のイメージに必要以上に投資すること」
と彼は言ったが、それでも実際の彼とイメージの彼は、
ほんの少ししか違わないかもしれない。
なぜなら本当に興味を持ってその人を見れば
けっこういいところを突くものだろうから。
「火のないところに煙は立たない」という言い方もある。

ミックもたとえば「女性好き」には言い訳できないはずだ。
でも女性と見れば獲って食うわけじゃないだろう。
彼にも選ぶ権利はある。

(彼はそのイメージを逆手に取り、コンサートでスクリーンに
女性が映ると「カワイイネー。電話番号教えてくれるー?」と
日本語でやってくれる。
あれはお世辞にしても嬉しいだろう)

だけど悪いイメージが膨らんで怪獣にまで行くのは、
その人の心の闇であり弱さじゃないだろうか。
そしてみんな、紙一重の線上にいるのだ。

page top
沢田研二の歌で「電話がうるさい」というフレーズの入った
歌があったと思ったが、あれはどのアルバムだったろうか。
それともステージで即興で歌ったのだったろうか…と、
考えあぐねるほど、それは大雑把な歌だった。

憂歌団の「パチンコ、パチンコーパチンコに行くのさー、
今日もパチンコー明日もパチンコー」と同じタイプの、
「言いたいことはそれだけかい!」みたいな、
でもはりきってるのだけはよく伝わってくる、みたいな、

それと同じで、電話がイヤなんだな、ということだけは
ヨーク伝わります、という歌だ。
電話がうるさいー電話がうるさいー電話の音がやかましいー。
ハイハイ。

彼はよほど、「かかってくる電話」が嫌いなのだろう。
私もそうだからよくわかる。
電話はかけるものです、と極言を吐いていたのを覚えているが
「そうそう!」と共感したものだ。
私のは、単なるわがままなんだろうか。

いやジュリーみたいな芸能人じゃなくても、
こっちの都合おかまいなしに好き勝手な時間に「リーン!」と
なる電話は神経を苛立たせるのだから、
彼はいかばかりだったろうと、心中察して余りあるのでござる。

その有無を言わさぬ、こっちの領域への乱入感がいやなのだろうか。
逆にいつの間にか音もなくこっちの領域に侵入していて、
ある日突然、チンと居座っている、みたいな状況もダメだ。
どこか心の柔らかい敏感なところを、キューっとつねられたようで、
いつもは眠っている「野生」の叫びがふつふつと
煮えたぎり、虫の居所によっては「怒り」となって証明される。
「いつ入っていいって言ったー!」

だからこの歌も自然と言葉少なになったのだろう、という気持ちは
立場を超えて私にもよくわかるのだ。
そうキーワードは、ヤ・セ・イ。
理屈じゃなく、ヤなもんはヤという表現だ。

さっこん子供の小学校のPTAの名簿は、何の警戒心からか
電話番号や住所欄が虫食いのようになっているが、
そういうのは、余すところなく載せるべきだと思うのだが。
だって名簿は名簿だろう。

だけど最後の「電話はもう出んわ」という、ジュリーお得意の
力の抜けるオヤジギャグには、「そのとおり!」と、
ファンを超えた同志として、深く深くうなずけてしまうのだった。
page top
沢田研二「晴れのちBLUE BOY」の「言いたいことは椰子の実
のなか」じゃないけれど、彼らの血肉をこめたアートは今、
まとめて「ワゴンの山のなか」だ。

安い値段をつけられ、「懐かしのGSメロディー」と表され
みんなみんなスーパーのワゴンの中。
昔こっそり聴いた、親の持ってた「映画名曲集」も
こうして手に入れると宝物でもなんでもなくなりそうだ。

だけどそれを誰が責められるだろう。
なるべく安く手に入れたい、誰しもそうだ。
音質もそんなに変わらないとなれば思わず手を伸ばすだろう。

だけど自分の得になれば何でもいいわけではない。
それぞれに、自分はこれはイヤだという「こだわり」はあるはずだ。
韓国語の注釈がついた、あやしいストーンズのDVDをワゴンセール
で買うことには抵抗はないけれど、ストーンズの曲が
スーパーのBGMにじゃんじゃん流されているのは
私は一抹の寂しさを覚えるとか、僕はそれは許せるけど、
あれはダメだとか。

それがインストゥルメンタルなら許せるけど、そのまま使って
しまっていいのか!と憤る人もいるかもしれない。
それは育った環境から、今いる立場からすべて関わってくる、
法を超えた「こだわり」だ。
法の言うままにのみ生きていたら自分がなくなる。
そんな「こだわり」が違う相手に対して
「あーそんな考え方していいのーー」と
「無言の圧力」を加えるなら、そっちのほうがおかしい。

「自由はいいものです!」と押し付けることになれば、
ワガママだか何だかわからなくなってしまうのと同じ。
人間にはひたすらラクをしたい心と同様に
規則にしばられたい心も強烈にあるはずだ。
だからこそ不信感や、こだわり、憤りが出てくるのだ。

私はこの間スーパーのワゴンセールの、「懐かしのメロディー」
の棚に思わず足を止めた。イルカ全曲集というのを
買ってもいいかな?と思ったが、よく見ると「サラダの国から来た娘」
が2002年録音バージョンとなっている。
ここでひっかかり、行ったりきたりして思案してしまった。

でも、車で流しても、その曲が来たらスキップするだけのことが
こうなるとめんどくさいな、と思い、「なんでわざわざ2002年に
録音しなおすんだ」と、憤りながらも涙を飲んだのだ。

1500円でもそうなのだ。
いや貧乏だからということじゃなく。
2002年か、オリジナル録音か、が死活問題なのだ。
そういうこともあるんじゃないだろうか。

同じ1500円でも、そこでは4曲入りのものが
違うところでは12曲入りだったりすると、
「セブンイレブン、開いててよかったー」的
「あの時やめておいてよかったー」という
安堵感に満ちた幸せに包まれたりする。

こんな小さい世界に一喜一憂することも含めて
「生活」を知れば、地に足の着いたバランス感覚が身につく。
そのものが適正価格がどうかということや、
何が自分にとって必要なものか、そうでないのかもわかるだろう。




copyright © あんな人・こんな人ナナメ読み all rights reserved.
Powered by FC2ブログ
custamize&material by
http://flaw.blog80.fc2.com


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。