サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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デビュー後イギリスで成功したストーンズは、最も重要な
市場であるアメリカへ乗り出したが、それは偏見との闘い
でもあった。「ハリウッド・パレス」という番組では司会の
ディーン・マーティンから、とても失礼な紹介を受けている。

「さーて」(といったところで雰囲気を察した観客は大笑い。
これはイジメを生むムードそのものだ)
「英国でたいそうアルバムを売り上げたらしい。
何を歌ってるかさっぱりだが、とにかく紹介しよう」

こんな紹介の仕方があるだろうか。
歌が終わると「ローリング・ストーンズ。そんなにいいかね?」
と目玉をギョロっと上にあげてみせる。
観客は終始大笑いだ。
何がそんなにおかしいのだろうか?

ストーンズはさすがに怒って抗議したが相手にされなかった。
しかし人気の沸騰した時期の2度目の渡米では、
ディーンは何事もなかったように態度を変えてきたらしい。

アメリカというところは、(もっともアメリカといっても色々だが)
このようなことには平気で笑っているのにかかわらず、
言葉や態度に表される、うわべの行儀には妙にうるさく、
「サティスファクション」や「スター・スター」他で、
彼らは何度、歌詞の変更を迫られたり、いきなり映像を
カットされただろう。

彼らはイギリスに戻れば、生き生きと本来の「悪」のイメージを
ふんだんに取り入れたパフォーマンスで観客を魅了していた。
特にミックは歌番組でも、ふてくされた顔で歌ってみたり、
マッドネスのビデオか?と見まがうような動きをしていて、
それらは今でも通用する、まったく古臭さの感じられないものだ。

しかしアメリカの、「エド・サリバン・ショー」などには
「商品化」されたような、お行儀のいい、
遊びの部分のまるでない、おぼこいストーンズとして
初登場している。

それでも何がいけなかったのか、司会のエド・サリバンは
泡を食ったように「もう彼らを2度と出演させません」と
誓ったらしいが、やはり2度目になると手の平を返したように
彼らを迎え入れた。

そして何度目かの出演時、彼らは「夜をぶっとばせ」の歌詞を
変更するように命じられる。
「一緒に夜を過ごそう」を「一緒に時を過ごそう」に
変えろというものだ。

ミックは「この歌詞を誰か気に留めるとは思いもしないよ」
と言ったが、結局は番組の意向に従った。
まあそこはアメリカなのだし、誰も気に留めないようなことに
反発するのもバカみたいだろう。
いくら正論であろうと、牙をむき出して反発することが
逆効果を生むこともある。

ミックは、それでも葛藤があったのだろう、本番では
「時を過ごそう」のところでグルッと目玉を上にあげて見せた。
その目玉は呆れているようでもあり、精一杯の反抗とも
とれた。

それらのパフォーマンス、またロックの音に敏感に反応したのが
若者たちで、それはまるで圧縮されていた魂が逃げ場を得たように、
彼らを一貫して支持してきた。

キース・リチャーズは、大人との闘いのたびに
「今に見ていろ」と静かに決意を新たにし、
それをバネに成長してきたと語る。
ミックはどうだろうか。

特に内面を語ろうとはしない彼は、しかし40年たった今でも、
ある時は、ブッシュ大統領を批判したマイケル・ムーア監督の
「華氏911」を見終わったあと、誰よりも長いスタンディング
オベーションをして見せ、

また、あるときはアメリカでの授賞式で「授賞者席の大笑い」という
お決まりの絵を撮ろうとカメラが回ったとたん、
笑いをやめて不快そうなしらけた顔をして見せる。
(他のストーンズのメンバー、オマヌケにも大笑い。
カメラにも気づかず…。いったいどうやって笑わされて
いるのだろう)

セコイっちゃセコイ仕方だが、この執念、そして沈黙は
「俺は人に規範を押し付けることはしない」という信念から
成っているように思われる。
それはひたすら彼に、一見未熟な、
しかし配慮ある大人の行動をとらせる。

まるで「ロックンロールは永遠に不滅です!」
と語っているかのようだ。

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「俺がディズニー映画に出るなんてゾッとするぜ」と
出演を断っていたキース・リチャーズが、
現在公開中の「パイレーツ・オブ・カリビアン3」に登場。

もともとジョニー・デップはキースの大ファンで
海賊も最初から彼をモチーフとしていたのだという。

そこでキースは、どんな演技を見せてくれるのか。
ここまでひっぱって悪いが、見ていない。
しかし、おそらくそれは「演技」というほどのものでは
ないだろうことが想像できる。
彼はどこに登場しても「居ながら」でオーケーで、
演技などできなくていいのである。
よく言えば演技を超えた存在感があるのだ。

ストーンズのメインであるミック・ジャガーは、
残念ながらそういうわけにはいかない。
演技ができなければ許してもらえないのだ。

というか、本人が自ら「許されない」
シチュエーションにしたいのだと思われる。
ファンは「いい音」だけでなく映像も欲しいはずだ、
そしてやるならちゃんとしなくちゃ…みたいな。

彼は俳優はだしの演技派として、映画やドラマにも
出演してきたが、置物のように鎮座ましましていたのは
ドラマ「ナイチンゲール」の中国の皇帝くらいか。

あとは細かい、実に細かい、重箱の隅をつつくような
表情のひとつひとつにまでこだわった演技を見せていた。
彼の荒削りなボーカルは見せかけで、ハーモニカの演奏に
見られるように実は「技巧派」なのではと思わせる要素が
こういうところにもある。
あれにはネチッコイ、たとえば舌のレロレロした動きが
要求されるだろうからな。

逆にキースのギターは、「実は技巧派ではない」と言われる
ところにも、鎮座まします要素がある。
チマチマしていない、スケールが大きいということで。
「昔かたぎの職人」という言い方もできる。
「べらんめえ、新しいワザなんか取り入れなくていいんだよ」。
悪く言えば殿堂に入っていて
現在進行形であることが伝わりにくい感じ。

そういえばかつてストーンズは、文字通り「ロックの殿堂入り」
をアメリカで授賞しているが、そのときミック・ジャガーは、
「ジャン・コクトーはこう言った。アメリカ人は不思議だ。
まず仰天する。次に博物館に入れたがる」
と感謝を述べていた。

(スピーチの途中で彼は「しまった。俺なんだか一般受けしない
難しい話をしてないか?」とうろたえた顔をしてしまったが、
そこをすかさずキースが「止まるな、どんどん行け!」とけしかけて
ミックは我に返っていた。やっぱりゴールデンコンビだ!)

さてミックは、その技巧派が泣くほどに、多くの映画には
出ようとしなかった。
あくまでメインはストーンズのツアーであり、
その合間をぬって、メンバー一人ひとりが独自の行動を
長年してきたのである。

ドラムのチャーリー・ワッツは玄人はだしのジャズ・マンでもあり、
ツアーのないときは、「ブルーノート」出演のために来日した
ほどだというが、いざ「召集!」がかかると、
それらの仕事はまさにほっぽり出して、ミックの下へ
いそいそと集まるのだ。

だからキースの映画出演も、何度か同じ話を断って
やっと実現したというのは本当だろう。

それにしても、人一倍働きながらも神話になれない
(ならない?)男ミック・ジャガーと、
オフは南の島でデローンと過ごし
時には椰子の実から落ちて頭を打ち、再起不能かと
メンバーやファンををハラハラさせる「粗忽者」ながらも
(いや、だからこそ、か?)神話になる男、
キース・リチャーズの差をもう一度考えさせられた。

助かったから良かったものの、死んでしまったら
「そういえば彼はフワフワした、
地上に舞い降りた天使のようだったね」
なんて言ったところでもう何も始まらない。

だからアーティストとしてのミックは、
さらにクリスチャンの彼は、
本当の神が迎えに来るまで、ゾッとするほど生々しい
「死と隣り合わせの生」を生身で表現しようとする。
しようとする、だけで状況次第でどうなるのか
それこそ神じゃないとわからないが。

「ローリングストーンズの最後はどうなるか
誰にもわからない」と言うのは、誰の生も
最後はどうなるかわからないというのと同じだ。

チマチマした技巧派であろうが何であろうが、
神話になれない男であろうがなかろうが、
しゃれにならない生を自分の足で、
ひたすらかっこ悪く生きていくことしかないと
彼は言っているかのようだ。
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昨日の政治家と歌手の死に驚かされ、あらためて人間の孤独を
思った。一世を風靡した坂井泉水の闘病は
ファンさえも知らず、彼女らしく死因も謎のベール
に包まれたまま「神話」になってしまった。

それでも、誰しもいつかは死ぬことが決まっているならば
それが自殺であろうと事故であろうと、
一人ひとりにそれぞれの「死因」は必要なのだし、
生きている私たちがそれをどう捉えるかが弔いという気がする。

ZARDで「最後まで走り抜けて」と生の応援ソングを
歌っていた彼女は、もしかすると病に負けて
走り抜けなくなったのかもしれないけれど、
彼女の歌に救われたたくさんの人々は、
生きているからこそ救われたのだ。
死んでしまったらどうにもならない。

しかし実際の世の中には、「耐えろ、生き抜け」と
口では言えるけどね…ということや、
人のことだから言えるけど…ということが
あふれているのだろう。

農水大臣も、彼は疑惑のオンパレードのように言われている
けれど、ひょっとすると汚れきった政治の世界で、ほんの少しの
純粋な信念があったからこそ、かえってそれが「悪」の形で
浮上したものなのかもしれない。本当に悪ければ浮上さえ
しなかったりするんじゃないだろうか。

政治家としてトップになりたいという思いと、
同じように初心を貫きたいという願いとが、
何の矛盾もなく両立してしまう人もいるけれど、
命をかけてそのジレンマ自体をを表現することだって
あるかもしれない。

安倍総理は彼の死体を目の前にして「慙愧に耐えない」と
言ったそうだけど、生々しいものを見て初めて人間らしさが
蘇ることもあるとせめて信じたい。

「ロックは死んだよ」とミック・ジャガーが語るとき
それはジレンマを生むロックという抵抗力の敗北宣言なのか、
ロックミュージックの流行すたりなのか、たいして
掴もうともしないままに、記者は「彼は遠い目をして
寂しそうに語った」などと、簡単にまとめてしまう。

そのようにムードだけで書かれることをミックは
たいへんに嫌うが、それは、その
「何が何でも体裁を整えようとする」こと自体が
ロックの精神と反しているからではないか。

そのように思えば、このような自殺を安易に「無責任」
と片付けることもどうなんだろう。
生に対しては無責任かもしれないけれど、
人間存在自体混沌としたものだから、
人間らしく苦しみ悩んで死んでいくのは
涼しい顔をした人よりその意味で立派だと思うけれど。

涼しい顔をした人が悩んでいないともこれまたわからないし
悩めばいいってものでもない。
ロックは抵抗力であると共に生命力でなければ
嘘だ。生命力に転換しないままで敗北するのは
あまりに悔しい。

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ありがとう、ジェニー。
だけど男は花園で眠れぬこともあるんだよ。
幸せに照れてることもあるんだよ…

簡単にとれば、男は安定した幸せが続くと冒険がしたくなる
ということだろう。
そんな男の気持ちは、わからぬでもない。
私という女性にも、男の要素はあるからだ。

お互い理解を求めて寄り添おうとすれば、
自分の中に、異性の要素を見るものだろう。
その時、憧れは共感に変わる。

わかり合えない相手でも、思いもよらない視点
を知ることは自分の成長にもなる。
要はどんな状況でも生き抜いてやろうと思うことだ。

女性がひたすらジェニーのように安定を求めるのには
子供を産み育てる身体に備わった本能的な理由も
あるのかもしれない。

だけどじゃあ子産み育てが終わったら、冒険がしたくなるかと
言えば、男性女性問わず人それぞれだろう。
男でもひたすら安定した生活、目に見える家、車
そのために生きているような人もいる。

もちろんそこには責任感がからんでいることもあるし、
そんな男性こそ家庭的な安らぎというものが
女性より大切になってくるかもしれないので、
一概にいい悪いとは言えないが、
お金を掴んだら最後、目に見える贅沢をすれば済む
と思うようなのは、品がない。
彼の心は本当にそれで満たされたのか。

しかし作詞の阿久悠は「男は誰でも哀しいサムライ」と
言い切っていて、本来の男はそうであるとしたら、
安定にこだわる男性というのは、
それだけ母親や妻といった女たちに飼い慣らされて
しまったのかとも考えられる。
野放図になっていいことはないが、もう少しロックな抵抗感
を覚えても良かったのではないかと見られるケースだ。

目に見える贅沢だけが本当の贅沢じゃない。
一見不運な事柄の中に往々にして幸運は含まれている
のと同じだ。
たとえば占いの悪い結果をいつまでもひきずっているのは
おかしいということ。
(心情はわかるし、カウンセリング的効果はあると思うけど)

リッチで快適な暮らしを知りつくした人、
たとえばミック・ジャガーは、
だからこそ、肉体労働の汗を心から味わいたくなり、
63にもなってキツイキツイ、ロック・バンドのツアーを
続けているのだ。
それが本当の贅沢じゃないか。

縛られることに抵抗を覚え、人に縛られるのでなく
自らを縛ろうとする。

自分の目の前に開かれた道で、苦しみ抜くことでしか
自分より可哀想な立場の人間を語ることはできない。
「辛さ」は立場を超えて同じなのだから。

ひとつの仕事を全うすることで、俳優のように
色んな立場の人生を知り、それを味わいつくすことができるのだ。

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「悪魔を憐れむ歌」というのは、
あくまで!邦題で、原題のシンパシー・フォー・ザ・デビル
は、悪魔への共感と訳したほうがふさわしい。

パーカッションの音色で始まる、サンバ風の妖しげなリズムは、
人間にひそむ心の闇をあぶり出すがごとく響く。
そのビート以上に「悪魔」を表現するものはない。

しかしこの「悪魔」あるいはヴードゥー神は、
レコードほど強く、コンサートでは弱まるようだ。
同じように、歌詞をつけることで弱まるものもあるだろう。
しかしミック・ジャガーは、
「誰がケネディーを殺したのか、それは君と僕だ」という
具体性をつきつけて、ある問いを発しているようだ。
それを解明する試みのなかにも可能性を見出すことはできるだろう。

つまり人間誰しもが殺人者だ。
自分だけは人を殺さない、ということはありえないし、
目に見える殺人だけが殺人ではないかもしれない。

ミック・ジャガーがステージで性的なパフォーマンスを
して挑発するのも、観客ともんどりうって陶酔するのも、
すべて「俺たち人間こんなものだ」ということの証明だ。
そうした「罪」と切り離せないからこそ、そのなかにある種の
真実がある。

そこを曲解して、ステージでエッチなことさえすれば
カッコよく見られるらしいと行為がエスカレートしていったり、
これさえしておけば正しい人間に思われる、と形にこだわる
ことは、「品」のないことになる。
「人間こんなもの」だからこそ
「この辺でやめておこう」という自制心も必要だ。

ミックは「数多くの名曲を生みましたね」などと
褒められると、「だからって悦に入ってるわけじゃないけどね、
…この辺でやめておこう」と必ず言う。
そう言うところから、自分の曲に誇りを持っているのだな、
と察しがつく。
「祭りのあと」的余韻も、「本当のところ」も
すべて回収するのだ。

一人の人間には無数の性質が潜んでいる。
たとえば自分より強い相手、優秀な相手にはどこまでも憧れ、
媚びることも平気だけど、弱い者、劣った者を目にすると、
怒りのようなものが湧き上がり、
傷つけることもしかねない人間。
そんな奴がいたらイヤだと思う。
だけど誰がそれを責められるだろう。

彼は生まれつきそういう性質が強いのかもしれない。
その性質が原動力になって、大きなことを成し遂げられる
こともあるだろう。

逆に弱い者に目をかけてくれるからって、その者が本当に
「優しい」人間とは限らない。
自分にとって御しやすい相手に目ざといのかもしれない。
そうして守りに入る者、それも誰が責められるだろう。

みんなそうなのだ。
誰だって、強い者におもねる性質、守りに入る性質、
多かれ少なかれ持っている。
それを、「私は」、あるいは「私たちは」持っていないのだ
とすれば、そこで間違う。

「私たちは違う」と思えば人を裁くのに何も葛藤しない。
「私たちもそうだけど」、という但し書きがつけば、
それでも媚びたり、守りに入る自分をふがいなく思うだろう。
彼らは人の話を聞く耳を持っている。

と、言ってしまえば、またそこに境界線を設けることに
なってしまうだろうか。
「聞く耳のある人々」は「あの人たち」と違うのだと。
いやあの人たちは、あの人たちなりの生き方で、
自分たちは自分たちのやり方で、いつしか同じところに
たどり着くと「信じる」のだ。
みんな「発展途上」というキーワードで結ばれていること
でしか「平等」はありえない。

自分の利害のために、平気で「こうするべき!」という
道徳を持ち出してくる人間、彼も裁くことはできない。
しかし信仰を持つ者は、そこで敢然と立ち上がる。
それは、真の道徳への「冒涜」だから。
形だけを整えようとする形式主義は、悪魔のビートを忘れていると
歌う「悪魔を憐れむ歌」は、「信仰」へのいざないかもしれない。


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手元に残っているアルバム「Jewel Julie」(カセットテープ!)
を何気に眺めると、そこには「コーラス 井上バンド」の文字。
いつもはクールな井上バンドも、そんな自分を脱ぎ捨てて、
何オクターブも高い声を出して、ジュリーを盛り上げる。

俺たち仲間じゃないか、ジュリーのためならエンヤコラだ。
楽器がなければ身体を使い声を使って、バックを立派に
守って見せまっせ!と、裸踊りも辞さない心構えが伝わってくる。

メインが男声だから、バックは高い声じゃないと、ふたごの
「メリー」と「ハリー」も区別つかないしね。
ストーンズのレコーディング風景で、ミック以外のメンバーが
ついたての後ろでひたすら「フッフー、フッフー」と裏声を
吹き込んでた、情けなくも涙ぐましい姿がよみがえる。

このアルバムで唯一ジュリー、井上バンドが地声で登場するのは
10曲目「ヘイ・デイヴ」のラスト、
はいみなさんいっせいにー、「ねええ乾杯ー!」、
そこだけだ。

やっと男に戻れたーという?彼らの解放感とともに
ジュリーの「クソー!仲間っていいよなー」という
悦びもこもっている「ねええ乾杯ー!」は
…勝手にやってくれ。

それに比べると「お前にチェックイン」のジュリーは寂しそうだ。
出だしの原型であろうストーンズ「HANG FIRE」は、メンバー全員が
「チュルルル、チュチュチュール」と裏声を出して歌ってこそ
ナンボだと思えば、一人でそれを歌うジュリーの
哀愁のインデアンルックとはなんだろう。

さて何回言い聞かせても、「これがミック・ジャガー?」と
キースを指差すうちの子供たちが、しょっぱなから、
いきなり大笑いするストーンズのPVがある。

ねえそれステテコー?ちょっと失礼じゃなーい?
と言いたくなるユル目のパンツを履いたミック・ジャガーが
コミカルな、器械体操のようなカクカクした踊りで
向こうから登場する「スタート・ミー・アップ」、それだ。
日本の子供も大笑い、しかし本人いたって大真面目。

無精ひげこそ生やしてないが、髪の乱れ具合といい
「寝起き?」そのものだ。
制作費は限りなくゼロであろう、ただただ「ブフッ!」と
むせ返るような、彼らのむさくるしさだけで最後まで
押し通している。

そこがたまらなくセクシーだ、彼らのPVでこれが一番いいよ!と
目を輝かせて薦めようものなら、何も知らない人には
「ナニコレ?ナニアンタ?」と誤解されるだろう。
だけどこれこそローリング・ストーンズの基本形だ。

濃いー濃いーメンバーたちとのからみ。
なぜだかみんなとっても嬉しそー。
「男軍団」大好きなために、どこにでも入隊しそうな
キース・リチャーズが悦びを隠しきれないのははもちろん、
案外ミック・ジャガーが一番この状況を喜んでいたりして。

コテコテメークで中性的色気を漂わせる、妖しい人形の
ような仮面を脱ぎ捨て、素のステテコ姿に戻った、
ミックと沢田研二は、仲間にかこまれて
ひたすら安心感に満ちていたのだった。
誰か止めてやってくれ!

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沢田研二が歌いながら泣いている、
「いくつかの場面」という曲がある。
作詞作曲、河島英吾。

まぶたを閉じると、彼にはたくさんの支えてくれる仲間があり、
そこにはさまざまな場面があったという内容で
沢田は、終盤に感極まったように泣き声を出す。

しかしこれ、ホントに泣いているのか。
そんなに泣ける内容だろうか。
「野次と罵声の中で司会者に呼び戻された」思い出というのは
おそらくPYGでロックシーンにデビューしたものの、
「商業主義が今更なんだ?」という反発を受け挫折したとか
その辺の思い出とからんでいると思うが、

ジュリー自身は、「いやあの頃は純粋に楽しかった」ような
ことを言っているし、見た目「挫折」なら、泣いて済むって
話でもないだろう。

「泣きたい人」は、カタルシスを求めている。
何かちょっとしたきっかけでも与えてもらえれば、
泣くことで満たされない気持ちや、疲労感や、
すべて「清まる」気がするので、それはだから
またちょっとしたきっかけで簡単に「大笑い」に
変わってしまったりする。
感情を発散したいのだ。

感情のおもむくままに、泣いたり笑ったりするのは
ある意味神聖な喜びがあるけれど、人間の意志力というのも
捨てたもんじゃない。

この間お笑い芸人が何組か登場して、何人笑わせたかを競う番組を
見た。男性芸人ほど、笑いが少ないとあせりをモロに出し、
身もフタもない顔芸や身体芸に頼ってしまうのが興味深かったが、
そんなのでも「もっと私を笑わせて」症候群の者は、
簡単に落ちてしまう。

しかし現代人だからといって、そういう人ばかりじゃなく
「笑わないぞ」という強い意志を前面にあらわにしている人間は
たくさんいて、男性芸人たちがしまいには「もうかんべんしてー
オガアヂャーン」と泣き出すのではないかと心配なほど、
能面のような、石のような無表情で押し通す。

涙や笑いは意志の力でここまでコントロールできるのだ。
演技もできるジュリーが嘘泣きしていたとしても不思議はない。

でも「あなたはあの歌で泣いているのですか」とたずねられても
「自分は夢を売る立場の人間だ」という自覚のあるジュリーは
おそらく答えを濁すだろう。
私たちファンが、ああでもないこうでもないと
考えることが、もう夢なのだから。

そこで「本当は泣いていなかった」と知ってしまっても、
だからなおさらに、新たな夢を見たくなる。
自らエピソードをこじつけてみたり、
そしてそれをまた自らばらしてみたり…
そんな営み、遊びを彼らは与えてくれるのだ。

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タイガースと同じく「ナンバ一番」で人気を博し
ホリプロにスカウトされてデビューしたオックスは、
当時からステージで「喧嘩」、「楽器の破壊」、そして
「失神」をしていたというからスゴイ。

いや、彼らは人間心理のナイスなところを突いていた。
古くはヨーロッパ貴族から、「見世物小屋」や
フリーク・ショーや、死刑などを見て、カタルシスをする
人間の「どうしようもなさ」を知っていたのだ。

彼らの「失神曲」は、ストーンズの「テル・ミー」で、
タイガースも18番だったが、バンドによって同じ曲が
こうも変わるものかといういい見本だ。

これが始まると、まずバンドのメンバーが失神し、
それを見た少女たちも、興奮のあまりバタバタと倒れていく
らしい。日本にはこんなカルトバンドがいたのだと、
もっと認識を深めて欲しいほどだ。

自分たちが「再来」になろうというバンドはいないのか?
いや、既にたくさんいるのかもしれない。
しかし、いきなりそれをしても引かれるだけだろう。
オックスだって始めは「音楽性」を追求して、
その内センセーショナルな話題づくりはないか、ということに
なったのだろう。名曲だって持っているはずだ。

それがしまいには、赤松愛と、野口ヒデトがかわるがわる
失神するなんて、ギャグとしか言えないところまで
エスカレートしてしまった。
そしてそんな自分に嫌気がさしたか、赤松は突然
「ジョン・レノンの弟子になる」との謎の言葉を残し脱退。
ロンドンをウロウロして終わってしまったらしい。

そんなことになるならジュリーのように、今にも倒れそうな顔色、
程度に抑えておくほうが賢かったかもしれない。
沢田研二も、もともと青白い顔色をもっともっと
青白く見せる化粧をよくしていた。
「青」の効果をよく知っていたのか。

これが血色のいい、健康優良児のようなアイドルだったら
こんなに「そそられる」ものだろうか。
なんでこんな「悪い」顔色が、そしてしまいには
倒れてしまう、みたいな状況に興奮を覚えてしまうのか。
理屈では説明できない、生理的なものとしか言えない。
ギリシャの恍惚と忘我の神、ディオニュソスの働きがある
のだろう。

赤松愛の惹かれたロンドンのクラブには、どぎつい化粧で
自己表現をする兄ちゃん姉ちゃんがいるが、彼らも申し合わせた
ように「青白さ」を強調する。
肌色のファンデーションがあれば、そこに赤ではなく
ごく当然に「青」を混ぜてしまうのだ。
そしてその上から、黒で稲妻を描いてみたり、
赤で模様を描いてみたりするのはいいが、ベースは青なのだ。

イギリスの夜は長い。カラッと晴れたカリフォルニアのような
青空は望めないから、自然とこういうナイトライフが
充実した。「健全」な青じゃない、顔色の「悪い」青。
しかし、こうなると何が健全なんだかわからなくなる。
ロンドンの青は、血管の青なのかもしれない。

「泣き、笑い」のみを求めようとする観客たちの増加が
最近言われているが、その源流にあるだろうカタルシス
自体は、責められることじゃない。
だけど結局は、ミック・ジャガーの「もうそろそろ、俺の言いたい
こと言っていいか? レコード買ってくれ」という「現実」に、
立ち戻る瞬間が大事と思うのだ。

ミックは「お祭り状態」の人間に、いいタイミングで冷水を
あびさせ、一個人に戻らせてくれる。

失神祭りも、ナイトライフもいいけれど、
それは地味な日常生活に支えられた非日常ということ。
ミックとキースのコンビネーションはカッコいいけれど、
そこにはクオリティを高めるための血みどろの闘いがあるということ。
戦争映画はかっこいいけれど、ただの人殺しだということ。

そんな、「冷静さ」の青が、結果クールなんじゃないだろうか。
破滅で終わるのがロックだなんて誰が決めたんだ。

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ある日から急に「ジュリーネタ」を投稿し始めて
しばらく立つが、ストーカーの始まりというのも
案外こんな自然な、ふとしたことなのかな、なんて
思ったりもする。

まあ始まったことだ、できる限り追求してみよう。
ネタの尽きる日もあるが…とか言いつつ、おもむろに持ち出した
のは、鈴木秀子著『9つの性格』。
今日はこれに当てはめて遊んでみることにしよう。

これはまず「タイプ識別テスト」に答えて、
その結果から9つのタイプに導かれるものだが、
必ずしも1つのタイプに分類されると言うことはなく
たとえば1と4の混合の性格、というのも出てくる。

しかしミック・ジャガーというのは、どう見ても
タイプ1になるだろう。
「完ぺき主義で努力型」、これだ。
彼の場合、それをもう少しひねって、自分の「完璧主義」を
逆手に取り、「物事は完璧にいかないものだ」という表現
をしたいのだ、ということもできるが。

「ミックの性格はつかみどころがない」とよく言われるのは
どこまでが実体で、どこからがパフォーマンスか、
フェアリーテールのように、というと可愛らしくなってしまうが
みずから自分の実態を見えづらくしているというのも
大きな特徴で、その辺に着目すると「タイプ7?」も入ってきて
しまう。

性格分類法と言うのも色々だが、タイプ1というのは、
クレッチマーの分類法では「粘着質」のそれになるのだろうか。
しかし彼らはみな、筋肉質の体型をしているらしく、
そうなるとミックとは違う。

まあそうなると、とりとめがなくなるし、人間みなとりとめない
ものだなどと言って、もう終わってしまうので、
サクサク行くしかないが、

キース・リチャーズは、「ロマンチストで感情的なタイプ4」、
チャーリー・ワッツは、「自立した冷静なタイプ5」、
ロン・ウッドは「楽天的な人気者のタイプ7」が、
どうだ、ピッタリだろう。

じゃあジュリーはどうだろう。
まず最初の関門、人は自己主張型、遊離型に別れます。
ここで彼は、人の話を聞いているのか? 自分の言いたい
ことはあるのか?よくわからないところから、遊離型だ。
私が彼のことを伝えるのに「ヌーボー」としたという
表現を使いがちなのは、ここに原因があった。

しかしいざどのタイプ?となると、意外と彼はつかめない
ところがある。彼のスター性はそこにあるのか、と言って
逃げてしまいたくなる。

案外、「兄に異常なまでのライバル意識を燃やしていた」
などという、子供の頃のエピソードにこれは?と思わせるもの
があり、意外と「成功を追い求めるタイプ3」なのかと、
最初は思った。
自分では地味で大人しかったと言うけれど、
彼のそんな「やり手」なところは、実際に芸能界のようなところで
生き残るのにふさわしい、「派手な性格」かもしれない。
「積極的で優秀」で、だけど成果をあせるあまり
自分の感情のありかがつかめなくなったりする…そうなると、
ほら遊離型におさまるというわけだ。

と思ってもみたが、「やり手」なんてどのタイプにもいる。
それより「つかみにくい」ところに着目した方がいいのでは
と、読み進めていくと、「つかみにくいのはタイプ6と9です」
という文章があった。
自分でもわからない?それなら学生時代なんというあだ名をつけら
れましたか?という質問が入り、そのサンプルは、
まさに、「ヌーボーです」と答えていた。

言葉にとらわれて柔軟性を失うと、本当のことは見えてこない。
案外こういう「感じ」の方が、いいとこつく。
ヌーボーは、タイプ9だ。
穏やかで優柔不断な…あっ、そういえばそうです、と
サンプルは、気づいたらしい。
ジュリーもそういえば「物事をなかなか決められない。正直、自分
の意志で決めたのは、野球部に入ったことだけ」と
言っていたではないか。タイプ9だ!
彼らはとことん、平和主義で穏やかなのだ。

派手に見える人が、必ずしも自己主張が強いと言うわけでも
ない。人を外見で判断できないのはもちろん、
その人の打ち出している性格にとらわれると、内面を見落とすし
その内面さえ、絶対的なものではない。

たとえばタイプ1のように、正義感が強く、責任感が強いから
こそ人を裁いたり、執着が強い結果になるのであり、
タイプ2のように、自己犠牲やボランティア精神が強いことが
人を見下す結果につながることもある。

まあ結局は人間、似たり寄ったりのどうしようもないものだな、
という言い方もできるし、それぞれが驚くほどに違う、たまもの
を持ちながら生まれていて、それはいい、悪いで判断できるもの
ではなく、それを生かして伸ばすことで神のようなワザも生まれる。
金子みすずではないが「みんな違ってみんないい」という気分に
なって、「涙そうそう」を歌って思い切り泣きたくなるから不思議だ。

いや、でもやっぱりどうしようもないものでもある、に帰ってしまう
のがちょうどいいのではないか。キース・リチャーズが肌身はなさず
身につけているドクロの指輪じゃないが、
一皮向けば誰しもアレなのだ。

「ことわざ」のごとく、あれもあればこれもある、
正反対もまたしかり、というところが、じれったいけど
真理なのだろう。

しかしジュリーが「昔、番長に約束をすっぽかされたことが
多かったけど、そういうのは僕は平気なんです。
だけどそれを人にしてはいけないと思った」という「意志」は
ここでいう性格とは関係ないだろう。
自分の意志で決められないと言うジュリーは、誰よりも強い
意志を身につけているじゃないか。

しょせんドクロと知りつつ、せっかくだから自分のたまものを
生かし、その上で、どんな志を持つか、じゃないだろうか。

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アメリカにいい顔をしたいがために、重要法案をさっさと
決めてしまおうとする意識があるけれど、
本当に相手に「花」を渡すと言うのは、目先にとらわれた
ものではなく、長い時間と血肉をかけて熟成されるべき
ものだということを、ミック・ジャガーは教えてくれる。

イギリス人であるミック・ジャガーは、もとはといえば、
「アンチ・アメリカ」じゃないだろうか。
クラッシュのようにパンクでストレートに言っちまえば
そういうことになる。

まあそこまでの「嫌悪感」はないにしても
ミックの、時々こぼれる「ピカデリーサーカスの「あの」
うるさいアメリカ人たち何とかならないか」といったホンネに
「抵抗感」のようなものがあらわれてしまう。

それはなかなか一言で言い表すのが難しい感情だ。
たとえば私などは、子供に自分たちのことを「ちち、はは」
とか呼ばせている両親に、いい悪いじゃなく違和感がある。
なにかそこにはアメリカーンな「軽さ」が漂うのだ。

そういう、「アンチ」とまでは言えない「抵抗感」を
表現するには、まず相手に花を持たせることだ、と
ミックは行動で示す。

彼はアメリカ人を妻にし(ビアンカやジェリー)
世界ツアーもアメリカを最も重視している。
わからない者を征服したい気持ちや(それは妻たちから痛い目に
合わされることで返された)、経済効果のみならず、
彼はあえて、アーティストの立場を踏み外さず、
抵抗のある相手にこそ花を持たせる表現を示していると考えられる。

アメリカ発祥のブルースを世界に広めたいというのもそうだ。
「失われたアメリカ」の前向きさを支持しているところもある。
嫌味じゃないか、くらいに「花を持たせる」表現に徹している。

ニューヨークに行けば「トップ・オブ・ザ・ワールド!」と叫び、
歌ではあのブッシュに「マイスウィート・ネオコン」とまで言う始末。
歌の内容は、権力に対する過激な批判であっても
「ブッシュだとは言ってない」、「マイスウィートだから」
と言われれば引き下がるしかない。

それでいて、ホテルの部屋を後から来たブッシュに「譲ってくれ」
と言われたら、「やーだよ」と即座に断ることも出来る。
(「やーだよ」とは、さいわい英語では表現できないが)

あたりまえだ。そんな横暴に対してはちゃんと言わなくちゃ。
逆に花を持たせているからこそ、言いたいことを言えるのだ。
「ここぞ」というときに相手におもねるより、
彼は自分の信念のためには、死んでも「NO 」と言うことを選ぶ。

言いかえればその、「死」とひきかえに「花」を渡すことこそが
彼の信念なのではないだろうか。
そんな死をかけた「花」というのは、
どんな相手にも伝わる「理想」だ。

先日も触れたが、まだデビュー前、クラブで人気だった
ストーンズに対してあからさまに妨害してきた
トラッドジャズクラブに憤ったキースは、
親玉をギターで殴ってしまったらしい。
よっぽど腹に据えかねる事情もあったのだろうが、
ミックは、「あなたたちの心情はよくわかります」
という立場を守った。

「おい、こういう作戦で行こう」と仲間には言ったのだろうか、
彼らは、「クラブの経営者が始めようとしている新しい音楽」を
演奏する謎のジャズ・ミュージシャンということで通用したのだ。

これって、「日本的」和の精神といえないだろうか。
イギリス人のほうが日本的ということはあるのである。
ちゃっかりしてやがる、と言われても、それが生命力
ってものだ。
まずは狭き門からでも入らなければ先はない。

「仮想敵」がいるのなら、圧力でなく花束を。
そして背中に人生を。とジュリーも歌っていたではないか。
おもねているのではなく、どんな相手にも敬意を表するだけだ。

それはミックのしたいこと、
すなわちブルースを死ぬまで続けるため、に他ならない。
その場しのぎで、感情にまかせて破滅するより
ブルースを守る方を選ぶのだ。

強い相手の言うことは聞く、そしてはけ口を自分より弱い者に
求める。誰もが持つ、そうした「弱さ」をもし自覚するなら、
そしてふがいなく思うなら、
本当の力とは何かを知り、それを志したくもなる。
それは、どんな圧力にも屈しない抵抗力じゃないだろうか。
まず自分が強くならなければ、人を助けることも、
反省も出来ない。

ひたすら生きることを願い、相手に礼を尽くしたいだけの
子羊のような人間に、すすんで危害を加えようとする者は
いるだろうか。
人類共通の理想が「和」ならば、いないはずだ。
神様だって思わず可愛がってしまいそうになる。
本当の「礼」とは、人の先にある神に対するものだから。
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ミック・ジャガーはまだ来日の実現していない、
そして予定のあった72年時、日本についてたずねられ、
「僕が日本について知っているのは、ナマ魚、キモノ、スキヤキ、
日本の女性、ゼン、フラワー・アレンジメント(いけばな?)
…とまあこんなところです」と、答えた。

そして「あなただってそうでしょう、イギリスについて知っている
のは女王陛下、近衛兵、ローストビーフ、そんなものじゃないのかな」
と語っていた。

うそだ。イギリスに憧れる日本人は、自分たちが知っている日本
より、もっとたくさんのことを勉強しているだろうとは
ミックもわかっているだろう。
しかし表現としては、そんなふうに相手を立てているのだ。

そしてその来日がおじゃんになったとき、「日本人はナマ魚でも
食ってろ!」と言ったとか言わないとかいう逸話もあるが
これは「ナマ魚」というフレーズが入っていることから、
実話だと思われる。
よほど「ナマザカナ、おさしみ」のことは印象強く覚えていたのだ。

しかし学生時代三島由紀夫を愛読していたというミックは
案外日本のことを、我々の知らない部分こそを見抜いているかも
しれない。沢田研二には「日本刀を送ってくれ」と頼んだという
から、若いときから日本ファンだったかもしれない。

だけど実際、一緒に暮らしている家族でさえ、その人のことを
一体どれほど知っていると言うのだろう。
「この人はこうだ」と断言などできない。
知れば知るほど、逆に何も言えなくなることもあるじゃないか。

ミックはイギリスと言えば女王陛下だと、真っ先に発想するが
いっさい女王のことは口にしないし、王室から式典などに招かれても
ビートルズのように出席はしなかったが、
そんな彼がビートルズ以上に女王に対する思いは格別だったとしても
不思議はない。

勲章をうやうやしくもらってしまうところにそれは現れていて
だからミックにとって、生涯一度の勲章は、誰よりも重いものだ
ろうと、彼が何も口にしないからこそ感じてしまう。

「軽く」その国のことを紹介してそれですべてのような顔
をされたり、「ゲイシャ」「チャイナガール」といった
省略的な言葉にさえ、神経をとがらせてしまうところが
人間にはある。
デビット・ボウイの「チャイナ・ガール」はあまりいい感じしない。

まだストーンズの「サム・ガールズ」のように、
イタリアン・ガール、アメリカン・ガール、イングリッシュ・
ガールに文句が言いたい、というのならわかる。
バックストリート・ガール、ファクトリー・ガールなんてのも
あったなあ。
別にいいんじゃないの?

どこがどう違う?と言われても口ごもるけど、
「マイ・リトル・チャイナガール」なんて
言わなくてよろしい! という感じだ。

以前カルチャークラブのボーイ・ジョージは日本の雑誌の記者を
芸者に見立てて一緒に公の場に登場して見せたり、
PVではその芸者以外にもふんどしをしめた謎の日本人が登場し
屈辱的に表現されていたり、漢字などのアイテムを「これでどうだ」
とばかりに駆使して見せていた。
その安っぽいセット以前に、
「これだけ親日家だ」ということを示したいがために
日本人を使っている感じというのは、嫌でも伝わってしまうのだ。

そんなつもりはない、とかそれはコンプレックスだというなら
「先進国」こそ、そんな人間の感じやすい部分を知る必要と、
そんな風に思わせないくらいに神経を使う必要があり、
それができて初めて、それなりの誇りを持てるのではないか。

「チャイナ・ガール」のPVで、けっして美人とはいえない
東洋人とよろしくしているデビット・ボウイの、
「もともとこんな顔なんだ!」と言われそうなツンとした顔
自体に「見下し」を見てしまうほど、こっちは
どういうわけかひねくれてしまっているのだ。
そこのとこ汲んでくれないと困る。


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昨日、自分で「要再考」の印を押した事柄について、
もう一度つきあってもらおうと企んでいるのだが、
それは「浪花節」は、日本のものではないのかもしれない
ということだ。(もうええっちゅうねん)

キース・リチャーズのキャラは浪花節的であっても話は通じなさそうとか
わけのわからないことを書いたが、
それがなぜなのかは、浪花節的な大阪の街を歩いてみると解決する
かもしれない。
「…ここはアジアだ」と、思ったことはないだろうか。
大阪は大陸型の雰囲気がある。

もちろん同じ島国でも話しやすい人、そうでない人いるし
痩せ型のいくよと、肥満型のくるよはよく一緒にがんばるなあ
くらいの意味で、他意はないが、
島国キャラと大陸キャラというのはなんとなくある。
同じキャラはシンパシーを感じ、違うキャラは憧れを感じる。

同じ「好き」にもシンパシーと、憧れがある。
わかるなあ、懐かしいなあという「シンパシー」と、
近くにいても自分には手が届かない、自分の成長の延長線上
かなたにいる「憧れの存在」とは違う。

たとえば同じ関西であっても、大阪と京都、全然違う。
神戸、などに行くと「港町」が入ってまた違うものになる。
港町グループとして、函館や長崎、横浜と「シンパシー」で
結ばれる。

でも私は京都の者だが、函館、長崎が好きだ。
そしてそれは、「憧れ」というより、懐かしさだ。
まったく立場の違う相手や場所にもシンパシーを感じること
は、なぜかできることになる。
私がミック・ジャガーにシンパシーを感じたとしても仕方ない。

逆に「憧れ」は、すぐ手の届く立場にいても、
ジュリーのように「わしゃそんなことようせん!」と
思ったときに成立する。

だから彼の、「ロック好き」「浪花節を演じたい」
それらは「憧れ」じゃないかと思うわけだ。
関西出身の彼だが、桂春団治は遠い存在として
演じているのではないだろうか。

自分は「芸のためなら女房も泣かす」ようなことは
できなくても、役柄ならいくらでも羽ばたけるじゃないか。

しかしわからない相手を盲目的に愛してしまうのは危険だ。
沢田研二が昔語ったように「ストーンズ?自由にやってるらしいね。
でもいいんじゃないかな」と、許してしまうことになる。
彼は当時得られなかった「自由」「ロック」という実体のないものに
好きなものすべてを投影して、無批判になっていたかもしれない。

「彼らのすることに間違いはない」という感覚で
多くのファンが「ミック、黒魔術の映画に出るらしいね、
やばいよな」と、目をハートにして語っていたのだ。
ミック自身は「黒魔術は興味はあったけど、くだらないものさ」
と言っているのに、そこは耳に入らない。
憧れは目を曇らせる。

そんなミックは、ロックやブルースには詳しくても、
ジャズのことは、さほどわからなかったかに思える。
(もっとも、憧れて勉強すれば誰より詳しくなるし、
今そうなっているかどうかは知らないが)

そんなデビュー前の彼らに、人気をねたんで迫害してきた
ジャズクラブのメンバーがいたが、ミックは
「お気持ちはわかります」という態度を取った。
どうしてだろう。
それは、相手の気持ちがよくわからないから
なんじゃないだろうか。

「きっとそうなんだろうな」としか思えないから
せめて礼を尽くそうとする。
できないことはしたくないから、言葉だけでも「わかります」。
そういうのを「処世術」ともいう。
そして、処世術を使っても守るべきもの
たとえば「自分のしたい音楽」の前には
憧れもシンパシーも融合するんじゃないだろうか。
その時はじめて、言葉なしでもわかりあえる。
音楽があれば言葉は要らない。
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ところで日本のロックってなんだろう。
「日本語でロックはできない」という議論があるなかで、
はっぴいえんどや佐野元春こそがロックだと聞いたことがある。
たとえば佐野元春の「字あまり感」がそれなんだろうか。

しかしはっぴいえんどの「風をあつめて」を聴いて
「いいなあ」と思ったときも、それは松山千春のフォークを
聴いて、その懐かしさに酔う感覚と同じだった。

しいて言えば、そこから「演歌」の要素を抜けば
「日本のロック」になるのかもしれない。
たしかにはっぴいえんどには演歌の匂いはしない。
細野晴臣も大瀧詠一も、佐野元春もそうだ。

佐野元春こそがロックという日本って?…ということは置いて、
今の若手も、体裁はロックバンドでも、メロディーや
歌詞に「演歌」の匂いのするものほど受けている。
「お母さんあなたは僕のために…」みたいな、こっちが身の置き所
なくなるような歌がマジで流行る。

あの宇多田ヒカル(最近の若手でも歌でもないが)でさえ、
そのメロディーには、たとえば「Automatic」の一部には、
藤圭子が色濃く生息しているように感じるのは私だけか。

なかには一歩間違えば「怨歌」にもなりそうなものもあると
思えば、元春調の「軽さ」は、やはり珍しかったのだ。

ロックをそうした「実体のあいまいなもの」としたとき、
逆にストーンズなどは、演歌だと言ってもいい独特の
ウェット感が多分にある。
擬音を使えば「ジメジメ、ジトーッ」になるだろうか。
金輪際、カラっとはしていないのだ。
これは曲調のせい? それともキャラのせい?

彼らの曲で日本で受けたのは、テレビ主題歌にもなった
「アンジー」じゃないだろうか。
あの情感あふれるマイナーなメロディーが日本人のハートを
ぐぐっとつかんだ。

だから実は日本では、一般にストーンズらしいとされる
「ストリート・ファイティング・マン」や
「ギミー・シェルター」「シンパシー・フォー・ザ・デビル」
などは、そんなにシンパシーを得られていないんじゃないか。

これらの曲を真っ先に「好きな曲」としてあげたのが沢田研二で
彼こそが筋金入りのロックファンなのかもしれない気がする。
偶然かグループサウンズ時代にも、「ブルーシャトー」のような
演歌臭?はタイガースにはなかった。
彼が佐野元春に目をつけたのもその辺の理由だろうか。
沢田研二は実は「歌謡曲」の仮面を着脱自在に操れる、
インターナショナルな商売人だったのかもしれない。

佐野もジュリーも、対談などを聞いても「そうらしいですね」
みたいな、「まるでひとごと」のフィクションが混じる。
だからといって、キャラクターと作る音楽はまた違うのも事実。
ストーンズでも、「アンジー」や「アズ・ティアーズ・ゴーバイ」
みたいな「悲しい曲」を作ったのはキースらしいが、
彼とは話が通じそうにない。

キースにはフランス系の血が入っていると言うが
そんな大陸の匂いがちょっとするのだ。
ミックは島国的「果てのある感」が漂う。
演歌キャラというより「島国キャラ」と名づけよう。

マイナー調も嫌いじゃない私にとって、ミックのほうが
話を聞いてわかってくれそうな気がする。
「憧れ」というより「わかってくれそう」。
ミックのほうがフィクションぽくて、
キースのほうが浪花節的なのに…なぜ?
そしてジュリーは浪花節を舞台で演じている…
彼はロックと浪花節に憧れているのか?
彼の場合「好き」は「憧れ」の同義語なのか。
混乱してきたので、迷惑だからこの辺でやめよう。

ミック・ジャガーは、日本のライブハウスでブルースハープを
吹いているのが案外似合っていそうだ。
いよいよ身体が動かなくなったらそんなのもありなんじゃ
ないか、と真面目に考えてしまった。

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「赤ちゃんポスト」に3歳児が押し込められていたというが、
これ、細かい事情は置くとして、もし「0歳から1歳まで」という
表示があったら子供を入れただろうか。
マニュアル重視の日本人、「えっ、知りませんでした…」と、
うろたえて、入れなかったりして、とちょっと思った。

日本はどこより自由な国のようでいて、見えない監視にさらされ
暗黙の賞罰を受けている。そんな中で自身があれダメこれダメで
育ってきて、間違いを犯せば針のむしろで、
だからいつしか「子供の心」より、自分がどうあるべきかの形のほうが
大切になってしまったり、取り返しのつかない間違いを犯してしまう、
ということはないだろうか。

ビッグになった人々というのは、そんな形やマニュアルは、ある
瞬間にヒョイと超えてしまうものだということがわかる話がある。

沢田研二は、昨日触れた内田裕也からのスカウトを受ける前
大阪の「ナンバ一番」に出演中、ある有名プロデューサーからも
声をかけられていたらしい。
ところがそれは、「ギターとドラムはもういるから」、
サリーとタロー、そしてジュリーだけが欲しいというものだった。

ここでいつもは人の後ろに隠れがちのジュリーは立ち上がった。
「独断で」、みんなと一緒が大前提ですから、行けませんと
きっぱり断ったそうだ。
そのあとすぐ、運命の人、内田裕也がナンバ一番に来るという
展開になるのだが(内田裕也が天使に見えてきた)

ジュリーはその他大勢のバンドマンに埋もれてしまうリスクを承知で、
デビューして成功すれば何でもいいという形式主義とは正反対の
強い信念に動かされ即座に断ったのだ。

それは「グループ単位で動かないといけない」といった形に
こだわっているのではなく、「どんないい条件があっても
自分はしたくない」という、個人的なものだ。

デビュー後も「ファンに貢いでもらうような「汚れ」には
絶対にならない」という規範を誰よりも強く自らに課したのは
ジュリーだった。

公に縛られてガチガチになっていれば、個もうまく機能しないが
個が正しく働けば、自然と仲間のことも思えるし、自分を自分で
規制することも出来るのだ。

ミックの場合はどうだっただろう。
同じく内気で、人の後ろに隠れがちだった彼は、(ホントか?)
ストーンズの前身としてクラブで人気を博していた頃、
オーナーのアレクシス・コーナーに認められ「ミックだけ」
という触れ込みでデビューへの道が開けたが、
(キースはキースで、そんなミックに惜しみない拍手を
送っていたというが、キースの実体は「無欲の人」だったのか)

やはり「キースたちと一緒じゃないと、いやだ」
と即座に断ったという。
伝説のマネージャー、アンドリュー・オールダムに出会ったのは
そのすぐあとだ。
運命のいたずらってなんてロマンチック(ハートマークないか?)
そんな彼らの、「こういうことはイヤだ」という
パブロフの犬的反応を生む強さは、どこでどう形成された
ものかわからないが、とにかく
ある一点へ来るとテコでも動かない、岩のような信念は、
時空を超えたのだ。

待てば海路の日和あり。(字はこれでよかっただろうか)
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植木等の葬儀で「スーダラ節」をロック調?で歌う内田裕也を見た。
喪服姿のさしものユーミンも、ただのバックコーラスとして
かなたにかすんで見えるほどの、裕也のインパクトは健在だった。
(というか、それもユーミンにとっておいしい絵なのかも)

この日沢田研二は体調不良で欠席ということだったが、
どこに出席しても見る者を納得させてしまう「大御所」の
貫禄の前には、ジュリーもお呼びでない。

そう、今のジュリーにはそうした意味で居場所はない。
いつの時点でか、みずから居場所をなくしたのか。
細かい事情はわからないが、
それでもまだ、久世光彦の葬儀に出ている彼なら自然だった。
クレージーキャッツの葬儀にどんな顔で出席すればいいのか。
今のジュリーは内田裕也のバックコーラスなど務めそうにない。

何者?的、内田裕也の、誰よりも強い存在感と、明白な居場所。
その対極にある沢田研二の存在の希薄さが印象的な葬儀だった。

しかし内田裕也には彼なりの役割があり、あの年までそれを立派に
全うしている意味でとても偉い人だ。
あのいでたちは「空気が読めなくて何が悪い!」と主張している。
よく「空気読めよ!」という言い方があったり、
「あなたは空気の読める女?」みたいな企画を雑誌やネットで
見かけるが、それを目指してしまうことは、「ムードに飲まれる人」
を目指すのと同じ効果がないだろうか。

一応大人としてそれらのことをわきまえるに越したことはないけれど
その上であえて空気の読めない者を目指すくらいの必要がこれからは
出てくるんじゃないだろうか。
これからの時代、内田裕也を見習うべし!
(なんて適当な言い草だろう)

内田裕也は、ミック・ジャガーにも会いに行っている。
まだ彼らの来日が実現していない頃、「日本に来いよ!」と
言いに行ったのだそうだ……
ジュリーなら、「いや!わしゃそんなことようせん!」と
言いそうなところだが、堂々と会いに行ったらミックのほうが
恐縮していたとか。

ストーンズに来日して欲しいがために故・中川一郎に
「呼んでくださいよー」と直訴したらセキュリティに囲まれて
しまった経緯があってのことだというが、彼はそんな自分にも
陶酔できるから、70歳近くなってもあんなに元気なんだろう。

「俺とミックでぜひ映画を作りたい」と、こともなげに語っていた
当時の抱負は実現しなかったみたいだが、そのパワーで若手のロック
ミュージシャンを引っ張ってきた、稀有な存在なのだ。

沢田研二の「今僕は倖せです」に内田裕也がひそかに登場する。
「湯屋さん」という歌がそれで、一応タイトルでは先輩を
立てている様子が伺えるが、歌に入ると「風呂屋の息子ゆうやちゃん」
から始まり(本当に風呂屋の息子かどうか知らない)
「ボカァ好きだよー、ゆーやちゃーん」とくだけている。
「憎めないんだー湯屋ちゃん」「気持ちわかるよー湯屋ちゃん」
と、黙して語らぬ彼の精一杯の愛情表現がつまっている。

ジュリーも内田裕也に見い出されてデビューしたというが、
(「君たち、俺と一緒にやんねえか」と声をかけられたらしい)
そんな感謝の念も何もかも、
この、「ボカァ好きだよー」に込められているのだ。

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日本のミック・ジャガー沢田研二の「歌謡ロック」と、
そこにみられるジレンマや葛藤について
私なりに考えてきたが、(いじっただけ?)
それらはやはり彼の世代である「団塊」と関係がある
のかもしれないと思い至った。

というのは、彼らの父親たちや目上の者はおそらく戦前の
道徳観を色濃く持った世代で、団塊はそうした厳しい親に
逆らうに逆らえない、しかし上から押し付けられる伝統に大人しく
従うのも納得がいかないという、まさに葛藤を経験した世代と
言えるのではないかと思うからだ。

その「反発」がニューファミリーであったり、学生運動として
硬軟の違いはあれ顕在化した。それらは様々な弊害も生んだが、
その底力の源は、何もかも許されるような環境にはなく、
やはり伝統的価値観にガチガチになった、上の世代からの
押さえつけのようなものを要する。

昨日触れた関西発祥の日本のブルースにもそれは見られる。
彼らは「東京」の2の次として、苦汁をなめさせられ
屈折した対抗意識のようなものを持っていた、それが底知れぬ
関西パワーとなってひとつの文化を形成したともいえる。

虐げられた者たちのそれでも屈しない生命力がブルースには
宿っているとすれば、あのミック・ジャガーの生い立ちにも
それは見られるのだ。

彼は体育教師であった父親にスパルタ教育を受け、過酷な
トレーニングを強いられ、母からはミドル階級の紳士となるべく、
これまた厳しく躾けられたという。
しかし当時の彼は反発も見せず、黙々と従ってきた。
そのなかで彼が育んできたものは、やがて彼らのデビュー後
「体制への反発」、「中産階級への皮肉」=「真の貴族への志向」
「権力者や圧力を与える者たちへの痛烈な批判」
「トイレの写真をジャケットカバーにするような、気取った者たちを
茶化すアート」=「どんな者も同じ人間だという主張」
を駆使した活動へと駆り立てた。

やはりそこには「ためてーためてーためてー吐くー」といった
マグマのような内部のくすぶりがあるのだ。
すぐに燃え上がって破滅することなく、
しかし完全にすすとなって消えてしまうこともない執念が、
ミックをビッグにした。

だから彼はすすとなって消えた者たちを見過ごすことはできない
のだ。彼らの分も自分が怨念をはらすかのように生き続けなければ
ならない使命がある。

彼らもそして沢田も、自分たちを「十羽一からげ」には扱わせない
誇り高さがある。
だから簡単に「あんたはこのジャンル!」と、カテゴリーに放り
込めないのだ。親や上の世代にはそんな風にムチで叩かれてきた
としても、だから逆に今の自分をぞんざいに扱うことを許さない。

それは軽く表面をなでるような、「上手さ」と対極にある
しぼり出すような重さであり、フュージョンなどと対極の
BGMにはむかない泥臭さであり、「身体壊すんじゃないの?」
というほどの底力で、たたみかけるように迫ってくる力だ。

ミック・ジャガーはわざとではないかと思えるような荒削りな
歌唱を保っている。繊細なのはブルースハープを奏でるときだけ。
そしてそれが、沢田研二にも見られる説得力なのだ。

70年代一時ストーンズに在籍していたミック・テイラーは
すご腕ギタリストとしてミック・ジャガーには重宝され
作曲にも貢献したらしいが、キース・リチャーズに気に入られず、
追い出されたかっこうとなった。
(まあ、あの2人にどんな会話が成立するのか見当もつかないし
ソリは合いそうにないが)
ジャズ好きのドラムのチャーリー・ワッツは、
「ミック・テイラーはやめてからパット・メセニーのように
なるのかなと思っていたが特に何にもならなかったな」と
残念そうに語った。

やはり「ライブ」重視のストーンズという側面から見れば
テクなどは2の次であり、ミック・テイラーの脱退も自然な
流れと言わざるを得ないのだろう。

しかし荒削りだったとしても楽な感じではないから、こちらも
あくまでも丁重に扱わなければいけない気にさせられる。
素通りはできないし、邪険にはできない。

彼らが自分自身を無造作に扱う分にはかまわないのだろう。
たとえば何かを示したいとき、トリックスターのように
正体を隠してエキストラとして出演してみることも
しそうな感じだ。

ミックも、沢田も、本当の彼らはどこにいるのかわからない。
「ブルース・ハープを吹いている時のミックこそが
混じりけのない真のミック・ジャガーだ」とキースは言う。

彼らには、「十羽一からげ」になどしたら化けて出るぞ!
という迫力を感じる。だから、そうされた者たち、
虐げられた者たちの魂をも
「化けて出ないように」鎮めているのだろうか。
彼らの音楽は、自分を大切にすることを教えてくれる。

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木村充揮が出ているCMを見かけた。
「顔が丸くなったなあ」という感想は
ジュリーをスマスマで見たときと同じだ。
ジュリーも彼も酒太りだろうか。
今でも飲みながらライブをしているのだろうか。

木村秀勝、つまり憂歌団だったときの彼をよく覚えている。
憂歌団は、有山淳司と上田正樹の名盤「ぼちぼちいこか」の
発表で始まった、関西ブルース・シーンの先駆者だ。
京都の磔磔(たくたく)、拾得(じゅっとく)といった
酒蔵を改造したライブハウスによく彼らを見に行った。
すぐに酔っ払って熱くなる木村と、どこまでもクールな
内田勘太郎の独特のコンビネーション、また酔客との
掛け合いの妙がそこにはあった。

そんなステージングとボトルネック奏法のきいたアコギの調べに
ライブハウス通いは病み付きになり、時には
遠く神戸のチキンジョージや大阪にまで出かけた。
中でも彼らの地元桃谷のBEEHOUSEは、木村と内田しか出演
できないような小さなステージで客席も狭く、一味違う彼らを
すぐ間近に感じることの出来る場所だった。
その後、「RED HARP BLUES」という映画にも使われて
いたが、すでに大ステージでのコンサートも
こなすようになっていた彼らが、初心を忘れず、
こんな小さな店でもするんだなと感激した。

そうでなくても、「コンサート」という設定は彼らに合わなかった。
広いステージをどう扱っていいか、本人たちもとまどっているような
ところがあった。
あの狭い空間でこそ生まれる独特のグルーヴ感と言ったものが
彼らの本領なのだ。
「コンサート」をするのなら、ストーンズのように
ステージングからして変えなければならない。
ストーンズは2003年のツアーで、ステージを大中小と用意して
スタジアムなら大きなセットで、シアターなら、それに合う
セットリストで、そしてアリーナならその中間でアレンジするといった
試みを見せたが、それくらいの準備が要りそうなものだった。

だから「憂歌団コンサート」というのはあまり参加したくなかった
けれど、彼らがメジャーになるにつれ、(もうとっくにメジャーだった
が)東京志向、コンサート志向になっていくのは、
ご他聞にもれずなのかな、と少し寂しくもあった。
あのBEEHOUSEなら、出口に背中を丸めて腰掛けている
木村と勘太郎に一言挨拶をすることもできた。
磔磔なら、ステージのあと客席に飲みに来ることもあった。

憂歌団からブルース好きが高じた私は、
他のブルースマンのステージにも足を運ぶようになったが、
プレイ後客席に来た彼らは、申し合わせたように口下手だった。
シンガーだからといって如才ないわけじゃないのだ。

なかでもその頃もうすでにアルバムを発表していた新井英一の
ステージにはよく行った。浜口庫之助作詞作曲の「みんな夢の中」は、
他にも何人かが歌っているが、彼のものが圧巻だったし、
彼も在日2世と聞いたが「イムジン河」は胸に染み入るものがあった。

しかし彼の場合もレコードで聴くより、ライブで聴いてこそ
その素晴らしさが実感できる。
ストーンズが未だにライブ活動を最重視しているのは、
そのへんの、ブルースへのこだわりが感じられるのだ。

憂歌団の歌については「パチンコらんらんブルース」や
「ジェリーロール・ベイカー・ブルース」もインパクトがあるが、
デビュー当時のストーンズも歌っていた「渚のボード・ウォーク」は、
だんぜん木村の歌うものの方が深みがあった。
(まだその頃のストーンズには「ブルースマンでやっていけるのかも」
という希望があったようだが、ブライアンやミックには残念なことに
ロックバンドとして大成功してしまった。)

放送禁止になった「おそうじオバチャン」
は、笑福亭仁鶴も歌っているが、これは仁鶴に軍配があがるだろう。
だって悲しいじゃないか、あの仁鶴の「おそうじオバチャン」は。
あまりにも哀愁があって、彼が歌うと聞いただけで、ちょっと
聴くのをやめたくなるほどだ。

やはりブルースは、どれだけ人生背負っているか、もの悲しいかの
勝負というところがある。彼らの歌を作った者たちにも
いわゆる「ろくな死に方」をしなかった者も多いのだが、
そうした哀愁は、やはり切り離せないのだ。

しかし死んでしまってはどうにもならないだろう。
生きて、生きながらにして、人のカタルシスの役割もするような
ぶざまな哀愁を体現していくことこそが、本当のブルースマンかも
しれないとすれば、あの「まだまだ青」かったミック・ジャガーは
マラソンランナーのような濃いブルース人生を突っ走っているのだ。
彼の背中には、たくさんのブルースマンが宿っている。
木村もそこを目指すのだろうか。

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「背中まで45分」という地味な曲があったのを覚えている
だろうか。作者の井上陽水が歌うならいいのだが、
「あの」ジュリーが、この辛気くさく長ったらしい曲を
どうやって「見せる」つもりなのか、こっちが頭を抱えたくなった。

「ラブ(抱きしめたい)」も地味なバラードだったが、
まだあの頃のほうがジュリーに「勢い」ってもんがあった
せいか、安心して見ていられた。
あの「手に包帯」の演出など、そそられるものがあって、
さすがに憎いな!という、前向きな感想しか出てこなかった。

しかし「背中まで45分」には、特に演出もないというし、
彼はこれからどうするつもりなんだろう、
これがターニングポイントになるんだろうか、
それにしても冒険したなあ、などと
汲めども尽きぬ不安があとからあとからあふれるのを
もう誰も止めることなどできはしないのだった。

そして、やはりセールスはパッとしなかった。
「それでもあれはいい曲です」みたいなことはイヤというほど
聞いた気がするが、売れなきゃしょうがないんじゃないの?
と、老婆心(?)ながら思ったものだ。

実際のところどうだったんだろう。
なにか心境の変化のようなものがあったんだろうか。
もういいかげん、こんなチン問屋のような真似はいやになったとか、
事務所との関係がからんでいたとか。

「僕はこれから、本当の意味でのスーパースターを
目指したいんです」という決意表明をコンサートで
聞いたのはちょうどそのころだ。

あの派手派手路線を捨ててまで
彼が挑戦したい何かがそこにはあったのだ。

それにしても、歌の中で男女がホテルで出会ってから
「背中まで」の45分は、まあ歌にすればそれでも5分くらいの
ものだとは思うが、苦行にも思えるほどじれったかった。

ジュリーならではの色っぽい目の語りが見られる
最後の「それが今」にたどり着くまで、
もう一回トイレに行ってきていいだろうか。
気の長さを試される、リトマス試験紙みたいな歌だった。

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「オルタモントの悲劇」で名高い69年に行われた
フリーコンサートをドキュメンタリーにしたものである。
「ウッドストックに対抗するものを」との掛け声でつくられたとは
きいたが、トリをつとめるストーンズのライブで殺人事件が起こって
しまった。そのシーンがメインではあるが、

ほかにもレコーディング風景や、ティナ・ターナーら
前座のステージなど、さまざまなシーンが盛り込まれている。

スタジオで吹き込んだ「ワイルド・ホース」をみんなで
試聴しているシーンでは、カメラはツアーの疲れで半分寝ている
チャーリーら、メンバーを一通りなめるように撮った後、
ミックを大写しにするが、彼は歌っている本人だからなのか、
「はずかしー」というように顔を伏せてしまい、
奥歯をかみ締めているらしい顎の筋肉だけがくっきりと
「カメラ、どっか行っちゃってくれよ」と語っているようだった。

私は6歳の息子を相手にするように
「誰もミックのこと気にしてないから大丈夫よ」と
語りかけたくなった。
その時キースはうっとりした表情で曲に聴き入っており
寝不足など超えているようだったが、やはりラリっていたのか。

さてライブで警備を務めていたのが暴走族集団のヘルス・
エンジェルスで、観客の暴動を鎮めようとする警備の行き過ぎが、
悪夢を生んだとの見方が出来る。
彼らのひとりがついに「ナイフ」を取り出してしまったのだ。

たしかに直前まで行われていたアメリカツアーの観客の
程度を超えたマナーの悪さには、ストーンズも辟易していた
ようだが、それでも「警備をつけない」ことはミック・ジャガー
の建前であり、理想でもあった。

それなのに、よりによって「体制側ではない自分たちの」立場
であるヘルス・エンジェルスに警備を頼んだことを
ミックが後悔したときには時遅く、彼らは「我が物顔」で
こん棒を振り回し、観客を殴る蹴るの暴行に及んでいた。

最初はほんの小さな過ちだったものが、積み重なれば
いつしか大きな事件になって戻ってくることはあるが、
「ピースサイン」をして、大人しくしようと努めている
観客も、暴れている者も、全部いっしょくたに威嚇する
やり方は「横暴」であった。

彼らが裸の女性に危害を与えようとしたときには
ミックは一応ジェントルマンとして「そこまですることないだろう」
と抗議したらしいが、あとはなす術も失っていたようだ。

ヘルスエンジェルスの一人がかぶっていた「それ、どこで売ってるの?」と
オズオズと取材したくなるような、アニマルを模した
帽子を、何年か前日本で実際に起きた連続殺人事件の犯人が
かぶっていたのを覚えているが、その怪しさが象徴するような
不穏な空気がライブ会場を包んでいるのが伝わってくる。

空気を察したミックは静かに語り始める。
選挙演説に立つ、候補者のようだ。
「ブラザー、アンドシスター」
こころなしか声は震え、そしてひっくり返ってもいる。

「誰が、何のためにそんなに争うんだ?」
「ねーサンフランシスコのみんな、ちゃんとできるところを見せよう」
「僕たちはみんなやればできるんだから」
「君たちにはできる!ヘルスエンジェルスも、みんなも
静かにしよう!座って大人しくしよう、やればできるよ!」
「YOU CAN DO IT!」

最後には「カモーン」と哀願までしているミックについて
「聞いてられねえな」とばかりにキースが割って入り
「大人しくしないと俺たちは演奏しないからな!」
ときっぱりと叫んだ。

のちにキースは「野蛮人相手にミックみたいな
こと言ってちゃダメだ」と、
「ミックの野郎は生っちょろいな」のような
調子で語っている。

キースのように毅然と出来たらカッコいいかもしれないが、
しかし、それでは安易とはいえないだろうか。

記者会見のシーンでもミックの「マイクロ・コスミックソサエティー」
といった言い方に対し、「まーた難しいこと言ってやがるぜ」
という表情のキースは、ま、そういうところは実際的なのだが、
案外誰よりもムードに流されやすいところがある。

80年代のアメリカツアーで今度はステージにあがってきた
ならずもの(あとでスタッフだったことが判明)に
命より大事であるはずのギターを武器にして
振りかざすキースを「かっちょえー」というファンが
多かったようだが、
そんな見かけサムライのようなキースより
ミックこそがサムライだと、私は思っている。

なによりミックの「You can do it!」の言葉は
いつまでも心に残るのだ。
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上村一夫原作の劇画の、映画化されたものを
伝説の「京大西部講堂」に見に行った覚えがある。
私の前に、あの久本雅美がしゃがんでいて、
ゲストか誰かの登場に対して、テレビと同じ大仰な拍手
で応えていた。

映画は「同棲時代」といって、
あの化け物のように昔から変わらない美貌の由実かおる
主演のものと、高沢順子主演の続編とがあったが
その時見たのはたしか後者だと思う。
久本のインパクトが強かったのか、内容がかすんでいる。

「同棲時代」はドラマ化もされ、こちらは梶芽衣子主演、
そして相手役が沢田研二であった。

こういう「四畳半」ものに、めっきり弱かった私は
烏丸せつこ「マノン」、桃井かおり「もう頬づえはつかない」、
田中美佐子「ダイヤモンドは傷つかない」、
南佳孝の主題曲でおなじみの、浅野温子主演
「スローなブギにしてくれ」と、もうあびるほど観たが

それらは、美男美女が演じるから絵になるようなものの、
実際にあったら悲惨かもしれないような貧しい青春物語であり、
そこには必ずと言っていいほど、世に疲れた中年男性と、
全く頼りにならないが、若さだけは腐るほどある同年代男性と、
その間で揺れ動く「私」の存在があったように思う。

制作年度を調べると、みんな80年前後に作られていて、
ちょうど私が、故郷も家も出た頃と重なるが、
(と言うとかっこいいが、追い出されたのである)
自主的なようでいて、きっちり時代の風を受けていたのか。

何に憧れていたのかと言えば、その「宿無し」感覚ともいう
「ボヘミアン」の自由さだろう。
でもじっとして現状ばかり憂いていても、それはブルースに
しかならないのと同じく、目的なくウロウロしたところで
それは自由でもなんでもないということには、まだ気づいて
いなかった。

「同棲時代」については70年代前半の作品で、
上述の映画よりはもっと前の、
かぐや姫の歌う「神田川」にリンクするような時代の話だ。
銭湯に通う同棲中の男女が、たまにバイトで臨時収入が入ると、
吉田拓郎の「旅の宿」にシーンを移して、熱燗とっくりの首を
つまんでみる、みたいな。

「神田川」で歌われる「男女が銭湯の前で待ち合わせしている」
シーンでは、どうして長ブロのはずの女のほうが
「洗い髪が芯まで冷える」ほど先に出て待たされているのか?
という疑問もあったが、(「小さな石鹸カタカタ鳴って」って、
寒いを通り越して震えてるじゃないか!)

恐るべき「カラスの行水」女なのか、それともその
のんびりした男が、「急ごう、彼女が待っている」と
あせることをしたくないほどに、2人の仲は冷え切っていたのか
おそらく後者なのだろう。
いずれにしても、この場合は早く別れたほうが女性に
とっては身のためのような気もする。

「かぐや姫」にはほかにも「赤ちょうちん」や「妹」という
曲があり、タイトルをつけた映画のヒロインには秋吉久美子がいる。
彼女のように、こうした映画のヒロインは申し合わせたように、
ベビーフェイスだが、それが女性の弱々しさ、はかなさを
表現しているのだとすれば、ドラマ版「同棲時代」の梶芽衣子は
異色で、原画の雰囲気に近い。

そのドラマ「同棲時代」について対談した同世代のジュリー、
ショーケンはともに「同棲するぐらいなら結婚する」、
「無責任に、いつでも別れられるということを前提になんて出来ない」と語っている。

こんなことを言っても2人とも離婚しているけれど、
それでも「いつでも別れられる」という前提で一緒になるのとは
雲泥の違いがあるのだろう。
やはり「安々と出来ることより、挑戦を」選ぶのだ。

まだ「同棲」という選択肢がようやく認知され始めたこの頃は、
80年代のそれよりも「同棲」自体に対する「後ろめたさ」
があり、そこにはやはり、「ためらい」「葛藤」が感じられる。

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沢田研二の幻の映画といえば「MISHIMA」だろうか。
海外でしか見られないと聞いたことがあるが、
澤會のメンバーなら、もうチェック済みなのだろうか。
一度入ると魔界に紛れ込んで出てこられなくなりそうで
入会を躊躇している私だが、(こりゃ「もぐり」だな)
見てみたいものだ。

三島由紀夫自身を描いたもので、彼の作品3編が盛り込まれており
沢田はその中の「鏡子の家」に出てくるという。
あの自決の日のドキュメントもあり、
出演はほかに緒形拳、李麗仙、烏丸せつ子、横尾忠則といった
興味深い名前も挙がっている。

三島由紀夫本人制作、主演の幻の映画というのもあったなあ。
「憂国」がそれで、彼はボードビルで鍛えた裸体をさらけ出し、
みずから身体をはって見せていた。

どちらも一時「まぼろし化」されたのは、三島の遺族の反対という
背景があるが、「遺族」というのは、ずいぶんと
権限があるものなんだなあ。

さてストーンズには、「コックサッカー・ブルース」という
幻の映画があって、「憂国」のように映りが悪く、
「サイレント」であるのは演出なのか何なのかわからないが、
ツアー中のメンバーが
ドラッグでらりるシーン、グルーピーと決めるシーン、
キースがホテルの窓からテレビを投げるシーン、
飛行機の機内で裸の女性とローディがたわむれ、メンバーが
タンバリンなどを叩いてはやし立てるシーンなどが盛り込まれていて、
これも今は流出しているはずだが、

のちにミックは、「あれはスタッフに言われるままの
ことをして、撮影した。」
「彼らとしては発表したくてうずうずしているのに、
何だか知らないけど発表しないことにしたようだ」
などと語っている。
「封印」の真相はそういうことだったのだ。

これはストーンズの「悪」のイメージを前面に出した、
ある意味タイガースの「世界は僕らを待っている」と
変わらないプロモーション映画であるとも言えるし、
見た限りそこには「デカダンス」という言葉しかないが、
当時のファンにとっては「さすが、ストーンズ。やることが
違うぜ」といったところだったようだ。

「ストーンズのすることに間違いはない」のだろうか。
それでは彼らの「悪」の意味はなくなってしまう。
「いくらストーンズでもこれはないだろう」とか、
「悪いとされていることでも、美しいこともあるな」とか
三島由紀夫のように「身体で」捉えなければ。
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天地真理主演の「虹をわたって」という映画があったらしい。
いったい何だこの時代がかったポスターは!
そこにはショーケン、岸辺シロー、そして相手役の男
沢田研二。

歯医者の待合室で、「あっ真理ちゃんの映画があるんだ~」と
雑誌であらすじを読んだ覚えがあるが、「あの男」はジュリー
だったのか。
そう言われるとおぼろげに浮かんでくる。
72年とあるから、私はまだ小学1年生だ。

その頃、ほかの児童の例にもれず「洗脳」されていた私に
とって、ジュリーなど「真理ちゃん」の相手役でしかなかった。

ショーケンが出ているというのはなんだろう。
当時ロックバンドのPYGがうまく軌道に乗らず、ジュリーを
ソロにという話になり、いやいやながら「君をのせて」を
出した頃だ。そうした事情をひきずっている配役である。
ジュリーがワキ役なら、ショーケンはチョイ役もいいとこだろう。

「水色の恋」ほか真理のヒット曲が挿入され
その中にたった一曲「君をのせて」とある。

その後、私たち小坊のあいだでは「天地真理って、楽屋であぐら
かいてタバコ吸ってるらしいよ」「えーうそーいやだー信じられない」
という展開になり、ファンをやめる子も徐々にいた。
ガキなんてそんなものだ。
真理ちゃんという宝石が、タバコの煙でくもってしまった
ようなショックを受けてしまうのだ。
というよりガキは成長が早いので、単に卒業してしまうのだ。

ジュリーは、ファンに対して
「あんたたち好き勝手に応援しておいて、もう卒業したから
サイナラと言うんですか。卒業するなんて、じゃ、僕は
一生卒業できなくていいんですか」(『我が名は、ジュリー』)
と、お得意の理屈と関西弁を駆使して、訴えたことがあるらしいが、
(本当は「捨てないで~」とすがりたかったのかもしれない)

この世には仕方のないこともある。
いや仕方のないことばかりといってもいい。
「じゃあ僕は、いったいなんなんですか、というわけだ」
と言われても、ねぇ…(お互い顔を見合わせる)

その4,5年後である。
「ジュリーって桜田淳子とつきあっているんだって」
という、まことしやかな噂が流れていた。
「しあわせ芝居」はジュリーのことを歌っているらしいよとか。
ジュリー本人も「僕、桜田淳子さんが好きらしいですね」
とヌーボーとした口調で、ひとごとのように語っていた。

まあその頃には、ジュリーもただの「相手役の男」を脱して
ソロとして成功していた、という証拠だろう。
あの「虹をわたって」のポスターが分岐点だったのか。
いいように使われたショーケン&シローっていったい…
なんなんですか、というわけだ。


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京都のパチンコ屋の2階に「みなみ会館」という
ミニシアターがある。
昔、そこの会員になっていたのでよく見に行った。
「ひなぎく」や、寺山修司や、ロシア映画や、
はたまた成瀬巳喜男といった、雑多なラインナップにまじって、
ザ・タイガース「世界は僕らを待っている」ほか3本?
というのもあった。

ほか3本は、たぶん「華やかなる招待」「ハーイ!ロンドン」
といったところなんだろうが、もう最初の「世界は~」1本で
お腹一杯、ごっそさん、といったベタベタのアイドル映画だった。
あらすじなど、悪いけど知ったこっちゃない。

その頃ジュリーのお相手は、久美かおりが常連で、
(久美沙織かと思ったが、それはコバルト文庫の作家だ。
昔コバルト文庫には、ジュリーを思わせるサリーといった
登場人物もよく出ていたように思う)

それにしてもどうして日本人はジュリーや久美かおりといった
2枚目が好きなのかな。
ショーケンなどアクの強い俳優は、2の次だ。
(あ、だから3枚目なのか?)
言いたいことも飲み込んでいるようなストイックな
それともあまり言いたいこともないのか、
顔もスッとして無味無臭のような…
これまさしく、アイドルだ。
あんまり余計なことは言わないほうがいい。

そういえば、ストーンズ来日時に筑紫哲也の番組で
ミック・ジャガーがインタビューを受け、
「あなたのチャームポイントは?」
という質問に、目を白黒させたというエピソードがある。

そして答えは、よっぽど窮したのだろう、
「そんなこと、聞かれたこともない」というものだった。
もっともだ。

彼はしかし興味を持ったらしく、そのあと
周囲の人間に「俺のチャームポイントって、どこだ?!」
と聞いていたらしい。
まあ日本でも、そんなこと聞く奴フツーいないだろう。

話が完全にそれた。
「世界は僕らを待っている」はミュージック映画という要素も
あり、さまざまな歌が挿入されているのが一番の見所だ。
「僕のマリー」をはじめとするヒットパレードにB面その他の
歌も盛りだくさんで、趣向をこらした歌唱シーンと
観客も巻き込んだお祭り騒ぎが楽しめる。

観客も、というのは、ジュリーだけが遠い惑星かどこかに
連れて行かれているため、コンサートまっただなかの
武道館に戻るのに、観客の声援を要するというもの。

「みんなが一緒に歌ってくれないと僕は帰れません!」
みたいなことをジュリーは叫ぶのだが、当時、
実際に一緒に歌う、あるいは声援を送るという現象はあったのか。
当時の女性ファンならやりかねないのだろうか。

もちろん、こなれた「みなみ会館」の客たちは
誰一人やろうとはしなかったが、いくらスクリーンからとはいえ
人が一生懸命呼びかけている間、涼しい顔で押し通すのは
居心地が悪く、時間も長く感じるものだ。
「自分は何を観に来ているのだろう」と我にかえる瞬間でもある。

唯一2度歌われる「銀河のロマンス」は、映画のテーマソング
でもあるのだろうか、それともちゃっかり新曲の宣伝なのか、
とにかく、う~ん、きれいな曲だ。
「シルビーマイラブ」と、今でも調子よく口ずさめるが、
ファンはたしか「シルビー」のところでいちいち「キャー」と
黄色い声をあげるはずだ。
もう、世界はタイガースと君たちのものです。
まちがいありません!

ほか3本?の映画の影が完全に薄くなるほど、
「世界は僕らを待っている」は彼らの代表作であることが
うなずける迫力があった。
ミュージカル映画?としてある意味秀逸と言ってしまって
いいのだろうか。

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ゴールデンウィーク、やっと終わった、ふう…
これで子連れ主婦なので、けっこう色々出かけたのだ。
「ファミリーハイキングって…これハイキングちゃうやろ!」
と泣きたくなるような、サバイバルな山登りをしたり、

「立ちんぼー人生、味なものー。通天閣さえ立ちんぼさー」
という「釜ヶ崎人情」を頭の中でグルグルさせつつ
(ウォークマンがなくても大丈夫!)
あのディープな街「新世界」を通って、天王寺動物園に行ったり。

ジャンジャン横丁には愛すべきオッサンたちがいる。
会う人会う人に「ニイハオ!」と元気に挨拶して通り過ぎる
オッサン、からのペットボトルを頭にジャラジャラつけ、
空き缶をイヤリングにするという、ナイス!ないでたちで、
ダンボールを引っ張っているオッサン…
ここは動物園の延長だったろうか、とふとわからなくなるほど、
みんな相変わらずいい味出していた。

好きなタイプは「ドカベン」の岩鬼と「花の応援団」の青田だった
中学時代の私にとって、大阪のダウンタウンは、憧れの場だった。
これらの街の生命力ある特異なカルチャーは、世界に誇れるものだ。

せかされながらも、立ち去りがたい思いで「ミュージック・テープ」
の店に入る。カセット半分、DVD半分で、演歌率が高いようだ。
「せっかくだから串カツが食べたい」とせがんでもみたが、
夫が「こういうところ」で食べるのがどうもイヤらしく、
「並んでいるから」とか何とか言うのであきらめて歩を進めたとき、

頭と手を震わせながら怪しい音楽を鳴らし
日本人形を操るオッサンに遭遇した。
出た! 老人ストリートミュージシャンだ。
立て看には、「NHKと奈良テレビで放映されました」と宣伝文。

しばらく見ていると、夫は何か心を動かされたらしく、
子供2人に百円ずつ渡し、かごに入れて来いとうながして
自分はよそを向いてしまった。

そうだ。「同情するなら金をくれ」というじゃないか。
いや、「同情するなら俺にくれ」と思っている夫にとって
それは同情じゃなく、心の動きを形に表したかっただけだ。

人だかりというほどでもないが、小さな人垣の中で
自分たちだけ前に出て、百円を入れる、ただそれだけのことだが
子供たちはとても勇気が要ったらしく、ためらいつつも
一歩前に進み出た上の子の背中は、決意の炎に燃えていた。

その夜のピロートークで、「あの震えるおじさんに勇気を出して
お金持って行ったね。かわいそうになっちゃった?」と聞くと
「ううん、持って行かないと、いつまでもそこにいないと
いけないと思ったから」。
そうか、そんなもんだよな。

私はここで松本竜助を思い出した。
あれは、「青年の主張」のような番組で
彼は涙を流しながら、あることを力説していた。
「身障者だからかわいそうなんですか?
かわいそうと思うから可哀想になるんとちがいますか?
同じ立場の人間として、見たまま感じたままを言えばいい
やないですか!」

松本竜助は堂々としていた。
いつも、小さなつぶらな目をぱちくりしながら、
才気ばしった島田紳助の横で一生懸命うなづいていた竜助が、
あれほど大きく見えたことはなかった。

夫を弁護するわけではないが、彼が「こういうところで食べたくない」
のは、もっと清潔感のあるところで食べたいだけで、そんな自分が
誇らしいわけではけっしてないのだ。

あと、その界隈の飲食店は「何の肉を使っているかわからない」
といった類の噂にうろたえる、ただの「ゲテモノ苦手な人」なのだ。
かの中島らもは、「あぁそれは、天王寺動物園の死んだ獣の肉ですわ」
とこともなげに言ったらしいが、私の夫は結婚式のときも、
同僚の作った調味料をドバドバ入れた怪しげなジュースを前に、
立ち往生してしまい、業を煮やした私は思わずそれを奪って飲んだ…

どうやら私は、どろソースの、岩鬼や青田の濃さを中和するために
こういうウスターソース夫と一緒になったようだ。
それでもソースに違いはないだろう。
そして夫は、私こそが食うに食えないゲテモノと見落としていた。

ともかくそうした、人の単なる好みの問題について
「そんなこと言ったらダメでしょ、ここで食べましょう」などと
ムキになることこそ「差別」だし、

オッサンたちにカルチャーショックを受けたからと
言って、彼らをもてはやすこともない。
おもちゃのようにほっぽり出すことになるのなら…
そうしたことを、竜助は泣きながら叫んでいたのだろう。


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ジュリーは高校時代、空手部に入ったというが
歌のフリに、ミック・ジャガーのような空手チョップを垣間見せるわけでもなく、
昨日書いた世良正則のような空手の型風のアクションをするでもない
ので、かえって、「あれでいて、本当はすごく強いんじゃ…」と
思わせる効果もあったといえばあった。

空手というのはなぜ習うかと言えば、おそらく「心の形成」
といった高尚な理由ではなく、「強くなりたいから」、それにつきる。
ジュリーも中学時代の野球をやめて、空手に移ったというのは
もっと強くなりたかった、それだけのことだろう。

私が剣道をやっていたというと、「それじゃ痴漢がいたら、
やっつけられるわね」と即座に反応した人がいて、
「そういえば、もし傘を持っていたら、小手!ができますね」
と答えたが、いるかいないかわからない痴漢をやっつけるために
習うわけでもない。

中学位の年頃というのは、尾崎豊の「卒業」のように、
力だけが必要だと、かたくなに信じるところがある。
(「卒業」も今では教科書に載っているらしい。トホホ…)
ジュリーは「番長グループ」で、他校の生徒とよく喧嘩を
したらしい。「喧嘩は仁義などありませんから、先手必勝です」。

彼らの間では、喧嘩をしたらその後は仲良くなる
という不文律のようなものがあるが、
「許し合い、いったい何わかりあえただろう」というじれったさは、
大人と子供の間にかかわらずついて回る。

ワザを持つものには「自覚」もいる。
ワザを普段の生活で素人相手に使ってしまったら
どうなるだろう。
ジュリーは高校時代、駅でからまれてワザを使ってしまい
相手が伸びてしまって気持ち悪かったと語っていた。
たしかに目の前で人間が伸びてしまうと、怖いだろう。
一概に言えないけれど、多くは恐怖のあまり
「ごめんなさいもうしません!」と思う。

私が子供の頃、毎日えさをやり、世話をして大事に育てていた
屋台のひよこが「そういうところで売られていたにしてはめずらしい」
と言われるほどに成長し、鶏の白い毛もだいぶ生えて大きくなってきたことがあった。
私たちの後を追ってどこまでもついてきて、ニヤニヤしながら
隠れると「どこに行ったんだろう」と小首をかしげ、
「ピーピー」と鳴きながらキョロキョロ
していた「ピーちゃん」。

その後追いは「刷り込み」のような鳥の習性だったことは
ずっと後で知ったが、
ある日の朝、寒かったのだろうか、ダンボールの隅に
身体をまさにぐんと伸ばしたかっこうで冷たくなっていた
ピーちゃんを見たとき、恐怖のあまり
今までの頬ずりしたくなる愛らしさがどこかに消え、
まったくの「異物」になってしまったことを思い出す。

私はそのひよこを素手で取ることが出来ず、
ティッシュでつかんだ。
そんな自分もイヤだったし、それ以前に懲りてしまって
それからは屋台でひよこが売られていても、前を素通りした。
「私はピーちゃんをティッシュでつかんだのだ」という
ことが頭から離れないのだ。

それと同じような、(同じかどうかは知らないけれど)
「俺は人を伸ばした」という
恐怖の入り混じった抑制力がはたらいて
「ワザを持つものは、2度と素人に手を出すな!」という
自覚が生まれ、ジュリーは、空手をやっていたからこそ、
歌のフリにさえ使えないのではないだろうか。
きっと、しゃれにならないのだ。


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歌謡ロックといえばジュリーだけでなく
世良正則とツイストというグループを思い出す。
その後ツイストになってからどう変わったのか知らないが
ガンガンヒットをとばしていた頃の彼らを覚えている。

まずその歌詞の内容は、歌謡曲やアイドルにはちょっと…
という大人っぽいものだった。
「銃爪」「あんたのバラード」「燃えろいい女」
これらをざっと見わたすと
世良正則の好きな女性像が浮かんでくる。

それはRCサクセションのように
「僕がトランジスターラジオを聴いているとき」
教科書を広げているような、冗談言うとぶっ叩かれそうな
毅然とした女性ではなく、

「初恋」の村下孝蔵のように、
「僕がジトーっと校庭を見つめている」
先にいる体育会系でもなく、

ちょっと自分には手の出せないような、
思い切って手を出しても、
どう扱っていいかわからないような、
ちょっぴりSの入った遊び人お姉さま系だろうか。

その女性を征服しているらしいセラは、彼女にふさわしい
男として、いっきに彼女のかたわらに君臨することができるのだ。
そのときの彼の表情はどんなものだろう。
威張った風だろうか、それともジゴロ風なのか。

そのセラの空手の形ふうアクションは、新鮮だった。
彼のも、ジュリーと同じく「なんか運動していたんだろうな」
と思わせる身体能力の高さを感じさせるものだった。

彼は、ジュリーの、白く綺麗な手ではない、
小麦色のごつごつした身体に浮かぶ青筋が印象的だった。
そんなにきばらなくても…
丹田に重心あり!という安定感もジュリーと違う。
声も、上田正樹やキース・リチャーズが、人為的に
手に入れた、そしてジュリーも憧れた、野太いしわがれ声を
すでに天から与えられていた。

昨日のべたヴィジュアルにおける
「アンバランス」の魅力について言えば彼の場合、
肉体労働も可能だろう筋肉質のガタイと、
つぶらな瞳の童顔のミスマッチだ。

もうひとつは、その「クラスの人気者男子」的なさわやかさが
そのアクションや、歌詞を邪魔しているのか
助けているのか、わからないところかもしれない。

ごつごつとした歌詞と身体、声に比して
何のひっかかりもない、ソツのない受け答え。
つぶらな瞳は、なぜあんなに陰りがないのか。
どこに出しても恥ずかしくない、お嬢さまの様だ。
あばずれの「宿無し」は、歌詞の中だけだったのかもしれない。

「明星」「平凡」の表紙に白い歯を輝かせてたびたび
登場する彼が、作詞作曲をするシンガーソングライターであることは、
もうこの際どうでもいいことになっていたように思う。

あの「歌謡大賞」のよしだたくろうのように、何かをかたくなに
拒否し、守るような態度も取らず、嫌な顔ひとつ見せず
歌謡界にあまりにも自然に溶け込んでいった世良。
今もローリング・ストーンズライブの常連だ。



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沢田研二のヴィジュアル系ヒットパレードと
運動神経は切り離せない。
なぜかっこいいのか。
それは彼の運動神経がいいからだ。

なにげないアクションでも、運動神経がいいと
伝わるものが違う。
運動神経、それは何も考えずとも
すべてのバランスを取り、海を越え、世界に通用するのだ。

沢田研二は、中学時代は野球部で活躍したという。
それでも「芸能人野球大会?」では、「花形で、これか」
という、文化系男子のナマッチロサのそこはかとなく
漂う、精彩の欠いたものだった気がするが、それは仕方ないだろう。
音楽もやっているのだし、一日中からだを鍛えているわけにいかない。

もうひとつ「芸能人運動会」というのもあったが、
これにはたしか彼は出ていなかったと思う。
「水泳大会」にも見当たらなかった。
メンバー登録していなかったのだろう。
やはり野球が一番自信があったのか。

運動会や水泳大会は西城秀樹や、郷ひろみが常連で
「御三家」のもう一人、野口五郎は覚えていない。
出ていたとしても影が薄かったのだろう。

スマップでいえば、ちょうど名前も同じ、
「運動神経いまいち」も同じの、稲垣吾郎の
ような野口五郎が、私は3人のなかで一番好きで、
「カックラキン大放送」など楽しみにしていたが

なるほど、歌のフリについては、そういえば大人しかった。
「針葉樹」「私鉄沿線」…歌はとてもうまいのだが。
演歌でデビューしたというのもうなずけるキャラだ。

話を強引にジュリーに戻すと、それだけやはり
身体的要素は強いのだと思わざるを得ない。
運動神経と、もうひとつ、あの指の長い「手」がポイントだ。

「勝手にしやがれ」の「アーア アーア」に代表される
妙に手の大きさの目立つフリがそれだ。
女性でよく、「私はまっさきに男性の手を見ます」と
言う人がいて、そのあとは「骨ばっていて、指が綺麗で」…
と続くのだが、じゃあ気は合うのに、お猿さんのような手の
男性だったらどうするのかな? と思ったものだ。

得がたい相性をとるか、手を取るか…
案外究極の選択になってしまうほど、彼女にとっては重要
ポイントなのかもしれない。

その意味で、どんなバランスがヴィジュアル的に受け入れられるか
わからないから、運動神経がなくても(ない人はいない)希望はある。

たとえばこの間また捕まったボーイ・ジョージは
あの巨体がかえって、すべてをうまくカバーしてくれていた。
身体を左右にゆすって、たまに片足をヒョイとあげてみる程度の
あいらしい踊りに、夢を投影することが出来た。
ところがもし彼が痩せて(途中からドラッグで本当にダイエットできた
ようだが)細部がむきだしになったら、夢は覚めてしまうだろう。

あの、どすこい風の巨体と化粧という、
なんともいえないアンバランスが、
妙にいいバランスを生んでくれていたのだ。
ヴィジュアルの世界はどこでどう転がるかわからない。
美しい誤算を期待したい。
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ストーンズの「Let it bleed」(血を流し続けろ!)は、
知ってのとおりビートルズの「Let it be」のアンチであり、
「All you need is love」への返答としての、
「誰でも血を流す相手が欲しいのさ」
(We all need someone we can bleed on)である。

誰もが愛を求めているのかい?
漠然としていてよくわからないな。
それより、がっぷりよつに組んで血を流す、
そんな相手を求めているのかもしれないぜ。
(これもよくわからないが)

なんなら、俺がそのお相手を勤めてあげよう。
と、ミックは言いたげだ。
(以上、歌詞の引用ではない)

俺を使ってくれ、寄りかかってもいい、貪り食べてもいい、
そして夢を見てもいい。

そしてここで気づくのは、
そういえば血を流しながら死んだ男がいたっけな、
ということだ。(私だけか?)

その一人が、かのイエス・キリストだと言っていいだろう。
そのリアルな愛の正体は、ストイックなマゾヒズムである。
それはいつしかキリスト教というトリックに変わった。

キリスト教を否定するわけではないが、
自分が恵まれていると思うのなら、
人を哀れんでいる暇に、することがあるだろう。
どこかにある天国じゃない、現実のこの場で、
自分にできることをする。
限りある人間にできることは、それしかないのに。

弱い者を可哀想がって自己満足して、
そして上で操る者にいいように使われて、
結局もっと助けられるべき人はないがしろだ。

リアルな世界で戦っていれば、
常にはりつめた危機意識とともにあるため、
寝言は言えなくなる。
「レット・イット・ビー」?
それで食べていけるのか。
野性の本能は目覚め、目がキラキラと輝く。

でも、宗教に入り込んだ人も、別の意味でキラキラしている
じゃないか。どう違うんだ?

それだけ人間のイメージの力は強いということだろう。
何もないところに家を建て、川を流し、鳥を飛ばせる。
無にさえ有を強引に当てはめることもできるのだ。

夢の力は強いし、色んなことを成し遂げるけど
「それはなかったんだよ」と言って
基本に立ち戻らせてくれる人がいなければ
キラキラしたまま誰かの犠牲になってしまうかもしれない。
なんでそんなことをするんだ?
それは夢を守るためだ。

だから「エモーショナル・レスキュー」のように
自分は選ばれた人種だと思っているのか?
奴のペットのペキニーズだと思っているのか?
と、覚醒をうながす救済者も必要だ。

なんでもない、男という生物に、(別に女との違いもない)
そうした面倒な役割をあえて担わせるのは、
魂の救済者として、自分は使わされたのだという
「自覚」だ。
それがなければ、彼らは糸の切れた凧のようになるのかもしれない。

世の中にあふれてる、「犠牲者」に知らん振りできなくて
それらをすべて自分の「痛み」として受け入れようとすること。

その「自覚」が、
自分で自分の首を絞めているような
堅苦しいネクタイであったり、
武士の重たい日本刀であったり、
真夏でも脱がない背広だったりするんじゃないか?
「クールビズ」が妙にマヌケに見えるのは、そのせいだろう。



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昨日の続きになるが、
ストーンズだって、いまだに団体でロックしている。
それは、キース・リチャーズの、「男軍団に対する偏愛」
という要素もあるが、ミック・ジャガーの「これが人間ってもの
だろう?」みたいな本質を問うパフォーマンスでもある。

弱さをなめ合うために集まるのではなく
一人でも生きていける強さを持つ者が、あえて集団で
悩み、挑戦し続けることがそれだ、という主張だ。

そこにはドラムのチャーリーのような、ロックンロールのノイズに
とても迷惑そうな顔のジャズファンもいれば、
(どうしてロックバンドにいるのだろう)
ロニーのような、どこにでも出張可能なお笑い系がいたり、
その昔はミック・テイラーのような文科系がいたりする。
画一的になって団体の意味はあるだろうか。
そのなかで、隊長のキースも認められ、
幽霊部員ブライアンも存在し、というのが本来のはずだ。

泥まみれのリアルな人間関係の中で個を保ちながら、
そのうえで相手を思いやることが「隣人を愛する」ことであって、
その考え方は世界平和へとつながっていく。
自分を取り巻く者たちを置き去りにして、
遠い国へ「慈善活動」に行くのは本末転倒だ。

外面はいいくせに、自分の「所有物」は蔑ろにする。
あるいは自分に直接関係のない者を粗末にする。
そんな結果につながるなら、
自分の今いる状況に「居場所」をつくって
そこで戦ったほうがいい。

かつて60年代を代表する2大バンドの
ビートルズと、ローリングストーンズは
一方はボンボン風、一方は不良として売り出されたという。
ビートルズは、数多くの名曲をものして、ミックのいう
「早々にスタジオに引っ込んじまった」バンドになった
が、ストーンズは、ライブでこそ曲が生きるバンドとして
ライブ・パフォーマンスを最重要視してきた。

それはビートルズのように、名曲をレコードとして
残すというよりも、ライブで観客が感じるただ一瞬の
無償性を大事にしたいというアピールだ。
そこにはビートルズのアンチ・テーゼとしての
「レット・イット・ビー」(あるがままに)に対する、
「レット・イット・ブリード」(血を流し続けろ)のリアル感がある。

そのライブの「血と汗と涙」は、表現を変えて、演歌になって
みたり、ブルースになったり、ストーンズになったりするのだろう。

彼らはけっして「殿堂入り」することなく、
ビートルズのように「マハリシ・ヨギ」やインドや
ヒッピーやヨーコに「行ったきり」になることもなく、
ちゃんと自分たちの居場所に戻ってきた。
ミックなど「何でも見てやろう」精神で、
色んなところに出入りするのだが、結局すぐ戻ってきてしまうのだ。
「マハリシって何だ? 興味あるな。
でも金ばかりとりやがって、忌ま忌ましい、やめた!」。

その意味で彼らこそ、たとえば「オウム」や
「ヤマギシ?」に行ったきりになることのない
「地に足の着いた」バンドということができる。
天才肌ではないかもしれないけれど、息の長いバンド活動、
それ自体が、バランスすなわち「平和」を歌っているではないか。

さて石原都知事だが、今回「特攻隊」を美しく表現した
映画をプロデュースしたらしい。
彼ら特攻隊などの犠牲の上に、自分の恵まれた人生は
あったのだ、だから彼らを崇めよとでも言いたげだが、
死んでから感謝されたって仕方ないのだ。

本当に彼らを思いたいのなら、
どうしてそういう事態は起こったのか
「現実的に」検証するのがせめてもの償いだ。
彼らを気の毒だという思いは、「2度とそれをしてはならない」
という反省につながるのが当然だ。
映画をつくってしみじみしている場合じゃないだろう。

絵空事を描く人が、先頭に立つのは危ない。
だからビートルズは、素晴らしい曲を作っていれば
それでいいのだ。
と、ミック・ジャガーは言いたかったんじゃないだろうか。





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