サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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村上里佳子 
若い頃からモデルで活躍し、タカビー女の代表として今も芸能界に
居座り続ける、その根性はどこから来ているのか。
渡部篤郎との素敵なファミリー作りには失敗し
最近ではからかわれ役も甘んじて受けるように
なったものの、「まだまだ私はいけてる」という自信と負けん気は
健在のようだ。

そんな彼女は一時カリスマ主婦のような存在だった。
一般主婦にも、里佳子やりさ子?を見本にした
自らをモデルに見立てているかのような人々が続出した。

彼女たちは、自分を里佳子タイプと自覚するだけの
美貌なりスタイルのよさ、社交性などを兼ね備えている。
それらをますます向上させようという前向きな姿勢は見習いたいが
完璧を演じるだけに自らの首を絞めているような、
苦しさも感じさせた。

まず彼女たちは良妻賢母であり、仕事を始めたとしても
家事にも手抜きをしないというスタイルをとる。
モデルハウスに、ラブラブの私たちに出来のいい子供たち。
美しい上に何でもできる。私にはちょろいのよ。

どうしてそんな絵に描いたようなものを執拗に求め
周囲にも無言で要求するのか。
人からほめられたい、その気持ちは誰しもあるけれど、
「ちやほや」まで行くと、首の辺りがかゆくはならないのか。
誰にでも抜けてるところはあるんだよというメッセージは
天地がひっくり返ろうと発しない。

彼女の取り巻きの主婦は、彼女を前にして
私たちは何にもできないし、家事も手抜きだというスタンスに
無自覚に立たされる。
里佳子に神経を傾けなければいられない気にさせられ、
おべんちゃらを連発することによって
主婦特有の誰にも認められない自信のなさに拍車がかかる
ことは意に介さない。

もちろん綺麗な主婦やリーダー格が、
すべて里佳子というわけじゃない。
見分け方は割りと簡単だ。
何かの拍子に、自分以外の誰かが賞賛をあびると
彼女は冷静でいられない。
ずっこけながらも肩の力を抜いて同じことをこなす者
の存在を認めたくはない。
里佳子は、必死なのだ。
完璧な彼女に足りないものは、
きっとユーモア精神だろう。

里佳子は周りの者にも気を配り、要所をはずさず
手紙をくれたりプレゼントをくれたり、けっこうマメだ。
でもある日わかってしまう。
「お山の大将になりたいんだな」と。

私はそういう人を目の当たりにすると、
笑顔で神経を逆なですることを言いかねないので
足音静かに去っていく。
偶像を崇めたくはない。
里佳子、せいぜい身体に気をつけて。











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復党議員の釈明 
郵政民営化反対という立場で党を離れた議員が、また「てへへ」と
頭を掻いて元に戻るということについては、「仕方ないなー」と
思うしかないが、それならそれで、「仕方ない奴ら」としての
立場をまっとうしたらどうだろう。

11議員中の4氏が公の場で立場を説明したが、「選挙で反対と言ってない」などと弁明したという。
これで信念を通したことになるというのだろうか。
もし彼に信念があったなら、逆にそれを曲げたようにとれる。
それなら「ごめんなさい」をして柔軟さをアピールしたほうがましだ。

表面だけを綺麗に整えようとすると、言葉という道具がすべてということになる。人間はみな発展途上で、日々新たにされていくのだから、状況によって考えが変わることもあれば、勉強不足で知らなかったということもある。政治家であれなんであれ、基本的にそうした存在なのだ。
それでもそこに一貫して変わらない流れがあればそれが信念である。

言葉にしなくても変わらない信念があるのなら、立場が変わっても
貫きとおすことはできると、心ひそかに思えないのだろうか。

「はじめに言葉ありき」とは、人間ひとりでは生きていけませんよ
ということであって、言葉に縛られることではないはずだ。





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三島由紀夫の茶番劇 
三島由紀夫は、完ぺき主義者だったのだろう。
自己の完成にも心血をそそいだ。
自分に欠けた部分が気になって仕方なかったのだ。
たとえば三島は運動神経がにぶかったために
そこにことの他こだわり、剣道も嘘の段位まで取得して
その気になっていたという。
貧弱な肉体も改造してマッチョにした。
簡単に言えば、見栄っ張りのナルシストだ。
これをかっこよく訳せば、
彼の人生は、彼の思うあるべき美の追求だったということになる。

あるべき美は、すべてを超越したところに存在する。
人で言えば超人ということだ。

三島は、全共闘との討論の中で天皇観を述べ
権威や征服者としての奔放な強者としての神がかった美しさの
純粋な持続とした。
「天皇はブルジョワなどではなく、日本の民衆の底辺にある観念、日本人の持続したメンタリティ、いわば庶民の超越項である。それをものにしなければ空間を理解できない時間を生きる民衆の心は掴めず、革命はあり得ない。徹底的な論理性は非論理的で非合理的な文化の上でこそ成り立つ。文化的概念としての天皇こそが、それゆえに革命原理、戦闘原理となりうる。」

三島は民衆を「空間を理解できない奴ら」とみなしている。
そう仮定するところの民衆を超越するものなど、支配者でしかない。
しかし彼は、天皇を人間でありながら神である、三位一体のような超人としてとらえている。
超人を神と同一視するということは、超人である自分をも神とする
ということだ。ここで彼はやはりナルシストだとの証明がなりたつ。

全共闘は、彼についてこのように結論付けた。
「三島は過去の歴史に規定された関係性の中でしか生きられず、日本文化に拘泥し、その幻想の中に喜びを感じている。 それは日本文化や日本人であるということに負けている、ということだ。自由であることを放棄した、そういう退屈な三島からは何も生まれない。」

三島は日本人の誇りを訴えたかった。
生命尊重のみで魂の死んだ日本人を嘆き、
「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を
諸君に見せてやる」と、自衛隊に期待した。
しかし裏切られ、自決したといわれている。
彼は生命尊重以上の価値の所在を自分に求めたということだ。
自衛隊には期待できないと、わかっていたのではないか。

彼は既にその崇高な志を政治に弄ばれている。
憲法改正と日本の再軍備をもくろむ政治家に支持されたという。
現在で言えば頭数欲しさに復党させたいために
「人間最後は情だよ」みたいな言葉に踊らされる人間の
おめでたさを、三島は駐屯地で演出して見せたのではないか。

三島のような自意識過剰のカッコマンは、通常ならみっともない
姿はさらさないように、用意周到になるところだろう。
恥を何より恐れた彼が、恥をさらし、茶番を演じたのだ。

それは自らを神になぞらえた、ナルシシズムの抹殺であり、
マゾヒズムに彩られた道化としての
本当の神への敗北宣言ではなかったか。
ここで三島は開けた人間として超越性を発揮したのだ。

超人としての完結は、その意味で最初の理想と合致する。
あるいはキリストのように、真の武士として蘇ろうとしたのか。

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聖書の根底を流れる一貫した精神、
それは自由の精神だ。
神に似せてつくられた人格は、本来自由なもの。
自分で考え、自分で選び取る。

クリスチャンとは、聖書の一言一句を誰かに
押し付けられた人間ではなく、イエスに似た、
自由な人間のことだ。

それはどんな人間だろう。
ニーチェによればイエスという人は、

まず偏見を持たない。
だから、とらえどころがない。
決まりごとを一切認めない。
自分の言葉のみを使い、言葉は記号としての価値しかない。
学問、芸術、政治、宗教、すべてにかかわりがない。
文化も知らない。つまり、
「この世」を否定する理由がない。

論理的に根拠を持って証明することを考えず
自分自身の精神を純粋に証明するだけ。
世の中のたくさんの教えや意見を知らず
だからそれらに出会っても否定せず、へーと思うだけ。
自分には光が見えているから、何でも素直に受け入れられる。
そんな人なのだという。

だからその死は他から強制されたものではありえない。
他にとらわれたもの、すなわち自殺とは違うのだ。
神に死を命じられて、すなわちそれは寿命なのだが、
「神よどうして」と嘆いていたというが
自由を奪われることに最後まで精一杯あらがったということだろう。
イエスはあくまで反逆者だったのだ。
それでも心の奥底は穏やかに死を受け入れる、
それが、光の見えている者だけが持てる、神への信仰なのだ。



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高齢男性の孤独 
一人暮らしの高齢男性の、地域での孤立が取りざたされている。
実態調査を行った内閣府は「長年、会社人生を送ってきた男性は、すぐには地域社会に入れない。孤立させないことが今後の政策課題だ。地域社会も意識的にネットワークを作る必要がある」としている。

男性であれ女性であれ、一人が好きではない人にとって、孤立
した状態というのはつらい。でも本気で仲間を作る気があれば、
会社人間であったというハンデを持っていても、そう難しいことではないはずだ。
地域でなくても場所はたくさんあるはずだと思う。

しかし一人が好きな人にとっては、地域に無理やり溶け込まされる
ことは、孤立しているのと同じくらい辛いということもある。
また「辛い人」はどんな状況であれ辛いという傾向もあるが、
まず、誰もがこうした政策を喜ぶわけではないことも把握する必要が
あるのではないか。

仲間が多ければそれなりのわずらわしさがあるし、一人は気楽だが
相談相手さえ得られない。そんな現実と折り合いをつけながら、
自分に合う生き方を模索するしかないのだろう。

「うちの主人、お父さんたちに溶け込めなくて困るのよ」という
主婦仲間がいる。最近の父親は、スマートに父兄間の社交も
こなせなくてはいけないらしい。

でも、おばさんのようになって井戸端会議にまで首を突っ込む
ような男性を、私は魅力的だとは思えない。
男らしくないじゃないか。
トレンディでなくても恥ずかしがることはない。
その人ならではの良さはあるはず。

男らしいとは人間らしいとイコールだ。
もともと何もない野坊主な自然を整備していくことに人間らしさ
があるのだ。

もともと男でも女でもない生物が、性差を意識して自分を律することは、自然的でないという部分においてのみ美しい。
正しくはないが人間らしいのだ。

たとえば私はスキーや、ハイキングがなぜ楽しいかというと、なんだか大自然を制覇したような気分になれるからだ。それは客観的には錯覚なのだが、それこそが醍醐味だ。

だから、今度はその植えつけられた性を個性で乗り越えて、苦手な人間関係なりを克服しようとしてみるという姿勢は、さらに人間らしく魅力的だろう。

個性を発揮した、よく生きる個人とは、このように野生を超えたものであり、それはまた不思議と野生的である。





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きゅーきゅきゅーきゅ、きゅっきゅきゅきゅ
だーてに安くはありません

うるさいぐらい耳につくこのおどけた歌を、
否応なく口ずさみながらも、どこかでバカにしていた。
だから今まで文房具しか買わず、まっすぐ前を見て店を出た。

でもやっぱり伊達じゃないようだあの店は。
歌の奇抜さばかりが先行すると、歌詞を省みることも
しなくなるデメリットの存在性を思った。

いい年してお菓子大好きのうちの夫が、会社帰りに立ち寄っては
あそこなかなかいいよと言ってたが、100円ショップが流行ったから
99円か、よくある考え方だからこそ見落とされがちなパターンを
ついてきた店だなとの認識しかなかった。

さすがうちの夫だ。
何か違うということはわかったらしい。
私に人のことを「貧乏くさい」という資格なんてないのだ。
昨日たまたま立ち寄って、何が伊達じゃないかわかった。
他ならぬ、品物だ。
特に食品が、安売りの店にありがちな
安かろう悪かろうじゃないのだ。
原料のひとつひとつに目配りがある。

たとえば卵など、自然食品店で売っているような物なのだ。
自然食品が好きな人は、高い店しか想像しないかもしれない。
それが99円だ。見直す価値はあるだろう。

といっても世の中、魔法のような話はない。
あくまで安売りの店だ。
添加物いっさい受け付けないという人も該当しない。
野菜だってもちろん無農薬のわけがない。

私は、基本的にスーパーのものでいいにもかかわらず、
味がいいかもしれない、雰囲気を楽しみたいという理由で、
自然食品店も利用していた。
そういう、こだわりのない自然食品好きに、お勧めだ。

私は「これ安いでしょ、だからいいのよ」という考えには
反発があった。
だからこそ、逆もまた真なりということを見逃していた。
高ければ何でもいいというわけでもないことを。

ちょっと禅問答のようだ。
大げさになりすぎたかもしれない。
でもたとえばクコの実、かぼちゃの種などのまざった
身体にいいお菓子を手に入れたくても、
高価でしかもどっさり、という形でしか目にした事がなかった。
お菓子は基本的に官能的に楽しむもので健康のためじゃないから
こんなにあってどうするの、と捨てることになる。
これでは気軽に試せないから、縁遠いものになる。
そういうニーズにも対応している。

QQブランド以外のメーカーのものも入荷しているが
一つ一つが単に自然食品的ということでなく
何らかのコンセプトをもとに厳選されていて、
誰か、消費者をきめ細かく思いやる個人が
采配をふるっているんだろうなと想像する。

従業員も感じがいい。
大きなスーパーでも、何か質問するたびパートのおばちゃんが
集まって相談を始めてしまう所もある。
もし一人暮らしなら、近所に一軒欲しい。
99円の焼き芋はほっくりとおいしかった。






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バラエティー番組というのは昔からあったが
こんなにバラエティーに富んでいただろうか。
歌や踊りを前面に出した、いかにもというものじゃなく
健康番組、ニュース、ありとあらゆるジャンルが
たくさんのタレントを出演させるために、
成立している気がする。

彼らは何か持ちネタをするわけでもないニギヤカしだ。
日本では格差社会ということが言われて久しいが、
それはこういうことだろうか。
芸能人は高収入とはいえ、
一握りのこれに出なくていいタレントと、その他大勢という
縮図がここにあるのか。

それにしても何かというと、そのなかの誰かが非人間的な扱いを
受け、まわりが無神経にはやし立てるのはなんだろう。
視聴者は多くが子供だ。
彼らに「いじめはやめなさい」とは、これじゃ言えない。
人間社会の不条理の縮図もここにある。

いじめ問題が世間を騒がしているからといって、それらしいもの
を見つけたら鬼の首をとったかのように「いじめだいじめだ」と
よってたかって封じ込めても、ことの本質は何も変わらない
のではないか。
だって人間はいじめてしまうものだもの。

過去、たけしの「熱湯風呂」から始まり
ダウンタウンに引き継がれていったかのような
いじめの芸風は、人間のどうしようもなさを表現した、
一種のアンチテーゼだったのかもしれない。

一方いじめられている芸能人も仕事だ。
そして映像を見てどう感じるかは、子供であろうと人それぞれだろう。
だからそのこと自体をとやかくは語りたくないが、

一般人でも、圧力にひたすら耐え、卑屈な顔で笑っている彼らこそが、
いざという時、最も陰険な人間になってしまう怖さを問題にしたい。

天地真理というタレントがいた。
私の子供の頃は全盛で、マリちゃんマリちゃんと騒がれた。
「マリちゃん自転車」は手が届きそうで届かなかった。

彼は業界夫と結婚し、一児をもうけ、一度家庭に入ったのだろうか
見るも無残なたるんだ肉体を持って復帰した。
タバコで荒れたがらがら声には昔の面影は何もない。
そして与えられた役割は、みんなの笑いもの。
シビアな夫は、これでもかと彼女に汚れ役を与えた。
こっけいなカッコでプロレスの真似事をし、肉体に
ダメージを与えられるにいたっては、おのれの情けなさに
泣いているようだった。

彼女の場合は、人気者として愛された記憶があるから、
屈辱感もまた強烈だったのかもしれない。
実際「白雪姫」とのギャップは、あまりにも激しいだろう。
彼女は夫と別れた。
トラウマになってしまったわけではないのだろうが
引き込んだままだ。

屈辱感を天地真理のように公に現してはいけないが
それに慣れて、感覚を麻痺させてしまってはもっといけない。
それは自分自身で、大切に守らねばならない。
そう、子供に伝えたい。
私は彼らの魂を汚したくはない。


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ボーイ・ジョージ 
80年代、ニューロマンティックがブームの頃、
ボーイ・ジョージは誰よりも輝いていた。
デビュー前、ロンドンのクラブに奇抜な格好をして現れては
みずからをアピールした。それらの写真はのちに一冊になった。

彼には、ただのヴィジュアル系じゃない反骨魂があった。
パフォーマーとして、あらゆる偏見に
アートで抵抗していたのだ。

デビュー曲の「君は完璧さ」のPVなど
オスカー・ワイルドの裁判を示唆して、
主張のあるものだった。
ロックの大御所のなかでミック・ジャガーだけが
絶賛していたのを記憶している。

人気絶頂の「カーマ・カメレオン」あたりで
主張が押し付けがましいものになり、
「ミス・ミー・ブラインド」あたりから
映像は、ダサいを通り越して滑稽になった。
漢字や芸者を使う安易さ、田舎くささに目を背けたくなった。
「親日家」が違うだろう。

あげく、「戦争の歌」になると
「センソーハンターイ」とつたない日本語で
「まんま」をやってしまってイタさの極みとなった。

そういえば日本のイザムはボーイ・ジョージにあこがれて
芸能界入りしたという。これもインディーズの頃の
PVはセンスよかったが、今は普通のタレントになってしまった。
なぜみんな、初めだけなんだろう。

ボーイ・ジョージは、可愛らしい外見に似合わぬ
毒舌家で知る人ぞ知る。
たとえばミックの奥さんだったジェリー・ホールを
「金目当ての女」と一言で切り捨てた。

特に同じビジュアル重視の
アーティストにはライバル心を燃やしていたようだ。
毒舌は嫉妬からということがわかる。
マドンナをコテンパンに言えば、
「女にも嫉妬するのか。さすが、自分を男だと思ってないんだな」
とわかり、デッド・オア・アライブを必要以上に何度も批判するのを
見て、「カルチャークラブのほうが格上だと、自分では思ってないん
だな」ということがわかる。
とにかく、わかりやすい人物だった。

だったと過去形にしてはつらい。
一応、新生カルチャークラブとして、最近再出発したらしいから。
とはいえ、サムという別のボーカルを迎えているらしい。
ボーイ・ジョージ、自分はなにをするつもりだったのか。

ミック・ジャガーが誰のレコーディングのバックコーラスに
参加しようと、あの声で彼だとすぐにばれてしまうように、
ボーイ・ジョージはボーイ・ジョージだ。
あの巨体をゆらしてのコーラスもダンスも悪夢だろう。
まあ見てないので何ともいえないが、
今のジョージは、今度はサムをケチョンケチョンにけなしてみたり、
警察を自宅に招いてコカインで逮捕されたりしているようだ。
もうこれではパフォーマーとはいえないだろう。
「僕を忘れないで」という主張しか伝わらない。

あまりにもデリケートすぎるのだ。
ドラマーのジョン・モスへの思いが断ち切れないという
のが、すべての原因のような気もする。
中森明菜のようだ。
マドンナみたいに「愛してるのは今でもショーンだけ」と
公言しないところが、よけいに哀れだ。

彼は労働階級出身で、男ばかり5人か6人兄弟のたしか下から2番目だ。
兄たちの荒っぽい遊びにはとうていなじめず、
一人でお人形を抱いたりしていたという。
普通5人も男の子が周りにいれば、おかしいと思いながらも
ついて行くものだが、意志の強い子供だったのだ。

シュガーボイスにエレガントなしぐさ、
センシブルなハートの個性を、表面にうちだすほどに
アイリッシュらしいゴツイ身体がそれをはばむ。
おまえの原点はここだよと。
そんなアンバランスさが、たまらない魅力だった。






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エリック・クラプトンが来日しているという。
彼の「ワンダフル・トゥナイト」は一度生で聴いてみたいものだ。
オーティス・レディングの「ドッグオブザベイ」を彷彿とさせる、
とてつもないどん底を見た男だけが表現できる寂しい曲だ。

実際彼は言葉にできない悲しみを乗り越えて来たらしい。
不幸な出来事に押しつぶされそうになっても
みずから再生することができたのは、
彼がクリスチャンだったからかもしれない。

聖書や信仰は、自分の足で生き抜く手段として
人生にうまく取り入れたらいいと私は思う。
処世術だといわれることに異論はない。

エリック・クラプトンの功績は、本来黒人の鎮魂歌であったブルースを
白人の感覚で解釈し直したことにあるといわれている。
自分の魂をゆさぶったブルースを伝えたいという志は強固だ。

ブルースを白人に伝えた功労者としては、ローリング・ストーンズ
も同じだが、自らあまり公にアピールしない分、クラプトンが
第一人者として一般には認識されているようだ。

彼はストーンズと違い、何の抵抗もなくイギリス女王即位50年式典に参加したり、
「これが最後のツアーか」という質問についても
「最後最後ってうるさいなあ」と反発せずに、
「最後という言葉を使うと客がたくさん入ると思ったんだよ、ははは」と言える。
彼の提供する音楽と同じ、清濁併せ呑む「大人」の発言だ。
クリスチャンとしても正統派なんだろう。

黒人の解放に実際的に力を尽くしたのは、白人クリスチャンだ。
たとえそれが上から見下げた形の哀れみという動機であったとしても
ごくごくまじめなクリスチャンの従事で助けられた黒人にとって、それは恵みだ。

白人ミュージシャンがブルースを取り入れた動機についても、
金儲けという要素もあったかもしれないが、
それ自体は人間として当然の欲だろう。
同じ意味で差別もあって仕方のないことだ。

許してならないのは、それら自然な動機を、「汚いものにフタ」
のごとく隠して、美しい言葉で人を操ろうとするものの欺瞞性だ。

クリスチャンというお人好しは操られるに一番手が届くところに
無防備でいるから、警戒しなければならないのだ。









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日本人は、基本的に人に弱みを見せられないのだ。
まして本当につらい時ほど、誰にも言えない。

だからといって、こっちがつきっきりで共倒れになる必要はない。
ごく普通に周りの人に気を配っていれば、様子の違うことに
気付くだろう。
相手の領域に、土足で踏みこまない程度に
何か一言声をかけてあげるだけで、「見てるよ」ということは
伝わる。
「大丈夫?」といったちょっとした一言で、はりつめていた心が
ほぐれ、相手が自らの力でそれを、ひとしきりゆるませたら、
どこからか「発奮」がむくむくと芽吹いてくるかもしれない。

幸せと辛さは紙一重だ。
辛いことは幸せになるための、気付きを与えるきっかけと
思えればいいのだけれど。
逆境には強い人が、はたから見て何でもないようなことに
ダメージを受けたりする。
プチうつだ。
鬱の判断の目安は、自己申告しかないから、
もしかして誰にもよくある症状を、うつ病と診断され、
飲まなくていい薬をたくさん処方されることもあるかもしれない。
現代は電磁波で不調になるなど、まだ一般的でない不定愁訴が
あるだろう。
「パニック障害」も恐れや不安からかかる現代病だ。

実際のところは、逆に神経・精神科への偏見などが原因で、
おかしいと気付いても、行けないケースのほうが多い。
「これぐらいのこと」と放っておかず、
とりあえず行ってみて、薬を試してみるだけで
すぐ解決することも多いはずだ。
あなたが何をしても、しなくても、誰も気にしないよ。
怖がらなくても
死ぬときは死ぬんだから。

マユをひそめられそうなこんな言い方が、案外効くこともある。
触らぬ神にたたりなしを決め込まれたり、
うつに「がんばれ」は禁句だからといって
大げさに「がんばらなくていいのよ」と言われるほうが
突き放された気がするかもしれない。
「がんばれ!」と言われたように聞こえるかもしれない。


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派より近所の 
キリスト教の教えには、思えばなじめないところがあった。
たとえば「再臨」という有名な教えがある。
終末の日、突然信者だけが空にビューンとひきあげられるという。
こんなアクロバットを何のツッコミもなく信じてしまうこと自体に
思わず笑ってしまった。
笑い事じゃない。だって地上に残された非信者はみな破滅ということ
だから。

こうも言われた。
「あなたのためにイエス様は十字架にかかってくださった」
有難がらなければいけなかっただろうか・・・

「あなたは偶然生まれたと言われたらどうです、ショックでしょう。
選ばれたと思いたいですよね」
偶然生まれたのかもしれないんだけど・・・・

こんな発言は問題だろうか。
でもそう思ったのだから仕方ない。
本当にピンと来なかったのだから。
まあ黙っていたけど。

牧師が礼拝の最後にする両手を広げたお祈りは、実際
どんなことを言っているのか、説明を受けたことがある。
私が訳すと、こうなってしまう。
「信者たちよごくろーさん。
今週も悪魔のはびこる世の中でよく耐えた。
来週も負けないで耐えてくれ。
神はもうすぐ私たちだけを迎えに来てくれるから。
さあ、散ってゆけ!」
そこには敵対心しか残らないのではないか。

勉強会のようなところに参加していたときは、直接
牧師さんに色んな質問を、これでもかとぶつけていた。
納得できるものもあれば、そうでないものもあった。
そのうち、この勉強会は教会員へのステップだと気付き、
教会員とはどんなものなのか、心の準備もできないまま
だったので、参加するのをやめた。

信者もじっさい色々だ。
「こんなことを疑問に思う」と言えば、
「それを言ってみた?なんて言ったのか聞きたい」
と身を乗り出す人。
「とにかく信じればいいのよ。理屈から入るのはダメ」と言う人。

聖書については、逆に理屈抜きで、
「こういうことだろう」と、ぐんぐん入ってきた。

自分なりの解釈じゃまずいのだろうか。
たとえば天国という概念は、自分の心が喜んでいれば
いつでもそこが天国だということじゃ、いけないのか。
これじゃリベラル派になってしまうか。
派閥など、神の前にはないと思うんだけど。

今、私は礼拝だけに通っている。
献金をする前の決まり文句に「献金は強制ではありません」という
のがある。
礼拝や献金をする資格は、神の前に平等だということだ。
しかしこれらが強制されてするものじゃなく、自主的にするものなら
私はどこの教会へ行って礼拝してもいいということになる。
カトリックでもいいのか?
それはだめだという暗黙の了解がある。

自分中心になりがちの世界から、神中心の世界へ
週に一度意識を切り替えるために出席しているのだ。
派閥より、近所であるかどうかのほうが、重要だ。

私のような教会になじめぬ者は、無教会派をすればいいのか
というとそうではない。
「私たち、無教会ですね」と、手を取り合った時点でどこでも
同じじゃないか。
人はどうしても自分の意見に賛同してくれる仲間を求める。
でも、そこで失われがちな独自性なり客観性を追求していくという
一匹狼の存在価値も失われる。
なあんて、なんかすごくかっこいいことを言い出しているので
もうやめよう。
ただ、だから近所の教会でいいと言いたかっただけだ。
基本的に、どこでも誰とでも話は通じるのだから。


















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「ウィキぺディア」によると、「公」という漢字の成り立ちは、
ものごとを個別に細かく分け、回りから見えなくした様をあらわす
「私」の、かたわらの部分「ム」に、入り口をあけて包み隠さず
明らかにすることをあらわす「八」を組み合わせたものだという。
「私」を包括した全体も意味する。

日本では、「公」はのちに転じて国家を指すようになり、
さらに封建制のもとでは、君主が公となる。天皇を公家といったのも
そうだ。

三島由紀夫は公を天皇、私をそれに仕えるものと位置づけた。
それが男らしい生き方だというのだ。
たしかに男を指す「僕」は「しもべ」とも読む。
しかし誰に仕えるかが肝心だ。

三島の最後は「天皇陛下万歳!」と叫んでの自殺だった。
彼が結局選んだのは、「破滅」であったといえる。
「私」は、「公」にとりこまれるものであってはならない
ことを彼は身をもって証明している。

ミック・ジャガーは、日本の私たちのように
根本には三島由紀夫的感性を持った人だと私はみた。
その彼が、長い模索のすえ選んだ道は、
「貴族」としての生き方だった。
それは三島的思想を超えたところに位置する。

つまり「公」を神、「私」をそれに仕えるもの、との位置づけだ。
「民族」とは、神に従う者としての人間を指す。
と、ちょうどキリスト教では定義されている。
私もアーメンといいたい。
少なくとも日本においては、国民から「公」つまり「国」を
はずしたものであるべきということだ。

本当の貴族とは、民にあらねばならない。
一人ひとりが貴族として、それをつくらねばならない。


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それは彼が歩く「イギリスの誇り」だからだ。
また昨今怪しまれているばくぜんとしたフレーズだ。
誇りって何?
言ってる私も実はよくわからない。
でも確信に満ちた直感を言って、うやむやにしてしまえば
恐山のイタコと同じだ。
私は特にイタコを志すものではないので、
とりあえず辞書をひいてみよう。

「名誉」という言葉がある。
イギリスの名を汚すなということか。

今のイギリスは、アメリカの従属国という立場が
日本と共通している。
でもイギリスは、たとえば「アメリカが勝手に核を使ったら
米軍基地攻撃も辞さない」とほのめかしたりして
たまに、「ふん!」と背を向けてみせる。
相手に安心感を与えない。
日本にそれはできないだろう。
闇雲に逆らうのがいいわけじゃないが
もみ手をしているイメージしか浮かんでこない。

卑屈な笑顔でもみもみ、もみもみ、
うんちくを語るおやじの店の、客たちのようだ。

安心感を与えてくれてありがとうなんて感謝はされない。
こっちが安全第一な分だけ、周りからはなめられるのみ。

でもイギリス人と日本人は、人に対する真摯な態度がある。
よくいるアメリカ人のような、人を見下した態度はとらない。
いつまでガムを口に入れてるの、捨てなさい!と言いたくなる。
これじゃ子供への叱責だ。
私はあんなのはキライだ。
好き嫌いでものをいうものではないが
実際日本人にはなじまないだろう。

これからの日本を憂えて、アメリカの戦略といわれるものを
調べてみても、どれももっともらしい。
たとえば今後のアジアの団結も、しくまれたものであるとか
アジア支配も見せ掛けだとか、あるいは欲得のために
欧米中心主義を破壊しようとしているとか。
もうたくさんだ。
ずるい人のことはやっぱり理解できない。

理解できるのは、これに右往左往する者はみっともないということ。
その態度は「誇り」と対極にあるものだということ。

不透明さの中で変わらぬたしかなもの、それは透明さだ。
こちらは動じずに、具体的なものを携えていこう。
そこに一貫性を見いだそう。

見えないけれどたしかに存在する、「うすぎたなさ」に抵抗し
見えないけれどたしかに存在する、「誇り」を手に入れる。
貶められないように。

アメリカのことを悪くいうのはもうやめよう。
悪口は楽しいが節度も大切だ。
受けた恩恵だってあるだろう。

たとえばミックは、アメリカの独立精神を称えている。
彼は先日なくなった父からほめられたくて生きてきたのだろう。
虚栄心の強さもそのせいで、それを一番嫌っているのもそのせいだ。
自分のできなかった独立を、イギリスからやってのけたアメリカの
精神は、彼にとって水戸黄門の印籠に等しい。
では日本の印籠とは何か。

印籠にはみな、誰に強制されることもなく、
みずから地面にひれ伏すのだ。
偉大さのエッセンスは、神のみ業のようなもの。
悪くばかり言っていると、不透明になってくるから
それがわからない。
最初から透明だと、これまたにごってきそうだけど。













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藤原紀香 
藤原紀香、結婚するらしい。
どうして私ががっかりするんだろう。
この「がっかり」は、木村拓哉が結婚したときと同じだ。
彼らのファンでもなんでもないのに。
木村拓哉など、女の子みたいじゃないか。
ファンになりようがない。

それがどうして「何だ相手は工藤静香か」となるんだ。
彼女にうらみはない。
どうして「何だお笑い芸人か」となるんだ。
差別発言じゃないか。

紀香も拓哉も、自分にない面白みを相手に求めたとしか
考えられない。
紀香、目を覚ませといったところで遅い。
いや田中美佐子の例もあるし、しっくりいくかも知れない。

思うのは、芸能人、みんなよく安易に結婚して別れるよなー
ということだ。
結婚をなんだと思ってるんだろう。

もちろん安易だからこそ結婚できるという真実もある。
「本音だけ」で語れば、子供さえ生まれたら、
旦那は「元気で留守がいい」、お金のある人なら「いらない」。
だけど、そこに意味を持たせるのが人間だろう。

だからといって形どおりの夫唱婦随をすればいいのではない。
離婚がいけないとも思えない。
どうせなら早いほうがいい、というのもわかる。
やってみなければわからないこともあるのだから。

ただ、たとえばハリウッド・セレブの真似のような
ファッションで結婚を捉えるあり方はおかしい。

ハリウッドは狂騒の世界だ。
パリス・ヒルトンのいつも退屈そうな顔は、
失礼だとしかいえないだろう。

一般アメリカ人でさえ50パーセントの離婚率だから
ハリウッドでは3年持てば長いほうかもしれない。
ラスベガスでは酔った勢いで結婚するのがトレンディ。
自分たちがいいなら別にいいでしょ?
ごもっとも。
ただ失礼だというだけだ。
披露宴をしなくても、結婚したということは公にかかわる。
公私の別がわからない人は、いや、わかろうともしない人は、
子供を生まないほうがいいのではないか。
子供はファッションじゃないから。




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侵されざるもの 
今更ながらの話だが、このFC2ブックマークというのは
ある日突然ことわりもなく設置されていたものである。
そのことについて多少の不快感を覚えながらも、
それを行動に変えることもせずにいた責任は私にもある。
大騒ぎして消すほどのことでもないと放置していた。
でもちゃんと意識した以上、やはり消すことにする。

それと少し関連するが、この前の日曜日、礼拝に出かける前に
教会から電話があり、「今日、献金の当番になっていますが
大丈夫ですか」という。
「は? 私は教会員ではありませんが」
「教会員じゃなくてもそれくらいできるだろうと思いまして」
「でも献金係りについては、教会員の仕事と書いてあったので
お断りします」
「わかりました」
「またお話お聞きします」と言って切ったが、後味悪かった。
献金袋を配るくらいのこと、別にいやなわけじゃない。
勝手に当番にされていたことが、いやだったのだ。

私のあずかり知らぬところで、いつの間にか教会員にされている
なんてことも困るので、小さいことが肝心だ。

相手の声の調子は笑顔のそれだったが、こうして改めて書いてみると
ずいぶん詰問調だ。
それこそ、鈍感でいいとこどりの、私という甘ちゃんに対する
責めを、小さいところから始めているのかもしれない。
もう礼拝にも出ないほうがいいのだろうか。

私は、教会員になることについても洗礼と同じように
矢も盾もたまらない形の「行動」によって、なりたかった。
まだその時期ではないので、ならないというまでだ。
しかしその時期は来ないと、どこかで判断しているのに、
通い続けている私が間違っているのか。
いや誰も間違ってるなんて言ってないのはわかってる。

ただ、自分を正当化してあげなければ他の誰が自分を守って
くれるんだ。

洗礼や教会員になることを強制する教会が多いが
うちはそれはしませんと聞いていた。
そんな自由さは、自分の考えにあうだろうと短絡的に
決めてしまっていた。
自由さは、あわないのかもしれないのに。

日本人なら、「もういい加減わかれよ。それだけ居座ったら
教会員ってことになるだろ」ということになるのかもしれない。
「ただほど高いものはない」ともいう。

いい大人なんだから判断つくだろ。
でも私はいい大人じゃない。
いい大人になりたくないから、あえて気付きつつ通っていた。

向こうの「なあなあ」の姿勢に応じて、私も気が向いたときに
手伝いをしたこともあったし、初めのころにはイベントにも
出席していた。子供と私の献金分払っていれば
礼拝には堂々と参加できるだろうと判断した。

でも無意識の強制があるなら、初めから強制してくれ、とも思う。
常識知らずは、縛られないと判らないし、逆にそこで初めて
どうしても譲れない自分、というものが強固にわかる。

染まりやすい自分の、それでも何者にも何色にも染められない
部分と言ってもいい。

時にはこれってなんだろう、とあとから理由付けを迫られる
私というのもある。
たとえば、家に帰ると息子の友達がのんきな顔で出迎えてくれる。
思わず「不法侵入だ!」と叫びたくなる自分は何だろう。

相手はクレヨンしんちゃんと同じくらいの子供だ。
なにをそんなに目くじら立てることがあろう。
「お母さんに言ったの? なんて言ってた?」と
それこそ詰問している。

生理前でどうかしちゃってるのか。
それとも後で考えれば、ちゃんとした思想になるのか。

侵されない自分を知っていく過程は、
部屋のかたづけにも似ている。
もはや情だけになって怨念のこもっていそうな、
だから余計捨てられなかった「いやげ物」などを
少しずつでも思い切って処分して、
最低限の物に囲まれた、好みの空間をつくっていく過程に。

いっそのこと教会をやめたくなったが、
「これを言われたから行かない」わけではないので
もう少し通ってみることにする。




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ビートたけし 
若い頃この人のエッセイが好きでよく読んだ。
よく読んで初めて、この人は強烈なコンプレックスに
つき動かされているのかもしれない、実態見たり!と
わかったようなことを結論した記憶がある。

だから惹かれていたところはたくさんあったはずだが
今の時点で取り出して見せることはせず
印象的なコンプレックスについてのみ語ろうとするが、

昨日も伝えた彼の教育についてのバラエティ番組で
イギリスのパブリックスクールを紹介していた。

この人はいわゆるお坊ちゃんという人種が嫌いだろうな
なんか言いそうだなとの予想通り、いや予想以上に
ビートたけしは、口をきわめてののしり始めた。
生徒に?学校に?そういう具体性がないところが
逆にわかりやすいコンプレックスだ。
こういう世界自体に理屈を超えた嫌悪感があるとしかいえない。
そんなことどうでもいいじゃんという小さいことから、
諸悪の根源はこいつらだぐらいの大きいことまで。

歴史まで振り返ってみれば、それは色々あるかもしれないけど
これはこれで「へー」って楽しめばいいじゃん。
という話も通用しなさそうな勢いだ。

ここで初めて、主役でありながら精彩を欠いた風情の彼が
生き生きとしだした。
昔の「バカヤロー」という反抗心が蘇ったようだった。
これでなくっちゃと納得させる、彼の原点があった。
彼の国際評価の高い映画の数々も、幻だったのかもしれない。

いや、たけしは典型例というだけで、スターという人には、
もちろん運や才能ということのほかに
人一倍のコンプレックスか、あるいはそれに代わる憎しみ、
いずれにせよ何か、強烈なものが潜んでいそうだ。

それが持続力や、説得力や、反抗心、それだけではない、
自制心やモラルさえ生んでしまうのだ。

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久米宏 
一昨日、ビートたけしの教育の番組で、久米宏が
討論に参加しているのを見た。

ややあって石原慎太郎が、別格扱いなのか玉姫殿のゴンドラ
のような仰々しい仕方で登場し、席に着いた。

久米はしきりと「僕このヒト苦手なんです」をくりかえし
面と向かっての対決姿勢を取ろうとしているかのようだったので
喧嘩でも見せてくれるのかなと、ちょっぴりの緊張と期待を
持ったのだが、たいしたことはなかった。

「あなたの言うことは時代錯誤なところがある」くらいで
あとは、石原の険しい顔に大人しくなった。
期待させといて何だ、とは思ったが
反抗すればいいってものでもないだろう。

それはいいのだが、久米は最後に、
息子ふたりを背後に従えてニヤニヤと石原家の教育について語る
石原について、
「今聞いていて思ったんですけどね」と
「父権の復活の大切さ」みたいなことを
しみじみと語り始め、石原に花を持たせて終わる格好となった。

これが久米のもしかしてシナリオだったのかと思うと
不潔を感じた。

アシスタントの女性アナたちが「見ごたえありましたねー
もっと聞いていたかったですねー」とはしゃぐ。
これが? つまんない討論だったけどな。
これも「お約束」だとすれば、東大を出たという
佐々木アナもこんなことを言わされて気の毒なことだ。

共演している爆笑問題しかり、ビートたけししかり
お笑いという路線を越えて、芸の幅を広げていかなくては
ならない世界なのかもしれないが、久米に関して言えば
ニュース番組などを担当して苦みばしってしまった彼よりも、
「ザ・ベストテン!」とはじけていた彼のほうが良かった。

人間あまり本道からは外れないほうがいいのかもしれない
と思った。


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常識のない人? 
あ、それは私だ。
えっ嘘、世の中これが普通だったのかということが
あまりにも多かった。

恥ずかしい。身が縮む。
自分のおめでたさが情けない。
入る穴を探しに、永遠に旅立ってしまいたくなる。

だから同時に、そのことで鬼の首をとったかのような
相手の勝ち誇った顔に敏感になる。

その時私は、とつぜん息を吹き返す。
凍りついた身体に血が通い、
呼吸法を習ったわけでもないのに
それは浅いものから、深いものへと変化する。
なるほどこれが腹式呼吸か。

「あなたに言われる筋合いはない。
常識人が、そんなに偉いのか。
常識なんて誰が決めたんだ!」

おかげで世の中なにが正しいかわからないと思えるようになった。
常識のなさだって、実は人それぞれにあるんじゃないか。
あの人はここの部分は一般的だけど
ここの部分は思いもよらないことをする、
そんなもんじゃないだろうか。

隠しているんだきっと。
死ぬようなことじゃないのに大騒ぎされるから。
こてんぱんにやっつけられて
完全に開き直って
反省さえしなくなった人も多いだろう。







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藤原正彦 
昨日のテレビでこの人のインタビューを見て
『国家の品格』を読んだときには気づかなかった
疑問が出てきた。
以下、いちいち突っ込みを入れてみたい。

日本は異常な国柄で栄えてきたのだという。
今の「最低」の子供たちは、はりたおして教えなければならない。
どんな理由があろうとだって。
戸塚ヨットスクールみたいな人だ・・・

いじめについては、具体策はむずかしいとしながらも、
「傍観者がいじめをつくる」という。
傍観者よりも、面白がっていじめに加担しようとする子の方が
悪いと思うが・・・

「かばう者がいないのはおかしい」
自分もやられたくないからじゃないのか。

「問答無用で助けなければならない」
それでは一種類の反応しか許されないことになる。
傍観者は、事のいきさつを反芻しながら、自分の身の施し方を
熟慮しているのかもしれない。

「ちょっとしたことでカッと来て、暴力のないように
子供をしつけろ」
これは大切かもしれない。原則はしつこいほど教えるべきと思う。

「子供中心に過ぎるのだ。子供におもねるのはやめて
大人中心主義にしなくてはならない」
たしかに大人が子供の顔色を見すぎるために、子供がわがままに
なっていると思われるケースは多い。
相手は基礎の身についていない子供なのに、大人と同等に
扱っているかのようだ。
かといって極端から極端へ移行するのはどうだろう。

もし藤原先生が子供たちに数学を教えるとしたら?との問いに
「数学の美しさを、みんなで感激するような授業をします」という。
斉藤孝も同じことを書いていたなあ。
いいことだとは思うけど、「美しいと思うだろ?」と言われて
いっせいに肯定しなければならない雰囲気はいやだ。
もしさめた子がいて「先生だけ感動してるんじゃないの」
なんて言ったらどうなるのだろう。
「いい子」には伝わるはずだという押し付けになるのではないか。
そしてこんな疑問を言う親は
「はー」と首を嘆かわしそうに振りながら
「あなたには何をいってもわかりませんね」
とさげすまれそうだ。

そして彼の発言はどんどん過激になってくる。
「命の大切さなんてきれいごとですよ。
昔は特攻隊には行ったが、自殺はしなかったでしょう」

おいおい、命は何より大切だし、
特攻隊にとられるのは自殺より悪いだろう。
ここで、この人は怖いと思った。

世の中は、頭のさえた者勝ちだ。
過激な発言は眠った身体をピリッとさせてくれるし、
そんな人にてきぱきと支持されると
集団催眠術にかかったようにふらふらとついていってしまう。
教育教育と今さわがれているのも
人々が自分たちで考える材料を探すためではなく
強い指針を求めているだけなのかもしれない。
でも自分が弱ったときには、こんな意見はこわいと
感覚が教えてくれるはずだ。

言うことを聞かない子供たちも、単にわがままが過ぎている
のみならず、大人のうそ臭さを見抜いて
見えないものに必死で抵抗しているということもある。
そんな可能性さえ、力で抑え込むのか。

この人がどれほど自分で手をかけて子供を育ててきたかは
わからないが、子育ては実際難しい。
時には全体を俯瞰することも必要だが
色んなケースを、一言で切り捨ててしまう言い方はどうかと思う。
少なくとも同じ目線で話を聞くことは必要なのではないか。






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イメージで話をするが、私にとって両親は戦中派、上司はそれより「話せる」団塊、そして先輩といえば、クロワッサン症候群の女たちだ。

彼女たちの特徴として、結婚していない、もしくは結婚していても
子供がいない、といったことがいえる。

団塊の上司たちより、さらに話せる(何でもありの)
彼女たちの若い頃、雑誌『クロワッサン』は創刊された。
そこに登場する、桐島洋子や向田邦子といった、
先取の感覚に優れた女性に憧れ、
またアメリカから伝わった「飛んでる女」に影響を受け
実際は飛べないのに、飛んだような錯覚をしてしまった女たちを
「クロワッサン症候群」という。

ひところ話題となった「負け犬」女性のはしりとして
簡単にくくられることもあるが、実態はそうではない。
「負け犬」というのは、「私たちは負け犬よ」と
自称できるほどの「何か」をすでに手に入れた、
いわゆる勝ち組という嫌味な存在なのだ。

「クロワッサン症候群」のほうは、もっと哀愁をおびている。
「私たちはメディアに踊らされた」という被害者意識が特徴だ。

典型がこの本の著者で、自分の選んだはずの人生にぐずぐずと
泣き言がとまらない。本当の幸せはほら、そこにあるよと、
メーテル・リンクの童話をそっと差し出したくなるほどだ。

「クロワッサン」で自由な女を提案し、あなたたちにもできるはず
ここまでおいでと梯子をかけておきながら、それをはずしたとされる
桐島洋子らの「裏切り」を受けながらも、なお一人で生きてきた
彼女は、こうした泣き言を作風のベースに、その後趣向を変えた、
それでも生きていく女の知恵、みたいなもので多数の共感を得ている。
「優しい私たちの味方だ」と。

でも本当は一人が苦手な人が、一人は楽しいなんて
思うことを努力するのは、無理があるんじゃないか。
彼女たちの、今度は無理に楽しさを装おうとする仮面の裏の、
どうにもならない現実への慟哭を見てとった者は、
必死で彼女たちの立場に立って、アドバイスしたくなる。

思いっきりべたべたしたっていいじゃないか。
嫌がられたら、やめたらいい。
相手も「今はちょっと迷惑だ」と言ってあげればいい。
傷つけない言い方で。

仕事を頑張るしかない、そんな女性に限って
いかにも家庭的なパーソナリティーだったりすると、
恨み言や嫉妬心にさえ同情してしまう。
単に仕事に飽きただけの彼女たちに
こっちのほうが上手く乗せられているだけかもしれないのに。

私たち下の世代は、彼女たちの恨み言を聞いて、あるいは無理を
察して、何事もファッションに踊らされるのは考えものだという
教訓を得る。そして自分は仕事も家庭も、と頑張って、
今度はその姿を下の世代に哀れみの目で見られ、
専業主婦が楽でいいと、夢のない結論を出されてしまう。
哀れみの連鎖だ。

結局どんな立場であれブルースは存在する、
この事実を私たち自身が覚えよう。
青い鳥などどこにもいなかったのだ。





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マーティン・スコセッシ監督のアメリカ映画。
ここでのキリストは、まったくの人間として描かれている。
まず、なんといっても愚痴っぽい。

「私の仕事は神に仕えることだけだ。でも、神の御心は
私を突き落とすことなんだよ」
「正しいことをするのは本心からじゃないんだ、
こわいからだよ。あらゆることに逆らいたいのもこわいからだ」
あげくに「私の神は恐怖だ」とさえ言う。

この不満に耐えている姿、そして何かというとムチでうたれたり、
女にののしられてみたり、散々な目にあおうとするのを見ると、
キリストは単なるマゾヒストかと思えてくる。

それにしてもマゾという人々は、身体に制裁を加えられて
本当に嬉しいのだろうか。
そんなはずはない。やはり痛いものは痛いだろう。

もしかして、自分の痛みというリアルに変換しないと
人の痛みがわかりにくい人種なのだろうか。
そんな彼らを仮に男と名づければ、
実はあなたにも私にも、男は存在するのだろう。

腰に鋲のベルトを巻かれ、頭にいばらの冠をかぶせられ、
手足に釘を打たれ、血を流しながら
真っ裸のあられもない姿で、みんなの前にさらされる。
そんな辱めを受けて初めて「神よ彼らをお許しください」と、
愛の言葉が口をつく。

冒頭の愚痴ばかりの自分中心の世界から初めて脱却できて、
祝福するべきなのかもしれない。

しかし、この期に及んでも
「神よどうしてあなたは私を十字架につけた?」と嘆き、
おまえは神だなんて、こっちは迷惑してるんだといわんばかりの
迷えるキリストを、天使が誘惑する。
(この映画では、彼女は実は悪魔だと後で判明する)

「あなたはいけにえでも救世主でもないのよ。夢だったの。
あなたが変われば本当の美が見えるのよ」

キリストはマグダラのマリアと結婚し、子をもうけ、
そして開き直る。
「私はマリアとヨセフの子で、神を説いた平凡な男だ。
家族を持って初めて、人生を楽しんでいる」。

かつては革命を説いて回っていた彼の「堕落」を
弟子たちは裏切りとみなす。

パウロは言う。
「ただの人間になったあんたのためになんか、誰も死なないよ。
それじゃ不幸な人は救えない。
人々は神を欲している。
キリストのため、死ぬことさえ幸せだと思わせるんだ。
人々の信仰から、真実をつくるんだよ」

信仰の必要性に気づいた、抜け目のないパウロのでっちあげで、
「キリスト教」は生まれたということもできる。

次に目が覚めたとき、キリストはまだ十字架にかかっていた。
こっちが夢だったのか?
彼は叫ぶ、
「神よ、あなたの息子になることを拒否してごめんなさい。
人々を救いたいので、よみがえります!」

死刑判決を受けたフセインは「アラーの神は偉大なり!」と
叫んだ。
男は、マンは、人間は、何か崇高なもののために死にたいのだ。
日本のヤクザ映画を例にとろう。
兄貴!と叫ぶその目に一点の曇りもない。
彼らは誰かに惚れ込むと、もう耳を貸さない。
女は冷めたことばっかり言ってしらけるんだよな。
もうちょっと黙っててくれよ。
俺は兄貴を支持してどこまでもついていくんだ。

兄貴がずるい人だったらどうするんだ。
「神が裁く」といいながら、自分たちの権力や勲章のために
都合よく戦わされたらどうするんだ。
それこそ犠牲者じゃないか。

だからといってキリストをまったくの人間にしてしまって
いいのだろうか。
いいはずがない。
それは人間の思い上がりだ。
絶対的なものに対して恐れおののく心をなくしたら、
何でもありになってしまう。
本当の神の否定もまた、悪魔に誘惑されてしまうのだ。

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キース・ムーン 
ミック・ジャガー以外に好きな伝説のロッカーはフーのキース・ムーン
だというと、「ああ、そういう路線ね」と軽く返される。
「気違いじみているということ?」と、放送禁止用語で先制すると
「そこまで言ってないよ」と笑われた。

死に物狂いのステージパフォーマンスと、それにともなった泣きそうな顔が一見すると共通点だが、でも、静かな顔で誰よりも燃えている人だっているはずだし、どうということは言えない。

しかし静かな顔で迫力を出そうとすると、ただでさえ激しいアクションをクールダウンしようとする顔の分を、たとえばジャンプの高さでカバーしないといけないのかも知れず、そう思うとポーカーフェイスのピート・タウンゼントが大変そうに見えてくる。

ピートは私と同じく、この二人のファンみたいだ。
静かな顔に似合わず、思いを抑制して秘めておくことができず、
ミックにも、キースムーンにも抱きついてキスをしてしまった。

そこまで惚れ込んでいるのは同じでも、彼はミックについて語るときは
少し冷めた感じになる。たとえば「ミックは有名人と仲がいいということを言いたがるミーハーなんだよ。それはわかってる」という言い方だ。
比べてキースムーンについては、同じグループだったにもかかわらず、
いまだにその名前を口にするだけで涙がこみあげてくるのだといった
センチメンタリズム、もっと言えば神格化さえみられる。

この反応は、彼らの生き方の違いに反映されているだろう。
ロックな生き方という言い方が許されるなら、そう一言で言い切ること
のできる二人だが、内実は正反対で、キースムーンは破滅型、ミックは
そうではない。

キースムーンは天才的ドラマーでありながら、数々の奇行とドラッグの
エピソードにことかかない。自分の身体と全人生をかけてみんなにサービスしているともいえる。性格も人懐っこく、チャーミングだったという。

一方ミックは、本当はクラシックが好きなのに、ロックという仕事をしていますといった、水臭さがある。
できる男だもん、しょうがないよね・・・・
その点キースムーンは裏切りがない。
僕たちを寂しくさせない。
一生を犠牲にして、ロックの破壊と青春を体現してくれる。

まるで男たちの作る歌詞のようだ。
おかあさん、あなたはすべてを犠牲にして僕のために生きてくれたね。

二人のロックは、そのクオリティーにおいて同等だ。
ステージでも本当にあとさき考えてない。
それは本当だが、実際ミックはペース配分を考えている、それもまた
本当だ。だからキースムーンのように途中で倒れたりはしないのだ。
人の過剰な思い入れも受け付けないし、
人に迷惑をかけることもしない。



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腎移植事件について 
愛媛県の病院で、病気のために摘出した腎臓を別の腎臓病患者に
移植する手術が行われた件が問題になっている。
けさのニュース番組でもとりあげられ、必要以上に医師だけをやり玉に
あげていた。いわく、腎不全患者のためだけでなく、彼は移植という
ことがしたかったんじゃないか。その達成感が得たいために、
がん患者などから腎臓を奪い取ったと。

でも患者の同意をとったというんだから、彼ばかりが責められる
ことじゃないだろう。同意の求め方に問題があったのかも知れないが、患者のほうにもそんな誘導には乗らない意志が求められるんじゃないだろうか。同意したら最後、あとで何が起ころうと取り返しがつかない。自分の身体なのだからもっと切迫感を持って認識するべきだろう。

医者は万能ではなく、技術者だ。
だから手術に達成感を覚えて当然だろう。
本分を伸ばしていく点について責められる道理はない。
客観的に取り締まる機関なりが必要だったというだけだ。

問題の医師は、間近で腎不全患者の痛ましい実態を見てきて、
なんとしても彼らを救いたいという志を持ったのだろう。
それがいい事であれ悪い事であれ、志を持つことの立派さは
顧みられていいはずだ。

生体腎にしか頼れないという日本の状況にこそ問題があるんじゃないか。日頃から「いざという時はドナーになりますから」などと
したためておく奇特な人などそうは見つからないだろう。
だから捨てられてしまう臓器があれば、喜んで使う。
どこが悪いんだ?

モラルばかりにこだわって個人をやり玉にあげることで
よけいに身動きが取れなくなってしまう。
誰も行動しようとはしなくなってしまうのだ。
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声高なものには警戒を 
私の行っている教会は、プロテスタントだ。
みんな、そこまでしか知ろうとしない。
え、その先があるの? 知ってどうするの、別に知りたくもない。

無理もないことだ。
私も最初は、子供の遊び場を求めて足を踏み入れたんだもの。
時には子供をスタッフが見てくれ、いいお話が聞ける。
食事も供され、ズボラ母には持って来いの場所だった。

私の場合は、その先があった。
キリストに惹かれて、また教会員の考え方のようなものに
疑問を持つところがあって、色々リサーチし始めたのだ。
そして教会がアメリカから伝わった福音派であること、
原理主義も包括していることを知った。

本当はそうしたことを、洗礼まで考えている相手には
言うべきだろう。
なめられているんじゃないか。

福音派といえば、ブッシュ大統領がその「純粋な」使命感を
あおって選挙票にとりこみ、イラク戦争の正当性に使われた
派だということを踏まえよう。これ、現実だ。

目的もスタンスも見失った状態で、
教会の細胞集会などに誘われるまま参加すれば、
どうしても声の大きい人の意見に引きずられる。
母親ロボットなどをして、意識の眠っている時期は
なおさらそうだろう。

書物などでも、日頃使わないような難しい言葉で書かれているものに
無条件の絶対性をみることはないだろうか。

同じように、組織の長の説得力ある発言には無条件に同調し
あたかもそれが自分の意見であるかのように取り込んでしまう
ことはある。

いや案外、本当の長の言うことには普遍性があるものだ。
むしろ自分が組織に長く属し、長のような気分になっている時
に何を言い出すかわかったもんじゃない。

婦人会など、お茶飲み会の目的も兼ねた癒しの場で
想像以上に危険なサブリミナルが行われているかもしれないのだ。

結局頼れるものは自分の感覚しかない。
なにか不快を感じたら、そこを入り口に元をたぐってみる。
自省心、ユーモアといったバランス感覚が何より大切だ。
日本人のファジー感は捨てたもんじゃない。
大いに評価されるべき、と思う。

もっともバランスといっても、振幅の大小はある。
振り子が振り切れるほど、その場に浸ってみなければ
わからないこともあるのだが。

まずは自分は何派に属するのか調べてみてはどうだろう。
そうした姿勢を持って疑問を呈するのに、
何のやましいことがあろうか。
同じグループだからといって口をつぐんでしまうのが
忠誠だろうか。





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小学校のころ、漫画『ベルサイユのばら』を女子はこぞって読んだ。
だから私たちの年代では、マリー・アントワネットといえば
池田理代子だろう。
宝塚などでも上演され、「オスカルさま」「アンドレさま」と
黄色い声援が飛び交うことになる。

マリー・アントワネットはどこに行ったのだ。
今日はこの人について語りたいんじゃないか。

彼女は浪費家で知られている。
自分は贅沢三昧をしながらも、市民には「パンがないならお菓子を
食べろ」と言ったとか言わないとか。
それが本当でも、きっと市民のいうような悪気があってのことじゃない
と思うのだ。
マジで「ブリオッシュを食べたら、おなかも満たせるわね」と
心配しているのだ。「私ならそうするのに」と本気で一瞬でも
市民の身になっているはずだ。
いい人じゃないか。
みんなの言う「いい人」とはこれまた全然ちがう意味だが。

そう思うのは、彼女の「最期の言葉」を知ったからだ。
死刑になる直前に兵士の足を踏んで、
「ごめんなさい。わざとじゃありませんのよ」と
言ったというのだ。
死刑囚の最後の言葉を集めた本もあるけれど、死と隣り合わせ
だからこそ、その人の尊厳が現れることがある。
ちなみにあの宅間守は、妻に「ありがとうと伝えて」と
言ったそうだ。

責められるべきは、その尊厳をなぜ死刑の直前まで大事に隠し持って
おくのかということだ。

マリーは享楽的な性格で、読書も嫌いだったと伝えられている。
ダイアナ妃にちょっと似ている。
自由奔放で享楽的な性格自体は、いいも悪いもない。
ただそれをよい方向に生かせないのは、無知のせいだろう。
書物を読まないことで、王妃という立場の人間が養うべきバランス
感覚を見失ってしまう損はあるだろう。

そのせいか彼女は母のマリア・テレジアの男っぽさとは
正反対に、ただひたすら女として生きようとした。
そんな彼女にとっての最大の悲劇は、
ルイ16世の性的不能だったろう。
浪費癖の原因は、そこにある。
やはり女性にとって、振り向いて欲しい人はただ一人なのだ。
この点もダイアナ妃とだぶってくる。

しかし彼女にまつわる悪評のほとんどは、嫉妬からきたものであった。
囚われの身となって、窮地に追い込まれるほどに、
彼女は毅然としていったという。

「不幸にあって、自分が何者かを知る」という悟りも
その頃に得たものだろう。
やはり、人から何といわれようと、
「こうとしか生きようのない人生」はあるのだ。
彼女はよくもわるくも貴族だった。

死ぬ間際に「王妃として死にたい」と誇りを見せ、民衆に一礼をしたところで時遅く、断頭台の露と消えた彼女の、活かせなかった貴族の尊厳は今こそ見直されていい。
悪しきモラリズムの横行する、日本ムラの淀みに活を入れるためにも。






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