サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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ライブと能楽 
ジョン・レノンは、「老いることがなぜ怖いんだ?」という
言い方をした。きっとジョンさえも老いることが怖かった
んだろう。
ミックは、「老いることはぞっとする」と言う。
ライブの、血まみれの現実を踏まえた発言だ。

ニーチェにとって、概念とは知的パズルではなく、
つねに自分の生理的な身体に起こることを基にした
賭けだったという。
身体の快、不快から物事は試作される。

たとえば身体が病に冒されている時も、自分というものが
それにどこまで耐えられるかを、常に試す感覚だ。

ライブになぞらえれば、次の瞬間何が起こるか
わからない。
現実に自分がどこまで立ち向かっていけるのか
わからない。だから怖いのだ。
だけどそれが生きてるってことじゃないだろうか。

それはスポーツや、あるいはバイクのスピードといった
スリルとも共通する。

武士が芸能活動のなかで唯一、能楽を自らすすんで舞ったこととも
無関係ではない。

能とライブは、リアルに基づいた純粋行動としての
共通性があるのだ。
彼らはこの、野生への回帰に共鳴したのではないか。

ミックは老いについて
「17歳の振りをするのはバカだけど、パブで昔は良かったと
語るような真似もしたくない」と語る。

ミックは老いという名の殿堂にも入りたくないのだ。
パブでたむろする同年代のイギリス男たちを横目に、
自分は最後まで、リアルな危機感を追っていく
決意を固めているのだろう。


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ライブの醍醐味 
ビートルズが活動していた頃、「同じことの繰り返しだ」と
早々にライブをやめてしまった彼らをミックは、
「さっさとスタジオにこもってしまった」と言った。
ジョン・レノンの返答は、「ストーンズは
いつまで奇妙な格好してグループで行動しているんだ」
といったものだったが、ミックにしてみれば、
ジョンは天才かもしれないけれど
ライブの醍醐味を最後まで味わえずに逝っちまったなあ、
といったところかもしれない。

このブログというものも、考えようによっては
相当ごまかしの利かないものだが、
ライブというのは、その最たるものだろう。
下手なら下手なりに必死にならなければ通用しない。
仮にもプロならば、下手と自称は出来ないのだし、
逃げも隠れもできない。
だから、エキサイティングなのだ。

そうしたライブの緊張感の中に、またそれを見る観客の中に、
目には見えない「リアル」という真実の
存在がたしかにある。
そこへ帰ることは、「私はこれだけのものだ」さらに、
「人間はこれだけのものだ」という安心への回帰だ。

それは、深い海の底や、または太古の洞穴深く潜っていく
感覚と同じ安心である。すべてを何かにゆだねたくなる。

幕の開いた直後の、自信の持てないぎこちない心も、
カンを取り戻し、やがてランナーズハイになったとき
全身を駆け巡る歓喜の思いも、身体の苦痛も、
人類が体感してきた共通の営み、懐かしいふるさとである。

それは無償という、神の国への回帰だ。
天国とは、そこなのかもしれない。



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ナイーブの意味 
ブッシュ政権はいまや低迷の一途をたどっているが、
彼は未だに、「我々が間違いを正してやる」
ということの間違いを、わかろうとしない。

それは、神と聞けば「うさんくさい」と決めつけて
耳を貸そうとしない者の態度と同じである。
目に見えないものを否定する者は、目に見えるものを絶対とする。

その態度は、いわゆる無神論者とは似て非なるものだ。
無神論者には信仰がある。
つまり人間のすることに絶対はないと知っている。
見えないものを信じたい思いが強いために、
何も信じられなくなっているのだ。

一方ブッシュがさんざん利用してきたクリスチャンにも、
信じたい純粋な心がある。
立場は逆でも、無神論者と同じ土俵にいるのだ。

さて、彼が「悪の枢軸国」とするイランでは、改革派は投票できない。
裏には様々な事情があるのだが、ブッシュは目に見える証拠のみを
提示して、民主的でないと叩く。
「イラン国民の自由をおびやかす」と、さも正義の味方のようだ。

しかしあるイラン人は「我々は今、民主化の途上にある」と言う。
それはどういうことだろうか。
彼らが過去に改革派の大統領を支持したところ、経済が弱体化し、
生き死にに関わる問題になってきた。そのハングリーは彼らをして、
極めて現実的に、自分たちの手で改革をしようという、真の民主化
を実現させようとしている。
その際、大統領が何派などという、目に見えることは超越してくる。
目に見える見えないを超越した、野生の本能に基づいたリアルな目
が生きてくる。

死を隣にした人間は、生き生きするという例がここにもある。
日本の選挙とは真剣みがまるで違うのだ。
「女性はこれ!」と決められた服装には、平気で従いつつ
「イランの改革は私たちがすることで、アメリカは必要
ありません」ときっぱり言い放つ。
決められた服装に従うのは嫌などと言っている場合じゃないのだ。
というよりそれはまた、欧米化が風紀を乱し、民族の特徴がなくなる
ことへの反発かもしれない。

アメリカが肩入れしているサウジアラビアは、女性の投票権は
なく、もっと「民主主義」が劣っているのだ。
この、目に見えるダブルスタンダードは、彼らが自分たちを
絶対とし、彼ら以外のものを舐めている証拠である。

ミックはかつてイラク戦争について、「要は権力政治だったって
ことさ。(略)あの戦争をそれ以上のものとして捉えてる連中は
すごくナイーブだと思うな」とコメントしている。

ナイーブというのは、日本では純粋、やさしいというニュアンス
だが、世界的にはバカという意味である。
ナイーブと言われて喜んでる場合じゃないのだ。
ニュアンスという目に見えるものを信じてはならない。




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私の目を見てください 
ミックとキース、あるいは忌野とチャボといったように
派手な者がピンに立ち、斜めにかまえた者がサブに控えるという
形はわかりやすい様式美だ。

この場合のミックである鮎原こずえや、ミッキーマウスというのは、
聖人君子のようで面白くない。こずえに対する早川みどりや、
リカチャンに対するハルミチャンのような、サブの方をこそ応援したいという人がいれば、
その気持ちは痛いほどわかる。

でもそのように大衆が決めたキャラクターを演じている本人と、
素の本人との境界が、自身に認識されていなければ、
影響は周囲に及ぶ。

キース・リチャーズの不良性、目に見えるワルを、
男たちは崇めてきた。それはわかりやすい強い者への賛美だろう。
「キースは、そうでなくっちゃ」と、
何にでも目をつぶり甘やかすことにもなる。

それはちょうど日本の親たちが、子供に何を教えていいかわからずに
結局いいなりになってしまうのに似ている。
善悪の価値を超えた、キースの、子供の実体を見ていない。
そして私たち親は、政府になめられているのだ。
親には任せられないと、朝ごはんの内容にまで口を出されている。

もちろんギタリストはいい音楽さえ提供すれば、あとはどうでもいい
ということはできる。

でもたとえば芸術家という人々なら何をやっても許されるのかと
いえば、そうではないだろう。
そんなに偉いのだろうか。「特別」でもいいのか。
「音楽家は気が強いのよ、ハイハイって言っておけばいいの」
なんて、誰が決めたんだ。

少なくとも何か気がついたことがあれば、見て見ぬ振りせずに
言えばいいのだ。
その際、相手と自分は違うのだから、不躾にならないように。
私も、思わずという形で、言ったことがある。
ある有名作家が講演で、「僕は特に何も言いたいことはないんです」
「昨日遅くまで飲んでいてボーっとしている」様なことを言った。

親しみやすさがウリの彼ならではの、甘えのパフォーマンスかとも
思ったが、講演後サイン会で「昨日何時まで飲んでいたんですか」と聞いた。
彼の関係者は笑っていたが、本人はあらぬほうを見ながら
「うーん3時かな」ととぼけたように言った。

とても後味が悪かった。
一言しか言えない状況なら、誉めてあげたら、
和やかな楽しげなムードになるのに。

でもいつも遅れてきたり、ふざけていたり、真摯な態度で
臨んでない者がいれば、その人の名があるほどに、
芸術の冒涜にもなる。
「外人だからふざけていい」わけじゃないのだ。
ミックジャガーの、こっけいなほど真摯な態度を見れば
武士道に国境はないことがわかるはずだ。

真剣なら、葛藤もする。
これがすべてということは、とても言えなくなる。
つまり安住の地などどこにもないことがわかる。

目に見えるものがすべてではない。
いかついスタイルはかっこいいけど、和やかなムードは
楽しそうだけど、幻想かもしれない。

ミックはインタビューで、「最近泣きたくなったことは?」と
聞かれ、「今朝のトーストが焦げてしまったとき」と答えていた。




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ミックというイギリス人は、騎士道精神に貫かれた
さりげなさをモットーとする。
それはどういうことだろうか。
ちょっとストーンズのPVで検証してみよう。

「Faraway eyes」の構成はとてもシンプルだ。
ミックはただ、ピアノに向かって歌うだけ。
だけど、その表情がこれ以上なく饒舌なのだ。

歌は、主人公が車を走らせ、黒人のラジオ局でゴスペルを
聴いているシーンから始まる。
牧師の「主はいつもあなたのそばにいます」という
メッセージが入った時には、すでに20回も信号無視を
していたのだが、助かったよ。と神に感謝する。

ミックはその「サンキュージーザス」に、万感の思いを込める。
その皮肉な、憎々しげな表情は、精一杯のさりげなさから
意志に反してこぼれ落ちた、泣き出しそうに煮えたぎる感情
である。

その意味でミックほど内心の感情が豊かな人はいない。
それはやはり、表面では必死で平静をよそおっているからなのだ。

主人公は女と待ち合わせをしているのだが、すでにだいぶ
遅れている。他の男としけ込んでいるかと思えば、なんと
女はまだ俺を待っていた。

その時のミックの表情は、「かんべんしてくれよ。ぞっとするぜ」
と言っているかのようだ。

ダンディズムは、困っている人から逃げ出したくなるのだ。
それはちょうど、みじめな奴を哀れんだら、そいつはもっと
みじめになるだろといった感覚だ。
でもその、目をギョロっと上にあげるお得意のしぐさからは、
待っている彼女の夢見るような瞳に出会った感動がほの見える。

「感動した!」と言って話題をさらった人もいたが、そういう
目に見えるわかりやすさが、すべてではないと言っているかのようだ。

たとえば統計や数字をどうだ!と目の前につきつけられれば
人は納得してしまう。でもその数字はもしかすると人為的なもの
なのかもしれない。その数字を絶対としてしまうことは
見えないものを絶対とすることと同じように非科学的だ。
キリスト教の嫌う「科学」はこの非科学性なのかもしれない。

もし真実があるとすれば、目に見える見えないを超越したところに
感動という形で存在するのだ。

ミックはそんな人間的な感覚を、女性の夢見るような瞳になぞらえ、
疲れたあなたもこれを取り戻してごらんと言っているかのようだ。

ラジオでは引き続き牧師が、教会にお金を送れば次の週に
祈りを公開し、あなたの願いはすべてかなうと言う。
この「dreams come true」を吐き出すように歌うミックの
表情は、はちきれそうだった怒りを、もういたたまれない感情
としてあらわにした剣だ。

それは神を冒涜した者に対する剣だ。
次の瞬間、平静を取り戻すミックは、お金を送って女を手に入れ、
彼女がどんな瞳をしているかわかるだろ?と歌う。

人間らしい感覚を尊ぶ思いと、キリスト教会の偽善の対比が
ミックの顔の七変化によって語られる。

後ろで淡々とドラムを叩くチャーリーの、
「私はなーんにも関係ないよ」といった、呆けたような顔が
いつもながら好ましい。





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一般に「はしたない」とされる言葉、たとえばシモに関する
言葉を口にしただけでマユをひそめる人というのは
その言葉を連呼する人と同じくらい恥ずかしい。
「それほどまでに私はその言葉を意識しています」と
言っているのと同じだから。
嫌がらせで連呼する輩も出てくるというものだ。

ミックは、「ストーンズが人々を破壊しているのではない。
人々は、自滅しているのだ」と言った。
恒例になったアメリカツアーで、「イギリスから来た悪魔たちが
我々の子供に影響を与えている」と講義されていた頃だ。

彼らのしてきた「不良行為」は、人々への鏡だ。
それに右往左往するのは、その人の心の問題だということだ。

逆に動じないというのは、神を土台にしているということ。
ミックはクリスチャンだ。
とはいえ、想像される目をつぶった羊のようなそれではない。
ミックの想定するイエスの姿は、述べてきた真の武士の
姿にだぶる。
ミックはその理想を志向するところのクリスチャンである。

神を土台にするにはエゴをなくすことだ。
しかしエゴと人間は切っても切り離せない。
本能で生きている動物たちはエゴがなく、集団に生きている。
それに比べて人間はどうしようもなくエゴイストである。

その意味で、人間も野生の本能を取り戻すことが必要になる。
自分なりのいい悪いの判断基準はそこにあるべきだ。

テレビの世界も裏には嘘があるが、子供たちは学校で
押し付けられる勉強よりも、手っ取り早いテレビという媒体で
目に見える現実を自分なりに掴もうとする。
それだって勉強じゃないか。
「うちは一切ゲームをさせない」と、さも教育に気を配ってます
と言わんばかりの親もいるけれど、それは単に自分のイデオロギー
に安住しているのだ。
ゲームも野生のカンを取り戻すひとつのツールかもしれない。

「こうすれば安心」という家に駆け込んでしまえば
危機はすぐ隣にある。
だからあえて危険に生きるのだ。
細かいことにも気を抜かず、真剣に生きる。
「安心の家」の要素を持つ「旧約聖書」に異を唱えたイエスのように。
天国に安住せず、現世において戦ったイエスのように。
周りに気を配り、自分で決めた責任は毎日きっちりこなす。

そうして、自分を縛る中で芽生える心の飢餓感は
絵、音楽、踊り、スピリチュアリズムといった
オルタナティブを求めるだろう。
ストイシズムと野生が結びつき、自然とバランスのとれた
考え方をするようになる。

あるいは社会に縛られる中で、自然に芽生える反発心が
あるなら、それこそが自分だ。
そうした正しい野生を前提としなければ、純粋性も存在しえない。
一見、人のためになる行動も、不純なのだ。

厳しく野生的に生きているものは、人種を問わず武士だと言ってよい。








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ローリング・ストーンズは、ブルースバンドとして結成された。
初期のリーダー、ブライアン・ジョーンズを初めミック、ビル・
ワイマンはブルース志向で、キース・リチャーズはその中で
唯一ロックよりだった。

彼らは未だにブルース志向であると言えば、ミックについては
意外だという人もいるだろう。セレブとしても顔なじみで、
最もポップに自らを売っている。
しかし彼ほどブルースを愛している者はいない。
本当に愛していれば「好きだ好きだ」とは言えないものである。

アレクシス・コーナーの店に出演していたストーンズを見初めたのは
ゴメルスキーというマネージャーだったが、ミックは、「この人に
ついて行っては自分たちを売り出せない」と判断し、次に声をかけた
アンドリュー・オールダムに乗り換えた。

アンドリューは辣腕マネージャーだったが、やり方がえげつないほど
実際的で、サクラを呼び、嘘の数字を公表するのは当たり前、
ストーンズを不良ロックバンドに仕立て上げるとして、親たちを
敵に回す戦略をとり始めた。

ミックは、キースと違い、ロックバンドは嫌だったはずだ。
ブライアンと同じくらい、もしかしたらそれ以上に、である。
しかしここで彼はアンドリューの戦略に「おーそれいいねえ」と
乗ったのだ。そして、キースの本質は「ただ従う人」である。

ブライアンは、「売れたのは嬉しいけど、音楽性に関して満足して
いない」とコメントしている。彼は納得の出来ないことはしたく
ないという姿勢を貫いた。商業音楽なんてしたくない。

グループの問題児となっていくブライアンを持て余した
アンドリューは、彼を持ち前のえげつなさで徹底的に
追い詰めた。
何事もミックを中心に、キースがサポート役という形で進められ、
ブライアンは打ち合わせには呼ばれず、マイクは切られた。
「お前はもうグループに必要ない」とばかり、さまざまな
嫌がらせを尽くしたという。

グループ結成前、ブライアンのセンスはどれほどミックとキースの
憧れだっただろう。
ブライアンの熱意があったから、ストーンズは生まれたのだし、
彼の音楽的才能は、群を抜いていた。
ブライアンはせっかくのそれを、生かせなかったのだ。
「用済み」とされ、のけ者扱いされながらも、テレビ出演の
折などは笑顔をつくり、彼なりに必死でアピールしている映像が
残っている。

しかし彼はなお、異端を生きようとした。
結婚は束縛されるから嫌だといい、4人もの女性に子供を
生ませながら知らん振りを決め込んだ。

居場所のない時こそが踏ん張りどころだ、とは思えなかった。
本当に生きたい人間は、がむしゃらになるものである。
しかし彼はどんどんクスリに溺れていき、プールに沈んだ。

ストーンズはスターになり、ミックは初めてアンドリューを
解任した。あれだけ世話になってどうして?とも思うが、
「あんたは必要ない」とでもいうような切り方だったという。

ミックはビジネスマンだ、非情だと言われてきたが
彼はここで、ブライアンのかたきをとったのだ。
ブライアンのブルースの、かたきをとったのである。
ミックはこの純粋をより高めるには、縛られることが
必要だと知っていた。
縛られる中で、「かたきを討たねば気が済まぬ」思いを
高めていったのだ。

ミックは「神を信じない奴は、彼が死んだと思えばいい」と
つぶやいた。


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武士の恋 
純粋性について言えば、人が人を恋する思いも
純度は高い。その思いは人に千里の道を歩ませ、
人をしてモノをつくらせる。

相手が自分を嫌いなら、やっぱり嫌いになる、
そんな要素もある。でもいくばくかでも、見返りを求めない
アガペーの愛の要素がそこに含まれているなら、
それが純粋性だ。

いや、それが条件ではない。条件が先に来てはならない。
まずは人間らしい見返りを求める愛でいいのだ。
アガペがあろうがなかろうが、それは2の次だ。

封建時代の抑圧の中から生まれた武士の文化の一つ
それが男色である。
「男でなくちゃダメなの」という生理的な部分以外に
純粋は存在する。
ローリングストーンズのライブでの愛し合い方もかなりのものが
あるが、恋愛は何も男と女でしなければならないものでもない。

たとえばある武士が、名を重んじて切腹するのは
純粋なのか不純なのか知れたものではないが、
そのあとを追って死ぬ者の、「男が男に惚れる思い」は
純粋だろう。
「主君の前で命を落としたい」というのもそうだ。

恋する気持ちは誰にも止められない。
人間をやたら神格化したがる者にとっては、さげすむべき
感情だとしても、そんなネガティブさには負けないパワーがある。
そのパワーは、人間の永遠、そして神の国のものである。
神とつながれば、奇跡も夢ではない。

逆に自分以外の誰かに、「この神を崇めなさい」とか、
「この人を神とせよ」と言われても、
おいそれとそんな気持ちにはなれないだろう。

欠点ばかりの相手でも好きなものは好きだ。
極端な話、相手を嫌っていても好きなのだ。
人の、自国に対する思いもそれに似ているのではないだろうか。

好きだ好きだというスローガンがうそ臭いのはそのせいだ。
純粋な思いは、押し付けられて生まれるものではなく、
「自発的」なのだ。
芸術は、その自発の美を表現するもの。
美自身には良いも悪いもない。

抑圧の中の恋愛は、純度において高まりに高まっている。
だから文化になりえるのだ。

究極のところ武士の守るものとはその純粋性ではないだろうか。






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武士は潔く死ぬものであるとか、臆病者は武士ではないとか、
そんな武士の理想化は、神格化に等しい。
「そんな奴いないだろう」と言い続けたい。

世間の勝手な理想に合わせていては病気にもなるだろう。
顔色ばかりを伺って身を縮こませていては、かえって自由な
精神は蝕まれていく。

名利を求めるのだって、人間みな同じだ。
「死んで名を残したい」という言葉も、実は世間の評判を
ことのほか気にする武士の心理があったとすれば、
それとは逆に、武士身分ではない者たちが、戦に加わり
命を懸けて戦った思いのほうが、純粋性がある。

そのような真に尊ばれるべき純粋さ、若者の純粋さは
とにかく、生かされなければ意味がない。
だから、抹殺されないために自分を守るのだ。
モラルに従うことがそれに値すると判断したならそうすればいい。

ミックは、我が子がティーンエイジを迎えた頃、
「人生のワイルドサイドへ近づきすぎることの危険性」を
伝えたいと雑誌で語っていた。
好き勝手に生きるロック親父が、いい気なものだ。
しかし彼が武士であることを前提とすれば、
裏には今述べたような意味がある。

若さは暴走の危険性を秘めている。
そして武士の本分は「守る人」である。

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モラルという安住 
ニュースを賑わす企業の不祥事などを見ても、
名があるからこそ、世間の目があり、世間の目があるから
隠ぺい体質が生まれ、隠ぺい体質があるから、
影では何をしてもよいという、悪循環が生まれているようだ。

発覚すればメディアは大騒ぎ。
罪を負った者をやっつけるテレビのコメンテーターたちの顔は
みにくい。安住の意識に覆われているからだろう。
「消費者をバカにしている!」「モラルに欠けている!」
そんなこと誰にでも言えるじゃないか。
鬼の首をとったように、誰かが血祭りにあげられることで
また、世間の目は強く意識される。
モラルばかりが先走ることになる。
世間の目はそれほどに怖いのだ。

武士も同じである。
中世から江戸時代へと、武士に対する世間の目は、
形を変えつつ、強固なものになっていったという。
「卑怯」なことをすれば、すぐに悪い評判が立った。
「死の覚悟」をしなければ、武士社会から排除された。
何が卑怯なのか、何が死に値するのか、そんな常識は
誰が決めたのかわからないのである。
武士を切腹に追いやる正体は、嫉妬だったかもしれないのである。

もちろん、モラルの存在を排除することはできないし
そんな世間の目に対抗して、武士の独特の文化は生まれたと言える。

人を非難していれば自分は高いところにいられる、
そんな安住の地は、天国に行けば得られる、それまで
お預けだ、そう思ってはどうなのだろう。

ミックは、せっかくの現世では精一杯、あえて危険に生きようとする。
とはいえ、ここが肝心なところだが、抹殺されては元も子もない
ことを承知している。
だから、ブッシュ大統領を批判する歌を作っても
「あれは特定の個人じゃない」などと、とぼけたことを言う。
危害を加えられないために、頑強なボディーガードをつける。
いずれも、現世に安住しないで生きるための防護策だ。

世間の目が自分を守ってくれるわけではない。
頼れるものは自分だけと思えば、実際的にならざるを得ない。




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武士も人間だ 
「何もないときは、何も失うものはない。
透明で、秘密がなく、隠す必要もない。

どんな気がする。ひとりぼっちで帰り道のないことは。
誰にも知られぬ、転がる石のようなことは」

ボブ・ディランのこの歌を、「テーマソングみたいで照れる」
とかなんとか言いながらも、ステージで使い続けたミック。
今やすっかり我が物顔で歌っているが、恥ずかしさを超越するほど
この歌への思い入れが強いのだろう。

超有名人の自分が、常に原点に戻るためのテーマソングだろうか。
名のある者、武士もそうだが、彼らは名を惜しむ。
命より名を惜しむ教育をされている。

しかし武士だって人間だ。
死ぬのは怖くて仕方ないはずだ。

ましてや名もなき者ならば、命を惜しむのは至極、当然のこと。
命あってのものダネであって、命さえあればそこには可能性と、
変幻自在の自由がある。
ミックの憧れやまぬ自由がある。

江戸時代以前の武士には、荒々しさがあったと昨日触れたが
それ以降はいわゆる世間の目というものが介在してきたという。
「名のある武士ならこうあるべき」というやつだ。
本来の彼らは、ここで変形してしまったのではないだろうか。


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武士も鬼だ 
ミックが、キリストの顔を見てみたいと歌ったように
実際のイエスは、あのようなロン毛の2枚目ではなかった
かもしれない。
それと同じく、武士も2枚目スターばかりが演じると
そういうイメージが先行しかねない。
ヤサ男になってしまうじゃないか。
武士はヤサ男じゃなく、もっとヤサグレ男のはずだ。
荒々しくなければやられてしまう。
勝ってナンボの世界だ。
まだしもヤクザ映画のような設定がふさわしい。

ヤクザというのはいい悪いは別として、眼光は鋭いようだ。
その世界のベテランのような者に対して、
行きずりの男が妙におびえた顔をする。
何を感じるのだろうか。
何も悪いことをしていないのに、目の前でいきなりそんな卑屈な
態度をとられると、自分がえらくなったように錯覚して、
その世界を目指そうとする者がいてもおかしくないと思った。

でもそんな背景を設定したほうが、リアリティがあるじゃないか。
ついでに言うと、イメージの武士がいちいち「切腹」を口にするのは
駄々っ子のようでおかしい。
冗談では語れない死を、大事な命を、いざという時に投げ出しても
その名に恥じないというところまで高めていくのだ。
めたらやったら切腹していたら、命がいくらあっても足りない
じゃないか。
犬死しないための戦いなのだ。
戦ったあげく、あえて犬死を選ぼうとするロマンチストは
文士だけでたくさんだ。

でも太平の世では、武士がやさしくなるのも仕方のないことなの
かもしれない。
歴史的にも武士が「鬼のような面構え」とされていたのは、
江戸時代までだったという。
それでも太平の世に安住しないのが、いつの世も武士だろう。
いつまでも太平ではないという危機意識を持って生きるのだ。
鬼のようになること請け合いである。



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スターという鬼 
尾崎豊ではないが、窓ガラスを壊してまわりたい気分だった15の
頃、横浜銀蠅がデビューした。
告白してしまえば、武道館の最前列ってなんて臨場感があるんだろう
と知ったのは、彼らがいたからだ。

まず翔の声が男っぽくて素敵!だったのだが、彼らはふざけた歌に
似合わぬ主張を持っていた。「リーゼントにサングラスという外見
から人を判断する大人たちに、そうではないという事をわからせる
ために俺たちはがんばっている。だからずっとこの格好で居続ける」。

若き日の私はここで大きくうなずいて、どこまでもついていきたい
気持ちになった。今なら、彼らを見て「偏見を持って悪かった」
という大人がいたとしても、人気スターへの迎合かもしれなかった
と思えるし、何よりそうやって言葉で主張をしてしまうのなら、
別にそんな格好をせずとも、その思いを胸に
木村拓哉のように生きても良いではないか、とも思えるのだが。

それでも、ガキ相手という要素もあったとはいえ、痛々しいくらい
いつまでも「その格好」を続けていた翔に対して応援したい気持ち
もあったのだが、クスリでぱくられてしまった。
ボーイ・ジョージの項でも書いたが、ナイーブさがこのような形
で終わりを告げてしまうのは、とても残念だ。

前置きが長くなったが、彼らも、ここで言おうとする「鬼」を
しようとしていたのだ、とはいえると思う。
「鬼」というのは悪の象徴で、西洋の魔女といったところだ。
鬼や魔女は、見た目の悪から、葬り去られるべき存在として
とり扱われる。
その判断基準は、実際的現実的原理のみに基づいており、
逆もまた真なりといった美意識はない。
人々に忌み嫌われ、見せしめとして火あぶりの刑に処せられたり
するが、その心は、真のボランティア精神の持ち主だったりする。

たとえば、ビクトリア時代のイギリスでは、オスカー・ワイルド
を中心とした芸術家たちが、耽美主義、悪魔主義、背徳、偽悪と
いった、ブルジョア精神と対立する刀を持った。
それがダンディズムである。
日本で知られているような、単なるおしゃれ野郎ではない。

彼らの沈黙の裏には、「誰かにわかってもらいたい」という悲願が
隠されていた。いかなる一匹狼であろうと、人はどこかで人と
つながっていたいのだ。

ブルジョアとはなにか。当時、実権を握っていた中流階級だ。
彼らは自分たちの地位保全のために道徳スキャンダルを何より恐れ、
教会と密接にかかわった。
余談だが現在では、イギリスよりアメリカのほうがよほど深く
教会と関わっている。

厳しい道徳性を身につけた彼らは防衛本能から、謹厳実直な生活
ポーズや、大規模なボランティア活動を展開した。
この卑俗性や偽善が、ダンディーたちには我慢がならなかったの
である。
彼らはブルジョアがいかに成功して大金持ちになったところで
「貴族」とは厳密に区別した。その分、貴族への思い入れは
強くなる。

オスカー・ワイルドに、シンパシーを抱いていたミックの芸には
この、ダンディズムがみられる。
彼がスターになったのは、これを行いたかったからではないか
と思えるフシがある。

そこには勲章をもらわずにいられぬ自分の、貴族への憧れの
再確認と、そこに漂うブルジョア精神、そんな自分への反発からの、
わが身を切り刻むようなライブ活動、そして、真の貴族への理想が
すべて集約される。

観客としては、スターという存在の役割を考えさせられる。







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たとえばヨガや、漢方といった東洋医学では、死にかけた命は
救えない。なんだかんだ言っても西洋医学の、人をまるで物体の
ように扱う処置が必要だ。同様の理由から、体制や伝統は
必要なのだ。
だけど心を無視されたり、人の夢や、科学では証明できない部分を
頭から否定する態度をとられたら悲しくなる。
また逆に実際的な物事を無視したり、体制批判に終始する態度は、
もちろん相手の反発を生む。

日頃の考え方は態度にあらわれる。
そして単なる対立からは、さしあたり何も生まれない。

では「伝統」に疑問を持ったらどう反抗すればいいのか。
クールさがよろいになるとは、昨日述べた。

よろいという沈黙は、鏡の役割も果たす。
相手はそこで自己を認識し、戦わずして勝てるかもしれない。
しかし勝てるのならいい。

よろいに身を固めて、葛藤するだけで終わってしまうかもしれない。
戦のあとで「あの時自分もそう思っていたんだよ」では遅い。
何かしらの実践、すなわち刀が必要となる。

自分だけが日頃の考え方を正すことも大切だろう。
そんな自分の言動が、どこでどう人にも影響を与えている
かわからないのだ。
でもそれでは、ただの「ものわかりのいい人」で終わってしまう
かもしれない。

人間のできることはたかがしれているということもできるし
バランスのとれた人格を築くだけでも努力がいるだろう。
しかしそうではない人間を見下すことにつながるかもしれないし、
人畜無害で一生を終えてあー楽しかったでは、何のための人生
なのかと思う人もいるだろう。

人々に人格者と崇められたところで、しょせん人間なのだ。
おならもすれば大も小もする。
もとはといえば動物なのだ。
自分が一番よく知っているだろう。
しかし言い換えれば動物でもあり人でもあるユニークな
生き物である。

このユニークさを活かさない手はないと思うのなら
「鬼」を考えることもひとつだ。





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何が、クールなのか 
昨秋、こんな記事を目にした。
[ロサンゼルス 12日 ロイター] 英人気ロックバンド、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーさん(63)の父親、バジル・ジョー・ジャガーさんが11日、肺炎のため入院先の病院で亡くなった。93歳だった。

父が亡くなったとき、ミックはツアー中だった。
彼は母親が亡くなった時もそうだったように、死に目に会わずに
仕事を続けたという。
しかしこの父の死は、彼にとって大きな意味を持つのではないか。

体育教師だった彼の父は、息子に毎日のトレーニングを課し、
ミックも黙々とそれに従った。
彼の家を訪ねた友人が、「いい年してちょっとおかしい」と思うほど
従順だったそうだ。
その日課は、今もそれをせずにはいられない習慣として
彼の仕事をサポートしている。
理不尽なことにも従っていれば、どこでどう作用するかわからない
一つのケースだ。

ミックに限らずイギリスの中流以上の家庭の中で、子供は大きな顔はできなかった。
行儀をしつけられ、親と食事は別、お祈りを強要され、
寝る時間になればさっさと部屋に追いやられる。
反抗すればムチで打たれるかもしれない。

「伝統」の前に下手な反抗をしようものなら抹殺されかねない、
そう、骨まで叩き込まれた人間の表情は自然とクールになる。
無表情だ。

中産階級ばかりじゃない。
「お前は労働階級だ」と決め付けられた者たちの、
諦念と葛藤の入り混じったあらがいようのない気持ちも
同じようなものだ。

「自由の国」の若者が、クールのかっこよさだけを得たいと
形から入り、茶髪に革ジャンをキメても、ものわかりのいい
トモダチ親から「おっそれいいじゃん、俺にも貸してくれよ」
などと言われたら、もはやクールは成立しない。

まだしも映画「カラーパープル」のように、白人の主人から
痛めつけられている黒人女性は、ひとつのクールビューティーを
表現している。

クール、それは「伝統」に疑問を抱く自分を生かす武器だ。
そのよろいの下には、人間が本来持っていいはずの豊かな感性が
隠されている。
それを守っているのが、イギリスの子供であり、黒人奴隷であり、
武士である。

10代になって目覚めたミックが、ブルースに急速に
のめり込んでいったのはそのせいだろう。

逆に言えばブルースがあったから、彼は依然として家では
従順でいられたのかも知れない。
彼はここでブルースに救われたのだ。

外面のクールと反比例するように、内面の意志は強固になっていく。
その意志は、本来の伝統を守るために生かされる。




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多くの資料を見た限りでは、ミックのよく使うフレーズには
「たかがロックンロール」というニュアンスが込められる。

たとえば「ロックが人々を行進させるのではない」という。
ロックは政治的な抗議運動にはなりえないということだ。

彼が昔ベトナム戦争反対運動に携わったのは
スターとしてのこれ見よがしの慈善ではなかったが、
デモ隊に参加したことが、彼にとって貴重な体験に過ぎないように
ロックもその際のバックミュージックに過ぎない。

それでもバックミュージックなりの意地はあるだろう。
たとえば頭の固い、家の長であるオヤジが、
「うるさい!」と一言怒鳴れば
夜のレコードはボリュームをさげて聴かなければならない。
自分も虫の居所が悪ければ、反発してしまう夜もあるが、
そんな自分など、その家の伝統にとっては虫けらのような
存在である。
そんな時代なり家族なりの背景があったとするならば、
初めて行き場のない怒りであるところの、
ロックの精神は生きてくる。
だから何もロックの形態をなしている音楽だけがロックの精神
を持つのではないとも言えるが、少なくともロックの精神を語る
のであれば「背景」に思いを馳せるべきだ。

この場合オヤジに「うるさい!」と言われた子供が
「うるさい!」と返せば、
オヤジのほうがしゅんとなって終わりという
時代にあっては、ロックは何ほどの意味もないということだ。

彼のロックを続けようとする意志は、ロックそのもの
への思い入れとは、また別のところにある。

ミックが「ロックなんて終わりだ」的発言をすれば、
メディアは勝手に「彼は寂しそうな表情をしていた」とか
「遠い目をして」的注釈を付け加えたりしてきた。
それはミックの一番嫌うところだ。

メディアなしではいられぬ自分の立場を自覚するから
メディアをシャットアウトなどということはしなくても、
たとえば断りもなくいきなり写真をとられるような
事態に、若き日の彼は反発心をむき出しにした。

反発心が麻痺してしまっては前提にすら立てないが、
サティスファクション(Ⅰcan't get no satisfaction)の
満足できない思いを何に変換するかが問題だ。

果たしてロックは何を生かすのか。




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ロックと衝動 
中学の頃、アナーキーという日本のグループがいた。
楽曲のよさと、やんちゃな少年たちのがなり声の
発するエネルギーにひかれてレコードを何度も聴いた。
たとえば松山千春についての歌詞はこうだ。
「季節の中で?ふざけんな! 反吐が出るぜオエー!
言ってることとやってることがテンでバラバラさ。
そんなに誇らしげな顔すんなよ!」

言ってることとやってることがどうバラバラなのか、
誇らしげな顔ってどんな顔なのか、
彼らは語ってくれない。
 
語る言葉はないと知っているのか
それとも初めから言葉を放棄しているのか、
後者ならグループ名にぴったりだろう。

ただ何か得体の知れない怒りをぶつけているだけの
それは、しかしひとつの衝動として
若者をひきつける大きな価値があった。

やがてイギリスで巻き起こったパンク・ムーブメントや、
アナーキーも、クラッシュのコピーバンドの要素を持つ
ことを知るにつれ、私の興味もピストルズやあるいは
グラムロックのTレックスに流れた。

それはビジュアルの魅力もともなった、全身の細胞が喜ぶ
なんというめくるめく世界だっただろう。

しかしロックの、見えないものへの反抗を、
ただやられたらやりかすことと捉えたり、
言葉を持たないことを、ただの安易さと
捉えていいものだろうか。

表面に現れた善をただ叩くエネルギーは、
表面に現れた悪をただ叩いてつぶすことに等しい。

みんなが騒ぐ表面の下に隠されているものは何なのか
探った上で言葉をなくすのが、ロックであって欲しい。

たとえば武士道には定義がない。
新渡戸稲造の語る武士道と、葉隠れという文献で語られる
それは違う。
葉隠れの「武士道とは死ぬことと見つけたり」を
表面のイメージだけで単なる死への憧れと捉えてしまうと
特攻隊を美とみなすような結論に導かれかねない。

みんなが右を向くから右という考えは、武士道やあるいは
聖書といった定義のないものを誤解しやすい。
というより、一番右に居る者から定義を授かりやすい。
どうして自分の意志を持ってはいけないのか。
「ほら見ろ、言わんこっちゃない」というケースが
多すぎるからか。

ミック・ジャガーのロックは、その意味で衝動ではない。
衝動に身を任していてはつぶされてしまう。
パンクのエネルギーも生かせない。
生かすための死が、葉隠れであり武士道なのだ。
ロックというエターナルへの忠誠心があればこその
「一生ロックンローラー」だ。

かといってもし、もっと年をとって身体が動かなくなり
人に付き添われてステージに上がり、大御所への拍手を
純粋なものと受け取って満足する自分が嫌なら
やめたっていいのだ。
「お情けはいらない」と。

ステージに上がり派手なアクションをすることだけが
ロックじゃないと自分に言い聞かせればいいのだ。
実際そうだろう。

でもそれもまた嫌だから、まだ出来ると思うから
彼は毎日時間を費やして、ジムでのトレーニング
ボイストレーニング、ダンストレーニングを続けているのだ。
ステージを続けるには責任がともなう。
「老人ドライバーだ」という自覚が必要だ。
だけど明日のことはわからない。
だから「いつまでストーンズを続けるかわからない」という
言葉は本音だろう。
「ストーンズの未来など俺にもわからない」という
ロック語を訳したら、
「我々は神ではない、人間だ」となる。






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きのう、キースを保守、ミックを革新になぞらえて
発言した事柄を、もう少し考えてみたい。

保守あっての革新という相互作用は現実にあるということ。
そこをまずは踏まえていなければ、真の革新もできないのでは
ないか。

保守革新ともに、ムード派はいる。
ムードというのは、根本を見つめずに、表面をきれいに
整えようとすること。
しかもそれを人に押し付けようというのは、傲慢だ。

根本をつきつめれば無に到達するはずだ。
この世のものは、はかない空しいものということがわかる。
絶対的なものは神にしかないことに行き当たる。
神を知るということである。
神を土台にすれば、真の自立、個人主義は可能になる。

ムードというのは、媚薬以上の働きはしない。
しかし言い換えれば媚薬としての働きはあるということだ。
何にでも誰にでも役割はある。
そして人間は、永遠性でつながっている。

保守革新の架け橋はある。
それは、現実性である。
現実の前に人間は無力だということはみな同じだ。
お笑いが人々をつなぐことにも似ている。

そこには、誰に押し付けられずとも
神へ感謝したくなるような安心感がある。
それが永遠性だ。

だからといって「お笑いで世界を救おう!」と言ってしまうのが
現実性に値するかどうかはわからない。
しかし志を持つことの情熱は、信じるに値する。

若い人が言う。
「夢を持って入社したのに、その世界の汚さを知って
いやになったので、やめました。
私はもっと人のためになることがしたかったのに」。

日本の若い人のほとんどはミック・ジャガーを知らない。
ある意味若者の音楽であるロックを続ける63歳の彼は、
若者を集めて説教をすることはしない。
ただサティスファクションを歌うだけである。
そしてミックは語りかけている。

やめるにせよ、やめないにせよ、
「現実を生きろ」と。
夢を持つ、その崇高さを守るためにも
抹殺されてはならない。

狂気を飼いならして生きろ。
自ら死をたずさえて、立ち向かっていけ!





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ミック・ジャガーとキース・リチャーズというのは
好きな人にとっては黄金のコンビだろうが、
キースは雑誌の中で「音楽がなければミックとは友達に
なってなかっただろう」と語っている。

実際2人は幼なじみなのだが、近所に住む腐れ縁の友達ほど
最も合わない相手とはよくあることだ。
色んな人間がいることを学べという、神のお達しとしか思えない。
世の中あなたに都合のいいことばかりじゃない。

キースがいかにムード派であるかは本でも述べたが、
あるいはファンなら想像つく人もいるだろうが、彼の
あちこちで語る「ロックだぜ」的発言の数々は
ミックが知れば「なんじゃそりゃ」というものも多いだろう。
ミックはムード的なものが嫌いなのだ。

むしろ先に紹介した発言などは、なかなか的を得ていると
思うのではないだろうか。
音楽は神の権威だからである。

イギリスは階級制度が根強くて、大半は労働者階級だ。
ミックはその中間のミドルクラスという微妙な位置の
出身者という理由もあってか貴族にこだわるという
イギリス男の本性を持つ。

それは人間の本性であっても、理性的人間としてのミックは
違う。何ものにもとらわれない自由な人間としての貴族に
憧れるのだ。

その場合、貴族の象徴である勲章をもらってニヤニヤの押さえ切れない
自分に対して、「なんだそんなもの」と切り捨てられる
キースは、「わかってない奴」でありながら、どこか貴族的なのだ。
ミックの憧れに値する。

悪と貴族は実は崇高さにおいて共通性があるといわれるのも
これに近い。そこには侵しがたい自由がある。

合わない相手の中に永遠性を見つけてつきあっていく
のも、生きる手段であればそれでいい。
どんなコラボレーションが用意されているかわからない。

こっちが恥ずかしくなるほど仲のいい夫婦というのも
もしかしたら、それを実践しているのだろうか。
それは幻想に生きるのとは似て非なるものだ。
もっとも、見ていて無理があるのは前者かもしれない。

「ストーンズはありのままでいい」というキースの
保守性にも寄り添わなければ、永遠は得られないのだ。

だからといって、関係が上手くいっていることで
守りに入れば、それは得られない。
もうミックではないだろう。
彼にとっては安住のストーンズ王国ではない。
進歩のためのストーンズである。
王国の中で居場所をなくすのだ。
あくまで転がり続けるのだ。
人間の王国は幻想でしかないのだから。


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自由への挑戦 
人は自由に憧れるが、放ったらかされると
不思議と不安になるものである。
まったくの自由ほど不自由なものはない、
それが人間の弱さだ。

不自由の中で自由を感じるとき、はじめて自由に感謝したくなる。
すべての不自由を抹殺しようとするのは、自然という神の領域
を侵すことだ。
報いとして、もっともっと自由を、といって欲求不満状態に陥り
快楽の奴隷になることが考えられる。

だからといってニーチェのような人もいる。
超人思想をとっていた彼は、マスターベーションをしながら
著作していたという。
笑いたくはない。
それは超人は快楽に溺れないことを証明するための
挑戦ではなかったのだろうか。

しかし超人などということの思いもよらない現代人の多くに
とって、ヨーロッパ個人主義という考え方がわかりやすい指標に
なるだろうか。

昨日、イギリス人は、結婚が性に合わないからと
英国国教会をつくった、などと書いたが、
そこには、イギリス人ならそれをしても大丈夫だという
誇りのようなものが感じられる。
それは個人にあった服をデザインする中で、そうした選択肢が
あってもかまわないということで、
まずは個人の身の丈を知らなければならないという
前提に基づいているのではないか。
その前提を我々は踏まえているという意味の誇りだろう。
ヨーロッパ人はある意味日本人以上に保守的なのだ。

そんな自由奔放さをひとくくりに「解放」と捉えてしまうと
方向を間違う危険性がある。
何が解放であるのか、そんなもの個人によって、また
時と場合によって違ってくる。
たとえば北朝鮮のような国で暮らしていても
他は知らなければ、その中でAという個人は充分しあわせだ
ということもありえる。

神以外の誰かに解放を定められるのは恐ろしいことだ。
人々を欲求不満状態に持っていき、まとめて火をつけたら
即爆発というものだ。
民主的だから正しいということもいえない。

「知る」は不幸の始まりだったりする。
何も知らないほうがいいのだろうか。
いや、挑戦する存在であるからこその人間をとりたいのだ。
荒野に一人立ち、自由に耐えることの出来る人間。
あらゆる幻想からの解放へと
弱い人間性を超えていくのだ。



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ダンディズムと武士道 
昨日の記事でホモサピエンスがどうのこうの言ったが
よく考えたら、自分を理性的でないと思っている人はいないだろう。
いたとすれば、その人こそが最も理性的なのかもしれない。

簡単に理性を定義するのは実際むずかしい。
たとえば勤勉性というのは理性を思い起こさせるが
真面目に働くことが単にお金持ちになって左団扇で暮らすためだ
とするならば、ホモサピエンス的とはいえないだろう。
お金持ちになって何をするかが大切である。

イギリス人は、規律を重んじる紳士というイメージがあるが、
ルネサンス時代、彼らほど自由奔放な人種はいなかったといわれる。
ローマ法王の目から遠い位置にあることを幸いに
たとえば「結婚」に縛られるのはいやだと
英国国教会をでっちあげた。
なんというお気楽さだろう。
ピューリタンはそれがいやで、逃げ出してアメリカをつくったほどだ。

イギリスはプロテスタントの国である。
しかし信者を見ているとよくわかるが、
カトリックよりプロテスタントの方ががんじがらめだ。
カトリック信者の多いフランスやイタリアは楽しそうだが、
いつでも「神が見てるよ」とおどされるプロテスタントは
窮屈だ。究極がピューリタンである。
アメリカ人の、へんに道徳を重んじる姿勢はここからきている
のではないか。
だけど、だから理性的だというのは違う。

たとえばフランスで電車に乗るとする。
改札口で厳密に切符を切られるわけではないので、
やろうと思えば無賃乗車はバンバン出来る。
それを見て「まああの人ったら」と、とっちめようというのが
ここでいうピューリタンだ。
規律を重んじているものほど、人にも厳しいものだ。
「お金がなかったのかもしれないし、それ以前に
彼は彼だ」という大らかさはない。

そうした「道徳」や、その象徴でもある成金的ブルジョアに
疑問を持ったのが、イギリス発祥のダンディズムだ。
自国のプロテスタントで、みずからの首をしめつつ
一人歩きしたアメリカ的道徳を苦々しく思う。

この「ダンディズム」こそ、日本流でいえば武士道であり、
がんじがらめになって被害者意識の塊になっているのがそうではない。

本来人間は自由であっていいはずのものだ。
自分のために生きたい、ではどうするかと考える。
「模範的人間」に盲目的に合わせようとするものではない。
押し付けられた既成の概念に疑問をもっていいのだ。
それが理性である。

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理性という、人間の「意識」の働きは大きいものである。
たとえば省と名を変えた防衛庁の時代は、自衛隊という
憲法違反をしている意識があった。トップの人間が
常にその意識で、不正をいさめようとしていた。

戦いごっこを好む多くの子供の様子を見ると、この姿が
人間の本性なのかと考えさせられる。
しかし、ここでいう人間とは、理性を持ついわゆる
「ホモ・サピエンス」とは違う。

理性のない人間が、武器を持ってはいけないことは
言うまでもない。

しかし理性的であろうとするならば、たとえ子供であれ
自由への可能性は平等に開かれている。

理性的であろうとするものは「どうでもいい生」を
生きているのではない。
だからそのなかでの差別は、あってはならない。
生まれ育ち、学歴関係なし。
あからさまに大目に見ようとする態度も差別となりえる。

ミック・ジャガーは、2001年、映画「エニグマ」を制作した。
ここで彼の伝えたかったことはなんだろう。
私は「知」の力は、どんな戦力より強いという主張をみた。
第二次世界大戦下のイギリスで、多くの知識人が
夜も昼もなく敵国ドイツの暗号解読に取り組んだ。

作業はドイツ降伏まで続けられ、何百万人もの命を救った。
派手な爆発があるわけではなく、
人々に知られることもないなかで、確実に歴史は動いた。

恋愛やサスペンスで話に彩りを添えているものの
ごく地味な映画である。
踊りながら解読作業ができるわけじゃなし、
派手になりようがない。

このリアリズムをベースとした、自由への強い憧憬
こそ、何にも侵されない、理性的人間の武器である。

ミックとて、若い頃は昨日伝えたように、三島由紀夫
的考えを持っていた。「俺は長くは生きないだろう」
「30過ぎてサティスファクションを歌っているなんて
ぞっとする」。

彼は60過ぎてもサティスファクションしてるじゃないか。
どういうことなんだ。
彼ほどの名を築いた者が、むしろテーマソングのようにして
歌っている。
開き直ったのだろうか。

彼は、命とはポーズではないことに気付いたのだろう。
桜のようにパッと散るなら、それはポーズだ。
「どうでもいい生」になってしまう。
三島的カッコマンが、ロックスターの正体だとしても、
そこに理性を投じることで、あえてかっこ悪く生きるのだ。
自己中心からの脱却を試み、自由を得るのだ。

日本刀という、ミックの好きなアイテムが
武士道に変わる瞬間である。
武士が日本人であるとは限らない。

子供たちが歌っている。
「あの青い空のように、澄み切った心になるように」
理想を追求する権利を侵してはならない。





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防衛庁が防衛省と名を変えてリスタートした。
どういうことになっていくのか、目を見開いていなければならない。

昨日の続きである。
武装とは、本来どうあるべきなのか。
ミック・ジャガーになぞらえて考えたい。
本にも書いたが、彼は若き日のジュリーこと沢田研二の
「何かプレゼントをしたい」という申し出に
「じゃあ日本刀を送ってくれ」と言ったという。
私の調べたところ、彼は三島由紀夫ばりのロマンチストで
男の勲章的アイテムに無条件にひかれるところがある。
イギリス王室から勲章をもらってはしゃいでいたのは
記憶に新しい。

受賞後のインタビューでミックはこう語った。
「いちばん小さい息子が学校で言ったらしい。僕の父さんは
ナイトになった。よろいとかぶとをつけてお城に行く。
お城に行って王様と会うってね。よろいとかぶとも
いい考えだと思った。僕はプラスチックの刀を持って
幾多の困難を乗り越えて来た。」
(「ジャスト・フォー・ザ・レコード」)

この、プラスチックの刀ということに注目したいのだ。
プラスチックは使えない。
しょせん、おもちゃに過ぎないとも気付く。
おもちゃだと知りながら、刀に意味を持たせる
のは、どうせ死んでしまう生に意味を持たせることと同じ。
それは神から授かった命を大切に使うということだ。
ミックは、そうした使命を果たす決意を新たに、
ジョークとして勲章を受け取ったのだろう。
けっこうマジな自分を茶化す、イギリス的ユーモアだ。

青い目のミックなら、この場合イメージしているのは
剣だろうが、刀でも剣でも、本物は凶器である。

武士道では、やたらと刀を振り回すものは
卑怯者か虚勢をはるものとして忌み嫌われた。
刀を携えていることに誇りを持ってはいても
けっして使ってはならないのだ。

刀を持つことで誇りを得るとはどういうことか。
私にとって、思い出されるのは出産時だ。
二人目のときは一人目の経験から何事もスムーズで
出産も例外ではなかった。
舗装された道を通るように、するすると出てきた。
しかし一人目の出産は、死闘というに等しかった。
まだ開拓されていない茨の道は、子供も辛かったらしく
なかなか出てこない。

何度目かのいきみの時、子供の心拍数が落ちていると聞いて
思わず、自分はどうなってもいいと、ありったけの力を
振り絞ると、子供は出てきてくれたのだ。
死と隣り合わせの生は、身体をはることで得られた。

私はいつも、自分を大切にすることを一番に考えていたので、
そんな思いになるのは、意外というか、本意ではなかった。
命をつなげという、神の命令としか思えない。
本意でないことは絶対にしないという人間ほど、
本当に守るべきものは自然に差し出されるのではないだろうか。

刀とはそうした、死と隣り合わせの「生」の象徴だ。
ミックはだから、63歳の今でもストーンズを続けるのだろう。
ストーンズにしがみつく自分を捨てきった、原点に戻って
コンサートで毎回死んでいるのだ。
それは、ストーンズの名を守るという
誇りにつながっていく。
そこにはプラスチックの刀が見える。
彼らのコンサートを見たあと、背筋が自然にのびるのは
そのせいだ。




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誰もこわくない 
どんなに苦みばしった大人でも、その顔に漂う少しの情けなさを
手がかりに面影をたどっていけば、ごく小さい頃の彼に出会うだろう。

「子供と話しているようなもんだ」と思えるのは
母親でもある者の強みだろうか。

ここまで育ててみて思うのは、本当に手をかけて「育てた!」
という実感を得られるのは幼少時だけだ。
そしてその頃のことも、今となっては忘却のかなた。

あとは離れていく一方である。
「サンタさんにお願いしたの」と、親の弱点を突いて来る子供に
負けてDSなど与えようものなら終わりだ。
いや実はこうした意味での濃密な関係は、とっくに
フェイドアウトしていたのかもしれない。

残るのは、人間みんな子供だったんだなあという思い。
だから誰もこわくない。
恐ろしいことをする子供なんているだろうか。
まあ、あまりいただけない子もいるけれど。

たとえば難しい言葉で武装している彼の、子供の部分を愛したい。
と、ここでいきなり「武装」という言葉が出てきたが、
むずかしい言葉で武装する、というような、そんな
こけおどし的な意味で武装があるとしたら、
武装がすたるだろう。

たしかに人間のベースには、震える弱い心が存在する。
精一杯強く見せなければ獲って食われそうだと思うのも
無理はない。

でも、傷つき弱ったものが狙われるのは野生の世界であって
たとえば武士道という、理想を生きる人間のものではないはずだ。

いや人間を、どこまでもこの意味の野生的なものとして
見なしている人もいる。
だけど、あえてそうではないという見地に立たなければ
しっかりした理想も持てないだろう。

本来の武装とは何かを、次回考えてみたい。

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居場所のない人 
コンビニの前でたむろする若者を見ると
「居場所のない人」というイメージが浮かぶのではないだろうか。
居場所というのはホッとできるところ、受け入れてくれる場所だ。

キリスト教では、たとえばこうした若者たちは
クスリなど、「まちがった」安らぎを求めようとするという。
しかし安らぎを求めるのに、まちがったもなにもないだろう。
教会に行けば安らげるとは限らないのだ。

イエス・キリストは、居場所のない人の救い主だといわれている。
イエス自身が居場所のない流浪の人だったというのだ。
いや、むしろイエスは、あえて居場所を作らないようにしていたの
ではないか。

ハイデガー哲学における「故郷喪失」とは、存在忘却だが、
あえて居場所をつくらないことで、
かえって「個人」の存在は、強く意識されるといえる。

たとえば私のような主婦なら、妻や母という、ある意味幻想の
役割を、意識の上でかなぐり捨てたところで、私が明らかになる。

ところで韓流ブームはまだ続いているのだろうか、未だに空港に降り立つスターは大勢のファンに温かく出迎えられる。
しかし同じ韓国人、あるいは朝鮮人でも「在日」といわれる人々には、それこそ居場所のない、はかりしれない苦労があったといわれる。

あるいは「難民」と呼ばれる人々の、野垂れ死にしてもいいから
離れたかったそれまでの暮らしとは、どんなだっただろう。

イエスは、これら居場所のない者たちの神だ。
まやかしの慰めを口にするのではなく、
死と隣りあわせで生きろ、あなた自身であれと、
勇気づけてくれているのではないか。






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栗原はるみ 
年始の番組で、栗原はるみの「こころを伝える英語」総集編
というのを見た。
英会話初心者の料理家が、奮闘しながら上達していく過程を
見せようというコンセプト。
外国人と接するのだけでもハードなのに、慣れない英語を必死で操る
彼女の姿が毎回映し出されるのを、まとめたもの。

たとえばアメリカの家庭婦人の集まるパーティーに出向く。
挨拶をかわす。my name is harumi.
はるみとはどういう意味ですかと、相手に聞かれたはるみは
「意味なんてまったくないんです」と英語で答える。
この答えには、日本流の謙遜の表現も混じっているのだが、
そんなこと思いもよらぬ相手の婦人は、とたんに怪訝な顔。

画面はスタジオに切り替わり、すかさず司会者のダメだしが入る。
ここでは、ちゃんと意味を言わなければいけませんねと。
たしかに、その場しのぎで「はるみ」の由来を適当に語ることは
訓練すればできるだろう。
社交というのは、場の空気をスムーズに保つことだ。
だけどそこで守られるべき大切なものが、切り捨てられていく
危険性の存在を、確認しようかしまいかという、はるみの
心の葛藤の見え隠れも、痛いほどわかる。

番組では毎回「このフレーズを使え」というお達しが入る。
たとえばこの場では、「please call me harumi」と言わされる。
次のシチュエーションでは、パーティーで知り合った婦人の家に
遊びに行き、自慢の台所をほめなくてはならない。
はるみは反省する。「私の‘Ⅰ love your kitchen’は弱すぎますね」
しかし心から素敵だと思えば、自然と強くも言うだろう。
言わされているんだから、弱く言えばいいじゃないか。

「みなさん、すごい勢いで来るから圧倒されました」。
彼女はどうしてこの仕事を引き受けてしまったのだろう
と思っていたら、ブイを振り返りながら、「私は最初、
なんていいお仕事をいただいたんだろうと思ったんです」と
本音を語り始めた。
すべて台本が用意されていて、かっこよく演出されながら
自分の英語も上達すると、思っていたらしい。
話が違うじゃないか。
カリスマ料理家もかたなしだ。
「では栗原さんが苦労していた場面をもう一度見てみましょう!」
「ああ・・・そんな時はこう言わなければいけませんねー」

だんだん司会者のジョン・オコーナーというアメリカ青年や、
「先生」と言われているしたり顔の女性解説者が嫌いになってきた。
がんばれ、はるみ。負けるな、はるみ。

彼女は開き直ってしまったのか、最後には持ち前の根性を見せていた。
「今ではこの仕事を受けてよかったと思ってるんですよ」
「英語が生きがいになりました」
ああ・・・・

番組はまだまだ続きます。
次はプレゼントを渡す場面だ。
ここでも彼女は反省していた。
「日本人はつまらないものですが、とへりくだっちゃいますが
そうですね、これは私の大好きなものです!とあげなければ
いけませんでしたね」
なにもそこまでアメリカ人の真似をすることはないと思うのだが。

次に登場するのはイギリス人のコックさん。
一緒に料理をするはるみは、水を得た魚のようで、誰に言われずとも
質問も次々飛び出す。
こうでなくっちゃ。
本当に興味があるものだから、ためらうことなく
「What do you do that?」と質問し
あからさまで失礼だっただろうかと、あとで思ったらしいが
「それでいいんですよ。具体的なこと本質的なことを聞くのは
本当に興味があるということが伝わるので相手も心を開いてくれる
んです」とほめられていた。

見ている私も、ここで初めて「こころを伝える英語」を
聞いた気がしてほっとした。
ほっとしたのは、そればかりではない。
イギリス人コックの、こころのひだに入り込んでくるような
対応に、緊張した身体もほぐれたのだ。
「わかってなかったんですね」と無神経に言ってしまう
アメリカ人の対応とはなにか違う。
もちろん一概にイギリス人はこう、アメリカ人はこう、
などということはできないのはわかる。
だけど、「私はこういう人間でありたいのだ」という意識が
明確になっているのは、やはりイギリス人のいいところだろう。
と、一概に言ってしまいたい。
今年もそんなイギリスびいきをしたいな、と思った。




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ドライブインにて 
年末年始は旦那の実家へ嫁をしに帰省する。
でーんと座ったまま動かない嫁をしに行くのであるが。

京都広島間の行き帰りの高速で色々と買い食いをするのが楽しい。
たとえば途中の姫路インター他、兵庫のドライブインでは
明石のたこや、いかの天ぷら(さつまあげのようなかまぼこ)
の串さしを食べたり、広島近くでは、尾道ラーメンや穴子丼など
気ままに食べられる。

ドライブインによっては、いい食堂を構えていて、ボリュームの
ある定食など、早く安くガッツリ食べられる。
オッサンみたいな私には嬉しい。
おしゃれな店に並んで入って、「待たされてこれか!」という
ものを食べさせられ、高いお金を取られることを思えばずっといい。
長距離の運転手などにありがたい店だろう。
食後にあまり眠くなっても困るけど。

その場合眠気覚ましのガムが定番だろうが、今回セキのとまらない子供のために買った、はなのどスッキリガムは良かった。強烈なメントールの作用で、穴という穴がおもしろいほどスースーして、セキもとまれば
眠気もふっとぶというものだ。

子供がのどが渇いたというので、目新しいホットバナナというのを
買い与えてみたのもつかの間、旦那に任せていたらさっそくこぼして
台無しだ。テーブルや地面にこぼれた液体を一滴残らずふき取ろうとする公共心あふれるその執念の、一滴でもいいから子供を見る注意力に
変えてくれれば、こんな悲惨なことにならずにすむのに。
「早くズボン変えてやれ」「ハイハイ」。

土産物など目新しいものを見て回るのも一興だが、出入り口の
片隅に置いてある音楽カセットに目が行った。
今時CDでも古いのに!と、新しもの好きな人には憤られそうだが、
この世界がすべての人にとっては、これでもう充分なのだ。
八代亜紀ずきのオヤジには、こうして全曲集などにまとめられていれば
それだけで感涙ということもあるだろう。

よく見るとキャンディーズ、小泉今日子、岩崎宏美、河島英五、
グループサウンズと、みんなベストだ。
いいなあ、この彼らのすべてが自分のものという感覚。
私の記憶では、昔は懐かしのメロディーなど簡単には
手に入らなかった。
現在のように一曲ずつピックアップするのもあり、
こんな風に「すべてあげる!」とまとめてもありと、
さまざまなツールで手に入ると、
ありがたみがないというか、すぐおなか一杯になりそうだ。

あわただしい日常の中、ふっと聴こえてきたバックミュージックを
いつまでも聴いていたいという、時の止まった感覚。
手に入れたいけどここでしか聴けないという
ちょっぴりの寂しさを覚えてこその、懐かしのメロディーであり
その数分が濃厚なときとなることもある。
どこで手に入るのか入らないのかわからない、
自分にとってどれだけ必要なものかもわからない。
あんがい手に入れてしまえばもう聴かないものなのかもしれない。
その、わからない過程が、貴重なのだ。

それは、目の前に広がった雄大な景色を、写真に撮ってしまえば手に入るけれど、ここでじっくり自分の目で見ていたいという感覚にも似ている・・・

そんなことを考えながらドライブインを後にした。




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年賀状について 
あけましておめでとうございます。
年末年始をどのように過ごされましたでしょうか。
またボチボチ書いていきたいと思います。
よろしく。

年賀状をいただいた。
書いていない人からもらったら、基本的には返事を書く。
ただ、今回から考えを変えて、返事を書かない人を選んでみた。
それはこういう人だ。
いつもくれるんだけど、その辺で買ってきたようなパッとしない
デザインで、子供の写真が入るわけでもなく、一言メッセージがある
わけでもなく、名前まで印刷されてる人。

こういう人には返事をしない方が、本人の手間がはぶけて
いいと思うのだ。盆暮れに顔を合わせる親戚ならなおさらのこと。

何年も顔を合わせていない人だからこそ、近況を伝えあいたい
という思いはわかる。
また実際さほど親しくなかった人でも、儀礼的なことが
好きな人はいるので、こちらも年賀状でつきあってあげたいと思う。

何も書いてなくても、凝ったデザインがあれば、それをみんなに
伝えたいのだと思えるし、子供の写真も別に悪いとは思わない。
実際、人の子がどんな風か見たい人はたくさんいる。
覗き見的好奇心だ。
私もそれがわかるので、前回までは子供の写真入も出していた。
ちょうど七五三で、二人が写真館で晴れ着を着たものがあったので
それを使った。

いつまでも子供の写真でもないかと自然に思えたので、
それをきっかけにやめたが、人によってはいつまでも家族の
写真入で出してくる人もいるし、それはそれで信念がある。
だけど何も考えずに、ただ風習だからと出すのは
お互いやめにしたいのだ。
私は年賀状を何度も見直すので、よけいにそう思う。









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