サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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博多の喫茶店の窓から、この人を見かけたことがある。
イベントに出演中のようだったが、彼一人別世界にいた。
ためしに手を振ってみると、不器用に振り返してくれた。

あれから見なくなったと思っていたが、先日テレビに出ていた。
何を言っているのかよくわからない口ぶりは健在だ。
どうして絵を描き始めたんですかという質問に対して

「や、やってるやってるーゆうてもね、もう当たり前で受けないしね、
もうやめようかなと一瞬おもたんですよ」。

これだけのことを言うのにしぼり出すように、どもりながら
語っていた。

絵描きさんに、こういう語り口を見ることがある。
言葉という記号に置き換える前に、イメージがいっきに
あふれてきて、順番がつけられなくなるのではないだろうか。

昔好きだった憂歌団の、木村さんもそうだった。
通天閣のビリケンのような、お守り系キャラクターのあの人。
彼も高校のときに、絵を描いていたのだという。
何を血迷ったのか一度「笑っていいとも」の「テレホンショッキング」
に出て、それを見た知人に、「見たよ、木村さん
あの人、バカじゃない」と言われた。

何か大切なものを、切って捨てられた気がした。
たとえば書物を足で踏まれたような。
私は踏み絵ならぬ踏み本でつかまるクチだ。。。。

ジミー大西は、岡本太郎から「キャンバスからはみ出せ」と
言われたそうだ。
その意味が知りたくて自宅を訪ねたが、岡本太郎はもう死んで
いなかったと。ここ笑うところじゃないが、大ボケだ。
「知りたかったですね」って、自分、もうはみ出してるじゃないか。
お笑いが絵描きになってなにが悪いって。

ものごとには原則があってしかるべきだが、
キャンバスからはみだすために、
踏み絵だって踏まなきゃならない時もある。
イエス様も笑って許してくれるだろう。
「そう来たか。こりゃ一本とられたな」と。

今回、タンカー船に壮大な絵を描いたそうだ。
「動くものは、いいですね」。

「今度は飛行機なんかもいいですねー」とあおる司会者を
さえぎるように、自分に言い聞かせるように、
「でも自然には勝てませんね」とつぶやいていた。












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子供がおなかに居たとき超音波検査が楽しみだった。
色んな愛しい生物たちと「ご対面」できるからだ。
「あっエラが生えてきた」「手が生えておたまじゃくしみたい」
「この顔はウーパールーパーだな」

胎児の10ヶ月は、35億年という生命の進化の
追体験だ。
原始の生命体から、魚の時代、両生類の時代、爬虫類の時代、
哺乳類の時代を経て、ヒトとして生まれてくる。
たしかに、「カエルだ」「クジラだ」という順番だったことを
覚えている。
やっとヒトの形になったとき、その頭のでかさに驚いた。

生まれてしばらく彼らはその頭をもてあます。
頭が重いためにしばらくは寝たきりだ。
やっと立てても、頭からひっくり返る。
何度も何度も恐ろしい根性でチャレンジし、
そして歩き出すのだ。

自由に動けるようになると、いつまでも外に居たがるのが普通だ。
家の中にも面白いことがあると自然と気づくまで
彼らは、外を堪能する。
ソローの『森の生活』の一文だ。
「子供というものはみな、ある程度まで人類の歴史を
はじめからやりなおしているのであり、雨や寒さをものともせず
戸外にいることを好む。ままごともすればウマごっこもするのは
そうした本能をもっているからだ。幼いころ岩棚や洞窟の入り口を
見たときの、あのわくわくした気持ちを覚えていない者がいるだろうか?」

だからといって、放っておけばいいわけじゃないのだ。
親は管理するという仕事を持つ。
生活リズムをきちっと叩き込まなければ、
親のほうが後からしんどい思いをするから。
管理されることに抵抗して、抜け道を探ってまで外で遊ぼうとするから
余計にワクワクとした、誘惑に満ちたものとなる。
悪い言葉を使いたがるのも同じだ。
あれだけ頭の大きい人間だもの、スリルに満ちた方を選ぶだろう。

子供たちの戸外での身体を使った学習は、机上のものに勝る。
実際に口に入れてみて確かめるのだ。
痛い思いをして安全を学ぶのだ。
手足で道具を使って順番を学ぶのだ。
それを変な形で押さえつければ、あとから取り戻そうとする。
ひずみとなってあらわれることもある。

原始体験は大人になっても細胞に息づいているはずなのに
野生の感覚が麻痺してしまっている者が多い。
子供に見習おう。
そのグングンと音がしているような生命の力には
思わず「参りました!」とひれ伏してしまう。
自分は少しずつ老けていっているだけなんだ。
子供は同じ10年でどれだけ成長することか。

素直に負けを認めて、
「ん?これってなんか違うぞ」という感覚を取り戻そう。


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矢沢永吉 
「まだロックやってんの?」と、昔の本人からケータイが入る
CMを見かけた。
「おかげさまで。バリバリだよ」
昔の彼と今の彼が並んで映し出される。

しかしこれ、かっこいいだろうか。
自分でこんなこと言うの、恥ずかしくないか?
最近の彼はこんなことを売り物にし始めたのだろうか。

得意げな語り口からして、コントなのかもしれないと思ったが
それならそれで、矢沢永吉は今どこにいるのだろう。

以前ショーケンが何かで捕まったとき、捨て台詞なのか、
自らを「反逆のカリスマ」と名づけていたのと同じように脱力した。

どうして日本人は黙ってロックできないのだろう。
周りがそうさせないのか?
むしろロックンローラーとは縁もゆかりもないところに
ロックしている人々がいる。
彼らのためにも、ロックという言葉をコントにして欲しくない。
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俺たちに明日はない 
破滅の象徴、ボニーとクライド。
アメリカンニューシネマの代表作だ。
「みんなを驚かすんだ」
心の奥底の衝動を、なだめすかして生きていくのが大人なら
それを実際に行動にうつす「やっちまった2人」の物語。

そんな彼らは憎めない気の小ささを持つ。
銀行強盗をして逃げ回る道中、たった一人を殺してしまったことが
頭から離れない。
それに比べて一般市民はどうだ。
彼らを迎え撃ち、いきなり斧で切りかかろうとする。
死ぬじゃないか!
悪党は虫けらのように死んでよしという価値観があらわになる。
ニコニコしてても腹の中はなに考えてるかわかったもんじゃない。

ずるい手口で二人をだまし、警察に連絡する。
その用意周到さ、あざとさ。
警察やメディアがまた、輪をかけて汚い。
ボニーとクライドの純粋さだけが、浮き彫りになってくる。

反体制やアウトローは純粋だという図式がある。
昔ヤクザの友達がいたが、彼などもある部分突出して純粋だった。
それに一本気がプラスされるとあーなるんだなと解釈できた。

2人が殺される直前に、この映画のロマンとエロスは集約される。
鳥が飛び立ち、一瞬見つめあうところだ。
この一瞬のためにすべてを投げ打ってもいいと、
ロマンチストという人種は本気で思う。
そんな2人の思いはひとつだ。
犯しがたい永遠性がそこにある。

銃弾をあびるシーンは何度見てもショッキングだ。
死のダンスは、こっけいなほどの人間の無力さを表現する。

そして映画はひとつのメッセージをつきつけてくる。
純粋なものはこうやってつぶされるのだ。
自由や解放は、こんな目に合わされるのだ。
ひどいと思わないか?

反対を受けるものは美しい、
こてんぱんにやっつけられるものこそ正しい、
そんな考えを植えつける。

だけどそうだろうか。
本当にやめた方がいいことだってあるじゃないか。

「私ってメゲない人ですから、反対されるほど燃えるんです」
「私って積極的だから何回断られても頑張るんですー」
と善意を押し付けてくるのと同じ、痛さと無理がある。
誰にヨシヨシしてもらいたいんだろう。
自分がそれをしていない保証もないけれど。

若者はある意味純粋だ。
誰も悪気なんてない、それはわかっている。
だからって別にえらくもない。
純粋さを持ち上げられることは拒否しよう。













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地域の運動会で、近所の豆腐屋のおじさんを見かけた。
教会でも一緒の人だ。
余計なお世話だが、あまりに所在なさげに立っているので
近寄って「お元気ですか」と声をかけた。

彼は昔、内村鑑三の無教会派の伝道者の拠点として
自宅を提供していたという。そんな話になった。

「今の教会と無教会派では言ってることが全然違うんだ。
あっちは大人の教会、個人主義だ。
うちの教会はみんな一緒の家族単位だ。」
農業を営むふるさとに戻って家庭を持つ中で、
次第に流れに乗ったすえの転向なのか。

「自分の意志を持てないことについて疑問を持つ人は
いませんね」と言うと、
「そう、誰一人いないね。あなたみたいな人はね」と言う。
だからってどうにもならないね、もうこれでいいんだよ・・・

「これでも昔はべ平連に参加していてね」
話は熱気を帯び、顔が生き生きし始めた。
私は次のプログラムへの呼び出しに気をとられながら、
「でも団塊の世代なら思いは同じですよね」のような
適当なことを言うと、「とんでもない。少数派だよ」。

今の教会に所属し多数派となって安住したというわけか。
これからの時間をセンチメンタリズムだけで生きていくにも
彼ら面白い時代を生きてきた者に材料はことかかないか。

彼は私の出番もきっちり観戦してくれたようだ。
それにしても彼はこんな所で何をしているんだろう。
泣けてくるほど所在なさげな顔をしながら
出し物を一つ残らず観戦し、
どうして楽しくもない場所に居続けようとするんだ。
私は、楽しい場所に居たい。
今も、これからも。







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子供王国 
私はまだ小学校低学年の実態しか把握できないが、学級懇談会など、
親が悩みを順番にえんえんと打ち明けて行く場がある。
本来、懇談会とは先生を交えて話し合う場のはずなのに
一人一人のお悩み相談室と化して、「早く帰りたいのに抜けるに
抜けられない」というボヤキを聞いた。

今いじめ問題などで、学校側がやり玉にあげられている状況に
あって、ますます親側が自分たちを棚に上げ、相談ではなく
責めの論調で学校にかけあっていく風潮にならないかと気がかりだ。

弱い立場のまま親の要望にいちいち答えていたら、
本来の機能さえ見失ってしまう。
極端な話、学校に責任などないじゃないか。
よってたかって学校のせいにしていること自体が、
いじめの根源じゃないか。

子供がいじめられたら「やられたらやりかえせ」とけしかけ
いじめたら「うちの子は強いから」と笑っている。
そんな親の姿勢をふりかえらずに、のさばっていく可能性が強い。

あってはならないいじめの実態は存在し、事件がきっかけで遅かれ
早かれ明るみに出ることだが、まずは多少のことならびくともしない
強さを子ども自身が身につけなければならない。
いじめっ子に何か言われたりされることで、自分にとって大切なことを学びとることもある。それができるのも強さだし、心無い教師のからかいに耐えられることもまた強さだろう。
本当の強さとは、やられたらやりかえすことではないのだ。
そうした意味も含め親のできることは、子供の命を守ってあげることだけだろう。

今は一人っ子や二人っ子ばかりで、ただでさえ大事に育てられているのだから、親は強く育てるように意識してちょうどいいぐらいだと思う。
就学前が勝負だ。
幼稚園まではペットのように扱われ、小学校で普通に厳しくされると、そのギャップでもうとまどってしまう。

親が子供の顔色なんてうかがわなくていい。
ある程度の年齢になればもう自分でできるだろう。
可能性を信じてあげよう。
言うことを聞かないなら、勝手にさせるだけだ。
それでいて結局は同じ目線で心を痛め、
黙って木の上に立って見ているのが親じゃないだろうか。


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子供は愛情を込めて抱きしめてあげることが大事です。
という説もあるが、誰でもそれができると思ったら方向を
間違う。金輪際そういうことのダメな人はどの世代にもいるものだ。

その人にとっては抱きしめるという行為はまさしく義務でしかない。
子供が敏感だとすれば、その義務のほうを受け止めてしまう恐れが
ある。それなら柄じゃないことはしないほうがましだ。

日常的に感情なんかどうやって込められるの? といわんばかりの彼女だって、気づいてないところでは感情丸出しにしているくせに、そういうクサイことはできない。いい悪いじゃなく、そういうことの苦手なタイプとしか名づけようがない。同じ人物が、辛抱強く子供に付き合うという点では驚くべき長所を発揮したりする。

恋愛体質というのも同じで、若いから恋愛が得意なわけじゃない。
若さより、どこか勘違いした思い込みの激しさが必要だ。

とにかくロマンのロの字もない、実際的に生きるより以外どうするの?
という人は、若者であっても想像以上に多いはずだ。彼らはたとえば「なんで傘もささずに飛び出せるの? 濡れるじゃない」といって、自分に酔いたい恋愛体質人間をしらけさせる。
むしろこういうことは、団塊の世代ならのってきそうだ。
雨の中飛び出した彼女を、自分も負けずに裸足になって追いかけてきそうだ。
いや彼らはアメリカナイズされているだけか?
やはり世代は関係ないだろう。

人生こういう思い込みも、うるおいも必要だと、理性では理解できても
自分はそこまでできないから、オッチョコチョイのロマンチストをけしかける。
「次なにやってくれるの?」「スカッとすることしてみてよ」
「今どんな面白いことしているの?」

ところが日本人はトレンドに踊らされやすいから、そんな彼女たちも恋愛結婚がすべてと錯覚して、結婚したくても相手がいないということになる。本当は彼女たちこそ結婚、母という地に足の着いたことに適任なのに。恋愛と結婚という矛盾を抱え込むことがアメリカの離婚率の高さに現れているのに。

人口増加を考えるのなら、いっそのこと、お見合いをおしゃれに演出したドラマをつくってみたらどうか。
って、どんなんだ?
こればかりは実際的すぎて考えられない。




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聖書の「姦淫を犯すな」という言葉を聞いて「とてもそんなことは
できない」という人は多い。ましてや情欲を持って女を「見る」
だけで姦淫を犯したことになるなんて、こんな宗教はいやだと。
でもそれは誤解である。

ある「富める青年」がイエスに「永遠の命を得るにはどうしたら
いいでしょうか」と尋ねる話が聖書にある。「富める」とは
金持ちで見栄えもよく才能あふれる、今でいうエリートだ。

イエスは「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んでは
ならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人
を、あなたのように愛せよ」と答えた。

青年はがっかりしただろう。それは律法学者の言うことじゃないか、
あなたまで戒め云々を口にするのかと。
「そのようなことはみな守っております。何がまだ欠けているんですか」。

青年は非の打ち所がなかったが、
罪を認めないという欠点があったのだ。
罪を認めたところからすべては始まるというのが、イエスの真意だ。

以前、「アー言えば上祐」という人がよく出ていたが、
イエスは彼のように言葉に対して答えようとするのではなく
相手の心を見抜いて、それに応えようとする人だった。

イエスは続けて、「売り払いなさい。貧しい人々に与えなさい」
と追い討ちをかけた。「欠点のないあなたならできるはずですね」
という真意の読めない青年は、突き放されたと誤解したまま
寂しく去っていった。

これでキリスト教を去る者は多い。
いや去るだけならいい。
芥川龍之介は、聖書を読み悩みながら死んでいった。
クリスチャン作家で有名な遠藤周作でさえ、晩年は仏教に
惹かれていく自分を抑えられなかったという。

みんなイエスの挑発を誤解しているのだ。
挑発に乗らない自信があるならいいが、真面目な人は
いきなり読むのは危険がともなう。
適切な指南書から始めたらどうだろう。



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中島みゆき 
会社勤めの頃、カラオケでこの人の曲を歌っていると
団塊の世代の上司が負けじと、「あの娘」で対抗してくるので
「よく知ってますねー」などと茶化すと、「中島みゆきは我々
世代のアイドルだ」というので、「えー、ユーミンと並ぶ私たち
世代のシンガーソングライターですよー」「いや違う」とえんえん
やっていた。

そういえば「時代」など、何の根拠もなく学生運動の映像が
浮かんでくるなあ。「おまえら「新人類」に何がわかる」とでも
言いたげな口ぶりからして、そういう激しい思い出と結びついて
いるのだろうか。

話はそれるが、団塊の世代といっても、今のように猫も杓子も
大学に行く時代とは違ったのだろうから、学生運動のような
思い出ばかりを目を輝かせて共有されると「勝手にやってください」
と言いたくもなる。
いや私もあの頃は、それこそ目を輝かせて彼らの話を聞いたが。

まあ中島みゆきのように、同じ人物の背後に見える風景の違う
二つの世代の架け橋のような人も貴重だ。

先日ツタヤに、彼女の「わかれうた」が流れていた。
    
   恋の終わりはいつもいつも、立ち去るものだけが美しい
   残されてとまどうものたちは、追いかけてこがれて
   泣き狂う

この人のうたの歌詞を検証したことはないが、こんな内容が多い
みたいだ。捨てられて、立ち去られる側の人間のうただ。

きっと彼女自身は、立ち去る人だったんだろう。
でないと芸能界でしたたかに生き残っていくことはできない。

でも、足蹴にして去ることはできない。残されてとまどうものたち
の気持ちも痛いほどわかるので、彼らに念を残してしまう。
そんな「供養」のうたじゃないだろうか。

人間の心変わりばかりは、100万回ムチで打たれようと、どうする
こともできない。骨抜きになったり、標本になったら彼は満足して
くれるだろうか。もうフィギュアになるしかないではないか。

いや、やはり逃げ出すしかない。
それでも彼は「隣人」だから、つい気になってしまうのだ。
立ち直ればすぐに気づいて応援することもいとわないのだ。

主人公が彼女なら、どうしてもっとうまくやれないのか、
歯がゆくて仕方ない。

そんな思い、いいかえれば彼ら彼女らに対する「祈り」を
恋歌にたくすしかないのだろう。
いくら、言葉を尽くしても空しいだけだから。

中島みゆきの声が読経にきこえてきた。

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お祈り会は苦手 
数年前キリストを信じて教会に出入りするようになった。
夫に「キリシタン」とからかわれながらも、
礼拝だけは熱心に通い続けている。
でも各種の集会、婦人会にはなじめないままだ。

まずお祈りがダメなのだ。
それらに出席すると、必ずみんなで祈る。

たとえば何か崇高なものと出会って、ひれ伏したい気持ちになったり
願いたい事がある、嬉しいことがあって思わず感謝、それならわかる。
私など「これって苦しいときの神頼みだよな」と気づきつつも
思わずすがる。指を組んで合掌し、アーメンも忘れずに。
こんなのだけじゃだめらしい。

困っている人、身体をこわして臥せっている人、悩み多い人
そんな彼らの名前を一人ひとりあげ、ていねいに具体的な事情
まであげて、そしてみんなで祈るのだ。

私なら、この場で名前をあげられたくはないなあ。
しかも本人のいないところで・・・
こういう感覚の人間がいることすら想像つかないみたいだ。

この場で一回、そして家でもう一度彼女のために祈りましょうと
任務を果たすみたいにするのはごめんだ。
家でもう一度って、宿題じゃないんだから。

忘れたようでも彼女のことがどこかで気になっている、
忘れたいのにまとわりつく、そんなもやもや自体が、
彼女に対する祈りなんじゃないだろうか。

「こういう所がいやだよね」と笑い合える相手でもいれば
まだ行く気にもなるのだろうか。
一種類の考え方しか認めないような雰囲気が、苦手だ。

しかし人は誰しも居場所を求めているから、たとえ何か疑問が
あったとしても、見ないようにして、
その場所にすがりたくなる気持ちもあるだろう。

そういう自分も、心が弱った時には、扉を叩きたくなるのだろうか。
みんな温かい笑顔で迎えてくれそうだ。
そしてどんどん骨抜きにされてしまいそうだ。

弱いからこそ強く生きていこうと思うのだ。
一人ひとりとは楽しく接することができても、集まりとなると
2の足3の足を踏む。




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バランスということ 
西洋料理を本場で食べても、なんだか大味でいただけないな、
なんて思ったりする。
アジアのものはやっぱり舌になじむ。
ツボをこころえた仲間がここにいた、と身体が教えてくれる。

病気を治すのも、西洋医学ならすぐ手術しようなんてことになる。
切ってしまえばそれで済むのかと言いたくなる。
そこで東洋医学にも目を向けてみると、
思わぬ解決が得られたりする。
あれもあればこれもありますねーという対話が成立する。

西洋を父、東洋を母と大まかに分けてみてはどうだろう。
厳しい父、有無を言わさぬ父に、やさしい母だ。
母は、見えない機微をわかってくれる。

そんな母に敬意を持ちつつ、歩み寄りつつも
父の本分をはずさないことで、父たり得る。

厳しい律法にやさしいキリスト、
あるいは東洋思想に西洋思想。

そして、個々の調和こそが、全体の調和を生んでいくのだ。
個人の調和が、アジアの調和。
アジアの調和が、世界の平和。
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ストーンズの「ブラックアンドブルー」を久しぶりに聴いた。
レゲエっぽいのもいいが、「メモリーモーテル」はやはりいい。
彼らのすべての曲のなかで一番好きだ。
7分あまりの長いバラードだが何度も繰り返し聴いてしまう。

ミック・ジャガーの粘っこく荒削りなボーカルと、
この哀感漂うメロディーがどうしてこうもマッチするんだろう。
キースとのかけあいも泣かせる。

ブルージーな泥臭さがキーワードの彼らだが、この曲は特に
なんというか、日本人が演歌に涙するような心のありかを
ピタッと探し当てられて、ググっとわしづかみにされるのだ。

演歌が好きなわけじゃないのに、
どこか原点みたいなところに、立ち戻ることになる。

ストーンズの演奏スタイルといい、やはり彼らは永遠のアマチュア、
ロック界のピカソであり太郎だ。
アマチュアでありながら、かつ誰よりもプロフェッショナルである
とはどういうことかを教えてくれる。

自分の感覚だけ、ただそれだけが、美しさを発見できるのだ
と伝えてくれているのではないだろうか。

メモリーモーテルを生で聴くのが私の夢だ。




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黒人グループが白人一人をいたぶっているシーンがあった。
実態はこうだと、主人公は叫ぶ。
黒人の方が幅を利かせているんだと。
なるほど、一般に伝えられていることと現実は違う。
世の中こういうことは多いだろう。
「すべて問題は奴らが起こすんだ」
自分より劣っているとみなした者たちにいたぶられて
「このみにくいアヒルの子らめが」と思うのかもしれない。

ましてや主人公は、父親を黒人に殺された。
怒りに燃え、白人至上主義のリーダーとなった。
「落ちこぼれたちを扱って、どでかいことを一発かませ!」

うまく扱われる落ちこぼれとは、たとえば仲間の
白いおでぶさんだろうか。
アメリカ人の飽食の果ての姿が、彼だ。

グループは主張する。
「白人のプロテスタント以外は足をひっぱる寄生虫」
「ユダヤの仲良し運動くそくらえ」
「差別撤廃運動きれいごと」
「敵味方ごっこが楽しい」

差別社会であるために、逆に勤勉で有能なアメリカ人は不当に
扱われ、黒人や不法入国者はヌクヌク暮らしていると、カリスマ・
リーダーの主人公は演説する。
自己の運命を切り開く権利を奪われたのはこっちのほうだと。

だからって黒人を追い詰めたらどうなるだろう。
追い詰められたものの暴走した姿が北朝鮮だ。
悪事の根本に自分たちも加担していることを忘れ
表面だけを見て騒ぐ。叩いて潰す。
叩いたら気持ちいいだろう。日頃の欲求不満解消だ。
だからこういうことは無くならない。

追い詰めるものの正体は、自分たち自身の貧しさやふがいなさだ。
主人公は、冷静に自分を分析できている。
でもそれは通常の姿。狂気はしまいこまれている。
切れると理性はふっとび、憎しみだけが一人歩きする。

彼はどんな風に残忍になったか。
自分の車を盗んだ黒人をはいつくばらせ、
道路の縁石を口でかませ、ブーツを履いた足で思い切り
上から踏んづけた。
首の骨の折れる音がし、黒人は死んだ。

聖なる処刑に満足そうな笑みを見せ彼は逮捕されていく。
弟に、「あとは頼んだぜ」とでもいった合図を残して。

弟は、兄のすることはすべて正しいと
盲目的に付き従って生きてきた。
彼はバリバリのネオナチとなり、グループをまとめる。

ところが出所した兄は、憑き物が落ちたように変わっていた。
彼は刑務所暮らしを回想する。

ここでは、黒人のほうが偉い。白人の同士が欲しい。
しかし白人たちはヒスパニックグループとつるんで
ドラッグに手を染めている「ポリシーのかけらもない奴ら」だった。
彼らを軽蔑の目で見る主人公の態度に敏感に反応した白人たちは
「お前の説教はたくさんだ」と集団リンチで主人公にオカマをほる。

ひそかに助けてくれていたのが、やたらとオモロい黒人。
テレビを盗んで捕まったのだという。
二人は仲良くなり、黒人の言葉に主人公は様々なことを悟って
「先に」出所する。

怒りや偏見は無意味だ。
思えば初めは偏見などなかったのだ。
しかし父の言葉が俺を洗脳していった。
「差別運動が目に余るなあ」「平等の世界なんてたわごとだ」
「優秀な人間と働きたいよ」「奴らは黒人だからという理由で
アホなのに採用されたんだ」・・・

態度や思想は親から子へと連鎖していく。気がつくと親と
同じことを話しているのだ。

「俺は目が覚めてラッキーだったよ」。
兄のそんな説得を受け、弟はレポートをしたためる。
「怒りに任せるには、人生は短すぎる」
レポートを持って向かった学校のトイレで弟は無残に殺される。
グループにとって無責任な裏切り者である、兄のまいた種もろともに。
血まみれになった弟は、我々に何を伝えてくれるのか。





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『国家の品格』という本はずいぶん流行ったものだ。
やっと最近、ベストセラーランキングなどで見かけなくなったが
いったい何人の人があれを読んだんだろう。

本を売るのもなかなか大変なことだとは最近知ったが
ベストセラーというのは相当の影響を世に与えたのだろうか。
目に見えないので何とも言えないが、思うのは、
ここで著者の言っている「卑怯を憎む心」や、
「惻隠の情」を一番知って欲しい彼ら、
すなわち、いわゆる金儲け主義者や、
「論理ばかり先行して情緒を置き去りにする」人々は、
この本を丹念に読むだろうか、ということだ。

彼らはだてに金儲け主義になったわけじゃない。
先祖代々から始まったその人なりの歴史があるのだ。
彼らの考えそうなことは、
「ベストセラーなら一応目を通しておかなくちゃ」くらいのものだ。
彼の血となり肉となるのは、やはり金儲けに関する本だろう。

そもそも興味がないんだから、押し付けたってムリだ。
もともと著者の言うようなことを考えていたような人が、
「ああなるほど、やっぱりそうか」と、
意を強くするのだ。

結局みな自分の得意分野を伸ばすしかないのだろう。
金儲けが得意な人、貯めるのが得意な人、
使うのが得意な人、みんな才能じゃないか。

下手に抑え付けてしまえば、本来の力が発揮できなくなる。
モラルも生まれない。
失敗したら、「何かあったのだろうか」と我が身をふりかえり
人の意見も一応耳に入れ、信念を持ってその道を極めていけば、
案外行き着くところは同じだったりしないだろうか。
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福島みずほ 
ふと空いた時間、テレビをつけると国会中継だ。
福島みずほが代表質問をしていた。
愛国心について、「総理ご自身にお聞きします!」と威勢よい。
様々なはぐらかしを受けながらも、追い詰めて追い詰めて
いい線まで持ってきた。
「次の答弁こそ聞きたい」と私が思ったとたん、
「次に移ります!」ガクッ

追い詰めているようでいて、肝心のところの詰めが甘いのは
もしかして野党らしさなのか。
優等生チックな余裕のなさか、
はたまた武士の情けみたいなものだったのか。
まあ、やさしいんだろうな。

野党の言うことは、見直さなければならない正論だが、
「枝葉末節にこだわる奴ら」と見下されがちだ。
頭からダメだダメだではダメなのではないか。
聞く方の心がふさがって来る。

いっそのこと、詐欺師のテクに学んではどうだろう。
手をとって理解を示すのだ。ホメ殺しでもいい。
「あれ?なんだかいつもの福島みずほじゃないぞ」
と思うはずだ。
まっ、そんな時間は1分たりともないだろう。
言いたいことが一杯で、あせるのも無理はない。

でも人の琴線に触れるのは結局人情とか、そういうものだろう。
そこを利用して、自民党は勝ってきたのだ。

実態をよく見て、知って、心あるのが
野党だと勘違いしてはならない。
ただ反対すればいいのかと思われるのも無理ないケースは
たくさんある。
それじゃくやしいだろう。
データをあれだけ集めるのも大変だろうに。

最後の質問で福島みずほは、180日でリハビリが打ち切られる
問題に触れ、
「障害のある人たちは、死ねということかと怒ってますよ、
どうですか!」と叫んだ。

ああ、今までの努力が水の泡かもしれない。
これでまた外野は、女は、キャーキャーうるさいなと
ハエのように認識されてしまうのだ。

障害者の立場なら、自分さえよければ、「死ねということか」
くらいの感情を福島みずほに訴えもするだろう。
でも、もしかしたらたとえば病院の待合室で粘りをきめこむ
「オアシス化」の実態の延長のようなケースがありはしないだろうか。
だからといって弱者を追い詰めればいいのでは決してないが
「どうしてくれるんだ!」と脅すことしか知らない人々が
はびこる可能性も無視できない。
障害者を無条件に「可哀想な人」呼ばわりするのは
偏見の裏返しだ。
それを言うなら見かけは元気で幸せそうで
もっと可哀想な人は世の中にあふれている。

その辺の認識があって言っているのかを、おじさんたちは
見ているのだ。あの夢も希望もないくすんだ色をまとった、
男集団は。
画面に映る女性は見回しても3人だけ。
あとはみな速記だ。
速記者になるのに家庭と戦って、犠牲にしてここに来ている人も
いるのかもしれない。

福島みずほは頭がよくてスタミナがあって、
男社会で頭角を現した稀有な存在として
国会に来ているのだ。
そんな優れた女性がどこまでやってくれるのか、
期待するのも人情だろう。
それともこんなことを言う私みたいなのが
実はフェミニストの素質あり、だろうか。









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紙と絹 
曽祖父の師匠でもあったという竹内栖鳳が、画を描くとき
紙を使うか絹を使うかで違いがあると、こんな風に語ったそうだ。
「紙にはすんなりと描けるが、絹に描くのは難しい。絹は
抵抗するからだ。しかし私は絹を好む。新しい発見があるし、
保存もきくからだ」。

絹には骨があり、節操があるということではないだろうか。
御しやすい紙は、いざという時は頼りにならないことを
使う者である「主人」にも見破られてしまうのだ。

「主」に従うということは、あくまで自分の目で見て、
頭で考えて、足で立って、初めてできること。

これは日本の伝統である、武士道精神にほかならない。


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禊と、ラーメンと 
食欲については恥ずかしい思い出がある。
気功の会という、ちょっぴりあやしいグループで、極寒の季節
滝に打たれに行くことになった。

山奥に入るほど険しくなってくる道を分け入り、
飛び石を伝って川を渡る。
いつもは取り澄ましたような男たちが手を貸してくれる。
極限状態にあって仲間を思いやり、女性を守ろうとする彼ら・・・
本当はこれ位ひょいひょいと渡れるのだが、
それでは面目がつぶれるだろうとお世話になる。
もちろん、悪い気分じゃない。

滝に着き、身を切るような水の中に入っていく。
いったいこんな所で何をしているんだ、
と我に返るような人なら、ここには参加していないだろう。
すぐそばに轟々と流れる滝はあるのだが、
わざわざ打たれることもなく、温泉のように入って出た。

それでも温泉と違ったのは、手足が死人の色をしていたことだ。
「スゲー」とまじまじ見つめた。
セルロイド人形をもっと白くしたようなこの足は誰のものなんだろう。
思索に入っている場合じゃなく、身体がガタガタ震えだした。
寒い!
いいタイミングで、ホストのように気の利く気功の先生が
火を起こしてカップラーメンを配る。
やったーラーメンだ。
「なんだ箸が足りないぞ。みんな一本ずつだ」。
身体を温めながら3分を待つ間、一人の男性が気絶した。

みんなが取り囲み介抱する。私ももちろん気になったのだが
それよりラーメンどうするんだ。
一部始終を横目で確認しつつ、ラーメンに貪りついた。
一本の箸が間抜けだが、そんなことどうでもいい。
「あっ気がついた」「思ったとおり大丈夫そうだ」
すべて食べながらの確認だ。

いざという時こういう人間だ、私は。
元教師の、行儀にうるさい気の先生もあきれはてているだろう。
その晩みんなでイノシシ鍋をつつきながら、依然として
罪悪感にさいなまれていた。
先生が口火を切る。
「あれ、どう思った?」
私のことか。
「よかったよね」
「うん」
「あのラーメン食ったところ」
「そうそう」
男たちはまたもや一致団結していた。
すでにお互いが言わんとしているところを分かり合っている、
この連帯感はいつもながら見事だ。
とりあえず、食欲は恥ずかしいことじゃないらしいけど。

もしかして彼らは、サバイバルに強い
ワイルドなパワーを女性に見ているのだろうか。
奴ら脂肪がついてるだけじゃないぞと。
それは一種の畏敬の対象になる反面
軽蔑にも、底知れぬ脅威にもなりえる。
得体の知れぬものは、とりあえずやっつけておかなければ、
という本能は弱い者たちの常、か?

あるいは男性を、ハンデキャップのある人に対するような
いたわりの思いで見るのもひとつだ。


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食欲があるのなら 
自分が食べたいものを我慢して子供に譲るということができない。
おいしいものがあれば、ジャンケンしてでも奪い取る、「信じられない」親だ。
おかげでうちの子達は「自分がもらえて当然」とは思っていない。
旦那の「なんだぁ?コイツ」という視線に罪悪感さえ覚えなければ、
食欲は満たされるし、いい子が育つ。
食べたい欲求を抑えて菜食主義にしてまで、長生きして何をするのか。
たんぱく源がお豆腐じゃ、物足りないだろう。

もっとも今まで自分を抑えて来た人が、いきなり我がままになるのは
難しいだろう。自分でも加減がわからなくなっているかもしれない。
どこまでが純粋な食欲か?がわからないのに無理をすることはない。

私は幼いころから「あの人は、あーいう人だから」とあきらめられてきたので、何をしても大丈夫なところがある。
居候していた家を追い出され、高校中退という悲劇的事態にあったとき
でさえ、「何か考えがあったのだろう」と、取りあって貰えなかった。
親戚の誰一人、同情さえしてくれない。
こういうケースもあるのだ。

食欲については、恥ずかしい思い出がある。
明日書いてみよう。
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おしつけは許さない 
あるフランス人ジャーナリストが、日本の政治・女性問題について語った記事が手元にある。あいにく今出典がわからず、また英語なのでよく読めないが、とても興味深いものだ。かいつまんで書くと、

 日本のメディアはアメリカ同様、独身女性の身勝手さを報道する。
 日本のいわゆるタカ派からなる憲法改正プロジェクトチームは、
 戦後の日本は個人主義とエゴイズムを取り違え、ファミリー崩壊や
 少子化を生んだと言う。
 共働き、夫婦別姓などの自由・平等を満喫する女性たちは、このよう
 に攻撃の的にされがちだ。愛国主義者たちは、「独立は今に
 始まったことではない」などと、女性を恥じ入らせる言葉を使う。
 そんななか、紀子さまに親王が誕生した。
 素直で従順な彼女は、憲法改正下のあるべき日本女性の未来にぴった りだ。新しいファシズムの到来を告げるにこれほどふさわしいヒロ  インは、あのゲッベルズさえ探せなかっただろう。


最後は皮肉で終わっているが、私はこの記事を見て、紀子さまは、単に男の子も欲しかったというだけかもしれないのに、うまく政治に使われてしまうのだなあと思った。
女の子ばかりだから、男の子も欲しい。それでいいと思うのだ。
個人を優先させることが、社会の役目という結果につながればいい。
個人より社会を優先させるというのは、心のない形式主義だ。
心がないとはどういうことか。
それぞれの事情をかえりみないということだ。
先の例のように、すべて愛国主義に結びつける考え方が代表だ。
皇室というのは形式主義のサンプルであるべき立場だから、
このように矛盾することを彼ら自身が証明している。

女帝を是認することや夫婦別姓が、果たしてそのまま自由平等につながるのか?といった疑問から、日の丸に立つ立たないといったことまで、
あらゆる問題について千差万別の意見があるのは当然のことだ。
顔や指紋が違うように、生まれ育った環境や、現在の状況もみな違うのだから。
しかしその意見を人に押し付けるのだけは、あってはならない。
私自身、人に押し付ける危険性があるなら、どんなコミュニティーにも属さない。
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私のなかの男と女 
ファースト・キスという言葉は、まだ生きているのだろうか。
誰とするかは、特にこだわってはいなかったのだが、
中学時代、妙に鼻息の荒い女の子に、抱きつかれてされた。
「奪ったー!」とすごいはしゃぎようだった。

今思うと色々大胆に迫られていたのだろう。
おふざけを交えながらも目がマジだった。
腰に手をまわしてくれとせがまれて、町を歩いた。
なぜ大人しく従ってしまったのか、誘導が上手だったとしか思えない。
背もそれほど違わない女子中学生が、かなりかっこ悪かっただろう。

でも私はそのディープな状況下で、
すっかり男の気分になっていたのだ。
その子を車から守ってあげたい。
甘い女の匂いを肌で感じ、押し倒して犯すこともいとわない気分に。

もちろん私は男の子が好きだった。
意中の人の前では、花も恥らう乙女になった。
今度は身も心も女性だ。
たくましい腕によりかかりたい。

これは何だろう。
私のなかに男性と女性がいて、自由自在に顔を出す。

だけどそれは、みんなそうだろう。
同性愛なんてあって当然だ。
だからどうというわけでもないが、
こういうことも一応踏まえておいたほうがいい。
気づかずに自分を抑圧していることもあるから。
抑圧のなかでこそ燃える恋となると、もう趣味の範疇だけど。
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生ましめんかな 
どんなに極悪非道の者でも生きている意味はある。

ムツゴローさんを想像してみよう。
獰猛なけだものをうまく馴らすだろう。
それと同じで、堂々としていれば、からんで来る人間も
退散するのだ。
その瞬間の表情は似ている。
相手の虚をついてからんで来る、その絶妙さは「お見事」である。
「君は本当は何でもわかっているんだよ」と
また怪しい一言をかけたくなってしまうほどだ。

小さい子の運動会などを見ていると、
これだけ協力し合ってひとつの競技をつくり上げている、
この子達の何人が将来たとえば犯罪をおかし、
人々にさげすまれ、不遇の人生を歩むのかと辛くなる。
みんな本当はわかっているなずなのだ。

人が誕生するとき、そういう役目に選ばれた一匹の精子のために
他の精子は身を挺して応援するのだ。
「生ましめんかな」と。
「神のみ業」が誕生するときも同じだろう。
そのために我々は生きているのだ。
誰にでも役割がある。

漠然とではあるが、
各人がそれぞれのすべてを生かした
荘厳なオーケストラを奏でるという理想郷が見える。
しかしそのためには、それぞれが目覚めて
自己充足する以外ないのだろう。
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イエスを見た人 
弱い、ドンくさい、オドオドしてる・・・どんな理由か知らないけど
何の罪もない子がいじめられているのを見るほど、腸の煮えくり返ることはない。
迷惑かけてるわけでも、わがままでもない、いやそうであってもイジメはあってはならないのに、ただ八つ当たりされているような子がいる。
うちの子がそれをやったら即座に叩きのめすところだが、よその子にそこまではできないのだ・・・

それでも生きているのだから、「強くなれよ」と祈ることはできる。
もし死んでしまったとしたら、「イエス様だ」と思うしかない。

戦争の犠牲者に対しても同じだ。
当事者がどうなろうと、それは彼らの責任だけど、
巻き添えになった者たちの悲惨さは、血を流し十字架にかかったイエスと重ねることしか、解釈できない。
神様でも仏様でもない、イエス様である。

彼らを見て、「二度とこんなことを起こしてはならない」と思うのか
「ごめんなさい、私は助かりました」と思うのか、
人それぞれに何かを「つかむ」ということだ。
「わかったよ」ということだ。
それが「アーメン」ということじゃないのか?

私がミック・ジャガーの「必死」のステージにイエスを見たのも同じ。
「見てしまった人」には義務があるのだ。
それは「わかったよ」ということがどういうことなのか、
どれほど大きなことなのか、自他に証明することだ。

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神谷美恵子 
人への同情で、人生間違うこともある。
偉大な医学者、神谷美恵子の「日記」を読んでそう思った。
理想に燃えた若い日、キリスト教に傾倒し、
ハンセン氏病患者の施設を訪れた彼女は、医学に身を捧げる決意をした。
痛々しい姿に心を動かされ、崇高な社会的使命感を抱いたのだろう。

ところが彼女には魂の居場所とも言うべき本当にしたいことがあり、
それは「モノ書き」なのだった。
医者として実績を積む日々が綴られた日記からは、
「こんなはずではなかった」という呟きが聞こえてくる。

語学教師や医療従事、おまけに家事育児に時間をとられる毎日は、
好きな文学や執筆にかかわる時間があまりに少ない。
誰もが24時間しか与えられていないのだから。
日記は端的に言うと大半がその事へのあせり、いらだち、
すなわち愚痴で占められている。
これはちょっと、見逃せないブルースだ。

さまざまな能力がありすぎるために、その上よき妻・母の役割まで
背負うために、「犠牲者」になっている人もいる。
生きがいさえ、感じられなくなってくる。
いや、偉大な人とはある意味「犠牲者」の別名なのか。

晩年やっと満足な環境で執筆に取り掛かった時にはすでに
彼女の身体は病に蝕まれていた。

このように解釈することはできる。
医学者として輝かしい業績を残した。その中で生まれた葛藤が
「生きがいについて」他の著作を生んだ。それらは病をおして書かれたものであるからこその、素晴らしさがまたあるのだと。

しかし、他人にとっては立派な人だよで済ませられることが、本人にはとても済まないことがある。彼女は不満だったのだ。もっと書きたかったのだ。
人がどうこう言える問題じゃない。

死にゆく彼女の言葉をどう受け止めたらいいのか。

「私が「キリスト者」になれない理由は、イエスが30才の若さで自ら死におもむいたためだ。30才といえば心身ともに絶頂の時。その時思う理想と、65才にして経験する病と老いに何年もくらすことは、何というちがいがあることだろう!」 
(『神谷美恵子日記』より)


キリスト教が、負い目や同情の宗教であるならば、どこかウソだ。
「誰でも自分を捨て、自らの十字架を負い、わたしについてきなさい」という聖書の言葉は、あなたを生かして実を結ばせるためにあるのであって、何も犠牲者になれと言っているのではないはずだ。

また、そういうことの「できる人」だけが価値があるのでもないはずだ。







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