サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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以前、日本の混沌には近代化の影響があるらしいと伝えた。
近代化を欧米化に変換したとき、欧米化から米をはずした
ヨーロッパ文明に目を向けることは、モラルの基本や
プロテスタンティズムの良い面を見直すことになるのではとの
観点が生じる。そこで、地理的にアジアの日本と同じ
イギリスのスピリットを学ぼうと提案した。

イギリスといえばただ憧れの国、というような観点では
なく、しょせんは人間のすることと悪い面も認めながら、
まずは身近なところからエッセンスを吸収すればいい。
たとえばイギリスにはブリティッシュ・ロック
の前衛性という、ルネサンスの永遠がある。

そこでミック・ジャガーなのだが、彼の注目すべきは、
「学ぶべきイギリス」を本人が意識して体現しているところだ。
「学ぶべき」と言ってしまうと、ここでいうエッセンスとは
かけ離れたものになってしまうが、そういう堅苦しさをかもし出して
いることも、逆に彼の親しみやすさのひとつといえる。

そこにはたとえばプロテスタンティズムの勤勉性があり、
まじめな日本人には理解しやすいだろうということだ。

「学ぶべきイギリス」とはたとえば紳士道だ。
日本で言えば武士道に値するが、これらはけっしてその国固有の
ものではなく、上記のような生き方から自然に発生した有機的産物
であり、自由への手段としてつながったスピリッツである。

紳士道も武士道と同じく、封建時代の抑圧の中にあって自覚された
ものなので、現代のファッションとは背景からして違う。
しかし逆に言えば、その貴族性を自覚すれば時代は関係ないのだ。

彼らは何を自覚したのか。
新渡戸稲造の『武士道』にはこのようにある。
「“けっして小さな子をいじめたり、年かさの子に背を向けたりしなかった人間であったという名を残したい”という、あるイギリス少年の決意こそ、壮大な倫理体系を打ち立てるための英国のかなめの石であり、
また武士道のかなめの石であるのだ」。

紳士道も武士道も「護衛」という、主に男性のひかれる要素を持つ。
しかしそれをスローガン的に声高にしたものには、
いつもどこかうそくささがないだろうか。

それはまるで、目に見えない真実を「これがそれです」と形に
して差し出すようなうそくささだ。

その点を重視して、あえてさりげなさを貫こうとするところに
真実が透けて見えることもあるのではないかといった点にも、
イギリス・スピリットは存在する。

そうしたリアリズムを下地とした、ミックの芸能における仕方を
検証すれば、そのクオリティーが伝わるはずだ。



<お知らせ>

・『ミック・ジャガーという生き方』は、本の紹介ページに
目次など掲載しております。ぜひ一読ください。

・8月半ばからカウントして5000アクセスに手が届きそうです。
たくさんの人に見てもらえたのではないか、と想像しています。
ありがとうございました。


良いお年を!





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ニーチェの永遠回帰 
この暮れのクソ忙しい時に「ニーチェを語る」でもない
のかもしれないが、まあそう言わずおつきあい願いたい。

今朝のニュースで、少子化が進んでいるため50年後の日本は
65歳以上の高齢者が4割を超えると伝えていた。
私が20代の頃から、将来は高齢社会だと叫ばれていたため
今現在すでに4割ぐらいいっているような気がしていたが、
私が90歳くらいになってやっと、そうなるのだ。
長生きしたところで、人間の命のはかなさには変わりがないこと
を思った。

ニーチェの永遠回帰は、この有限な命のなかに、無限性をみようと
するものである。

生きていれば、絶えず襲ってくるシビアな状況に耐え切れなくなる
こともあるだろう。やっと切り抜けたと思ってつかの間の幸せを
味わうと、またどん底に突き落とされる。その繰り返しだ。
ニーチェはこの繰り返しに耐えうる強い生に価値を置いた。

人間誰しも自分のやったことの見返りが欲しいものだ。
でも強い生を生きていれば、そんなことは関係なくなる。
今この瞬間を楽しめるからだ。
ご褒美などない、のだ。

瞬間を生きれば善悪の基準もなくなる。
次の瞬間の私はどう感じるか、快と感じるのか不快と感じるのか
その時になってみないとわからないからだ。

たとえば目の前においしいものがあれば、味わって食べる。
繊細なハーモニーを心ゆくまで楽しみながら、ただ食べる。
世の中にはこれを食べられない人もいる、ありがたいありがたいなんて
思っていたら、瞬間を生きられないじゃないか。
それはせっかく与えられた、おいしいものを楽しめる生に対して
失礼だ。

あえて言えば、その生を精一杯自分のために享受することが、
食べられない人を助けることにもつながっていく。

でもたとえば、他人の体験をあたかも自分のように受け取ることは
破壊への道だとニーチェが言ったからといって、
じゃあ目の前の弱者を、かわいそうと思っちゃいけないのか
そんなことはないだろう。善悪の規範はないのだ。

そういう同情をいっさいするなということじゃなく、
自分を切り離してそこに念だけを送るのなら、とりこまれていない
から引きずられることもない。
だから次の瞬間、忘れることも出来る。

同じように自分のことも、あたかも人のことを見ているように
眺めながら、「私はどう感じるのか」という実験をワクワクした
思いで繰り返すこと。
他人から見て辛そうなことであっても、自分にはあくまで実験なのだ。
その繰り返される実験がすべてということだ。

いや、これが果たして永遠回帰に値するのか、
「説明ではない体現」なので定義できないが、だいたい
そういうことだ。

そこには絶対的な自己肯定がある。
しかし人間は日によって、体調によって、後ろ向きの気分になることも
あるだろう。自信のある人でも、たとえば日本のような国にいれば
大勢と考えの違う者の方が悪いような気にさせられるし、
これからますます一定の規範を求められる側面もある。
そんな、善悪の基準に合わせようとする、揺れ動く自分との戦いでも
あるのではないだろうか。

真剣という意味ではいわゆる武士道にも通じるし、想念がさわやかという意味では禅など、いわゆる仏教にもつながるだろう。

マゾですか?と言いたくなるほど、いつまでも悩みの中に居たがる
人は多い。でも、もういい!というまで悩んだら、次の瞬間に
それをやめることはできないだろうか。
悩みの大きさにもよるという人もいるだろうけど、みんな一個の
有限体ということでは等しい。
ただのそこへ戻るのだ。ゼロに戻るのだ。
肩書きの一杯ある人ほど難しいのかもしれない。それはわからない。
その人次第だろう。
あきらめる、というのとは少し違うが、その辺りで私は瞬間を生きているなあと感じられることはある。

永遠回帰は、冷静に物事を観察するだけでなく「試みる」という
ニュアンスもあるという。
苦しみへの回帰でもあるからこそ、運命を愛し、能動的に生を
何度でも実験するという積極的なビジョンが必要になる。

聖書でいうところの「再生」の本意はこのあたりにあるのでないか。
キリストが生まれ変わったとか、あるいは自殺したらいい所へ行けないよといった、宗教とは違う。

ポイントをおさらいするなら、これらのことを念頭に置いて
永遠回帰をしようとすれば、もうそれは永遠回帰ではない
ということだろう。

結局、青汁のコマーシャルが一番近いかもしれない。
「まずい! もう一杯!」。

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ニーチェは鬼コーチ? 
昨日、違った人間も受け入れることが平和につながると書いた。
受け入れるというのは存在を認めるということで、柔軟な姿勢が
大切だと言いたかったのだが、

やはり、弱者はかわいそー、強者はずるい、では何も始まらない。
日本はおそらく間違った近代化によって、混沌としてしまい
もうガツンとやられなければどうにもならないところまで
きている。そのガツンとやる強者がまた、ムードでもてはやされ
私たちは、わけのわからぬまま、どこかへ連れ去られようとしている
のかもしれない。

聖書をフィクション化したり、戦争を美化する映画がつくられたり
するのも、ある意味混沌に拍車をかける。

そこでニーチェを考えてみたい。
彼は「神は死んだ」で有名だが、「神は死んだ」の裏側には、
「人間がものごとを支配する時代が、本当の神を殺した」
という言葉がにじみ出てくる。
ルネサンスや古典を重んじていた彼にとって、近代へ進む時代の
流れは、あまりにも不吉なものに感じられたのだろう。
「アンチ・クリスト」の現代語版『キリスト教は邪教です!』
は、ニーチェというオヤジが、世を憂えて酒場でくだをまいている
ようで面白いが、それほど彼にとって本当の神は大切だったのだ。

ニーチェはその中で、「弱者を哀れむことで強者までダメになる
ことはない」と述べている。これも彼が哀れみやすい人だったこと
の裏返しにもとれるが、弱者は後ろからつきおとすべきだという
過激な論を展開していた。

これも混沌の中では、単なる弱い者いじめの奨励にとられかねないが、
これくらいの厳しさで臨まない限り、ものごとは進展しないのかも
しれない。日本でいえば平和ボケした人も、わたしたち戦争を知らない
人も、死と隣り合わせくらいの勢いで生きていけということではないか。与えられた命を大事にしろ、それが神への報いだ。人にとらわれている場合じゃないと。

ニーチェはやさしい鬼コーチなのだ。
ただきれいごとのいえない人なのだ。
ガツンとやる強者との違いは、相手を見ているということだろう。
自分の体面だけを守りたい人ではない。

明日もまたニーチェをお伝えします。


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ロンドンで売春婦ばかりを狙った殺人事件が勃発した。

被害者の女性たちは10代から20代、まだあどけない可愛い顔を
写真で見て、「とても売春婦とは思えない」と、偏見の思考回路を
たどりそうになった。彼女たちについては、拝金主義など悪いイメージが先行しがちだが、たとえば大金持ちのホームレスが存在したように、そこにある種の思想やパフォーマンスの存在があるのかもしれないし、一概には語れない。
多くは貧困にあえぎ生きる手段として仕事をしているのだろう。麻薬欲しさというのも、働くに必要な安らぎをそこにみいだしているのだ。

この事件は、19世紀の有名な劇場型殺人「切り裂きジャック事件」を
模倣したものと伝えられている。
遺体はいずれも全裸で多くは川で発見された。
切り裂きジャックが、汚れの象徴とも言われる女性の子宮を持ち去った
ように、今回の犯人は売春婦を川で清めようとしたのではないかという。

そこには売春婦を、あるべき「清純な女性」の対角にある汚れた女性
と捉えるという決め付けと、自分のような男性や、神格化した女性以外の存在は許されてはならないという強引さが見て取れる。

子宮を汚れていると仮定しても、その子宮があるから人間が
生まれ、女性の大雑把な神経があるから、子育てという混沌とした
状況にも耐えられ、たとえば繊細な神経を持つ男性も育ち、
大きなこと立派なことが出来るのだろう。

あるいは、売春婦は、唾棄すべき女性の無意識の娼婦性の象徴
とされたのかもしれない。

実際の「切り裂きジャック事件」は、時がたって伝説化されている。
たとえ殺人であっても、そこにユーモアや主張が見られれば
たとえば「邪悪の象徴」としての永遠性を持つ。

しかしそれらをただ模倣したものには、何のパフォーマンス性もない
面白半分の憂さ晴らしといった、卑劣なだけのものが多い。
犠牲になるのは、いつも弱者だ。

写真に残された、寒空に立つ売春婦のこごえて丸まった背中は
身体を張って生きる人間の、犯人ほどには汚れていないだろう
純粋性を象徴している。


<昨日の記事を一部改訂しました。よろしければご覧ください>
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安倍総理は改正教育基本法をフェアでないやり方で成立させて
おきながら、「全員一致で採決しました」などとしゃあしゃあと
コメントしていた。

愛国心や公共精神の尊重などというのは形だけで、
実際は、自分で何も考えない者を育成しようということだろうが
それなら、なおさら環境に左右されない個を意識することが
重要になる。

しかし人は体制に組み込まれなければ生きていけないから
とりあえずは現在の自分の居場所において、
疑問視する目や抵抗する心を育んでいくしかない。

人の世を生きていくには、まず言葉や外見といった形を整えることに
神経を使わなければならないが、形にとりこまれてはならないのだ。

60年代、まだ若いローリング・ストーンズ
エド・サリバンショーで、「夜をぶっとばせ」(邦題)
を歌った。
アメリカというところは、形だけの倫理が特に強い側面があるが
この番組でエド・サリバン側は、歌詞に問題があるため、放送
できないと言った。

「一緒に夜を過ごそう」ではなく、「一緒にひとときを過ごそう」
と歌えというのだ。
ミックは内心さぞ憤っただろう。

こんな時キースは、案外素直に従うのだ。
現在のようにこわもてで、面白くないことがあると暴れそうな
兆しはなにもない。
彼とて、しょせんはお坊ちゃんなので、若き日の映像では
ニコニコと事態を把握しているのかどうかさえあいまいな
笑顔を絶やさない。彼の性格の「どうでもいいじゃないか」精神が
すでに出ているのかもしれない。
体制の中で疑問を持つかどうかも、生まれつきの性格による
ところもある。

ミックは、結局どうしただろうか。
言うことを聞く振りして本番ではそのまま歌うことも
考えたらしいが、実際は、歌詞を替えて歌った。

ただし、「ひとときを過ごそう」の「some time」のたびに、
わざとらしく目玉をぐるっと上にあげて見せたのだ。
このしぐさを、気付く人と気付かない人がいるだろう。
気付く人は、自分もそうする人だ。

奴隷精神じゃない。ゴマすり精神じゃない。
発信し続けなければならない反抗精神だ。

ミックは放送後、くやしがっていたという。
そのくやしさは、現在もなお反抗し続ける原動力に
なっているといえないだろうか。
目玉を上にあげるしぐさは、何者にも侵されない
心の象徴だ。

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たとえば日本人を嫌っているような発言をしたからといって
日本人をよく見ていないわけではない。
そのものを見ようとすると少なくとも柔軟さは生まれるから
変化もわかる。

逆に「大好き!」というかたくなな態度だってある。
「大好き」というよろいに隠れて安心し、相手を見ることを
放棄していることもある。

そのかたくなな思いに合わせようと、自らを殺す人も出てくる。
息づまる、形だけの関係の誕生だ。
それは見かけは美しくても、どこかむなしいものだろう。
力で押さえつけたところにコミュニケーションはない。

かたくなな態度には、自分を守る弱さが隠れている。
たとえば昔の頑固おやじだ。
彼らは絶滅しているかと思えば、していない。
見た目若い者のうちに、しっかりと息づいていることもある。
一般に男は自我がないという。
自分がないから一度考えたことを曲げられないという。
どうなのだろうか。

会話を初めからあきらめたところには、自分を守るかたくなさしか
残らない。それが高じると冷静さを失い、破滅への道をたどる。

かたくなさの真逆が「柔」だ。
「柔」は弱く思えるが、時と場合で強くもなれる、
臨機応変さをいう。
融通無碍(ゆうずうむげ)ともいい、
こっちのほうがどう見ても強そうだ。

私はミック・ジャガーについて書くことで
男の弱さを表現したかった。
ミック・ジャガーとて弱いが、彼はあきらめない。
そこが反逆者たるゆえんだ。
あきらめたほうがラクだが、あえて歩み寄ることをあきらめない。
その意味で「反逆者」とは、一生をかけて「かたくなさ」を
疑問視し、「柔」を求める旅人である。



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大阪姉妹殺害事件の判決が間近に迫っているという。
父親は朝の番組で涙ながらに犯人の死刑を訴えていた。
遺族にしてみれば、犯人をズタズタにいたぶって自分が殺しても
まだ気が済まないというのが、本音かもしれない。
今回は死刑を望む嘆願書が、見知らぬ他人からも多く寄せられた
というのも無理はないだろう。
犯人は過去に母親まで殺し、少年法に保護されてすぐに社会復帰して
また殺害したというのだから。

父親は犯人について、「反省の色が見られなかった、
自分で腹を切ってわびるべきだ」と言う。
しかし自害するような自制心の持ち主が人を殺すだろうか。
遺族にとって、人間というものを楽観的理想的に捉えて、
よけいに辛くなるより、この場合は地震や火事のような
自然災害と同じに捉えることが出来れば、
まだしもの救いになるかもしれない。
そんな捉え方は神様しか出来ないだろうが。

世の中には常識では考えられない、さまざまな性癖の持ち主がいる。
犯人の「釈放されたらまたやるだろう」という自ら発した警告は、
私のような者は永久に縛り付けておくより他に方法がないという
提案かもしれない。
犯人にとって何より大事な快楽が得られないことの方が、
死刑より辛いつぐないになるとの解釈も出来る。
死は場合により現実逃避にもなりえるのだから。

しかし殺人者とて「死」という未知のことは怖いから、たとえば以前の宅間被告のように「自分を死刑にしてくれ」というはっきりした意志の自覚ができぬまま、父親を不快にさせる「許しを乞う態度」になっているのかもしれない。

それにしても犯人の「少年院での教育は、何の意味もなかった」
という言葉を、「馬鹿にした態度だ!」と怒る番組リポーター
を始め、さまざまな意見の根っこに漂うまっとうな感覚には、
ズレを感じざるを得ない。
更正といっても、何を基準に更正が成立したと決めるのか。
あらゆる教育が、こういう犯人にとって不適応であれば、
映画「時計じかけのオレンジ」の主人公のように、
ロボトミーにすることが更正に値するのか。

一方向に進むほど的の外れていく形式的な論議について、
犯人はある種の疎外感を抱き、だから語るべき言葉も見つからず、
そのキョトンとした態度に、
「あやまれ!」と一心に思う被害者の父親はますます憤る。
いくら時間を費やしてもかみあわないだろう図式がここにもある。
しかし犯人の不気味な沈黙には、語られるべきなのに語られない
たくさんの事柄が潜んでいるように思う。


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いまだにシリーズが始まると大人気である。
老いも若きも、日本人の基本的に好きな話だということだ。
山岡久乃、藤岡琢也が亡くなっても、何事もなかったかのように
話の進んでいる今の状況は知らないが、
相変わらず同じようなトラブルを抱えているんだろう。
このシリーズが始まった、えなりかずきの幼少の頃から
日本人は何にも変わっちゃいない。

昔少し見て覚えている話をいうと、長山藍子演ずる長女が
働きに出て帰ってくると、家は散らかり放題、夫と長男長女は
何もしないで「ごはんまだー」とぷりぷり怒っている。
針のむしろ状態で、彼女は急いで家事をする。
立ってるものは親でも使えばいいのに。
いや、あぐらを掻いた人間にはそれも言いにくい。

彼女はお姑さんには恵まれていて、夫婦喧嘩の際は、
息子より嫁の肩を持つような、どこにいるのかという
できた姑なのだが、それだけに自分の本心は明かさずに
ひっそり老人ホームに入ろうとする。

私がもし老人なら、きっと老人ホームのほうが清々するので
どこか綺麗なところに入れれば率先して探すだろうが、
こういうドラマでは例外なく、本心は家族と過ごしたいのだ。

というより、息子夫婦の気持ちを知りたいのだろう。
彼らが「ひきとりたい」と思ってくれればそれで満足なのだ。
そして長山藍子は、ある日何かのきっかけで姑の本心を知り
迎えに行く。抱きついて涙を流す。
「気がつかなくてごめんなさい。迎えに来ました!」
本心を言えなくてごめんなさい。探させて悪いわねと
姑があやまるのじゃないのだ。
本心を言えない人の方が偉いわけだ。
うーん日本人、まわりくどすぎる。

これを見て、自宅介護が最高のあり方なんだと、
自分の本心を偽る人も日本人なら出てきかねない。

「隣人」は、気にしたくなくても気になってしまうものだから、
成り行きで家族が介護することもありだと思うし、
お姑さんのほうが小さくなっているケースも多いだろう。
今後はまた、介護の環境もどんどん変わっていくのだろうが
昔は嫁が想像を絶するほどの犠牲を払うことも多かった。

なぜかといえば、「こうあるべき」という誰が決めたかわからない
常識でみずからを縛り、疑問を感じることもなく従うからだ。
今後も、あやしげな、国の家庭教育推進運動という大義名分や、
あるいは細木数子らの後押しを受けて、高齢者が若者に形だけの
常識をふりかざしかねない。
もちろん常識のない者には言わなければ伝わらないこともあるが
自分以外はすべて非常識と決め付けていないか、一度考えて欲しい。

「日本人は変わらない」ことは、百恵さん人気の長さにも現れている。
病院の待合室などで週刊誌をめくると、百恵さんが
パッチワークを作った、長男の就職がどうした、と
相変わらずだ。
引退してもう25年はたつだろう。
彼女のような生き方はよほどめずらしく、そして日本人好みなのだ。

その週刊誌では芸能リポーターの梨元勝が、「彼女は女性の生き方の見本だ」と語っている。
彼も相変わらず男の頓珍漢ぶりをよくあらわしてくれるが、百恵さんが引退したのは、そんな犠牲精神からじゃない。
自分が主婦を見下しているからといって、あえてそれになろうとする、などと決め付けては困る。
彼女が引退したのは、自分の持てなかった暖かい家庭を持たないことには死ねなかったからだ。

そして彼女の人生スケジュールからすれば、あの若い時期に引退するのがちょうど良かったというだけだ。
「自分を犠牲にしない人間の見本」とされなければおかしい。
ゾウの時間ネズミの時間というが、同じ人間でも時間の捉え方は人それぞれで、彼女の芸能界に存在した時間は、彼女にとっては充分すぎるほど長いものだったかもしれないし、一般論でははかれないものだ。

はかれるのは、日本人の精神は根本的に変わらないということ。
なかでも目立つのが、犠牲的精神。
ではなく、犠牲的精神を尊ぶ精神。

今さら変わらないものを無理に変えようとするより、
その上でどうしよう、ということではないだろうか。


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見返り如来の由来 
昨日テレビでワーキング・プアの実態を放映していた。
働けど働けどわが暮らし楽にならず・・・本当に大変そうで
つらそうだ。
夫の収入で日々の糧を得ている者には、生きるか死ぬか
の生活のつらさは、本当にはわからない。
できるのは、せめてわかろうと努力することだけだ。

見ていてふと思ったのは、あえて見方を変えてみれば、たとえば
お金に恵まれていなくても、健康には恵まれているから働ける
と思うことも可能だということだ。もちろん病弱で貧しい人も
いるし、健康な人でも一日中働いていれば疲れるし身体も壊す
かもしれない。でも世の中には一時間働いて疲れる人もいる。

せめて柔軟な発想をして、恵まれている部分を重視して、
少しでも楽しい気分になることができるように願うしかない。
それと同時に、番組でも問うていたように、細かい事情を
把握しない「再チャレンジ政策」などは、多くにとって
虚しい机上の論理に過ぎないということを再認識した。

日本のリーダーである2世のボンボンたちが、貧しいものの
実態をつかむことは、難しいからこそ、価値があるのだ。
公にかかわるものほど使命感を持つ努力をし、富める者ほど
貧しい者をわかろうとする歩み寄りが必要だ。
「恵まれていてごめんなさい」という気持ちをみんなが持てれば
日本はもっと良くなるかもしれない。

政治家の皆さんには、京都の永観堂の見返り如来を
贈呈したい。
なぜ如来は振り向いているのか。添え書きにはこのようにある。
「遅れる者たちを待つ姿勢、自らの位置を省みる姿勢、
愛や情けをかける姿勢、思いやり深く周囲をみつめる姿勢
衆生とともに正しく前へ進むリーダーの、把握のふりむき」
慈悲の心を持つ努力のない人は、リーダーになってはならない。



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団塊のジレンマ 
出版社に入ったばかりの頃、「ダンコンの世代」と発したところ、
上司は泡を食って、「僕の前でよかったなー。部長には内緒にして
おいてやる」などと言った。
実は他にも「立食パーティー」を「たちぐいパーティー」、
「行楽弁当」を「ギョーラク弁当」、「犬猿の仲」を「いぬざるの仲」
といった多数の例があったのだが、穴掘って埋めた。
早晩、馬脚をあらわすことになるにしても。

団塊の世代といっても、そう何人も接したわけではないが
(とはいっても他の世代よりは必然的に多いが)
彼らの特徴として、なんでもコピーにしてしまう能力をあげたい。
「おいしい生活」の糸井重里も団塊だが、件の部長もそうで、
若い頃みずから「広告」というセクションを立ち上げたといい、
私もその仕事を任じられたが、たいして期待にこたえられなかった。
まあ特に私でなくても、自分たちで世の中を変えていけた時代の
人間には、下の者はじれったく見えるところがあっただろう。

彼らは触れ合いを尊び、飲みニュケーションにも価値を置き
仕事が終わると「ちょっと行こう」と部下を誘う。
ひきつった笑顔の同僚ほどには楽しめなくはなかったが、
飲んだ後にラーメンでしめないと落ち着かないところに
チキンラーメン世代の食の安らぎのありかを感じもした。

まだまだ貧しかった時代に育った彼らには、法すれすれのことをしても
生きていけ!という生命力を重視するところがあったにもかかわらず
妙に「根性」をいうところもあった。
彼らの親世代の精神主義の影響だろうか。

斬新な言葉使い、ユニークなものの見方、人より抜きん出ようとする根性に対して、
「おっ!」と関心を示し、自分は黒子に徹しながらも、そんな精神を祭り上げようとする。彼らの目の端にはアメリカン・ドリームの存在が見え隠れしていた。

ベトナム戦争反対運動をしながらも、どこかでアメリカの精神を称えているような、愛憎入り混じったジレンマも彼らの特徴だ。
流行に敏感で右往左往され、コピー文化を創造しながらも、その中身のなさに自ら反発しているようなものだ。

難しい論の振りかざしも、学生運動も、見かけは華々しいがピーマンのようだなどと揶揄されてきた彼らだが、そう切り捨ててしまうにはもったいない芯の強さがある。今の若者よりずっと厳しい親から受け継いだのだろう、「問題提起」すること自体の強さである。

すぐに群れたがるところは、昔のビートたけしのフライデー事件にも現れている。みんなで渡れば怖くないが本性だとしても、人の後ろに隠れる匿名性は、人によってずるさにもなり、人によって立派な個性にもなる。世代の特徴をおびながら、それを克服しようという意識のあるなしが、その世代の特性を十二分に発揮できるか否かにも関わってくる。

その姿勢は、全共闘に手を染めながら「もう若くないさ」と
髪を切るところから問われる。
本当に何事もなく髪を切るのか、責任を感じながら髪を切るのか、
問題へのコミットの仕方で判断できる。
いまだに地下に潜っているのではバカだけど
問題提起に対する責任感の有無という観点から、あの運動
はとても大きい意味を持つ。
彼らの何人かは、集団から個への静かな変革をはかったのだろう。





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本の読み方について 
「読書が好きです」と言えるほどには本を読んでいる方
だと思うけれど、なかなか数多くはこなせない。
速読術というのを聞いて、ぜひやってみたいと思ったが
それをマスターしている間に、本の一冊も読みたいし、
実用書の類は、最初のほうでギブアップする可能性が高いので
手を出していない。

仕方ないから、自己流速読術をつかえ。
前頁、ななめに読んでいくのだ。
視野が広い人ほど勝ち、だろう。
図書館で本を借りても遅々として進まないので
何も手をつけずに返すよりは
いっそのこと、この手を使おうと思う。

なにごとも集中力しだいなので
疲れているときは、ままならないだろうけれど。

でも、本当は同じ本を2度3度と読むほうが
身になるはずだ。
ミック・ジャガーにはまったときが、そうだった。
彼の評伝を、何度となく読むと
今までどこを読んできたのだろうと情けないくらい
読むたびに新たな発見があった。
読書とはこうあるべきなのだと知った。

そういえば音楽も、同じものを何度も聴くことによって
はじめて良さがわかるということがある。

結局その本に何を求めるかを自ら判断して
読み方を使い分ければいいのだろう。
純粋に情報だけを得たいのなら、速読でもいい。

「うわーこの人、私と考えが同じ」と笑いがこみ上げてくるような
本と出会うと、育児家事そっちのけで、くりかえし読んでしまう。

幻想かもしれないがどこかにいるはずの、分かり合える仲間に
出会うことを渇望して、私は本屋をめぐっているのかもしれない。
一種のナンパだ。

そういう相手というのは、日頃接して気の合う相手ともまた
ちょっと違うのだろう。
心友を求める一生をかけた旅の、読書は一手段だ。

若く、時間を持て余している頃、
一冊の本を何度も読んだり
変わった読み方をあみだしたり、そんな中から
何の役にもたたなそうなトリビアの泉が湧き出たり、
それは無駄だけど貴重な、
贅沢で尊い時間だったんだなあと思う。

効率ばかりの殺伐とした世の中に生きているからこそ
それぞれのオアシスは必要だ。






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イケズな京都人には、イギリス人のゴシップ文化
がよくわかる。人のことが気になって仕方ないのだ。
あることないこと、いやらしいほどに探りたて
田舎っぽい人には、自分を棚に上げて
背後から一言皮肉を述べて通りたくなる。

イギリスでは、王室の人間にも容赦ない。
とりすました人種をからかうところにこそ
醍醐味があるというのに、日本ではそれをしない。

そもそも日本は、ちゃんと近代化したのだろうか。
形だけの欧米化なら、さんざんやってきただろう。

日本の近代化が異様な速さで進んだ背景には
キリスト教に代表される西欧の文明をしっかりと
取り入れていないことがあるという。
基本を踏まえていないということだ。
荒野に生きる人間の、血みどろの歴史を踏まえていない。
とってつけたような近代化の延長で、無茶な戦争をした日本は
同じ過ちを繰り返す前に、もう一度近代化を知る必要がある。
知らなければ、それを超えることはできないのだ。
ここからは、真面目に伝えよう。

日本では、鎖国を停止し、明治維新によって近代化とヨーロッパ国際社会への参入を実現した。それ以前に、中世的な封建制が日本独特の形に発展した幕藩体制が整備された江戸時代がある。

江戸時代は、近代化を成立させる前提条件が育まれた時代として、
近年むしろ評価されている。
このような近代化以前の見直しとともに、
近代という概念は何かを知る必要もあるだろう。

近代について『ウィキペディア』を参照すると、(はしょってます)

「近代という言葉は、ヨーロッパにおける歴史観に由来している。
ルネサンス期の人文主義者たちは、古代ギリシア・ローマの時代、古典古代を理想の時代とし、ローマ帝国が崩壊した後は古典古代の理想が忘れ去られた暗黒時代であったと考え、自分たちの時代は古典古代が再生し、復興した時代とみなした。古典理想時代を「古代」、暗黒時代を「中世」、今の時代を「近代」と歴史は3つの時代を移り変わったとしたのである。」

「プロテスタントの改革者たちも中世をカトリックの支配した暗黒時代、宗教改革以降の時代をキリスト教の理想が実現され最後の審判を間近に控えた時代と考えた。また啓蒙主義時代の啓蒙主義者たちの間で進歩史観の考え方が生まれ、ルネサンス以前の中世は歴史の発展の停滞した時代、以降の近世は理性と知識が常に増大して歴史が発展を続ける時代と考えられるようになった。」

「今日では啓蒙主義的な進歩史観は反省の対象であり、また長らく暗黒時代とみなされてきた中世の再評価が行われている。こうした動きは、500年にわたって歴史に用いられてきた近代という概念そのものへの見直しにも通じる。」

と、ある。

日本での江戸時代の見直しと同じく、世界的にも中世の再評価は行われているのだ。
この興味深い事実は、人間の罪の普遍性を物語っているのではないか。

罪のある存在として謙虚さに立ち戻って、
日本が正しい近代化を行っていないと前提すれば、
そもそも問いを発する資格があるのかを、知らなければならない。
国際社会における日本として
正しい近代を捉えるところから始めなければならない。
具体的に、どうしたらいいだろうか。

日本人はアジア人としてのアイデンティティーを持っていない
ところでは、ヨーロッパにおけるイギリス人と同じだ。
これは島国という地理的要因が大きい。
この特殊性を生かすために、日本はイギリスを知り、
キリスト教を知ることもひとつだ。
近代化をもたらしたプロテスタンティズム精神を含めて、
イギリス・スピリットを学ぶ必要性を思う。

日本人は、イギリス人と似てシャイで、
独特のウエットさがある。
シンパシーを抱きやすいのでとっつきやすい。

ここであえて言わせてもらえば
イギリスを知るには、ミック・ジャガーを知るべきだ。
彼は伝説のロッカー以前に、イギリス・スピリットだから。
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クリスマスは、「この世に使わされるために来た」という
イエスの真髄を心に迎える日だ。

聖書の一節に
「人の子が来たのも仕えられるためでなく、かえって仕える
ためであり、また多くの人のための、あがないの代価として
自分の命を与えるためなのです」とある。

イエスは弟子たちに
「支配することではなく服従すること、権威をふるうことではなく
仕えること、しもべになること、われ先にと人を押しのけるのでは
なく、他の人に機会を与えること」をしていきなさいと伝えた。

なぜなら世の中のものが入りすぎると、神の教会は沈没する。
私たちは世に出て行くもので、世に取り込まれるものではない。

「神の国としての教会を建てたい」とのイエスの御心を
まだ開かれていない弟子たちは取り違えた。
ヤコブとヨハネは
「私が右の大臣になる」
「私は左の大臣だ」と対立し、
それを見ていた他の弟子たちはブーブー文句を言った。
自分がそうなりたいからだった。

右だ左だと安住したがる
的はずれな弟子たちにのために、イエスはみずから
彼らの足を洗う、みじめな奴隷の姿となって
人に仕えるとはこういうことだと示した。
ここにこそ生きがいがあるよと。

今さかんに言われている「そうじ力で運がよくなる」みたいな
教えも、結局はこういうことだろう。
社会的地位のある人ほど、素手でトイレを磨くといい、とか。
もちろん考案した人は、意識していないだろうけれど、
色々な教えの源は、聖書のどこかに潜んでる。

余談だが、しかし聖書は分けて読むものじゃない。
それは誤解の元になる。
通して読むことで、スピリットのようなものを理解するのだ。

なーんにもわかっちゃいない弟子たちの足を洗う姿。
神自らが、腰布を巻いて、地面に這いつくばり、
一心不乱に洗う姿。
日本風であるなら、ふんどし一丁の姿だろうか。
マヌケで哀れな姿、それが十字架だ。
家畜小屋で生まれ、虐げられた人々の仲間となった
パフォーマーとしての、イエスの真骨頂がここにある。
花道を行く彼に、「キリスト!」と屋号を呼びたくなるほどだ。

ごめんなさいイエス様、
いいかげんにしておいた方がよさそうです。
でも私は、あなたの十字架の姿は、私たちの罪の犠牲ではなく
粉々に砕かれた謙遜の心とはこれだよという、
あなたの身体を張ったメッセージと受け取りたいのです。
いつも忍耐のまなざしを、ありがとうございます。


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ファービーには、まったくイライラさせられる。
「サンタさんてお父さん?」などと、いきなりフェイントを
かまし始めた子供たちが、まだ何の疑問もない頃のプレゼント。

「ファービー」と声をかけると、「なーに」と返事をしてくれ
他にも色々と会話が楽しめるはずなのだが、
電池のせいか、角度が悪いのか、それともみんな
こうなのか、返事がないことが多い。

そうかと思うと、急に「イェーイ!」などと言い出したり、
話の筋からはずれて、「ぼく君のこと大好き」と言ってみたり。
私は「ファービー、スイッチ切っちゃうよ」とあきらめたくなる。
すぐゲームをリセットする現代の子供よりこらえ性がない。

説明書の決まり文句どおり、
「ファービー、遊ぼうよ」と言っても
「ぼくー聞こえなーい」と投げやりな応対をされ、
「ファービー、歌って」とお願いすると
「ねえ見て!ぼく立てたよ」と返される。
「イェーイ!」

ファービーの乱暴なコミュニケーションにも負けず
根気よく問いかけを繰り返していた息子は
笑顔のまま、突然、足で踏もうとする。
「やめなさい! スイッチ切りなさい!」

これは子供のコミュニケーション力を伸ばすものではなく
忍耐力を養うおもちゃだろう。
もし、こんなとんちんかんな子供がいて、素直に異議を
表明したら、「いじめだ!」としょっぴかれそうだ。

そういえば、先日テレビで森村誠一が、三波春夫について語っていた。
「日本や日本人をこれほど愛した人はいない」と。
彼の活動は、都会に見られる、誰とも口を利かなくても済むような
機械化された人間への楽しい警鐘だったと。
「しゃべれ、ふれあえ、かたりあえ。
これが彼のメッセージだったのです。」
遺言は「逝く空に、桜の花があればよし」だったそうだ。

生前のブイが流れる。
彼は若者ともふれあいたいと、クラブのような
ところへも出向き、あの派手な着物で登場する。
若者はわけもわからず、はやしたてる。

どんな歌をうたったのか、私なら聴いてみたいものだが
彼らはあまり興味もないだろう。
三波春夫という、けったいなおじいさんによって
退屈な日常の目先が変わった新鮮味に対して
意味もなくはしゃいで見せているだけだ。
しかし春夫は妙に満足そうなのである。

ノー天気なざわめきにかき消されそうな
「若者は大切なんです。これからの日本を背負って立つんですから」
なんていうメッセージなど、誰も受け止めちゃあいない。

中身のない喧騒だけが虚しく響く、若者の空間と
三波春夫の「若者の味方でございます」という媚のまじった
迎合おどりは、ファービーの「イェーイ!」
に通じる、かみあわなさ、じれったさがあった。
ジリジリ。




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利己主義と個人主義 
昨日、利己主義者は細木数子にとやかく言われるが、個人主義者は
言われない、などと語ったが、両者の違いはなんだろう。
個人主義は、一歩間違うと利己主義だ。
いや違う。個人主義は、利己主義をベースにしているのだ。

人間は利己主義であたりまえ、それが自然の姿だ。
だけどそれは、何の手も入っていない荒れ果てたもので
私たちのイメージする美しい自然ではない。
自然に手を入れて「整えようとする」ものが
個人主義者であり、利己主義者を「超えた者」と定義できる。
条件は、そこに「意識」があるかないかだろう。
超える意識のある者を、貴族という。

だから貴族は「お上」ではない。
民衆にあっていいはずのものだ。
民衆の一人ひとりが貴族であるならば、真の民主主義も
可能になる。

「意識」があるかどうかの違いというのは、たとえば
自分の利己主義を、どう公に調和させるかを考えるという
ことではないだろうか。
公を意識するのが個人主義だ。
利己主義とは公を頭から無視した「私だけ」主義である。
いわゆる自己チューで、スキだらけなので、
簡単に公にとりこまれ、「滅私奉公」へ移行する。
公を国とみなしている者がいれば、いいように使われるということだ。

いわゆる全体主義の反対は、利己主義であって、個人主義ではない。
それ自体で確立した個は、全体と調和し、共存するからだ。

しかし言うのは簡単、行うのは難しいことだ。
個人主義のつもりが、気付かずに利己主義をしていることは多い。
たとえば人の目を考えて行動したり、
どう思われるかということに汲々としたり、
私なんてと必要以上に卑下したり
逆にわざわざ、ほら俺かっこ悪いだろと示して見せたり。
これらの行為は一見とても謙虚だが、実は自分をスターや王様、
言い換えれば神とみなす考えから来ていたりする。

個人主義者は、自分は神でないという
本当の謙遜を知ろうとする。
だから、こうしておけば間違いないだろう式の
安全策を超えた、開けた存在を目指す。
公を意識した個人である彼らに出来ることは、神の全体主義を
妨害するあらゆる事実に対して戦いを挑むこと。
その意味で彼らは武士であり騎士であり兵士だ。
だからといってそれは喧嘩ではない。

意義申し立てといっても、やみくもにはできない。
真剣勝負だからこそ、やみくもに刀は使えないのだ。
最善を尽くす戦略が必要となる。
それがもし人の上に立つことであるなら
それはそれで受け入れる。

神以外のものを神の地位におこうとするすべての傾向に
反対する立場であるが、ただのアンチではない。
自分のベースである、どうしようもない人間性も踏まえたもの
でなくてはならない。
アンチのためのアンチは楽だが、
貴族はラクじゃないのだ。

好きなものを思う存分食べたいが、それをすると
見た目かっこ悪いから、身体に悪いから
というのであればそれは利己の範疇だ。

神に仕える、公に仕える身を意識して
自己をコントロールするのが、貴族である。
そこには責任が生じる。
責任も人に押し付けられる性質のものではなく
自分で、自分のしたことをわかっていなければならないのだ。







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細木数子 
あまりちゃんと見たことがなかったものだから、
押し付けがましい偉そうなおばさんだなという印象しか
なかったが、これじゃ当タイトルの「ナナメ読み」にさえ
ならないので、今回初めて彼女の番組を通しで見た。

占い師というのはカウンセラーでもあるということが
よくわかった。占いを信じる信じない以前に、人は自分に
親身になってくれる相手について行くのだ。
涙流して浄化され、目の前の占い師を神と思う。

料理コーナーでは昔ながらのふりかけを自ら作って見せていた。
こういう人は、家庭的ということじゃなく、なんでも器用に
こなす知恵が卓越しているのだろうな。
だから、女性に「家庭に帰れ」と訴えるのではなく、
私みたいに賢くなれと伝えてくれれば、嫌な気はしないのだが。

この人自身は、衣食住ともに豪奢な生活をしているのだろうが、
視聴者や出演者に、昔ながらの日本の伝統、とくに女性の伝統を
大事にして、質素で堅実に生きていけ!と説教している。
マリー・アントワネットが言うなら、綺麗だから許せるけど。

やたらと日本古来のものを重要視するのは偏りに
感じるし、「そんな外国語を使うな!」など、
国粋主義のようなことを言ったりするのは、
影響力の強い魅力ある人物だけに、プロパガンダじゃないかと思う。
視聴者はそんなに利己主義なのだろうか。
それとも日本人は、自分でそう思いたいのか。

教育を語るコーナーでは、「仁義礼智信を子供に教えれば、
恥を知ることができる」と説いていた。
しかし彼女の想定している利己主義的な子供たちならなおさら、
こんなきれいごとは通用しないだろう。
ピンと来ない子供に、最後には力づくで教えることにもなる。
利己主義の子供たちに本気で教えたいなら、
「こうすればお得でっせ」くらいの俗っぽいところから
入ったほうがましじゃないだろうか。
彼女ならお手のものじゃないのか。

彼女の言う恥であるところの公を知るには
個人のアイデンティティーの確立からだと思う。
私たちは利己主義ではない個人主義を目指そう。
私たちから始めて、それを子供にも伝えよう。
個人主義なら、細木数子にとやかく言われなくても済む。

しかし私たちがそうなったら彼女は喜ぶだろうか。
彼女の話の筋から行けば、彼女の目的は、公を知る
個人をつくることだ。
ところが、とやかく言われてうっとりしたいだけの
視聴者のおかげで、彼女の出番はなくならない。

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幼稚園を選ぶとき 
他幼稚園(Bとしよう)に子供を通わせる、口の悪い友人母に貴重な意見をもらったことがある。

うちの子が行っているA幼稚園は、入園前の見学会で園の様子を映したVTRを見せるのだが、それはまるで天国の園の子供たちのような
綺麗なもので、バックにはクラシックが流れている。
これを見て「うっとりとする人はA幼稚園、ケッって思う人は
Bを選ぶよねって話してたのよ」。

認めたくなかったけど、たしかに私はうっとりした。
この違いはどこから来ているんだろう。

「ケッ」というのは、「うさんくさい」という意味じゃないだろうか。
彼女たちは、ちゃんとした言葉にならない何かを感じたのだろう。
子供がこんなに綺麗なわけがないじゃないか、だろうか。
ドロドロのトレーナーを着て、遊びまわっている野放し幼稚園の
方がましだ、だろうか。

Aは制服を着てみんなにこにこして挨拶もしっかりする。
いったいどんな教育をすればああなるのかと見学に行く度
思った。
叱責も直接的な言葉をはかず、諭すようにやさしい。

年長になってしゃべりの達者になった子供から、
いつもの先生は鬼のようにこわいと聞かされた。
クラシックのメロディーと、親の前での笑顔の叱責が
やっと重なった。

上の子が入園した当時の先輩ママたちには教育熱心な人が多く
聖書をまじえた地区の集まりの際にいつも
「ここの幼稚園の付属小学校があればいいのにねー」と
話し合っていた。
他幼稚園の悪ガキにはうちの子は触れさせませんくらいの
勢いに、ちょっぴり違和感を感じつつ、
先生を前に、家での子供の様子をずっこけを交えながら話した。
彼女たちは笑いながらも、ここでの掟をわかっちゃいないようね
という視線を投げかけた。

彼女たちは、「私どもの子供は、いかに家でも素晴らしいか」を
語るのだった。
ああこういうこと言わなきゃいけなかったか。
たしかに子供のいいところを重視してあげようという気持ちは
大切だ。
いいところを認めてあげたら、そこが伸びていく。

でもこれじゃ、幼稚園に対して「本当のこと」が話せない。
「本当のこと」が言えて初めて、節度を持って話したくなるのだ。
本当のことなど、本当は言いたくも聞きたくもないじゃないか。

子供は、みんな神の子。子供に、罪はない。
そうやって保護してくれるのはありがたいけど、それ以上に
あのクラシックのバックミュージックが、いたるところで顔を出した。

「うっとりした私たち」が、B幼稚園の母親より劣っているということじゃない。自分の名にかけても、そこははっきりさせたい。
主流に乗ればBだけど、あえて棹差す者がAを選んだのだ。
Bたちは、たとえば流行に踊らされやすいという弱点を持つ。
他の人のしていることが気になって仕方なくて、
同じことをしていればとりあえず安心といったような。
Aを胡散臭いと思える嗅覚はあるくせに惜しいところだ。

いや、誰でもどこかに弱点はあり、相手の反応に気をつけたり
人の意見も取り入れたりする中で、気付く人は気付く。
だから、自分さえしっかりしていれば、どこに入れようと大丈夫。
のびのび保育でも、管理保育でも、カリキュラム重視でも。

たとえば、「困ったあなたたちに園の方針はわからないだろうから」と、親がのけ者扱いされていた、本当の状況があったとしても、
こっちはこっちで「行事が少ないのはありがたいこと」と
空いた時間を有効に使えばいい。

A幼稚園を下の子がそろそろ卒園する。
6年間お世話になりました。
心からありがとうを言いたい。






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