サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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ケンポーとバイブル 
キリスト教を信じてひたすら「人のために」東奔西走してみると
なんとなく自罰的になってくる。
そんな時、なにげに憲法をひもといてみると、目からウロコだ。
日本人はこんなに権利をもらっていいのか。
全部私のものなのか。
そうだ、あなたのものだ。
ただし、この権利という言葉、原文ではrightだったという。
このニュアンスで解釈すると
rightには、自分のすべてを受け入れてくれるような、
涙が出るほどのあたたかさがある。
それでいいんだよと、励ましてくれているようだ。
ゆるされたところから、道徳も始まる。

憲法は強い者たちがのさばり過ぎないように設定してある。
神のボディーの、私たちは肢体であるという考え方だ。
ひとつが暴走すれば、全体は成り立たない。

神はあえて、さまざまなランゲージをつくり、私たちに
意思の疎通を難しくさせたと聖書にある。
それは聖書を流れる自由精神の一環だ。
どう解釈しようと、「私はあなたを捨てない」。

神に限界はないのだ。
しかし人間に絶対の自由はないから、法がいる。
あとから付け加えられた、たくさんの法については
矛盾点を検討していく必要があるが、憲法については
そう簡単に変えるわけにはいかない。
なぜなら97条にあるように、「これは自由を求める人々が
長い闘いを経てようやく手に入れた成果である。この成果は
多くの厳しい試練を越えて今まで続いてきたもので
どんな時にも侵すことのできないものとして
今の時代と後の時代に、信頼にもとづいて手渡される」ものだからだ。

聖書は文学的であるとしばしば言われるが、
その理念は憲法と通低している。
この抽象性に私たちは自己を投影できる。
その諸観念はきれいごとであるとも言え、
それを言ってしまえば憲法もつくりものに過ぎない。
でもだからこそ、それは守り育てるべきものだと言えなくはないか。
有限の中において、現在進行で生きるのだ。

ところでもうひとつ憲法にうたわれる国民という言葉に
注目すると、原文ではpeopleとなっている。
これは人々の意味であり、ただの民であるととれる。
自由精神ということを念頭に置いて解釈すれば、
なおさら広い意味である「人々」のほうが、rightだろう。

もちろん国民というニュアンスを投影したければしてもいい、
しかし少なくとも、主体であるpeopleあっての国だ。
「日本人である」という自覚がある者は、民に含まれる。

キリスト教では、民のことを「神に仕える者としての人間」と
定義している。あたかも神がクリスチャンに
「私はあなた方を捨てない」と言っているかのようだ。


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日本人が天皇にこだわりを持つように、
イギリス人と王も切っても切れない関係性がある。
ミック・ジャガーは、かつてのインタビューで、
「俺の好きな音楽を教えてあげようか?
マーチング・バンドだ」と語っていた。
そのもったいぶった言い回しに、彼の「思い入れ」は集約される。
彼は女王についてあれこれ語ろうとはしないが、
彼には自分を騎士になぞらえているようなところがある。

だからと言って、誰もが女王をそのように捉えなくてもいい。
その人なりの、たとえば「憎しみ」を投影してもいい。
セックス・ピストルズは、女王を歌で皮肉った。
蹴飛ばし、踏んづけてズタズタにしたものが、
愛に転じるならそれは祝福だ。
イギリスでは、それが認められるのだ。
そこが、天皇と言えば神という観点の残る日本と
異なる点だ。ピーピー笛を鳴らす者たちに「どけ!」と
言われたら、心の接触も持てないではないか。

セクシー・シンボルとしての、ミック・ジャガーの役割も
そのようなものではなかったろうか。
彼はけっして精力旺盛なわけではないというのは
キース・リチャーズの弁だが、
ミックの発言や行動には、相当にシンボルとしての意識がみられる。
「みんなが俺に対して抱いているイメージどおりにふるまう」
ことは、みずからを「無」にしなければできない。

それがスターとしての奉仕であり、そこには「セックス」を
侵しがたいものにするための祈りが込められている。
どんな道を通ってもそこには行ける、むげには扱わないから
接触しようと思えば出来る。だけど、そこに行って
「さあズタズタにしてごらん?」と言われたところでできない。
私たちが自らを投影したものを、シンボルが映し出して見せる時、
恥ずかしくなってこそこそ退散する者もあるだろう。
シンボルは、ただ黙って私たちを思いがけず人類共通の
理想に導くのだ。

イギリスにおける女王の定義は、「信仰の擁護者」だそうだ。
日本における天皇の「シンボル」にもこの精神が息づいている。
神と私の個人的関係の、傘になってくれる存在だろうか。
女王はおふくろさんだったのか。

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「おふくろさん」考 
森進一のヒット曲「おふくろさん」について作詞家が
「森には歌わせない」と、憤慨しているという問題はまだ
尾を引いているらしい。
森サイドが勝手に付け加えた歌詞である、
「いつも心配かけてばかり、いけない息子の僕でした」は、
たしかに作詞家の意図するであろう趣旨とは正反対で、
全体をぶち壊している。

それを、「歌うな」と言われたらやめればいいものを、
「はいはい」と受け売りしておきながら、歌い続けた
卑しい態度が、問題視されたのだと思う。
あの歌詞を省くと誓うのかが問われているのに、悲壮感をただよわせて
連日「おわびをしたい」攻勢をかけても、それはまた
「作詞家がわがままで僕を苦しめる」というメッセージにしか
なっていないところが、ことをこじれさせたのではないか。

おふくろさんで歌われている内容を私なりに解釈すれば
母の愛であり真実というものは、目には見えないけれど
空にある星にもなれば花にもなる「シンボル」だということだ。
そこには希望や理想をいくらでも投影できる。
目に見えるものには嘘が入っても、シンボルは無限だ。

実際、一見チャランポランな親がいつまでも子供に慕われて、
子供のために粉骨砕身つくしてきたような親が
子供に疎ましがられているようなケースは多い。
こういうことは人間には解せないけれど、でも何か、あるのだ。

たとえば親の、子供に向き合う真摯さといったものは、
目には見えない。感じとるものだ。
それらは子供の中にひそかに息づいている。
そんなものを後生大事に抱えてくれていたら
親としてはこれ以上のことはない。
親というのは本来、目に見える見返りを求めないものだからだ。
そしてそれが、愛であり真実だろう。

「真実などない」人間にあって唯一守られるべきが、
その、親というシンボルの、ほんのひとかけらの純粋性だ。
それを侵されてはならないから、戦うのだ。
作詞家の気持ちはよくわかる。
でもそれを、目に見える戦いを持って守ったら
「おふくろさん」は汚されてしまうではないか。
あの騒動が、その証拠だ。
だから作詞家は宣戦布告はしないほうがよかった。
見えないところで、森と関係者にノーを言い続ける。
何度裏切られても言い続ける態度は、
相手に作詞家の真実を残すかもしれない。

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やっぱり嫌なんだ 
夫方の親戚のおばさんから、子供の入学祝が送られてきた。
速達だったので、その日のうちに「着きました」とお礼の
電話を入れるべきだ。だが私は、なぜか悠長に葉書をしたためて
返事をした。

次の日、おばさんから、「入学祝は届いたのかしら」と
電話が来た。しまったやはりすぐに電話を入れるんだった。
こういう礼儀に人一倍うるさい人だと知っている。
何を差し置いても電話の一本くらい入れられないことはないだろう。

私は何を躊躇してしまったんだろう。
きっと、話をしたくなかったのだ。
コンタクトを取りたくなかったのだ。
この人でなければ、すぐに電話していたのだ。

「誰が解釈するのか? われわれの欲動である」と
ニーチェが静かに語り始める。

「世界を解釈するのはわれわれの欲求だ。われわれの衝動と
その衝動のおこなう受容と拒絶だ。すべての衝動は一種の
支配欲であり、それぞれの自分のパースペクティブを持ち、
自分以外のすべての衝動に対してそれを規範として
押しつけたがっている」

めちゃくちゃ大げさだろうか。

おばさんごめんなさい、まだかまだかと電話の前で
返事をお待ちのことだったでしょう。
すぐに電話して、世間話のひとつもすれば済んだこと
だったのに。
それさえもしたくないという感情が露呈してしまった。
それは、沈黙のメッセージにだってなりえる。
いや彼女はそんなことには気付かず、いつものように
「若い人はまったく」と腹を立てていることだろう。

一度話をしてしまえば、話題の豊富な楽しいおばさんだ。
中曽根前首相の名前入りの勲何等とかいう賞状の飾られた、
おかたい警察官一族に嫁ぎ、長男の嫁として姑にも
つかえてきた。私の姑にあたる小姑たちにも頼りにされ
「模範的」な良妻賢母でずっと通してきた。
今は夫も亡くなり子供たちも帰ってこず、一人で寂しそうだ。

私から「おばさん元気ですか?」の電話の一本も入れても
いいくらいなのに、こんな返事さえ返さないなんて、
彼女の生きてきた世界では、信じられないことだろう。

だけど、「すぐ返事しないと!」というあせったような思いが、
ゆっくり椅子に座り、手紙を書くという、正反対の行動に
走らせてしまった。

そして、私はこの自分の行為をいかようにも言い訳できる。
美しい言葉で、道徳にさえできなくはない。
こんなところにニーチェを持ち出しているくらいなのだから。

ギリギリまで自己と対峙しないと、「嫌なんだよー」という
本当のところは見えてこない。

「そうだよねー返事返さなきゃ届いたかどうかわからないのに
私ったらバカバカ」と自動的に自分だけを悪者にしてことを
納めることもできる。それが習慣になっている人も多い。
「ダメだねー」という声が常にこだましている。

そうして人はどんどん真理から離れていく。
いや、これさえも私の個人的解釈かもしれない。
ニーチェが、「真理などない」と言ったのは、そこに人間が
からめばからむほどに、どんどん生まれる「捏造」が、
汚らしくて耐えられなかったのだろう。
自分だって人間なのに!

おばさんもおそらく、さまざまな捏造に翻弄されてきた、
ある意味犠牲者なのだ。

限界を意識しながら、そのなかにおいて悪あがきすること
しか我々に道はないのではないだろうか。

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いじめ問題で、最も問われなければならないのは
いじめっ子にしろ、いじめられっ子にしろ、
「マトモなわたしたち」以外の人間を、子供もまきこんだ
学校ぐるみで追い出しにかかる背景だろう。
誰がいじめているのかはっきりしない匿名性の中で
その子は、生きていてはいけない気分にさせられる。
いじめは大人社会の反映だ。

とはいっても、その絶望において、あえて子供の可能性を探る
という観点があってもいい。

教育問題を討論する番組などで、いじめについて子供たちの
意見も参考にしようとマイクを向けると、多くが
「いじめられっこも悪い」と言う。

それを聞いてただ「嘆かわしい」だけで片付けるのはどうだろう。
「いじめられっこは絶対に悪くないんだ」というのは、
理想であり、最終的には守られるべき事柄であっても、
いじめっこだって捨てたもんじゃないのだ。
「いじめられっ子は悪くない」と囲い込もうとすれば
「いじめられっ子も悪い」と言いたくなるものじゃないだろうか。

たとえば、いじめられっこの世の中に通用しない部分に
過剰反応するいじめっこは、少なくとも相手に関心がある。
そんな時、もし、自分中心に被害のみを言い立てる
いじめられっこがいれば、無性に腹立たしくなるのかもしれない。

その場合、相手対自分というはっきりした輪郭の中で、
そのいじめっ子の存在を、世の中に立ち向かうために
自分を惑わせる総体の、シンボルと受け止めた時、
いじめっこの役割は終わる。

自分を惑わせるものには、惹きつけられる要素がある。
悪い言葉は使ってみたいし、悪い友達に付いて行ってしまう。
あまりに学校で「読書はいいことです。もっと読みましょう」
などと言われると、読みたくなくなってしまうものだ。
大人にそんな本読むなと言われても、楽しいから隠れて読んでしまう。
それが生命力であり、子供の可能性だろう。

自分を惑わせるものにひきつけられるのは、
惑わされないものを完成させたいからだ。

もちろんいじめ問題はそんなすっきりとしたものじゃないし
自分をきたえてくれるいじめっ子だからといって、
いちいちその動きに合わせて対応していたら、
相手のあやつり人形にされてしまう。
その子のために生きているわけじゃないだろう。

そこではじめて自分を守るぶれない意志は必要になる。
それがあれば、自分をおびやかすものすべてに乾杯できる。
そのために、人間社会と一枚隔てた自分の世界を作っておくことも
大切なのだろう。社会との離合を自分でコントロールするのだ。

「プラス志向」とよく言われるが、いくら意志だけがあっても
無理なこともこの世にはある。
さまざまなネガティブを引きよせて、そのなかで傷つきながら
いつしかそれがプラスに転じたものが、プラス志向であるはずだ。
闇があって光もあるのに、闇だけを切り捨てるのはおかしい。

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愛はスイッチから 
今月31日に6歳になる子供が、
「ゲームのデータを全部消してしまった」と言って
大泣きしている。何の騒ぎかよくわからないが、彼にとっては
この世の終わりなんだろうなとは想像できる。

しかし泣き止んだら最後、どしゃぶりのあとの虹のように、
ものの見事に立ち直っているところが
回転する幼子の見習うべき点だが、心にすり傷程度の
成長の芽は負っているのだろう。

ミック・ジャガーを知る人のあまりの少なさに
唖然としたこの私も、彼をリサーチし執筆していた頃は
それが世界のすべてだった。
時々は現実にギャフンとなりながらも、いつまでも幼子の
回転の中にいられたら、おめでたくも幸せなんだろう。

このように、物事は価値のある人にとってはすべてでも
ない人には屁のつっぱりにもならない。

自分にとって価値のあることを決めるためには、
もちろんそれまでにインプットしたデータを吟味する
潜在的はたらきがあるのだが、結局はスイッチを押すかどうかだ。

結婚を決めたときもそうだった。
今まで周囲にいなかった健全なタイプの男性を、
分をわきまえず、たぶらかしたのが実際のところだが、そこには
「この人を好きになる」というスイッチをオンにする意志が
たしかに存在した。

そのため夫となった人には、まるで小坂明子の男性版のような、
モデルハウスと子供に優しく話しかける奥様という絵を
常に示され、時には「子供が思春期になったらに反発されるぞ」
と呪いをかけられながらも、不健全な妻に甘んじているわけだ。

思えばミック・ジャガーを好きになったときも
コンサート後に握手してもらおうとホテルへ駆けつけ
何時間も待った挙句に通用門から出入りしていることを
知ったとき、「何だ、けち臭い」と毒づきながらも
「スイッチを押すか、押さないか、さあどうする」と
自らに迫っていた覚えがある。
あの時ファンにならないという選択もできたのは間違いない。
「押しちゃったらどうなっても知らないよ~」とまで念を押した。

私もゲームなど与えられたら、廃人の一歩手前まで行ってしまう
タイプなので、そこは大人の知恵で抑えてきたが
それがミックになったところで大して変わりはありゃしない。

しかしどんなことになろうとも、スイッチを押したという
記憶がある限り、少なくとも誠意を持って、何度でも一から
やりなおすつもりで対処しなければならない。
ゲームのスイッチとはそこが違うのだろう。

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言葉の先にあるもの 
言葉に依拠すれば、それに縛られる。
「私たちこそ『聖書』に忠実だ」と言って争うことになる。

かといって「言葉なんてどうでもいい」
「理屈なんか言うな、ただ信じろ」と
その忠実であるはずの共同体、誰が決めたかわからないが
正しいはずの共同体に依存すれば、言葉を吟味しなくなる。
これらはいずれもニヒリズムで、ベクトルは死だ。

言葉を超えるためには、言葉というリアルが必要である。
それは記号でもあり、また人間の証明である血の手形だ。
言葉を使って、あらゆる可能性で、向かい合う事柄を
ためつすがめつしてみる。

茶道などで「形から入れ」というのも、そういうことだろう。
形を飛び越して、わかったつもりになっても、
何がわかったのか自分でもわかっていない。

まずは「入るときは、ふすまを座って開けなさい」などという
形に従って言われたとおりにする。
そこで「なんで? 別に立ってもいいはずだ」
「座って閉める目的はなんだ」などと、
言い始めたら先はない。
たしかに立ってもどうってことはないのだが、
狭き門から入って広い境地にたどり着く船には
乗せてもらえない。

しかしいつまでも言葉にとどまっていては沈没だ。
言葉や行儀といった形にこだわってガチガチになるのでなく、
自分なりに人間美を完成させようという意志があって
はじめて道徳が生まれる。

それはオーダーメードのように、その人にフィットした
心から歓迎する道徳のはずなのだが、
同時に不思議と普遍的だったりする。
つまり船がたどり着いた先では、
みなが座ってふすまを開けたくなるのだ。
それが、自由な精神だろう。

三島由紀夫は「女性の本質は無意識ですから」と言った。
本質と言われたら元も子もない気がするが、
かりに意識を男性の「シンボル」ととらえれば、
自由な精神にある個人は、男性にも女性にもなれるのだ。
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私は映画なども登場人物が少ないほうが好きなので
(完全に言い訳だ)、どうしても三島由紀夫、ニーチェ、
そしてミック・ジャガーで語ろうとするが、今日は三島だ。

彼の、「『葉隠れ』の、人間は犬死しなければいけないという
あの考えがとても好きなんだ」(『人間と文学』)といった言葉から
彼の死は、超人を自覚した者の芸術との解釈もできるが
他方で、昨日触れたマゾヒズムでも説明できそうな感じだ。

彼は人間はどこまで完成品に達することができるかを試していたよう
だが、その究極に天皇を据えた。いや、天皇を崇めて犬死する自分を
据えた。

三島の芸術は、憲法9条改正を目論む政治家たちにいいように
利用されたという。彼はその侮辱への反逆として、
駐屯地でのパフォーマンスを行った。それは、
見ろ、自衛隊なんて、いざとなれば頼れないじゃないかというものだ。
常軌を逸して演説をする自分に、マゾとしての日本人を重ね、
ハラキリをして武士になることでそれを超えようとした。

マゾヒストで男色と噂された三島にとって、自衛隊は
不作為の故郷だったかもしれない。しかし本当に守るべきものは
作為の中にしかないというパラドックスを、彼は示したのだ。

だから「自衛隊よ、決起せよ」と叫ぶ自らとともに
そのデカダンスを葬り、武士となって蘇ることを示唆した。
それが憂国を超えた愛国なのだと、身体をはって証明したのだ。

武士にしろ芸術にしろ、彼にとって形而上的なものではあっても、
キリスト教を嫌悪していた彼は、神そのものを究極に据える
ことはなかった。
しかしキリスト教とキリスト本人は違う。
イエスが侵略戦争をするはずはないのだ。
もし彼に信仰があれば、授かった命を自分の意のままに
しようとは思わなかっただろう。

しかし授かった命を本当に自覚するためには、
まずニーチェ的「神の死」つまり、
みずから頼るものをなくすリアリズムが必要なのだ。
天国などない。
三島という人間が蘇ることもない。
そこで初めて限りある命をどう使おうという発想になる。

まずは食べたり眠ったりすることでもいいじゃないか。
それも生きているから出来ることだ。
今やる気がなくても、それは神のバランスかもしれないと
思えれば、あせって死にたくなることもない。
目的を与えられたとき、時間がもったいないほどになるだろう。
意志を持った人間をおびやかすものは何もない。

三島は死を持って、「日本人の誇り」を訴えた。
今の防衛は、アメリカの軍隊に過ぎないと。
日本人はもうそれ以上ペコペコするな、
本当の防衛とは何なのか、目を覚まして考えてくれと。
守るべきは、武力では何も解決しないという、
憲法の、言葉を超えた精神なのだ。

得体の知れないものに怯えず、実体をつかめ。
するべきことが見えてくる。
実をつかんだら、使命に生きろ。
三島の死を抱きながら、あくまで生きるのだ。
実を捨てて名を取った三島のメッセージは、
武士道を生きろということだ。
武士道を生きるとき、犬死は卑怯となるのだ。



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マゾヒズムと日本人 
自虐的ギャグや、ことさら自分の肉体的欠陥などをあげつらったり、
「私なんて何もできないから」などと卑下するような表現は、
日本人に受け入れられやすい。
良く言えばそれが日本人らしさであり、魅力に通じるともいえる。
裏に誠実さのようなものが透けて見えるのだ。

「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」、
「人生は重き荷を背負って歩くもの。急ぐべからず」といった
表現、「ただ今帰って参りました」などのかしこまった
あいさつも日本的だ。

運動会という言葉は英語にはないらしいが、
その日本独特の空間には、「組み体操」がこれまたマッチする。
全体主義チックなものに反発を覚えながらも、
歯車となって全体を盛り上げようとする子供たちの姿勢に
ウルっとくるのはなんだろう。

これらをマゾヒズムのあらわれと言ってもいいのではないか。
そうした性向を自覚するからこそ、たとえば「自虐的歴史観」に反発し、
逆にどこかにある強いものに憧れるという傾向はないだろうか。
同じ場所で生きていく知恵としての、開き直ったような外罰的仮面の
裏側に、「いいじゃないか、もう責めないでくれよ」と、被害者意識を高め
目をつぶってイヤイヤをしながらぶつ真似をしている弱い少年の姿
が浮かんでしまう。

ただ、これを日本固有のものと断定することはできない。
日本人にも色々なタイプがあるし、逆に外国人、
たとえばミック・ジャガーを詳しくリサーチすれば
泣きながら走っている臆病な少年のような「日本人性」が
浮かび上がってくる。彼の、「ストーンズがいるから仕方ないんだよ」のような、
「ハー」というためいきと愚痴のいりまじった疲れきった顔は、
セクシーささえも感じさせる。
これをセクシーととるのも私が日本人だからだろう。
守るべき作為的足かせへの特別な思い入れが、日本人らしさなのだ。

昨年のストーンズの来日時、王監督ひきいるWBC日本チームの
優勝という出来事があったが、ミックは並々ならぬ関心を寄せていた。
彼は最強チームであるアメリカに対する日本人の、野球を超えた
鬱屈した心情の現れに、他人事でないような思いを抱いたのかも
しれない。

一方で、「ファイナルゲームの注目すべきところは、プロ選手
が集まった日本と、アマ王者のキューバという点だ。戦術も
スタイルもかなり違う2チームの激突は楽しみだよ」と
キューバチームに対する違った思い入れを、熱く語った。

「何しゃべってるんだコイツは」と苦笑いするキースをよそに、
彼はイギリス、日本、キューバに共通する「島国」へ向けた
何らかのエールを送っていたのではないだろうか。

諦念の入り混じった被縛感を必要とする日本人らしさにあって、
しかしそこに埋もれず弱さを認識したとき、リアルは浮き彫りになる。
本当に守るべきものが明確になる。
自分の未来は自分だけのものだ、外に頼らず自分たちで解決するしかないじゃないかと、
涙を拭いて一人で立ちあがったとき、マゾヒズムを超えた魅力的な個人が生まれる。
イギリス中産階級的パーソナリティーを克服したミックが、
超人(スーパースター)として輝いたように。

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給食費問題再考 
経済的余裕があるのに給食費を払わない親がいるなら、
教師がそれに動揺して取立てに回ったりせず、給食を出さず
弁当でも持ってこさせればと考えたが、親側の言い分は単純
なものではないようだ。

彼らは「義務教育でしょ」ということを盾にしているらしいのだ。
国の要請で学校に行かせているのだから、給食もただで当然という。
ただ、日本国憲法によると義務教育は「国民の」義務とされている。
日本人である以上、この法律には従わなければ秩序は成り立たない。
こちらが義務を果たして初めて、「授業料については」無償とされる。

ただし、あえて理屈を言えば、たとえば学校が3時間で終わるのなら
食事の必要はないが、午後も授業があるのであれば、食事を施すのも
授業料に含まれるのではないか。

もうひとつ学校教育法の規定もあって、またややこしくなるのだが、
転載すると

[編集] 義務教育諸学校の設置者の任務
義務教育諸学校の設置者は、当該義務教育諸学校において学校給食が実施されるように努めなければならない(学校給食法第4条)。

[編集] 学校給食の経費
学校給食の実施に必要な施設及び設備に要する経費並びに学校給食の運営に要する経費のうち政令で定めるものは、義務教育諸学校の設置者の負担とする(学校給食法第6条第1項)。

前項に規定する経費以外の学校給食に要する経費(以下「学校給食費」という。)は、学校給食を受ける児童又は生徒の学校教育法第22条第1項に規定する保護者の負担とする(学校給食法第6条第2項)。

とある。
この、「努めなければいけない」というのは、はっきりとした義務ではないということだ。
たとえばミルクだけという内容であっても許されないことはない。
しかしそれに伴う経費は、学校側の負担であり、
それ以外に必要があれば親が払えという解釈も可能になる。
たとえば「学校給食費」に、個人的に居残りをする必要が出てきたような例のみ当てはめるということだ。
この場合、個人の事情が全体に影響を及ぼすことについては、保護者の責任ということで、こっちのほうがわかりやすいともいえる。

しかしこれらは混沌の中に現実性をみいだす実行があって
はじめて通用するのではないか。ただ拒否するだけなら、「そっち
のほうが得だから」という理由の親と一緒にされても仕方ない。
わがままとみなされたら、かえって自由は奪われる。

だから「払わない」行動を選択したのなら、しっかりと主張する必要もともなうのだ。あくまで憲法を守りたいのだという前提に基づいて実行されたことについては、相手も真剣に対応する必要を迫られるだろう。その場しのぎの言い逃れと思わせないことが
ポイントではないだろうか。


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「わたしたちはキリストのからだであり、ひとりびとりは
その肢体どうしである」と『聖書』にはある。
ホリエモンが悪ならば、それも必要悪だということだ。

目は手に向かって「おまえはいらない」とは言えず、
頭は足に「おまえはいらない」とは言えない。
むしろ体のうちで他より見劣りがすると思えるところを
いっそう見栄えよくしてあげる。
これが「神の」バランス感覚だという。

武士の刀も、神からの授かり物という観点で考えれば、
見た目のバランスではなく、
腰の浮いた、肝のすわりのよくない「男性」に
「誇り」を与えようという目論見で存在したのかもしれない。
フラフラしてエバの言いなりでいいのか?
お前は男だろう。もっと自我を持てと。

しかしどう用いるかは人間に任されている。
神の目的(いたわり合う)に、合致すればそれは活きるが、
自分中心に暴走すれば「誇り」は取り上げられるだろう。
強くされた腰には、その分だけ、他の弱さを担う義務があるのだ。

「授かりもの」という意識を持ったとき、
全体像を正しく把握することが出来るようになる。
体の全体を知ることは、腰の全体、他の部位の全体を知ること。
つまり部分を知ることだ。
「弱さ」の認識である。
そのとき神の意図である、自分の役割がわかる。
今の環境も、境遇も出来事も、すべては愛の計画のなかで
発展途上にあることも。
完全ではなく、不完全こそ祝福なのだ。

無限を要求すれば有限を知らされる。
自由ばかりを要求すれば、他からの強制により縛られる。
だけど有限を知ってあきらめてしまっても、無限性は得られない。
ままならぬ人生の中で、有限性を認識(科学の発達で50で子供が
産めるのはめでたい、でも60じゃあやり過ぎだ、全体像に差し障る
からやめとこう、など)しながらも
なにかしら自分なりにできることを出来る限り精一杯することが、
授かったものに対しての礼儀だ。
礼儀を知るものには、無限性の安心感を与えられる。

永遠に生きると錯覚しているかのような私たち現代日本人に
今必要なのは、有限の命を認識し、
そのなかに永遠をみることではないだろうか。

ミック・ジャガーの生き方は、「正しい生き方」の見本では
ないが、ストイックを象徴する鍛えあげた肢体の有限と、
男性の誇りという無限性のアウトラインが際立って見事だ。


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子供は案外たくましい 
イベント的に料理を作るのなら楽しいが、毎日喜んで作っている
わけではないので、やる気がなくなると料理本をながめたり
料理番組を見たりするが、この間とても気分の悪くなる番組
を見た。

全編を流れる空気が、「女性なら料理ぐらい作れる
だろう」と語っているのだ。

その日は新人女子アナが次々に登場して料理の腕を競っていたが、
美川憲一他のゲストが顔をゆがめ、口をきわめて酷評する。
料理が慣れていないにしても、そこまでにさせる料理という
ものが存在するのなら、逆にどんなものか食べてみたいが、
まあおいしくはないのだろう。

しかしコメントはどんどんエスカレートする。
相手が年若い、経験の浅い女子であれば、何を言ってもいいと
いう見本のようだ。
隠ぺい体質を生む根源のような、不祥事に対する祭り上げ方
に比べて、こうした番組のちょっとした物言いが
視聴者に与える影響などはまるで省みられない。

「僕だったら蹴飛ばすね」
「あんたは食べるほうが向いているようだね」
これらを言うのはテレビで活躍する料理人たちだ。
まるで、食べる側の女性は価値がないといわんばかりの
吐き捨てるような調子だ。

どうしてここまで調子に乗ることが出来るのだろう。
自分を抑えて周りに気を使う反動からだろうか。
これを見て、若い女性は自信をなくし、料理は生活のために
必要なことという基本的な観点をなくし、あるいは逆に優越感を
得たいがために、これらの家事万能を目指す者も出てきそうだ。

何より、得意不得意に性別は関係ないはずだ。
自分の才能を伸ばすのに、なぜ女性だけがベースに
家事能力の有無が問われなければならないのか。

その点お笑い芸人のコメントは、何も示唆していない。
「てめえそれでも女かよ」と言っても、それはその場の
空気に反応しただけだということが、次にまったく逆のことを
平気で言う事実に現れている。その意味で害はない。
一緒に見ていた子供たちも、ここでやっと笑った。

何か笑えないものを、子供は感じ取るようだ。
親が「害だ」と思うことを隠そうが隠すまいが、
誰かが何かのイデオロギーを押し付けようが、
そうした環境に屈しない可能性を秘めている。
親が頼りなければ子供がしっかりするということもある。

番組でたまに、料理がうまいとこれまた極端にべた褒め
される者がいても、「そうやって褒めなければ仕方ないもんね」
などと言って、意外と毒されていない。

たとえば現実の友人関係の中で、誰かにすがりつく弱さから
いじめらしきことを見てみぬ振りしてしまう自分がいても、
そのことで「ふがいない」と弱さを認識する心こそが、
いつかはその弱さを克服する可能性を秘めている。
誰にも骨抜きされない、純な魂の再生を期待したい。



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武士の刀は、ひょっとすると単なるファッションだったかも
しれないし、腰の辺りがスースーする、しまらない、という
理由から存在していたのかもしれないが、(いいかげんだ)
その刀に崇高な意味を込める人もいる。

目に見えるものを、見えないものに変えるのは
よくもわるくも人間ワザだ。
ただ飲むばかりのお茶に、色んな解釈をくっつけて
茶道にするのと同じく、刀は、勲章にもなれば
自分をいさめるバランス意識にもなる。
一方でこの武器を、脅しの切り札に使うことも出来る。

武士の刀を、たとえば日本人だから崇高に解釈できるのだ
という捉え方があるが、では朝鮮人だから脅しにしか
使えないのかといえば、違うだろう。
この意味で、武士は何人であってもいいのだ。

同じように、「現代人」だから悪いのではなく、
日本の場合、たとえば平和の続いたありがたい状況が
同時にボケをもたらしたのであって、
昔の人でも、人間自体にそう変わりはないはずだ。

刀を防衛と捉えたとき、野生の世界のように純粋に
生きるか死ぬかの勝負がかかっているのであれば、
刀は真剣となるが、
そこに利害などの不純性がからんでいたり、
脅しに対して脅しで応じることになるのなら、
それは凶器に過ぎない。

では現代の日本人にとって、生きるか死ぬかの状況は
どうすれば作り出せるだろうか。
それは、目に見える防衛をすべて放棄することにしかない。
これまで考えて得た私なりの結論だ。

実際に死がすぐ近くに迫っているかのような状況こそ、
日本人が目を覚ます一番の方法ではないだろうか。
すがるものがなくなったとき、人間の弱さ(エゴ、保存欲)
を超えた、野生の強さが蘇る。

滅びを覚悟した丸腰が、きっと最も強い防衛になりうるのだ。
目に見えるものに頼らない、それが真の武士道だろう。

死んだつもりで生きる人間はイキイキする。
お偉方のイメージするような、日本人のスーパースター性も
そのとき初めて発動するかもしれない。
逆にあまり変わらない人は、もともと目が覚めていたのではないか。


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ニーチェの「アフォリズム」(アホリズムではない)は、
聖書で言えば「箴言」のような表現法で、説明抜きで物事の
断片だけを取り出し、口調は断定的ではあっても断定しておらず
受け手がどうにでも解釈できるのが特徴だ。

昨日書いた「王を殺す」などの物騒な言葉もそうだが、
解釈は私たちに任されている。
私たちの行動自身を、期待しているかのようだ。
憂いてばかりでは、ニヒリズムを超えられない。
あくまでちっぽけな自分だが、それでも出来ることはあるはず。

どうにでも解釈できる表現というのは、フェアじゃないともいえるが
ニーチェにとっては、物事の背後にある様々な状況を切り捨てて
説明するほうがアンフェアだということだろう。

音楽の歌詞や、映画などのセリフにも、
アフォリズムはみられる。

13歳の時だったか、沢田研二主演の映画「太陽を盗んだ男」
を見た。しがない理科教師が現状への不満からか、プルトニウム
を盗み、原爆を作り始める。作っていく過程もとても興味深かったが、
さて完成したそれを厳重に保管したあと、これをどうしようか
と考え込む。

彼は「原爆を持っている」ことをたてに、
様々な要求を面白半分に繰り返す。
しかし彼には、その場しのぎの発想しか浮かばない。
野球の中継が局の都合で良いところで打ち切られるのは許せないとか、
当時まだ実現していなかったローリング・ストーンズを日本に
呼べとか(これは素晴らしい)、原爆を持っていると言えば
政府も思い通りに出来て、大衆の反応も愉快で(主人公がばらまいた
金を必死で拾い集めるなど)、だけど何か空しい。

映画「タクシー・ドライバー」の主人公を彷彿とさせるような
悪運の強さで、最後までつかまらずに逃げおおせた自分は
何のために生きているのか。
と、そう思ったかどうかはアフォリズムなのでわからないが、
彼のなかにおそらく残ったのは、彼の憧れた、修学旅行の
バスジャック事件で出会った警部、自分を捕まえようとして
死んだ警部の、身体を張った仕事への姿勢、
命をかけた任務の遂行が、結果として人助けまでしてしまう
という事実なのではないか。

真剣に対してのみ、真剣で応じるという、生の尊重に比べて、
自分は生きながらえてはいても、死んでいるのだという実感。

長谷川和彦監督?は何を言いたかったんだろう。
原爆を持ったところで、それを脅しにしか使えない、
自分の目先の利益にしか発想がいかない人間の弱さだろうか。


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ニヒリズムの徹底 
ストーンズの「ストリート・ファイティング・マン」は
徹底的なニヒリストの立場から表現されている。
貧しい少年たちに何が出来る? ロックンロールバンドで
歌う以外に。この、"what can a poor boy do"は、
どうやって稼げる?という意味よりも、「僕たちには語ることは
できない」という意味に取れる。

その場合、「歌うしかない」の「~しかない」にニヒリズムが
込められる。
この世は思い通りにならないのだから、運命に黙々と従うしかない。

なぜかといえば「寝ぼけたような」ロンドンの街には、
「王を殺してやる」などと、価値の転倒を叫ぶ
ストリートファイティングマンは、お呼びじゃないからだ。

しかし実際に妥協だらけのロンドンはこんにち移民があふれる。
差別されたものはやけになり、逆に差別撤廃、かばいすぎが
白人たちのナショナルフロントを呼ぶ。

この状況が、寝ぼけたようなロンドンの行く末だったとすれば
やはり小さな声をあげるストリートファイティングマンは必要だった
のだ。

行き場を奪われ、生きがいを失い、ついに現実を直視した
ニヒリズムは、ニヒリズムを超える可能性を秘めている。

自由平等も、民主主義の理想も、そんなものはないと
知ってしらけたとき、それは、だからこそ守らなければならない
と、歌うことの始まりなのだ。

「するべきである!」と言葉で語ってしまえば
また違うものになってしまう、伝えきれない思いを
今こそ歌うしかない。

死んだはずの神が生きたとき、ストリートファイティングマン
は、今度こそお呼びじゃないのである。
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悪夢と胃腸障害 
先週インフルエンザにかかり、話題のタミフルを服用した。
医師は「私は処方箋を書くだけですから、あなたが判断してください」
と言った。ご本人も、度重なる事故のニュースにこわくなり、
子供が服用していたのを途中でやめさせたのだとか。

でも私は早くラクにして欲しかったので、飲むことにした。
現実に耐えろといつも自分に言い聞かせながら、
いざとなるとこのていたらくだ。
だけど、高熱その他との因果関係は何も解明されていないのだ。
医師もわからないくらいなのだから。

飲んで2日目の夜、とても気持ち悪い夢をみた。
詳細ははぶくが、「ああ、いやな夢だ」と認識しながら
ぼんやり目を覚ましたとき、私は直前の夢の中で
たくさんのドアを「違う」「ここでもない」と
開けたり閉めたりしていた。

ちょうど袋小路のようなところに迷い込み、追われているのか、
追っているのか定かではないが、とにかくあせっていた。
そしてしっかり目覚めてから、こんなふうに考え込んだ。

多感な年頃の子供なら特に、夢とうつつの境があいまいになることも
ありえないことではないな、などと。

医師はたしか30%に胃腸障害が出ますと言っていた。
そういえば寝る前に重たいものを食べたときなど、
胃もたれから悪い夢を見たことが一度ならずあったっけ。

異常行動には、もしかすると、高熱のみならず
胃腸症状も関連しているのかもしれない。

「タミフルこわいよねー」「よく飲むねー」という
噂ばかり一人歩きしている感があるが、タミフル自体が
悪いということでもなさそうだ。

考えてみれば、ウイルスの拡散を防ぐということだけでも、
大変に画期的な薬だ。
結果的に直すのは自分の免疫力なのだが、それが追いつくまで
の症状を抑えてくれるのだ。

慎重になるに越したことはないけれど、それだけの薬なのだから
何らかの身体への負担はあって当然だ。
それがいやなら絶食でもして、徹底して自力で直すしかない。

私たちの、物事のおいしい面だけ受けて当然という考え方こそが
問われているのかもしれない。


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変わろうとは思わない 
朝目がさめると、妙にすっきりしていて、幸せな気分に包まれ
いつもは声もかけない子供たちが、宝のように愛しく思われ
ちょっかいを出したくなり、頬ずりまで追加して。
朝食も充実した内容のものを作って、時間をかけて食べて。

窓に目を見やればいつもの風景にも「ありがとう」と言いたくなる。
旦那が起きてくれば柄にもなく「ごめんね」と言いたくなる。

科学的に判断すれば、身体の調子が戻って、毒素が抜けたんだな
とか、久しぶりにショッピングで気晴らししたからだ、
などと、数値を示しながら語ることも出来るかもしれないが、
これを神から与えられた再生、福音などと表すことも可能だ。

そうだ。自分が無理に変わろうとしなくても、
昨夜までどんなに荒涼とした気分が心身を包んでいても、
次の朝にどんなやさしい気分が与えられるか、予想も出来ない。
何かいいことをしただろうか?
いやそんな覚えもない。

どんな善人であろうと悪人であろうと、関係なく
生まれ変わらせてもらえるのだ。
むしろ「善人」は、ドつぼにはまっていく恐れがある。

仏のような顔をして、「いいんですよ」と涙をためて
損ばかりしている人。
何もそんなことをしなくても、あつかましく生きて
ちょうどいいんじゃないだろうか。

どちらかといえば、そんなバランス感覚が肝腎なのだ。
自分が今張り詰めて生きていると思えば、弛緩を心がける。
突っ走りすぎていれば、歩いてみる。みたいな。

バランス感と、それから、なんとなく
「こうなったらいいな」とか「こんな人間でありたい」
といった希望や理想を、無意識にでも持ち続けていれば
それで充分、生まれ変われる条件は整ったことになる。
あとは感じるままに生きよう。

理想とやらにスポットをあてれば
いくらでも美しい言葉で修飾することはできるが、
そんなものに惑わされてはいけないのだと思う。
「なんとなく」で、もう充分なのだ。


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ふと聴こえてきたアコースティック・ギターの音色。
「これは絶対、演歌だ」と、ジャケットを見ると
ラテン音楽となっていたりするようなことはないだろうか。

その場合、物悲しいメロディーに頭のコンピューターが働いて
ピピっと答えを出したのではなく、自分とは縁もゆかりもないはずの
ラテンの血が、懐かしく騒いで思い出すといった感覚。

日本人だから演歌に反応するのではなく、その向こう側にある
ものが懐かしい。

行ったこともない異国に、たまらない郷愁を感じたり
あるいは会ったこともない外国人のことが、
とてもよくわかるように感じたり。

偏見をとっぱらった感覚で物事に相対したとき、きっと
すべては同じ場所にたどりつくのだ。

人間に対しても、たとえ何度裏切られようと、
バカのようにいちいちゼロから出直せば、
偏見を持たなくて済む。

ニーチェの言った本当のイエスの特徴を思い出してみよう。
なによりもまず「とらわれのない」人だ。
こういう人は低く見られがちだが、それでやっきになったりしない。
何度でも、心から、たとえば「気の毒だなー」などと思うのだ。
それは別に「頭くるなー」でもいい。

ちょっと日本の良寛や一休さんなども想像される。
それでいて眼光は鋭くて、神経はとどこおりなく、
結果すべてお見通しだったりする。
こんな境地が、イエスの弟子としてのミックの理想だろう。

自由・平等にこだわれば、かえってそれを失くしてしまうように
偏見の暗雲は光を隠す。

今日という日にまっさらになって生まれ変わる。
頭をまるめて出直す。
いや具体的に頭をどうこうしなくても
胸の辺りに小さく「丸」を刻み付ければいい。
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直に心を通わせれば、一番分かり合える存在。
僕を理解してくれ癒してくれる、母のような愛で包んでくれる。
だけど来客が来ると、あわてて戸棚に隠してしまう存在。

「お前はバックストリートガールのままでいてくれ」と
ミックは歌った。

彼は一時期黒人の舞台女優マーシャ・ハントと付き合い
初めての子供をもうけながら、マリアンヌ・フェイスフルという
公認の、可愛らしい、家柄もよい女性と、絵に描いたような
ファミリーを演じていた。

心はマーシャにあっても、何でも打ち明けても、守るべきは
自分とマリアンヌだったのだ。
男のエゴを責めるのではない。
エゴは誰にでも等しくあるものだから。

ミックには「お前はそのポジションのままでいてくれ、
でしゃばるのは美しくない」という思いがなかっただろうか。
たとえば今、乞食という言葉は死語になったようだが
昔は彼らは道の片隅にお皿を置いてひっそりと座っていた。
でもホームレスという名に変わって、申し訳なさを忘れ、
「権利ばかりを主張するようになった」という人がいる。

その、申し訳なさにこだわったとするなら、マーシャが公然と
お金を要求しだしてから、ミックが冷たくなったという
エピソードも合点がいく。「おまえだけはそんな女じゃないと
思ったのに」なんてところだろう。

でも、育児費だけでなくお前の靴まで買ってしまうと思った
などと言われたら、傷ついた心は、相手を攻撃することしか
思いつかないのではないか。マーシャは反発した。

人は「生きていていいんだ」と思えなければ、誇りのない行動も
平気でとれるようになる。
だからまずこちらから誇りを与えてあげるのだ。

それだって見下げているのかもしれないが仕方ない。誰だって
誰かに哀れまれたり、見下げられたり、自己卑下しているのだ。
だけど自己卑下が高じればベクトルは死に向く。
破壊行為に向く。

ミックには少なくとも、人間の近くに寄って見て、
その人自身を知りたいという欲求があった。
「あいつらは悪い奴らだから」と見もせずに檻に放り込み
鍵をかけておこうとはしなかった。

一人一人の違いを見つめて、自分との違いを発見し、
悦びを感じようとした。

違いに着目すれば、人間には大差がないことを知る。
白も黒も、男も女も、それぞれが完成された小宇宙を持ち
みな普遍でつながっていること、共感しあえるのだということを。

「弱さ」を自覚したミックは、
誰に強制されることなく、みずから生まれ変わった。
親子を手厚く保護し、ファミリーに迎え入れ
もう2度と蔑ろにすることはなかったという。

キャリスは立派に成長し、自慢の娘に成長した。


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おバカと永遠回帰 
一昨日の夜、インフルエンザも吹っ飛ぶほど大笑いした
番組があった。
偉大なるバカたちを列挙して大賞を決めるというもの。
おバカがなぜ男ばかりなのかはわからないが……

自分の足を使って何回頭を蹴ることが出来るか試す者、
鳥の目で風景が見たいとカメラ完備のパラシュートで飛び
岩に激突する者、
身体に板を乗せ、その上からトラックを
走らせると豪語しながら、いざ車輪が上を通ると
あわてまくる者…抱腹絶倒バカ列伝だ。

いや、彼らの動機は充分不純だったりするのだ。
大賞とった兄ちゃんも、女性にもてたい為だったり。
それでもやっているうちに、どこか遠いあっちの方へ
行ってしまうのだろう。

バカはついてますねーと、ゲストの一人がつぶやいた。
すんでのところで命を落とさずに済んだ者たちを多く見ての
感想だろうか。
バカは神が守るのかもしれない。
無には神が宿るとも言う。

同時にもし「男祭り」という文字を見かけたら、「バカ祭り」と
書き変えて涼しい顔をしてもよさそうだと思った。

ストーンズのライブも、バカへの狭き門ととれなくもない。
精神性をつきつめて生きているようなミックが行き着いた先は
きっと無(バカ)というふるさとだったのだ。
キースが、「だから言っただろう」と満足そうに迎えてくれた…

そこはスピードを競うレーサーが、ありとあらゆる神経を研ぎ澄まし
ながらも、スピードのリアルを天上から見ているような、
怖さを超えた空間なのか。

そして、タイトな生き方を極めた彼がなお追い求める無を、
となりのチャランポランな「バックストリートガール」が
いとも簡単に身につけていたりするので
彼は驚くのではないだろうか。


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いいは悪い、白は黒、トイレは一番きれいな場所かもしれない。
男が女より背が低くて何がおかしい、そんな価値の転倒をメッセージ
するアーティストとしてのミックにとって、「モラルなき」女性も
縛られない自由さと理解することが出来る。
そのがむしゃらなまでの生命力をひたすら追い求めるのだ。

それはあきらめであって、あきらめでない。
現実逃避ではなく、あえて女性に接近するのだ。
「人をがっかりさせるのが大嫌い」と歌うミックの
女神のような人がどこかにいると思ってしまう身勝手さ、
母に裏切られた思いをそなえながら、それでもなお女性を
崇めるためには他に手段はない。

ジェリーがだめだったからといって、また同じような
ゴージャス系の女性と連れそうミックは、その「食い下がり」
こそを演出しているように思える。
女性なしではいられぬ自分が、女性をなめきることのないための
高貴さだ。
「そんなのは紳士じゃない」と母に言われて育った彼の
女性に対する作法である。

同時にやはりここでも彼は思うようにならない現実、ブルースを
メッセージする。
ローリングストーンズを自ら選び取ったように女性も、
葛藤を抱えつつ自ら選び取って帰っていく
愛すべきふるさとなのだ。

どこにも居場所の感じられぬ寂しさを抱える彼だからこそ
その手立てが取れるのかもしれない。

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伝統に生きる賢いおばあちゃんたち、おばちゃんたちは
「女性のほうから寄り添いなさい」とアドバイスする。
たしかに聖書には、女は男から作られたとなっていて、
女性のほうから男性を理解してあげてしかるべきともとれる。
しかしそれらを信じる女性たちの言い分はきっと、
伝統には、すべてが包括されているから「そのとおり」にしておけば
間違いないのよ~だから言ったでしょ~くらいのもの。

こんな言い分に到底納得できずに伝統にはむかった挙句、
ひとまわりして伝統に戻っていくのならまだしも、
大人しく伝統に習って生きた成れの果てが、ミックの嫌う
パブでたまっておしゃべりに興じるおじいさんたちだとすれば、
最後までスリルを求めて、ジェリーのようなゴージャスなアメリカ人
金髪モデルと過ごそうという気になるのもわかる。
(ミックの先祖はオーストラリアに移住したりとみな冒険家だ)

しかしミックの事実上の妻として誰よりも長く連れ添ったジェリーは、
ある意味とても保守的な女性だったのだ。
母に教えられたという、男に対しての3か条を忠実に守った。
キッチンではコックになること、リビングではメイドになること
寝室では娼婦になること。それをしておけば男なんてちょろいのよ
とでも、カッコつきで書きたくなるほど、ジェリーには保守的ゆえの
がめつさがあった。

今まで付き合ってきたエキセントリックな女性たちに比べて
ジェリーの派手な外見に似合わぬ保守性は、実は伝統を重んじる
ミックには新鮮に映ったのだろう。かつて彼の母がそうであったように
伝統に縛られながら、隣近所を気にする見栄っ張りさに幻滅した彼が、
流れ流れて求めた女性は、しかし最後にはがっぽりと慰謝料をしぼりとっていくのだ。
あたかも聖書を重んじながらもそれが実は金儲けの手段だったように。

別れた今なおジェリーと同じく自分より背の高い、髪の長い女性を
恋人に選ぶミックには、価値の転倒や混乱をメッセージしたいという
アーティストとしての目論見もみえ、ある種の女性に対するあきらめを
匂わせる。
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男の子は基地作りが好きですね、と幼稚園の先生が言う。
イエスさまの視点では、女の子も入っていいよと言ってあげる
べきなのだが、「女は入るな」という態度をとるらしい。

厳しさのわからない女は入ってくるな、このロマンは男のものだ
と幼児でさえどこかで思っているのだろうか。
だから、入れてくれないと先生に言いつけるよという
女の子の態度は逆効果なのだろう。
しぶしぶ入れたとしても、行動とは裏腹に心はかたくなになる。

本当は、男女ともにお互いの欠落をいたわりの目で見ることが
神の視点なのだ。北風ではなく太陽になれば、相手は軟化する。
わかっていても、それはなかなか難しい。
子供たちだってあきるほど話は聞いているはず。
それでも実践の場には相手がいる。

たとえば女性には誇りなどないと決めてかかっている相手に
それでも太陽になれるだろうか。
一度許してしまえば、モラルを無視して、なし崩し的に一線を
超えてくるだろうと決め付けられたら、
御期待に添いたいと思うかもしれない。

この場合太陽になるのは、目をつぶれ、何も考えるな、
感じるなということに等しい。

幻滅した男性は、それでもどこかに素晴らしい女性はいる
と信じるのか、それともあきらめて、女性をなめきってしまうのか。
なめるとは心を殺すこと。
選択肢がこの2つというのも悲しいが、ミックの女性遍歴
にも、そんな葛藤が見え隠れしている気がする。

裏切られても裏切られても、彼は未だにどこかをさまよっている
のか、そしてそんな彼にも充分原因はあるのか。

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問題は何でも自分たちで解決できるはず、そんな万能感や
選択肢の多さが、外部からの間違った締め付けを呼ぶのなら
みずから、どこかに締め付けを求めていくことが、かえって
自由を得る方法なのかもしれない。

それがどこなのかを知るためには、まず自分はどういう人間か
何のために生まれてきたのかを知らなければならない。
趣味を見つめることもそうだろう。しかし物事に溺れることなく
ただ冷静な判断材料にするのだ。
神の目で自分をコントロールするのである。

創世記で神はまず光と闇を創り、自然を創り、動物を創った。
そして、「よし」とされたという。
そのあと人間を創った神は、人間だけに自分の息を吹き込んだ。
この時点ではすべて非常によく見えた。(よしとは言わなかった
かもしれないが)

動物は「生」の先輩だから、従う価値はあるんだろう。
誰が決めたか判らない善や悪よりもまず動物的感覚を大切にする。
そしてそのエネルギーを生かすために、人間的神性を使うのだろう。
この場合神性とは動物にないところと言える。
たとえばそれが抑制力だ。

善悪を知る木から実を採るような、思い通りにならない人間を
神はみずから創ったのだ。ただし命の木からは本当に実をとって
欲しくなかったのだろう、楽園を追放して永遠に生きないようにした。

神の仕事は光を創れば闇も創り、男を創れば女も創るといった
バランスが第一となっている。思い通りにならないものまで
創るなんてその最たるものだろう。

自分たちの楽園のためなら、神がよしとされた闇を追放しようと
いう人間たちまで、必要悪とされたのだ。

永遠の命を持つように錯覚しながら途中までしか生きられず、
神になったような大きな顔をしながら悪をばらまく人間の
不完全さではなく、神のよしとされた完全さこそが伝統だ。
その伝統を守るために呼びかけるのがクリスチャンである。

ミックは、その仕事ぶりや生き方を検証すれば完ぺき主義
だが、同時に、完璧を目指そうにもどうにもならないブルースを
メッセージしている。それも、クリスチャンとしての働きだ。

ストーンズについても、「あいつら~」と
あえてぼやきながら、神の完璧ぶりを証明しようとする。

その足かせのなかで初めて、やむにやまれぬ武士の一分
のような、たとえば相手を思いやる親切心も活きて働くのだ。


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得体の知れぬ圧迫感 
給食費を払わない親の多さが問題になっているらしい。
メディア操作の有無は置くとして、
思うにそもそも学校が領域を超えて面倒を見すぎなのだ。
だから親が余計に学校によりかかろうとする。

払えるのに払えないのであれば、その子には給食を出さないことに
すればどうだろう。
教師は取立て屋ではないはずだ。
取立てに奔走していれば、基礎学力をつけさせるという
本分もおろそかになるだろう。
朝寝坊しても、学校は放っておけばいいのだ。

今度小3の子供がもらってくるプリント類もやたら数が多い。
内容も「何もそこまで学校に言われなくても」というものばかりだ。
睡眠時間に朝ごはん、おこづかいの使い道…

卵が先か鶏が先か、学校にしつけを頼った親の存在も、
このように妙なしめつけも、悪循環の根っこは同じなんだろう。

根っこがおかしいままで、道徳まで押し付けられたらどうだろう。
たとえば自分を抑えて人に尽くせなどと押し付けられ、
地方ほど世間の目にも監視され、ひたすら人のためという価値観で
生きれば、その反動で、「自分のために思い通り生きたい」という
欲求がマグマのようにたまっていくに決まっている。

子供が朝寝坊しても学校はタッチせず、親があわててたたき起こすという
自然に身につけた道徳観は、こうして奪われていく。

私は参加していないが、親が何かというと会合に呼び出されるのは
昔からなのだろうか。
家庭、学校、地域が同じ価値観で一体になったら
子供はどこに行けばいいのか。

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デカダンスへの抵抗 
ミックは、わざと忙しくすることで、気力を養っているようだ。
と、ドラムのチャーリーは言う。
まんまのミックというのは、やる気のない人なのだろうか。

もともとの彼が生存欲の希薄な人間だったとしても
生を表現しなければ、アーティストの使命は果たせない。

人は信じていたことが幻想だと気付いてしまえば傷つき、
気力が萎える。必要以上にかたくなになる人もいる。
ベクトルが死ならば、誇りのない行為だって平気でできることになる。

ミックも人生のどこかで傷つき、陶酔のできない現実性を
身につけたのかもしれないが、意識的にでも遊びを創り出す
立場は残る。

映像で見る彼のおふざけは、キースのように自然ではなく
わざとらしいなと思ったことがある。
子供との戯れを、すすんで行おうとするところにも現れて
いるかもしれない。

自然とは、厳しくもあるし、優しくもあるものだ。美しくもあるし
汚くもある。そんな自然にただ寄り添おうとする方法では
幻想に翻弄されてしまう。

翻弄されるというのはたとえば日本人だ。
日本人はすぐに謝るが、何を謝っているのかわからず
すみませんと言えばいいと思っている。
傷ついた上に、さらに自分が何をしているのかわからなければ
現実に翻弄されっぱなしになる。

あげくにはマスコミを従えてお詫び行脚をする森進一のような
恥知らずのことをするようになる。
謝らなくてもいいから、人の嫌がることをするな。

人を翻弄する自然をみずから模倣することは、
現実に戯れを持って抵抗し、生の悦びを創り出すことだ。
それは苦しみに向き合う知恵でもある。

その時わざとらしさは、ベクトルを生にするための抵抗力となる。
模倣の得意な日本人にもいいサンプルとなりえるのではないか。
サンプルを示す側の人間が傷を受けることになるとしても。

ミックの、自らの破壊も辞さないロックの行為。
母校への音楽センターの提供など、芸術を推奨する行為。
それらは、傷ついたことを主張せずにいられぬマゾヒズムが
デカダンスに陥らないための作法を示しているのかもしれない。




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