サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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「まあいいじゃないか、たかがロックンロールだ」
ミックの、鬼気迫る真剣勝負の仕事ぶりや、人に対する真摯さは
この、遊びやユーモアによって中和される。
あっちの世界からこっちの世界へ、そしてゼロへ。

どこかに真実はあると信じずにはいられない心情や、
何かにすがりたい本能は、人間特有の致し方ないものという
言い方も出来る。

でもそんな「行ったっきり」ではバランスがとれない。
アンバランスは、破綻をきたす。
「ジャンキー」にならないためには、どうすればいいのか。

おもちゃの効用もその辺にあるのではないか。
たとえばヨーロッパから伝わったおもちゃは、簡素なものだ。
人形もきらびやかなものではない。
これは人形であるから、人間にもなるけれど、単なるワラの
塊とも言えるな。と思うことが出来る。

点のような目や口は、一緒に泣き一緒に笑ってくれるだろう。
現代的、アメリカ的な「それ以外考えられないだろう」という
あからさまなものではなく、音も穏やか、色もけばけばしくない。

スターと同じく、幻想性のあるところには、想像力も働く。
想像力は、生きる力だ。
相撲やプロレスでも、八百長はあるのかもしれないし、
ないのかもしれない。

陶酔を経て新しく再生するために、陶酔が必要なのだ。
しかし自分のそんな人間性を自覚するからこそ、
倍以上の抗力を持って、こっち側へ誘おうとする。

神であって神ではないイエスのように、
スターでありながら、ただのおっさんであるミックは、
「おーい、戻ってこーい」と常に扉を叩いてくれているのではないか。


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スターというヒトガタ 
まるで「王様は裸だ」のごとく、「祇園の舞妓はブスばかりだ」と
言ってしまったのはビートたけしだが、お座敷という異空間の中で
は、それもあまり関係ないのではないか。

京舞の井上流は、能から学んだ無表情や人形の動きのような
振りに特色があるが、この変な色気を一切廃すそっけなさで、
機械じかけのような舞や座敷遊びを繰り広げられると、
舞妓の美醜を超えたどこか遠い場に誘われてしまう。

人形の人工性のなかに、ほんの少しの人間味のエッセンスが
見事に活きていて、「もうどうにでもしてくれ」と、
すっかりとりこになってしまうのだ。

それはカリスマの魅力とも関連しそうなものだが、
ミックもスターとして、この人形性を意識していると思われる。
「われわれは人々を破壊しない。彼らは自滅している」と
いうように、人形は語らず、ただ時代を映すだけだ。

ミックはおしゃべりとも言われるが、あーだこーだと物事を
決め付けるようなことはしない。決め付ける態度に疑問を
抱けば、自然に言動がリアクション的になるという側面も
あるだろう。

彼はそれ以前にロックスターという立場を意識して、人形に
徹し、ロックや自分が文化をつくるのではなく、人間がいかに
文化を創っていくかという、人間性の尊重に重きを置く。

人間は人形をいかようにも創り出せる。そしてあきたら捨て
また日常に戻っていく。人形は幻想をすべて背負い、無に
同化する。

ライブでも証拠になる物を残そうとしないミックは、無を
意識している。それは東洋的発想ともいえる。
人形であり人間でもあるわが身を滅するほどに、
全身全霊を尽くしたライブの終わりには、
人形のモノ的要素は消え、真心だけが残る。

人々は無に自分を投影し、あるときは八つ当たりし、
あるときは崇め奉り、カタルシスのツールにし、
あるときは蹴り、そして捨てる。

人形はメディアのばかばかしさや、人々のこっけいさをも
反映する。人々がいかに「神がそう言った」という
エクスキューズを使用するのかも。

口に出したら嘘になりそうな、「王様は裸だ」という言葉も
ただ黙って映し出すのだ。




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幼子は回転する 
本当は怖い家庭の医学ではないけれど、
「恐ろしいことになりますよ」と脅されると
思わず縮み上がってしまう。

「いかがわしい」という言葉には、素性がはっきりしないという意味と
道徳上よくないという意味があって、人々の生存欲は、
知りたい気持ちを「あんなのいかがわしいよ」という「道徳」に押し込みフタをする。

本当は、あやしの森に迷い込み、真相を追究したいのだ。
でもその先には、たいがい恐ろしいことが待っている
ことになっている。
それはもちろん上の者に都合がいいからだ。

聖書の「知識の木から実をとるな」というのは、人間は神にはなれないということである。
概念でこれが真理だとは証明できないのだ。
その意味で、人間には「怖いもの」があるほうがいい。
でも真理の近く?までさまよい歩くのは、別にかまわないはずだ。
またそうでなければ「神にはなれない」ということもわからないだろう。

子供は本能的に、だめだと言われたことにむしろ魅力を感じる。
生まれつきの違いや、大人に型にはめられた子もいるかもしれないが、
いても立ってもいられないワクワクした冒険心や、
あふれ出る感情で身体が勝手に踊りだすような思いは、誰にも止められない。
そんな「行動」の土台があって初めて、道徳もある。
逆であれば不純物が混じるだろう。

小さい子供のプレイルームで一番人気は、輪の中に入り縦に回転する
遊具だ。子供たちは何度も何度も列をつくってやりたがる。
生存欲の欺瞞を廃し、力への意志をこの「幼子は回転する」
という永遠回帰に変換するためには、「やってみよう」という
創造が先立たなければならない。そこにはほんのひとかけらの、
ダイヤモンドの永遠がある。

その純粋性を自らつくり、そして自ら壊すところに、
幼子の積み木の破壊のような、ロックの行為がある。
ミック・ジャガーはただ黙ってこの行動を示すだけで、
説教めいたことはしない。
だから興味を持って森に迷い込んだ者が、
「この沈黙とは何だろう」と推測するしかない。



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色んなカラーの子供を同じように愛する。
あの子もこの子も、みなこの世に必要だから生まれてきた。
そんな神の視点、イエスの視点こそ、ミックの志すものだろう。

それは、見返りのない親の愛への志だ。
いま話題になっているような、
「いつも心配かけてばかり、いけない息子の僕でした」
なんてセリフを言って欲しくて、親は子供を愛するのではない。

そのままを受け入れる愛を志すのがクリスチャンだ。
でもその愛は、神にすがるニヒリズムではなく、
神は死んだという厳しさの中にしか得られないのだ。

実際に幼い子を育てることも絵空事ではない。
子供を可愛がる気持ちと日常の世話はまた別だ。
どんな仕事もそうかもしれないが、ルーティンワークに
対しては、ロボットになって乗り切ることしか術がない。

どこかのセンを2,3本切らないとやっていけないことも
あるのだ。だけどそんなお母さんロボットにも心があること
を知って欲しい。

「力への意志」を持つ人間が、あえてロボットをしていることを、
喜んでしているわけではないことを、知って欲しいのだ。
日常を知らない人が、いともあっさりと
「喜んでするべき」などとは言ってほしくない。

「それが女性だろう」なんて言うから、女性は男性の言うことを
聞かなくなってしまうのだ。

人を助けて列車事故で亡くなった警察官の職場を訪ねた
美しい国の提唱者が、まったく違った名前を持ってきた。
「このたびはミヤケさんが」。ミヤケって誰だ?

あなたはいったい誰を訪ねてきたの?と言いたくなるのは
心ない儀礼性に対してではないだろうか。
こんな風に奉られても死者は嬉しくないだろう。

それに対して同僚たちの感慨はまた格別だろう。
でも、一般的に人が「あの人は素晴らしい人だ」と言う時
どこかに神のような人がいると思ってはいないだろうか。

その時にその「自分にはできないけれど」という思いが、
自分もいつか神のようになりたいという「力への意志」を
ともなうのであれば、なにより前提が重要になる。

前提が間違っていれば、「力への意志」は反作用となる。
つまり「どこかに神のような人がいる」という前提は
犠牲者を増やすだけなのだ。

神が、犠牲者を増やしたいと思うわけがない。
だから、律法に疑問を持つイエスのような息子を作ったのだ。
そしてミックは、本来のキリスト教は「行動」にあることを
黙って提唱している。

行動が道徳に先駆けるから行為が純粋性を持つのだ。
そして純粋性において、親の愛に勝るものはない。



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非日常な日常 
そう、幸せは足元にしかない。
ミックを見た当初、私はどこかにある天国、
とてつもないときめきを、求めていたのかもしれない。

たとえば病気で医者にかかっているからといって、
すべて医者がどうにかしてくれるわけじゃない。
自分の身体は自分のもの。
まずは自覚を持って足元を見直し、日常を省みること。
そんな当たり前のことに気が付いた。

基本人任せの自分が恥ずかしくなった。
いや、これからもちょくちょく気付かないだろう。
そしてまた「もう一度」と、日常に返ることの
くりかえしのはずだ。

日常というリアルの中にふるさとを見つけ、
そこで癒され、そこに自分なりの目的を見つけていくこと。

日常の中の非日常に重きを置くこと。
それは、肝腎な日常を守るための武士道である。

ミックから始まったときめきの非日常は、
私の日常を支えてくれた。
それは現実逃避ではなく、現実をしっかり見つめるための
心のオアシスだ。

しかしそのオアシスを得るためには、現実をしっかり見つめ
ようとする、「力への意志」が必要なのだ。
そこで初めてバランスがとれ、相互に作用する。
日常だけ、非日常だけでは、反作用を起こしてしまう。
日常のための非日常。非日常のための日常。

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「働いているのは俺だけ」と、ミックがブーたれたとか
たれないとかいう記事も見かけたが、いくら現状に不満が
あろうと、彼の帰るところはストーンズだけだということを
彼自身もう40余年にわたりメッセージし続けている。

「彼らはいつまでグループでいるつもりなんだ」と言っていた
ジョン・レノンは、最後までどこかにある天国を探し求めていた
のだろうか。

しかしミックもキースも、目に見えるストーンズにしか
天国はないのだ。
どこかにある天国に行ったところで、居心地が悪いだけだろう。

ミックが思い入れていた黒人奴隷たちが、差別に耐え、
辛い仕事に日夜耐えながら求めていた天国も、見たこともない
きらびやかな、あるいはお花畑のようなそれではなく、
実は生まれ故郷の慣れ親しんだ風景だろう。

ニューヨークで銃弾に倒れたジョンレノンも、リバプールに
帰ることが晩年の悲願であったと言われている。
彼の帰属先は憧れ求めた謎の東洋にはなかったのだ。

ゴシップに悩まされ、あるいはボヘミアンを自覚して
各国のホテルを渡り歩いているミックだってやはり
イギリスが懐かしく、さらに言えばムチを持って走らされた
記憶を、理屈ではない身体が、血肉が、懐かしがっている。

彼はその身体性を、「強い者は弱い者のくびきを担うべし」
といった聖書の精神性にまで昇華させ、
自覚を持った「超人」として振舞おうとする。

そのときマゾヒズムは、「あがない」へと昇華するのだ。
「行動」をメッセージしていた三島由紀夫も同じである。
彼は超人として、死ではなくリアルな行動を示した。
それは、リアルではない行動はするなというアンチテーゼだ。

リアリティーを奪われたままどこかに属しても
声高なものに引きずられるだけだ。
まずは自分なりのストーンズにある、
「志」を得なければならない。



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ローリング・ストーンズの数多くのライブ映像を見て
気が付いたことがある。
ミックはギターも弾くが、けっしてピックを投げないのだ。
他のメンバーは、客席にピックやスティックを投げるのだが、
彼だけは頑固に投げようとしない。
何かこだわりがあるに違いない。

昨日、親の愛には形がないことを伝えた。
どんなギャルママであろうと、子供がいじめられていると
思うがいなや、我を忘れる。

子供が拉致されたなんてことになれば
そこにどんなからくりが仕組まれていようと
夢中になってわらにもすがる。

そんな親の愛は、形では証明できない。
子供それぞれの胸のうちに残像としてあるだけだ。
ミックは、彼にとって礼拝にも等しいライブの場で、
この愛を伝えている。
だから、目に見えるものをあえて残さないのだ。

ストーンズのライブも、男女の愛も、この世のものすべてが、
実は目に見えない幻想であったとするならば、
それを知ったとき「意味ないし」と切り捨てたくなる。
その無意味にあえて、真心を込めることだけが、
人間のワザなのだ。

それは同時に、彼自身の言う「ブルースへの志」に
関連する。ブルースの背後にある、多くの無名性への
オマージュでもあるのだ。

読み人しらずの優れた作品は数多く存在するし、
ブルース歌手のみならず、隣のおじさんおばさんのなかに、
心に残る名言や、心を動かすあたたかい行動がある。
それらは誰かの胸にしっかりと残り、目に見えずとも世界に
影響し、また後世へと伝わっている。

それだけが、幻想ではないれっきとした事実なのだということ
を、彼は「ピックを投げない」ことで世界に証明している。

「時々客席の中に飛び込みたい衝動にかられる」という
彼は、その衝動に身をまかせることをしない。
ピックを投げないのと同じ抑止力によって、身体も、
客席の海という自然にゆだねない。

これらはみな、振り返って心を残すことへのこだわりだ。
ピックを投げないのは、武道でいう「残心」の構えである。
一曲プレイをキメても、気を抜かない。
幻想に惑わされない心で、ただ現状把握に努めるのだ。


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不肖の息子、アメリカ人たちがしでかしたことを
世界中にわびて回っているようなミックの
ストーンズ世界ツアーは一見の価値がある。

私はミックのことで頭を悩ませて生きている割には
2見しかしていないが、1見目の2003年大阪ドームは
事のほか出来のよいライブで、彼のこれまでの生き方の
ダイジェストのようだった。

そのためインスピレーションがあふれ、形にせずにはいられな
かったのだが、印象に残ったのは、彼の日本人ぶりだった。

「ミックいいって、そこまでしなくても」と言いたくなるような
申し訳なさそうなキマジメぶりに、日本人の精神をみる思いが
したのだ。それは武士的とも言え、不思議にも彼の祖国イギリス
の伝統である紳士、騎士にも通じる真摯さであった。

そしてその「申し訳なさ」というのは、まるで「うちの子が
わるさをしまして」と、頭を下げている親に通じるものがあった。

ミックは観客への責任、そしてストーンズの存在により生まれた
数々の事象に対する責任感で、身を粉にして働いているような
ところがある。キースもそのあたり心得ており、世界ツアーの様子を
映したビデオの中で「俺たちは離婚できないんだ。ベイビーたちの
ために」と言っている。

ミックとリーダー争いの悪あがきをしたあげくストーンズを追いやられた、
ブライアン・ジョーンズの存在もその中には入っているだろう。
「誰がリーダーだとか、そんなのはもう古いよ」と当時言っていた
ミックは、そのために現在もなお「リーダーとは」を意識している。

アメリカはイギリスの生んだ、世界のリーダーであるべき存在だ。
そしてどんな子であろうと、我が子は可愛いのだ。
だからミックは、あがないの世界行脚を続け、アメリカに行けば
「トップ・オブ・ザ・ワールド!」という励ましをかける。
この言葉にどれほどの意味がこもっているか、アメリカ人はわかる
のだろうか。

実際息子は、ほめてやると自覚して、それ以上のことを自らきちんと
しようとするものだ。

この絶えざる「あがない」こそが、貴族の責任であり象徴である
ところの、ノーブレス・オブリージュではないか。

中産階級出身のミックは、目に見える貴族にはコンプレックスが
あったのかもしれないが、「力への意志」という平等性のなかに
おいて自己を克服し、真の貴族となる。

それはまさに、武士騎士の本分である「戦い」によって
得たものだ。自らに秩序を課した、リアルな努力の結果である
真の貴族、クリスチャンなのだ。
だから、こう噛み付きたくもなるのだろう。

 あんたは自称クリスチャンだが、 単なる偽善者だと俺はおもう。
 あんたは自分を愛国者だと言うが、単なるくそじじいだ。

この単なる「a」に、それでも愛情が込められてはいないだろうか。
親の愛は、理屈じゃないのだ。



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DSにはまって、放っておけば一日中でもしている息子を
心配した娘が、ゲーム機を隠した。(私は彼女を先生と呼んでいる)
この世の終わりのような顔で家中を探し回っている姿が
哀れで、「出してあげなさい」と言った。

娘が「ここだよ」とありかを教えると、息子は今まで見たことも
ないような嬉しそうな顔で、「ありがとう」と心からの感謝を
娘に述べる。

ここで、「巧妙に搾取される人間」という言葉が浮かんだ。
おせっかいをして、ゲームを取り上げたのは、他ならぬ彼の姉だ。
彼はその姉に心をこめて感謝しているのだ。
下手すると一生「恩人」として胸に秘めそうな勢いだ。
この図式は見過ごせない。

同じ部屋で、それぞれがそれぞれのことに打ち込んでいる空気は
すがすがしく、なんだか嬉しくなり、やる気も倍増する。
ところが一人、手持ち無沙汰な人間がいると気になってしまう。
手持ち無沙汰な人は往々にして人にちょっかいを出し始める。

役割はだいたい決まっていて、娘がいつもぶらぶらしている。
人にかまってもらえなければ時間をつぶせない。
だから人の気を奪い、時間を奪うことになる。
その人間がこうして最大級の謝意を示されるとは、
皮肉という言葉以上のものがある。

いくらたくさんお金を持っても、この弟のように何も考えず
または姉のように目的意識がなければ、色々なところで
いいようにカモにされるだろう。
笑顔で寄ってくる人々は、あなたが上客だからだ。

ミック・ジャガーは誰も知るとおりの大金持ちだが、
まるで持ってないもののように振舞う。
けちと言うことでなく、持っていない人が
一円の使い道にも頭を悩ますかのように、考えるのだ。
当事者意識を持っているということだ。

お金のあることで当事者意識を持てなければ、生きている実感も
ありはしない。聖書の「富んだものほど神の国から遠い」とは
そういうことだろう。

「今あるもので満足する」という心構えを、搾取される方向では
なく、当事者意識を持った結果として神から与えられれば最高だ。

ミックの、他からしぼり取られることを許さず、自ら
しぼり込んだそのスリムな肉体と同じく、無駄なもののない、
研ぎ澄まされた精神こそ、本来のプロテスタンティズムである。

人間の判断で、またはアメリカナイズされて、歪められた
資本主義発展の元祖は、暴力を振るう側が得をすることを
許さず、天職意識を説いた、聖書に添ったものだ。
「人間が必要以上に保存する」ことの愚かさに真っ向から
反したものなのだ。
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礼とは何か 
昨日述べた礼というのは、もちろん「起立、礼!」の礼ではない。
誰かに命じられるものではないのだ。
自らの内に沸き起こった自然な感情に即したものだ。

武士は、茶室に入るとき刀をはずした。
戦いを本分とする者がそれをはずすというのはよっぽどのことだ。
それは目に見えぬ偉大な自然、芸術に対する、畏敬の念の表れである。
何も持たず、身体を小さくしてにじり口から中に入るとき
優劣も、貧富の差もなくみな平等だ。
偉大なものの前では、われわれは取るに足りないもの。
偉大なものの前でだけは、自然とへりくだり、質素になれる。

千利休は、茶道とキリスト教に共通点を見た。
新し物好きの織田信長は、興味深く耳を傾けたというが、
秀吉はわびさびへの不理解から、利休を切腹に追い込んだ。
利休が反逆者でなければ、切腹しなくて済んだだろうに。

話はそれたが、礼拝という儀式に出席することも
命じられてするものではないのである。
自ら進んで、偉大なものにこうべをたれたい、ただその思いで
参加するのだ。
教会の人間が、「神に呼び集められた私たちの教会、共同体」
という時そこに、わけもわからず参加している人は含まれている
のだろうか。
それより、意義を唱えて出席しない者の方が、同じ共同体に
属しているのではないか。

そこを無視して、その場に実際に居るものだけを
高く上げようとするのは、神ではなく人間の判断だ。
人間が命じる礼は、彼らに都合がいいというだけのこと。

ローリング・ストーンズの、ライブのあと整列して深々と
する礼は、ミックが決めたことには違いないだろうが、
それは彼がリーダーとして決めたことであり、
そのこと自体で都合がいいことは何もない、無償のものだ。

そのとき彼は、客という我々人間のなかに、神を見ている。
その神に礼をしているのだ。



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エゴ抜きの、野生の世界における力の量を、
ニーチェは権力量と言い表す。

彼は『権力への意志』のなかで、
「権力量は本質的には暴力をふるい、暴力に対してわが身を
防衛するひとつの意志である。それは自己保存ではない」
と述べている。

動物たちの戦いは、反射的に「負けまい」とするものであり
「他より勝とう」とするものではない。
要は「保存しておこう」とするところに、
人間のエゴはあるということだろう。

自分の生のために、他人の生をないがしろにする考えは、
この保存欲に端を発している。

動物は自の生も他の生も、けっしてないがしろにはしないのである。
真剣に対して真剣で返すしか術を持たない。

その意味で、彼らは他に迷惑をかけない。
「他のために」と言って色々ややこしいことをしなくても、
結果的にこれほど他のためになることはないのである。

単に「暴力反対!」から展開される論では説得できないことがある。
野にある小さな花は、人目につかなくても精一杯咲いていて、
その香は海を越えて、全世界に届いている。

人間も、自分を大切にすることがひいては世界のためだ。
花を摘んで部屋を飾ることがそれに値するなら、摘めばいい。
そこでせめて、野にある花は野にあるように活けてあげることが、
花への礼だ。

エゴのあるものは、せめて礼を知ることが、
他の生への尊重になる。



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中学時代の部活で、意地悪そうな笑みをたたえた先輩が
気まぐれに宣言する恐怖の時間があった。
「ダービーするしー」。(ゆったりした京都弁である)

一斉にスタートしました! 私たちは馬だ。
グランドで、まずは指定された何周かを走った後、
早い者からゴールできる。
残された者は、順位と比例して何周でも走らなければならない。

ゴール近くになると、先頭集団の目がギラギラしてくる。
私はそのギラギラを見てしまうと「お先にどうぞ」したくなり
ずるずると順位を落としたあげく何周も走るはめになるのが常だった。

そのギラギラは、競り合いになると発せられる生存の意志だ。
この時点で私たちは、もはや馬ではありえない。
馬は「力への意志」はあっても、生存競争はしないからだ。

どんなに汚い手を使おうと、あさましかろうと、
自分のしていることが妄想であろうとなかろうと、
人を蹴落としてでも、勝ちをとりに行く意志は動物にはない。

善人を目指す者が、悪とみなした者の生にちょっかいを出したあげく
それを徹底的に否定する意志も、人間のギラギラがいびつに巨大化
したものだ。

「今日ダービーやしー」と宣言されて、恐怖のあまり逃げてしまっては
「力への意志」を知ることができない。
人間のギラギラに怯えて、お先にどうぞを繰り返し倒れてしまっては、
途中退場だ。
ここは意地でも倒れてはならない。
自己のペースと相談しつつ、自己の流儀で、いつかは奮起して
生存競争にも参加しなくては、ゴールも見えては来ないのだ。


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なにが平等なのか 
「ビートルズも含めて有名なグループのほとんどが
いいとこのお坊ちゃんさ。苦労物語、ありゃあみんな嘘っぱちだな」

「僕はドロップアウト組。苦労時代と呼べるようなことは
いくらもあったけど、貧しい中から這い上がってきたわけじゃない。
一文無しになった時だって、僕たちはただのブルジョアの
ぼんぼんさ」

ミックは背後にひそむ無数のケースを切り捨てているわけじゃない。
でもそこには、誰がなんと言おうとあらがえない「現実」はあるよと
言っている。

この泣きたくなるようなシビアにうなずけるのなら、
実際のところどうなんだ?と、時々自分の立ち位置を確認し、
それぞれの現実に立ち戻ることが大切なのだろう。

だけどただ従順になればいいってもんじゃない。
「子供のことどれだけ知っていますか?」というコマーシャル。
参観日の教室で「うちの子供の趣味は…」と、つまってしまった
父親を、いっせいに突き刺すような視線がとりかこむ。
その一点のみでどうして判断できるんだ?

夫婦の愛情診断!奥さんのことどれだけ知っていますか。
何点答えられたから、それだけ愛しているということになるのか。

お遊びとしてはいい。参考にならないわけじゃない。
でもあくまで、野生の感覚が目安だ。
形にひきずられれば感覚は麻痺する。

形ではないところに、本当の平等もある。
人間には完成がない、ということである。
禅でよくいわれる、「悟ったと思ってもそれはもう迷いであり
実体がないものだ」という空しさにおいては誰しも同じ。

その空しさを承知で「もう一度」と、生を繰り返す能動性
を持つ人間が、勝利者なのだ。

ミックはいいところの坊ちゃんで、スーパースターになった。
しかし彼は空しかった。だから真の勝利者を目指して
地道に努力した。
そして今、彼にあるのは「無への志」ばかりだろう。
無というトップに一番近いところで独走態勢に入っている。

何が平等なのか。
まず力への意志を前に、人々は同じ権利を有している。
それは野生への回帰、永遠回帰につながってゆく。

「職業に貴賎なし」ということを死ぬまで知ろうとしない者も
いるけれど、いくら形は立派でも、力への意志のないところに
光はない。

光のあるところには、輝きも善もよろこびも寄ってくる。
ゲートが開いたら、いっせいに走り出せ!


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力への意志とは 
それは生への意志とも言い換えられる。
ルサンチマンは、その意志を死の方向へ引きずりおろそうとする。
たとえばいかにして相手にやる気をなくさせるかに
全力を傾ける。

それも力には違いないのだが、ニーチェの言う力の意志は
あくまで生なのである。
そして生は、深く知るほどに、綺麗なものではない。
ルサンチマンとまぎらわしい、いわゆる復讐の意志であっても、
それがその為により成長しよう、拡大しようという作用を生むのであれば
ベクトルは、生なのだ。
誰かへの批判であっても、生に役立つことなら聞くべきということ。

もし考え方が間違っているのなら、環境が教えてくれるだろう。
感覚にフタをせず生きていればいつかわかる。
そこで考えを正すことも可能だ。

生であるところの力は、押さえつけられれば反発する。
ねじ伏せることは不可能だ。
それが創世記の「生めよ増やせよ」なのだから仕方ない。
そのとき行われなくても、内部に復讐心を貯めていたりする。

「神は死んだ」と言いながら実は牧師の息子であったニーチェは
「力への意志」を訴えることでキリスト教に反発する。
言い換えれば、こういう形であれ聖書をなぞることしかできないのだ。

厳格なクリスチャン家庭でお祈りを強要されて育った
ミック・ジャガーもまた同じである。
反発しながら実は聖書をなぞっている。

「おやじは体育の教師だったけど、俺は歩いて済むことなら
走ろうとなんかしなかったよ」。

そして彼は今日も走っている。
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ねたみについて 
ねたみは自主的でない心から生じる。
だから他人の行動が気になるのだ。

誰かや何かを尋常でない仕方で否定するとき、
実はそれを肯定している、というのがニーチェのいう
ルサンチマンの特徴だ。

そんな彼らはいとも簡単に利用されるという。
真剣さがまるでないからだ。
能弁な人にも操られやすい。

能弁な人の図式によれば、悪い強者に抑圧されている弱者は
なぜか「善い人」になり、従順なことはいつの間にか
「善いこと」になっている。

そんな彼らの声高なスローガンに、ねたみをエンジンとする人々は
簡単にまとまって、歓声をあげたりするのだろう。
彼らの「平等」という言葉は、強者へのねたみに過ぎないということだ。

平和とか平等という耳に優しい言葉がすべて善なわけじゃない。
「優しさ」がすべて善なわけじゃない。

優しい人イコールねたむ人ではないが、「優しい人」が、
相手のことをなんでも善意に解釈するというのは、
どうにかならないか。
「ナニナニしてくれて助かったわ」と言われても
それは成り行きに従ったまでのことで、ナニナニしてあげようと
したわけじゃないのに。

優しさが善ならば、それは強さを伴ってあるべきなのだ。
優しくなりたければ強さを志向することだ。
「力への意志」のことである。

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「真剣」を信じるのだ 
沢尻エリカのバレンタインのCMで、画面に大写しされる
「がんばれジョシ!」というコピーを、「がんばれジョン!」だと
思っていたのは、私だけじゃないだろう。

昨夜真実に気付き、どうして漢字で「女子」としないんだ、
誤解するだろう!と思ったが、
誤解も何も、たとえ「がんばれジョン」であったところで
何の疑問も抱かず、「ふうん」って見てたのはこちらなのだから
仕方ない。

偉そうなことを言っていても、いかに人間なにも考えていないか
ということに、ちょっぴり感動したので伝えたかっただけで、
この話は適切な例にはならないが、
意識のどこかで、「ところで、どうしてジョンなんだろう」
と思っていても「ま、どうでもいいや」とか「忙しい」が勝つと、
素通りしてしまう心の動きはある。

それにしても「実はわかっていない人」が、いつの間にか
何かに参加していることになっているのは、こわい。
一部の熱狂的な者が、「私たちはみんなこうです!」という、
その私たちに入れられているのだ。

たとえば「イエス様は私たちのために十字架にかかって死んでくださった」と信じていることになっていた、というのもそうだろう。

私たちは自分が救われたいから信じたのであって、
誰かのために犠牲になることを推奨しているわけじゃない。
結果的に犠牲的行為をしたとしても、それこそ神の導きであって
犠牲になろうという心が先立つわけじゃないのだ。

信じてイエスのように生きる、というのはミック・ジャガーの
ような生き方をすることであり、犠牲精神に富むことになっている
イエスの真似をするのではない。
イエスは真剣だったから、神に死を命じられても生き延びるために
ありとあらゆることで逃れようとしたはずだ。
それでも彼は、神であると同時に神を信じていたから
身をゆだねたのだ。
そうではない、人をナメたようなイエスだったら信じるに値しない。


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聖書と武士道とロック 
家庭の奥さんが、夫に愛想をつかした翌週から
聖書と祈りの生活に入るとは、ありそうな話だ。

ある婦人は、夫に長年たまった恨みを晴らす為に、
自分の葬式は子供にしか知らせずに、教会式でしたいとの
理由からクリスチャンになった。

いや、彼女が「これが理由で」と言ったわけじゃなく、
話を聴いていて、私が勝手にそう思ったのだが、
まあ人間のことだ、動機なんてそんなものだろう。
どろどろした恨みつらみ、好悪の感情、そんな「感覚」が
何かを成し遂げる強い原動力になっていることは多い。

教会としては、信者が増えれば理由はどうあろうと
大歓迎なのだ。動機などあとから変えられる。

信者は、そうした理不尽さを目を開いて見ることをせず、
なかったことにして、「私は神に導かれたのだ」という
話ばかりをする。

もちろん同時に何か理想を追求していきたい思いも強いから
信仰生活に入ったのだろう。

しかし美しさばかりが先行すると目が曇ってきて、理不尽さ
(キリスト教でいう罪)を自覚できなくなる。
罪こそエネルギーの宝庫かもしれないのに。

罪を身をもって知るには、身体を切り刻み血を流さなくては
ならない。(本当にやってはいけない)。

ライブの「応答」である、生々しいリアルを実感して
むやみやたらに感覚にフタをしないで生きるということだ。

たとえば、そうじ用品も今は便利になって、ただ振りかけておけば
綺麗になるというのもあるが、それよりしっかり目で見て、
手を使って磨いて、汚れを落とした方が実感は得られる。
(もちろん便利なものも使いようだが)

そうすれば、私の子供が教会で言われた「神社のお守りは持っては
いけない。悪霊が働くから」などという言いがかりは、
脅しにしか聞こえなくなるだろう。

聖書であれ武士道であれ、形のないものはとかく「美化」されやすい。
しかしたとえば本来のプロテスタンティズムの精神は、天職意識に支えられた倫理感であり、「感じる」ものだ。

そのストイックな職務遂行から、蓄えられた金は再びの営利追求のために使われるという、資本主義の発展に作用するものとも言われている。

そうした「内からの動機」がなければ、営利追及自体が目的となってしまう。そのために信仰はあるべきだ、そして日本人の場合、そのストイシズムは武士道によって得られるという。

いずれにしても形のないものに添っていくためには、
こちらも形のないものを携えているのが基本であり、
それが、血肉であるところの感覚なんだろう。
「蛇のように賢い」のは教会では排除されるのだが、
その蛇こそが反逆者であり、武士だろう。

新渡戸稲造は、武士道が日本人、特に武士に与えた性格は
少なくとも民族の活力を形作っていると述べている。

重要な要素たりえないが、エネルギーにはなるという、
芸術と同じ要素を、これらは持っているのだ。
ミック・ジャガーのロックと、武士道、そして聖書は
生命力でつながっている。
こうして伝統は守られていくのである。






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これまで志だ、武士道だとしつこく述べてきたが
(これからも述べるつもりですが何か?)
ミックは、そんなにかっこいいのだろうか。

もちろんかっこいいのだが、彼は神様じゃない。
偉い人だ。
それは神に近づこうとしているから偉いのである。

偉さを除けば、単なる走るおじさんだ。
もともとは体育コーチのパパに押し付けられた習慣。
そして毎日走っているのは、仕事に役立つから。
ライブで走れば、ノルマも達成できて一石二鳥。

毎日そうやって何かせずにいられぬというのも、
人一倍怠け者の自分が気になるからだろう。

しかしガリガリの身体で、目だけキラキラさせて走るミックは、
日本の武士を想像させるとともに、もうひとつの光景を浮かばせる。

追い詰められ、飢えに苦しむ人々だ。
ミックが走るのは、恵まれた生活あるいは、
やる気をなくして、リラックスしすぎた太り過ぎの
欧米人たちが、過去に犯してきたあやまちへの
つぐないの行為でもある。

ガリガリにやせこけ、だけど目だけはキラキラとした野生の
輝きをたたえている、彼らの生命力を見てみろ!
我々もうかうかしている場合じゃないぞ!と、ミックは走っている
のではないだろうか。

プロテスタンティズムの信仰に立ち戻って、自らの賜物を
自覚せよ。そうすれば天職が得られるかもしれない。

そう、走るという単なる毎日の習慣を、人類の見本にまで昇華する
のが、ミック・ジャガーたる、人間たるゆえんなのだ。


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サティスファクションはじめ、ストーンズの代表的な
名曲を作ったのは、キース・リチャーズだと言って良いだろう。
厳密にどちらと言えない曲も多いだろうし、この曲はどっち、
と分けるのもナンセンスとの見方もあるが、
キースのものには、何ともいえない繊細さがあるし、
空き時間に、彼らが同じようにピアノをラフに弾いても、
ミックよりキースのほうが、「うーん」とうならせるものがある。
それ、ください。家に持って帰りますから、と言いたくなる。

その繊細さはどこへ行ったの、と思うほど、語られる彼のイメージは
荒っぽい。レコーディング中、アイデアを出したスタッフが
「ストーンズのすることに口出すな!」とキースからナイフを
投げられたという笑えないエピソードまである。

もちろんストーンズが一番という自信が、キースの原動力なのだろうし
才能のある者には、それを補完するあらゆることが、「小さい」と
思えてしまうのだろう。

ミックが早くからシンセサイザーなどの機械類を導入したときも
キースは面白くなかった。ストーンズのイメージのことも
考えたんだろうが、そういうミックのコショコショしたところが
彼にはやりきれなかったのだ。その点ジョンとポールにも似ている。

そんなキースに異をとなえるように、ミックは一度華々しいソロ活動
を展開したことがあり、キースもソロを余儀なくされた。
ミックに「三歳児」呼ばわりされるほど、実は一人でいられない、
バンドという保護色の必要なキースは、さすがにこたえたらしい。

キースは、仲間に囲まれていても孤独というものはある、
逆に一人ぼっちでも、仲間はいるのだということを
知ったのではないだろうか。それからのバンドはより強固な
絆で結ばれていく。

ミックは、キースに対してそんな荒療治をしてみたり、
影に日なたに常に「寄り添う」努力を続けてきた。
彼自身は、キースほどロック好きには見えないが、
ロック、そしてストーンズという「意志」を持って、
キースにつながろうとしてきたのだ。

「意志」というのは、「あえて、そうする」というもので、
大人であるとも自立しているとも言い換えられる。
ライブ中にキースと抱き合うのは気持ち悪い、と言いながら
あえてそうする時、純粋さもまた生まれるというものだ。

ミックがミック自身を愛することはたやすいが、ストーンズを
続けていくには志が必要だ。

趣味も考え方もまるで違う2人が、志を媒体としたとき、
最強のゴールデンコンビが誕生する。

不思議なことはその時起こる。
なんであそこまで相性がいいのか、わからない。
人々をあれほど魅せるコンビネーションの妙は、
神が働いているとしかいいようがない。




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サルトルの、「我々は理解していないということを理解すべきだ」
という言葉の意味からすれば、
懲りずに失言を繰り返す柳沢大臣は、失格!なんだろう。

しかしあえて言えば、「健全」がそんなにいいだろうか。
「健全ね」と言われると、なんだか「普通ね」「みんなと一緒ね」
と言われているようで、不健全を志向したくなる。

その意味でも彼の表現は、彼にとって逆効果なのだ。
たとえば秋吉久美子のように、結婚しても離婚を繰り返し、
自由奔放が一番!という時代の鬼っこが活性化するだけだ。
彼女の、「子供を卵で産む」というのは、
気が向かなければ産みませんというのと同じだ。

しかし別の意味で、一度きりの人生、不健全に生きたいじゃないか。
私のだんなも相当トンチンカンなので、ないがしろにされたような
思いもしてきたが、だからこそ私は、不健全な妻・母でいいんだと
思えるようになった。
つまりステレオタイプの妻・母ではなく、自己流であってもいいと。
彼のための理想を演じなくてもいい。

その、自己の流儀というのは、あくまで基本を踏まえたものだ。
ここでいう秋吉久美子ではなく、王貞治の一本足打法のようなもの。
それがあれば、主体であるライブを乗り切っていける。
ミック・ジャガーという名であり、ローリング・ストーンズだ。
その名があれば、健全でも不健全でも、もうどっちでもいい。

少子化問題については、経済的理由もさることながら、
未知のものに対する「怖がりすぎ」もあげられると思う。
「子育てってすごく大変なんでしょー」
「私にそんなことが出来るわけがない」などと
決め付けている人が多いように思う。

育ててもみないでわからないだろう。
理解していないことを理解したほうがいい。
子育ては思ったよりずっと楽だった。
もちろんまだこれからだし、一番手のかかる頃の渦中においては
大変なこともあったが、今思えばあっという間だ。

流儀を持ってやってみたら、案外スムーズにできちゃった
という事は多いと、マジで思う。





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若さとは過剰の別名と定義づけてみよう。
たとえば胃酸が過剰に分泌されれば、通常はウイルスなどの
悪いものをやっつけてくれる攻撃性は、自分の胃粘膜に向かう。

良いものであるはずの胃酸が、身を滅ぼすこともあるということだ。
ウイルスだって、本当は悪者とは決め付けられない。
仮に悪者としても、得体の知れない彼がいるから免疫力が付くという、
パワーの源であるのだ。

年をとればこれらの攻撃性は弱まるのだが、同時に枯れて来るだろう。
枯れのよさというのも、またあるわけだが、ピチピチした生命力は
失われるのが普通だ。

ミックはあえて、この自然にさからい、アンチエイジングの
努力を続ける。つまり「63にしてはやりすぎ」なほど、
身体を動かしまくり、ライブを活動の主体とし、
「ガリガリだ」とこちらが失言しそうなほど、
スリムな肉体を保ち続ける。

そうした若さの未熟性をあえて持ち続ければ、
生命力ももれなくついてくる。
「あっちゃー」とか「どうしようどうしよう」とオロオロする
場を、あえて持ち続けるというのもいいかもしれない。

「若者的感性とは、自由への衝動と、死への衝動を同時に持つこと」
という、by三島由紀夫の、やたらカッコいいセリフも、
過剰という死にそうに恥ずかしいエッセンスを注入しないと
得られないということか。
内田裕也を笑えなくなる。

反抗と服従の共存というその、若さの理念を
最後までフレッシュに保つことが、ロックの真髄なのだろう。
アンチエイジングもラクじゃない。


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道徳って何だろう 
「私は何も悪いことをしていないのに、ついてない」などという
言い方があるが、じゃあその、いいこと悪いことって何だろう。

たとえば幼稚園の行事に、自分ひとりカチッとした仕立ての良い
スーツを着て出かけたとしても、周りがみなトレーナーにジーパン
だったら、それは単にTPOに合っていないというだけだ。

周囲を見回して「わっ恥ずかしい」と、我に返るのなら
周囲は彼女をそれ以上咎めはしないが、それに気付いてなくて
悦に入っていたら、「何あの人」という目も出てくる。

ただしそこで、わかっていてもあえてこれを着ているという
主張があるなら、その得意げな顔が、堂々とした顔として
周囲に映るかもしれない。
ここにもライブのリアルが働いているということだ。

もう去年の話になるが、小学生の娘が友達のクリスマスパーティー
に呼ばれた。
一緒に呼ばれた娘の友達が、「お母さんがクリスマスケーキを作って
持たせてくれる」と言う。そのため、私たち他の母も何か手作りの
お菓子を持ち寄ろうという空気になった。
忙しい人もいるかもしれない。
手作りは苦手という人だっている。
何よりそのケーキは、主催者の立場をなくすかも知れない。

とは一切考えずに、その母は「いいことをした」と
思っているのだろう。

ただし、ここで彼女がクッキーを焼くのなら許せる。
きっと、それなら美しいということだ。
良いではなくて美しい。

その頃息子の幼稚園で恒例になった親子でのリース作りに参加
したが、それは年々競い合うように派手な大きいものになっている。
大きいのがいいってもんじゃないだろうと思い、
美しくなさに意義をとなえるつもりで、
あえて極力小さいシンプルなものにした。

私たち日本人は、田舎者であるという前提に立って行動して
ちょうど良いのではないか、それが美しさへの近道かと思った。

そうだ、責任の取れる男は美しいのだ、
そう思って息子に、おしっこ飛ばしたらきれいに拭きなさい、
出されたご飯は残さず食べなさい、と教えた。
自分はまだまだでも子供になら言える。
でもそれすらも、「もったいない」と言う気持ちにこだわることが
もっと肝腎のものをないがしろにする結果につながるかもしれない。

美しいことをするのは、楽ではないのだ。
多面的な見方や、細心の注意がいる。

だから、「これが美しい」と軽々しく口に出来るものじゃない。
でもそのことを踏まえたうえで、「これが美しい」と断言するのは
インだったりする。
でもそこで、これでバッチリ!と決め付けたとたん、
手の内からフワリと飛んでいってしまう。
そんな性質のものだ。
とうてい形に出来るものではない。

ミックは、「いわゆる道徳観というやつには、ずっと疑問を
感じてきた」とビデオのなかで語っている。
美しさを無視した形ばかりの道徳は、日本ばかりではないのだ。

彼は小学生の頃の作文に、「自分は火星からきた子供なのだ」と
書いたという。よほど自分は周りから浮いた存在だと感じていたの
だろう。
しかしかえってそうした人間のほうが、純粋な美しさの発見
には、近い位置にいるのかもしれない。
周りと共存しながらも、「嫌なものは嫌だ」という意志を
守り通すなら、自分は他の誰でもないことが身にしみてわかるだろう。



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柳沢大臣の失言について、様々な国のエライさんたちが、
「信じられない」「うちの国なら当然辞任だ」などと
背景も知らずに感想を述べている。

こうした意見を参考にするというスタンスはあるべきだが、
日本の歴史や、文化や、事情といった背景を一番よく知っている
のは日本自身であるはずなのだ。
女性の身体を一番よく知っているのは女性と言い換えてもいい。

大臣らの考え方が間違っているなら、その考え方はどうして生じたのか
どう反省すべきなのかを日本人自身が考えなければ
他国の人々に勝手なことを言いたい放題にされる。

まず足元を固めて、それなら他国はどうなのだろうという
発想となり、周辺から知っていこうとするのが、
本来の順番だろう。そこで初めて「違う」ということの
素晴らしさを知る。

その態度は、「勝手なことほざきやがって!」と単にかたくなに
なって防衛本能をむき出しにするのとは違う。
だけど「勝手なことは言わせない」という基本姿勢がなければ
進歩もない。

日本に生まれたのも何かの縁なのだから、背景を知る努力を
続けて、日本人が武士なのではなく、日本人にフィットした理想形が、
武士道にはあることを知りたいと思う。
フィットしたものには五感が生きて働くからだ。

こうした事情から、たとえばミック・ジャガーという英国人が
かかる理想の追求を体現していると気付いたなら、
謙虚に参考にしたところで、それはかまわないだろう。
大陸と島国という、地理的相違は意外に大きいのだから。


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武士の身養生とは 
勝つか負けるかの武士の世界では、「身体弱いんです」という
言葉がすでに敗北に結びつく。弱いことを言っていては、ライブを
まっとうできないのだ。

そこには「身養生」というパラドクスがある。
読んで字のごとく身体を養生することだが、では健康オタクに
なって身体を真綿に包んでいて養生になるだろうか。

そうとも言えないだろう。身体に何らかの負荷をかけることで
鍛えられるということもある。

ある人にとっては、今は身体をじっと休めることであり、
ある人にとっては、なまけた身体にカツを入れることが
最上の身養生かもしれない。こうでないといけないと
いうことはない。

要は自分の身体の声を聴くこと。
音は耳で聴くとは限らない。
香りを聴くという言葉だって存在すると思えば、
やはり五感を研ぎ澄ますことが一番だろう。
感覚が麻痺することだけは警戒しなければならない。

働く女性で、私さえ頑張ればいいとばかりに、家事も仕事も
完璧にこなそうとして、自滅する人は昔から多かっただろう。
または近年の男性で、仕事で死にそうに疲れていても
パパも育児に参加すべき!などと言われて、こき使われている
ケースもあるだろう。

人類も自然のひとつだから、陰きわまれば陽を旨とする
バランスをとる生き物だ。自分以外の何かにバランスを
とられることを許してしまうのか。

自分以外の何か、それは病気かもしれないし、他人かも
しれないが、それらの侵入を、指をくわえたまま
「あれえー」とか言って傍観するのを悔しがるのが武士だ。

ミック・ジャガーは若い頃から、日常的に顔に
メイクを施していた。
彼の生き方から推するにそれは、おかまっぽい男子の
おしゃれと言うよりは、常に死と共存しているという
主体性の表明であるところの武装だ。




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責任感あふれる男、ミックのベロマークをまとった姿は
そのまんま東の作業服すがたよりも年季が入って迫力がある。
彼は45年もの間、グループを背負ってきたのだ。

「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー」の映像を
観るたび私は、感動という癒しを得る。
このライブ映像は、ミック・ジャガーという人がいかに
一人で身を粉にして生きているかを物語る。

身を粉にするというリアルは、我々を動かすことを知らされる。
だからって、じっとしている人がどうだとは言っていない。
ベースのビルを指してミックは、「つったったままだ」と言うが、
それは、ビルのまんまを受け入れた言葉だ。
むしろ、力の抜けた自然体のメンバーとミックとの対比は
ミックのマッドなほどの真剣な意志力をきわだたせ、
一方では、ヨーロッパ個人主義さえ教授してくれる。

アングロサクソンの風上にも置けない奴に、ミックは見えない
刀を振りかざすが、彼らがアメリカツアーにこだわってきたのは
ビジネス以上の何かがあるのではないか。
つまり、アメリカ人たちに、目に見える武士道騎士道を
伝えに行っているのではないかと思わせる。
さらに言わせてもらえば、日本の「ストーンズ最高!」という
人々も、武士道に魅せられているのだ。
ギターが刀に見えてきただろう。

映画は、ライブの幕開け前の舞台から始まる。
ロン・ウッドのステージへ歩いてくる後姿。
アンプの後ろから不自然に出てきたミックが、
ロンににじりよる。
その笑顔を見るとき、毎回熱いものがこみ上げる。
ミックはきっと、機材の物陰に隠れるようにして
ロンを待っていたんだろうな、と思うからだ。

もう本番だ。仲良くやって行こうな、といったその
ミックの神経の細やかさにぐっとくるのだ。
というのも、映画の中盤で切り替わった楽屋裏の様子から、
ライブ前のミックとロンの間に
不穏な空気の存在があったことを知らされるからだ。

ロンはうだうだしていて、なかなか着替えやメークをしようと
しない。そこへ、わざとらしく神経質そうに時計を見やった
ミックが近づき、声をかける。

叱られたロンは、おそらく着替えに向かったのだろう。
いかにも不服そうな険しい顔だ。

いつものロンのイメージとはまるで違う。
「ミックさん、キースさん」と、子分のように
ついて回っているのかと思いきや、そうではないのだ。

キースについては言うまでもないだろう。
わがままぶりはファンの間でもよく知られている。
こんな荒くれ男たちの指揮をとるのは容易ではない。
いや荒くれだから、やりがいがあるのか。

こうしたフォローのいちいちまで、ミックは目を配り気を配る。
人間の機微をケアしているのだ。
もちろん突き放すこともあるだろう。
でもどこかで気に留めている。
これがリーダーってもんじゃないだろうか。

リーダーは、ビジネスや舞台デザイン
時間配分、音響、機材のコンディション、
すべてを把握しておかなければならない。
デザインはわからないから専門家に任せておけと言っていては
どこから見えない敵に侵入されるかわからない。

またステージ一つを組み立てることひとつとっても
膨大な人数の働きがある。
すべてを把握するとは、目に見えぬ彼らスタッフ
一人ひとりを把握しているということだ。

ライブの最中、ステージでメンバーと笑顔をかわした
次の瞬間には、後ろにいるスタッフに、何らかの不備を伝える。

そんなミックのコスチュームは、前回のツアーとは趣向を
ガラッと変えたヘルシーなもので、フィットネスで鍛えました!
今日も働いています!というメッセージを恥かしげもなく
披露している。

五感をフルに働かせ、細胞のすみずみまで新鮮な血を
めぐらせながら、ステージのすみからすみまで走り回る
ミックの身は、まさに粉。
観ている者の頭には、「献身」という言葉が駆け巡るだろう。
ど忘れする心配はないことを保証する。

へとへとになったミックを、ロンの熱い視線が追う。
監督ハル・アシュビーとミックは打ち合わせをしたのだろうか。
いや、みんな武士道でつながっているのだ。

ライブの終わりに花火が上がり、アメリカ国歌が流れる。
ミックのメッセージの、凝縮がそこにある。




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ライブと責任 
「産む機械」発言が物議をかもした件では、また野党の
「鬼の首をとったよう」な姿のみが印象に残った。
まったくわからない男をとっちめても意味がないように思う。

彼には産む機能もないし、出産にも関われなかったのなら
本当にわからないのだろう。
失言だけをやり玉にあげて反省をうながしたところで、
それは、「もうまずいことは言わない」という反省に過ぎない。

首相や本人の言い訳を見ただけでも、彼らの根本的な女性観には
何の変わりもないことがわかる。表面を叩けば、彼らの観念が
変えられるとでも思うのだろうか。

発言した本人は、今はあんなに泣きそうな顔をしているが、
おそらく問題になった当初は、「俺の冗談がわからなかった
のかな」とでも言いたかったことだろう。

逆にわかった振りをして、女性の味方という顔をしている人ほど
警戒すべき点もある。わからないということを知ったとき、
意志の力で発言に配慮もしようとするものだ。

野党の反応は、配慮のない与党が調子に乗らないようにする
役割を果たしてもそれ以上ではない。逆に彼らの「開き直り」
の意を強くするだけだ。それならお互いの得意分野を
持ち寄ったほうが、ずっと生産的じゃないか。

さてローリングストーンズだ。
どうみても改革派のミックは、どうみても保守派のキースに
意志の力で寄り添ってライブを続けている。
分かり合えない2人が、お互いの失言に
こだわっていたら、とっくに解散だ。

一番大切なのは、ライブを全うすること。
武士は、能というライブを舞う前に「やる」か「やらない」かを
明言したという。「やる」と言ったのに、もし
最後まで全うできない事態でもあれば、その時点で切腹した。

武士の名とはすなわち責任。
そして責任とは命を賭けて果たすものである。
命を賭けられないようなことで責任を取っていたら
本来の責任、すなわちライブの責任は果たせない。

ミックは「フットボールチームと違うから、俺の替わりは
いないんだ」と言う。ライブの責任には命がかかっている。
彼は一度のライブのためにどれだけの準備をするだろう。
それはキースをはじめメンバーとの人間関係の調整も含めた
トータルなものだ。

「俺の替わりはいない」というのは、
いざとなれば神だって恐れないという、自立心である。
自立は、自律を生み、そこで初めて
個人の力の及ばぬところを知る。
あとは神にゆだねます、という本来の図式が生まれるのだ。




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茶道もライブだ 
お茶の行われている空間、ゆったりとした時間の流れを
最初「なんて辛気くさい」と思うのも無理はないが、
慣れてくればそこには、これ以上なくタイトな動きの
連続性があることに気づくだろう。

これもまたライブである。
視覚の張り詰めたリアルと、
正しさに身をゆだねている安心が
同居している。

正しさとはその、無駄のない動きを指す。
同じことを2度と繰り返さない。
一回に全精力を込めるのだ。
その一回ずつの動きが、連続して調和を生む。
茶道の達人は、きっと家事上手だろう。

家事は、頭を空っぽにする瞑想の効果もある。
わざわざ座禅を組みに行って、
雑念を払うように努力することもない。
何か考えが浮かんでも大いにけっこう。
そうした自由なものだ。
身をゆだねるとはそういうこと。

すべての動作は、生かされるために存在する。
なぜ活かされるかというと、ただ客をもてなすため。
自分のためではないのだ。

この、「動作」を「個人」に置き換えれば、
かけがえのない個人の、精一杯の一回性の連続が
全体の調和を生むことがわかるだろう。
すべてはこの、連続性のため。

ミックは、「バンドをやってて良かったこと、そして、
これだけのことをしてもまだ働き続けるその理由は、
人々がまだバンドを観たがっているということなんだ。
人々が観たがっているのは俺たちがいがみ合っている姿
ではなくて、ツアーをしている姿なんだ」と言う。

ストーンズのライブは客のためにある。
それは「いつも彼らがそこに居る」という
安心をも提供する。






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