サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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ちょうどよかった 
昨日は幼稚園の参観日だった。
いつもなら嵐のように事を済ませるところだ。
何の頓着もなく行って、目一杯参観し、
終わると即座に立ち去る。

しかし昨日は、なにげに会いたいママが2人いた。
1人は役員の仕事で聞きたいことがある。
1人はこの間おいしいタイ料理の店を教えてくれた。
ココナッツカレーが食べたいし、たまにはゆっくり
たわいないおしゃべりもいいなあ。

行って自転車を止めていると、向こうから一人で歩いてくる人が。
すごい。いきなり会ってしまったな。
役員のことが聞きたい人だった。

参観が終わって自転車を出そうとしていると、
向こうから一人で歩いてくる人が。
タイ料理の店を教えてくれた人だ!

久しぶりに楽しいランチタイムだった。

何百人といる父兄の中から、目当ての人が、まるで回転寿司の
皿のように目の前にピタリと運ばれてくる不思議。

無駄のないタイムスケジュールを心がけると、
こういうスムーズな展開になることが多い。

だからあせらず、まずは深呼吸だ。

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イエスの弟子の選び方 
「誰も滅びることなく、すべての人が救われて真理を知るようになる」
という志を抱いたイエスは、12弟子をどのように選んだのだろう。

イエスは彼の話を聞きにくる群衆の中から、まず「イエスは気が変になっている」「悪霊にとりつかれている」と頭から決めつけた律法学者たちを取り除いた。

次に、いつまでも群集に埋もれている人々も取り除いた。
彼らはイエスが誰なのかが知りたいのではなく、ご利益が欲しいため、
今で言う「占い」に惑わされるような恐れと敵対の告白をした。
「あなたは神の子です」

イエスは彼の志を継承できる人を探していた。
彼らを自分の身近に置くためだ。
そこで、教えを熱心に聞き入る人々の中から、
求める心、飢え乾く心を見分け、弟子に選んだ。

彼らなら、イエスの言葉をひとことも聞き逃すまいとするからだ。
彼らはイエスの身近で言葉のキャッチボールをし、いこい、
安らいだという。これ以上の「癒し」があるだろうか。

彼らはどんな人たちだったのか。

イエスはよくあるリーダーのように、いわゆる「世の基準」では
人を選ばなかったから、弟子といえど決して立派な人物ではなかった。

たとえば、「どこまでもついていきます!」と興奮して豪語しながら
最後には裏切ったペテロ。
計算高く、信仰心の薄いピリポ。
「彼らを焼き尽くせ!」とか言ってイエスに叱られたヤコブ。
彼はすぐ切れるので、周りは腫れ物にさわるように接していた。
すぐ武力に訴えようとする熱心党員シモンは、今で言う過激派・・・

こんな人間味あふれる彼らだから、さすがのイエスもリーダーシップが大変で、日々祈りをささげていたという・・・

それでもイエスは、欠点のあるひとりひとりを、まずはありのままに受け入れ、
愛を注ぎ、完全な赦しを与えた。
自分が変われば、相手も変わるのだ。
弟子は「こんな自分が」福音を伝える権威を行うために選ばれたという
「誇り」と「感謝」を覚え、恵みに応答しようとした。
そこから、ヨハネの「福音書」や「黙示録」は生まれたのだ。

クリスチャンとは、すなわちこのイエスの弟子のことである。



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誰が見ていなくても 
 うちの旦那はじめ多くのマイホームパパが、平日の会社を休んでまで見に行くという幼稚園の運動会、今年は忙しくて行けないと言われた。
私も当日の手伝いを志願しているので、ビデオを撮る余裕まではないだろう。

うちは核家族で祖父母も遠方、ちゃんと見てくれる人がいないのは残念だなと今時の親バカな私は思った。
いやぁ毎日暑い中、長時間にわたって組体操を練習していると聞いたものだから・・・。人間ドミノなんていうのもあるらしく、息子は引き締まった顔で、静かな闘志を燃やしていたが・・・

ぼんやりと思い出したのは、先日の上の子の運動会だ。
5年生の「ロック・ソーラン」という出し物で、一人の小柄な男の子に目を奪われた。
彼はきっちりとリズムを数えて、周りをリードしながらも溶け込んで、ひとつひとつを丁寧に演じていた。ただそれだけだが、その一生懸命さは私をとらえて離さなかった。感動したといっていい。

あとで聞いたところ、その子のお母さんは2,3年前に交通事故で亡くなったのだという。あの熱さはその辺から来ているのか断言できないが、彼を見ていて思ったのは、誰が見ていなくても、平然と見事に生きている人はいるということだ。そういう人にとっては、人が見ている見ていないなど、もう超越しているだろう。
これが本来の生き方じゃないか。

子供は案外そういうことをわかっている。それを親が勝手な感情で「かわいそうに」などと軽率に言えば、子供はかわいそうになってしまうのだ。

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NHKみんなのうたで人気沸騰、近々カラオケにも登場するらしい。
たしかに気づくと「これってホメことば~」と口ずさんでしまう
インパクトは否めない。ただこれを、おじさんたちがうれしそうに
歌うところを想像すると、頭が痛くなってくる。

歌でおじさんたちは、若者からこのようにほめられる。

カラオケで部下に「なにげに歌うまいっすね」と。
聞いたらなにげには、けっこうの意味。

娘に寿司をおごったら「フツーにおいしいよ」と。
フツーには、わりとの意味。

洋服店の店員に「めっちゃやばい」。
やばいは、かっこいいの意味。

就職決まった隣のお嬢さんに花束渡したら、
「この花よくなくなーい?」。
これは、いいよねという意味。

若者語って、はあ、こんな感じだったんだ。
わかりました。とここまではいい。
日本語が乱れている、けしからん!と言ったところで
さほど意味があるとも思えない。

嫌悪感さえ覚えるのは次からだ。
若者語を知った彼らは、それをその場で使って見せるのだ。
こんなふうに。

「なにげに勉強になりました~」
「パパもフツーにおいしいよ~」
「僕ってそんなにやばいっすか~」
「僕のセンスってよくなくな~い?」

プラクティスするな!

そんなにありがたいだろうか。
若者はあなたに「解説してやってる」のだ。
本来の言葉についていけていないのはあなたじゃない、
若者なのだ。
意味を知るだけにとどめて断固として「使わない」選択をしてほしい。

たしかにものわかりがよくて、何でも話せる人はありがたい。
だからって迎合することもないだろう。
若者をのさばらせているのは、このおじさんたちなのか?

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一期一会ということ 
言葉の使い方には慎重でありたい。
というのも、その場のつくろい言葉は調子よく聞こえるからだ。
多くの人とめまぐるしく接する人々にとっては、クセになっているのかもしれないし、それが彼の精一杯の誠実さの表現なのかもしれないが。

私にはそう聞こえる以上は、せめて自分は、たとえば言葉に不自由な外人が、しぼり出して使うかのような言葉のみを扱いたい。
日常のたわいない会話だからこそ、それをしたいと思った。
それでもいらないことを言ってしまうことはある。

しかしそんな切迫感を持って人と接することが、一期一会ということにつながってくるのだろう。

おもてなしの極意もその辺にあるのではないか。
もてなす側、もてなされる側とも切迫感に置いて平等だ。
もてなされる側だからといって、力を抜いてしまっていいのとは違う。

もてなされるときも、この切迫感を持ってすれば、たとえば相手のもてなしのテーマが肌でわかってくる。
緊張するのではなく、(とはいえどこかで緊張はするから疲れるけど)
ごく自然にこの切迫感を持てる人になりたい。
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あやまる日本人 
たまには変わった番組も見てみるものだ。
NHKの日本語講座・・・ネタの宝庫だ。
日本語講師の指導が、色々考えさせられる。

たとえば「うーん、そこはもう少し恐る恐る頼んだほうがいいですね」。
明るい、よく通る声と、発音明瞭なNHKらしさで、きっぱりと言い切ってくれるのだ。

生徒の外国人、アジア系、ヨーロッパ系など数人も、時代錯誤なとぼけた味を出している。

それにしても「恐る恐る言え」とは、恐れ入る。
そんなに身を縮こませなければダメか。

「すみません」「すいません」というのもある。
なんであやまらなければならないのだろう。
英語のエクスキューズミーなら堂々としているのに。

そう思って「ごめんなさい」「ありがとう」などと意識的に使い分けてみたこともあったが、混乱して逆に使ってしまうのでやめた。

何を謝っているのか自分でもよくわかっていない、平身低頭さの中に
甘えを含んでいる、そんな日本人らしさが言語にもあらわれている。
「よろしくお願いしマース」など、どうにも訳しようがない。

私たちは腹立たしいほど、骨の髄まで日本人ときているらしい。
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道徳はいらない 
中学のとき道徳の授業で、可哀想な人に対する感想文を書かされたことを覚えている。
どういう状況の人だったか、差別されていて、貧乏で、にっちもさっちもいかなくなった、そんな人に対して私は
「そういう人はたくさんいるのだから」という表現を使った。
国語の先生が道徳も受け持っていたのだが、彼はそこの部分に、ことさらにこだわりたかったらしく、「そういう人はたくさんいますか、みなさん」と全員の前で発表された。
作文は「いい見本」と「悪い見本」に分けられていて、それぞれいい箇所、悪い箇所のみプリントされて配られた。
私のケースは、「もっと可哀想に思わなければいけませんね」という指導に値するらしく、「そうあるべき」「これは悪い」と片付けられた。
私の結論の「だからこの経験をばねにして強く生きてほしい」はどこへ行ったのだ。

しかし中学生はまだ子供なので、教師によってどんなことが行われたのか、いまひとつピンとこないのだ。
ただその混沌のなかで私が思ったのは「こういう先生がへたに熱血になってほしくない」ということだった。
道徳もいらない、ただ他の教科を教科書どおり教えてくれれば後は自分でやるからいいと。

自分の真意を、親や先生に踏みにじられても、何が起こっているのかわからず、ただもやもやとした不満を残してしまう子供は多いだろう。
また「多いですか? みなさん」と言われてしまうだろうか。
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思い出される人々 
若く貧しいころ、私を拾ってくれた人々のことは忘れようがない。

19の頃、医療事務の資格ひとつを持って東京に行き、個人病院の女医さんに雇われた。本格的な一人暮らしは初めてだったが、お昼を先生の隣に座りたらふく食べさせてもらい、飢えずに過ごせた。
私のたわいない毎日の出来事を、手をたたいて笑って聞いてくれ、ときに観劇や食事まで連れて行ってくれる、こんな人はなかなかめぐり合えないと思った。そんな穏やかな環境のなかで、「もう一度学びたい」という思いが湧き上がってきたのも自然なことだったかもしれない。

その後京都に戻り、岸田綱太郎さんに出会った。
私財を投げ打って建てたという研究所が、診療室を併設することになりそこに雇ってもらった。
インターフェロンのパイオニアで、人を射すくめるような目を持った先生は、反核など平和運動にも携わっていた。
話を聞くと生まれつき大変な虚弱体質なのだという。
自分が弱かったからこそ、人々を医学で救いたいという志を持って
文学部から医学部へ入りなおしたという。
ちょっと話をすると文系だということがすぐわかる、夢多き人だった。
私ごときのことまで、見ていないようでよく見ていて、誰にも言われたことのないような性格を指摘されたときはゾッとした。

彼の文学部時代の同窓生だったのが、私が次に移った出版社の社長で、そんなきっかけから本も出されたと聞いていた。
今年私も本を出せることになり、夏に思い出して一冊送ったのだが、この13日に亡くなったことを知った。
私のこと、本のことも話していたよと聞いて、直接渡しに行けばよかったと思った。
86歳の最後まで現役の研究者として元気に活躍した彼は、きっと自らの弱い身体を励ましつつ、マラソンランナーのように生き抜いてきたのだろう。

東京の先生にも著書を送ったら、昨年亡くなったという。

私の中の彼らは今でも、はつらつとしたお医者さんだ。
でも時は確実に流れ、待ってはくれない。
今日という一日は、大切に生きなければならない。


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かたづけの極意 
昨日の休日は、夫がいつの間にかそこらじゅうに詰め込んでいたガラクタの始末に追われた。家事も時に爽快感をもたらしてくれ悪くないが、この場合は「あの野郎~」となる。

どっちみち捨てるものを、見えないところに押しやらないで欲しい。「もったいないじゃないか」と道徳をふりかざして気分がいいのはそっちで、捨てるのはこっちなのだ。

私だってかたづけが得意じゃないからこそ、試行錯誤の末「ものは非情にすてるべし」という結論に落ち着いたのだ。

3年使わなければいらないとか、色々ある基準と自分なりの判断をかけあわせ、なおかつ血も涙もない冷酷さを加味しなければ、かたづけなんてできない。かたづけなければ、そうじもできない。

いらないものまで背負い込むということは、人間関係にもあてはまるんじゃないか。親密さを求めるがゆえの行動が収拾つかなくなる前に、黙って距離をとることもひとつの知恵だ。
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帰ってまいりました 
出産を終えて戻ってきた秋篠宮妃の第一声がこれ、だったそうだ。
英語で訳すとⅠ'm back となるらしい。
うーん、ちょっと。というか全然感じが出ない。
ちなみに秋篠宮が送り出した言葉はSee you laterとなっている。
なんて軽いんだろう。
彼が「あとでね!」とウインクするようには思えないが。

「帰ってまいりました」には、もっと深い微妙なニュアンスがある。
私が連想したのは、ルバング島から帰国した小野田少尉だ。

そういえば私も2人目を出産後、発熱で再入院し戻ってきて
知人に「生還しました」と思わずもらした。
敬礼まではしなかったものの。

私と紀子さんは同年代だが、どうしてこんなことを言ってしまうのか。

日本人のメンタリティーには謎が多い。

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老人だって人間だ 
船橋市が始めたという傾聴ボランティアをテレビでとりあげていた。
独居老人がボランティアの来るのを楽しみに、カレンダーに印を
つけている。真っ白なカレンダーにその日だけだ。

ボランティアのおばさんはひたすら耳を傾け、いいタイミングで
合いの手を入れる。「シベリアではどうだったんですか?」みたいに。
「この人が上手に聞いてくれるからつい話してしまうよ」と
老人は嬉しそう。
でもよく考えたら戦争を体験した人の生の声を聞くのは貴重なことだ。

それにしてもこのボランティア、おばさんが向いてそうだ。
私にもできるかもしれない。
聞き上手とはいえないが人の話は聞きたいし、老人も嫌いじゃない。
途中からメモをとって取材を始めてしまいそうだけど。

この傾聴ボランティアにはもちろん男性もいる。
話をするのが苦手だというおじさん、他の奉仕はなかったのだろうか。
ほっとくと苦虫をかみつぶしてしまうのか「できるだけ笑顔を心がけてます」だって。
無理しなくていいのに。

彼は、老人施設に出向いて傾聴する。
一人だけ、何を話しかけても黙ったままのおばあさんがいるらしい。
それでも悲壮な頑張りを発揮して不器用に話しかける、
彼のほうが所在なさげだ。
なんとしてもコミュニケーションをとろうという執念が実ったか、
ある日おばあさんがうなずいた。
ぱあっと顔が明るくなったのは、彼のほうだっただろう。
どっちがボランティアなのかわからなくなってくる。

番組では、そのコックリといううなずきがまるでスローモーションの
ように、切ないメロディーをバックに演出されている。
「おばあさんはやっと心を開いてくれました」。

「お笑い」よりリアルでこっけいだが、オチをつけるなら
おばあさんは「このボランティアうざいなー」と思っていました、といったところか。
「早くどっかいってくれないかな、うなずいたら話をやめてくれるだろうか」と。

人間のタイプは色々で、複雑だ。

うちにも人間関係が不器用そうなのに友達だいすきな娘、
人間関係が苦手じゃないのに、一人が好きな息子、と色々いる。
育った環境のみならず、生まれつきの部分が大きいだろう。

老人ホームと聞くだけで「姥捨て山」を連想する人はいたが、
今ではだいぶイメージも変わってきているようだ。
それでも、たとえばみんなと同じことをするのを強要されるくらいなら
野垂れ死にすることを選ぶという人だっているだろう。
学校じゃないんだから・・・
もっとも、リッチな老人ならどんな施設もよりどりみどりだろうか。





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会いに来た孫 
15年前から女になったという孫が、
ふるさとのおじいさんに告白をしに行くという番組があった。

いまさら悩んでまで何も告白しなくてもいいのに、自己満足じゃ
ないのかとも思った。
しかし実際告白されたおじいさんは
涙ぐむだけで、許すも怒るもないという風情だった。

おじいさんにとっては何より孫が会いに来てくれたこと、
そして告白するのに悩んでくれたことが嬉しかったのだ。
死に行く老人にとっては、孫がオカマであろうが何であろうが
ただ生きていてくれさえすればいいのだろう、と思った。


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安倍官房長官が、大学生にボランティア活動を義務付ける案を出した。
もちろんボランティアは義務付けられてするものじゃないが
若者にいろんな現場を見せるという意味では有効かもしれない。

こういう世界があったのか!と、崇高な気分に目覚める若者もいるかも。
そんな美しい気分を、政治の不純な動機にうまくあおられて
しまわないといいけれど。

賃金が発生するものはきちんと受け取ることが大切。
ボランティアであるならば、人に恵みを施すことによって
自分も見えないけれど同等のものをきちんと受け取っているという
「お得感」が大切。

「やってやってる」という意識があるならしないほうがマシじゃないかな。

私のために、せっせと必要以上に身体を使って何かしてくれようとする人がいる。
思わず「申し訳ない!」といってふと思う。
申し訳ない気持ちにさせるのはやめてくれと。
だから人にものを頼まれても、あえて
「自分でできることはやって」と突き放してしまう。

いわゆるキリスト教的考え方のなじめないところだ。
そんなことしなくても自分を大切に生きていれば
身体を張るべきところは神に自然に差し出されるのでは?

でも実は本人もなじんでなかったりして。
訓練によって身体が動いてしまうのかもしれない。

まあ何でもまずやってみなければどうなるかわからない。

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ハンデということ 
大学で何を学ぶか選ばなければならない時、候補が2つあった。
ひとつは福祉関係、人のために何ができるかという漠然とした
美しい理想があった。でも私など「現場」に耐えられるだろうか。

福祉の現場で働くことは想像以上に厳しい。
それは可哀想な人に涙するような自分がいるからできるのではない。
涙すること自体は、私の感傷に過ぎない。
いわば単に「ブルースが趣味」ということだ。
現場で働くには、そんななまやさしい趣味より
もっと別の資格が要るはずだ。

私のように、気づくと上から横からものを言ったり書いたりしている
のがまだしもお似合いの人間、それは一種のハンディキャップだ。
私には方向音痴以外にものすごいハンデがある。

それはもちろん「ハンデでございます」と言いふらすものではなく
自分ではどうにもしようがないということだ。
たとえば自分ではしっかりしているつもりが、ふいに涙がこぼれたり
わけがわからなくなって倒れそうになる、そんな
自分が自分でない何かに支配されてしまっているときに、
周りの人が慰めてくれる、支えてくれるという経験をすれば
人は自分ひとりで生きられないことがわかるだろう。

絶望せずに自分のできることを探すしかない。
さしあたり今、夢中になっていることはなんだろう。
当時はイギリスに夢中だった。
まだイギリス本のブームの前だったから書店で文献を探すのも
一苦労だった。当然文庫などないから、高価なハードカバーが
せまい1DKに積み重なっていた。
それなら、一番近いのは英文学か?

こうして私は学部を決めた。その後それが直接どうなったと
いうわけではないけど、今何とか生きていられる。
そして、だからこそ伝えたい。
こういう人間ならなおさら、現場第一主義の意識を持つべきと。

このことは、世の中から浮遊しそうな自分にあえて言い続けている。
私はおこがましくも、色々と現場を体験させてもらっているのだ。
もし神様に「それでもいいよ」と言ってもらえるなら
もう、感謝でしかない。
せめて自分なりのいい人間にならなければ、と思う。




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お父さんはかわいそう 
日本のよくいるお父さんたちはなんてかわいそうなんだろう。
心底好きな仕事をしているならまだしも、会社でこき使われ
たまの休みも家族サービス。おこづかいは少なくたいした栄養も
とれず、なおかつ家族には見下されている。
涙なしには語れない。
情けないじゃないか。
もっと威厳を持て!と言いたくなるが、こういう人がへたにいばると
かえって泥沼化するのかもしれない。

でも物事はどちらか一方が全面的に悪いとは思えないから
なにか原因らしきものはあるはずだ。

たとえば、いっそのことバカになって小さなことにも感謝してみたら?
そうそう世の中に、本当の鬼嫁はいないはずなのだが。

女性の方も変な誤解を受けたくはないだろう。
お金をもたらすお父さんは、やはり尊いと思っているならば。

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愛国心ってなに? 
昨日のニュース23で、あるニュースキャスターの死を特集していた。
9.11事件後の愛国意識高まるアメリカで、
「アメリカはどうして憎まれるのか」という素朴かつ根源的な問いを
発した彼に視聴者が反発、体制にも目をつけられ視聴率は低迷、
失意のうちに亡くなったという。
興奮状態にある中でこそ、物事を客観的に冷静に見ることは何より
大切なのに。
彼はジャーナリストとしての使命を果たしただけなのに。
視聴者代表ともいえる主婦が「どうして憎まれるのって、そんなこと
どうして私が考えなければいけないの?」と言ったという。
主婦だからこそ考えなければいけないんじゃないの? 
「私は思考停止していまーす」と言っているのと同じこんな意見を
笑い飛ばすことはできなかったのか。
こういう人々が愛国心を持つことほどこわいことはないと。
強気に振舞いながらも、真面目ゆえにすべてをまともに受け止めた
ストレスが死をもたらしたのだとしたら、あまりにやりきれない。
人間のもろさを思い知らされる。
少数派を闇に葬る、どこが自由の国なんだ。
野放図でいいというなら、それは自由とはいえない。

彼はアメリカ独立宣言の記事をいつも携えていたという。
彼の問いは、アメリカの独立精神を称えるプロセスだ。
カナダ人でありながら、これほどアメリカを愛している人はいない。
これぞ愛国心だ。
本来ならこうした人こそ追悼されていい。
さらに言えば、巻き添えになって死んだイラク人も、
アメリカ人同様惜しまれるべきじゃないか。
こういうことばかりしているから、憎まれる
ということを、しかしアメリカ人はそろそろ気づき始めている。

むしろ今後こわいのは、アメリカに追従している
日本かもしれない。


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おこれ! 
恒例の町内運動会に参加してきた。
なんか年々人数も少なく、さびれていってる気がする。
でも手作り感覚の地域の行事を絶やさないことは必要かもしれない。
私自身はそろそろお役ご免こうむりたいところだけど。
ふるさとというのは、たとえば傷を受け帰ってきた者をいやす
役目もするのだろうから。
強い者が生き残れという政治をおこなうならなおさら
こうした受け皿は重視されるべきではないか。
問題は色々出てくるだろうけど。

それはさておき、隣のテントでは子供が泣いている。
幼児かと思えば小学生、しかももう3,4年の女の子だ。
お母さんはなだめ疲れて放心状態なんだろうか
何を思ったか今度は子供を抱きしめた。
背中をなでさするその顔は聖母マリアのようだ。
誰も咎めはしない。
でもはっきり言ってうるさいんですけど。
辛抱強いのはいいことだが、こちらはもううんざりなのだ。
かれこれ朝からもう何時間になるのか。
泣き叫ぶ声をバックにお弁当を食べながら私は内心
「おこれ!」とくりかえしていた。
もういいかげんおこってやってくれ。
この母も、祖母も、子供のわがままに耐えることに精一杯
まわりのことなどおかまいなしだ。
でも子育ては我慢してやり過ごせばいいものではない。
それでは何より親がつらいだろう。
ついにぶち切れて、歯止めが利かなくなったらどうするんだ。

もちろん子供には生まれつき色々なタイプがある。
その子が悪いともいえない。
泣き続けることも、「根性がある」と言い換えることも可能だ。
そんなハードな子を育てるのは一筋縄ではいかない。
なだめるという行為は、当事者にとっては泣き止ませるベストの
方法だったのかもしれない。
それでも、やはり子供は小さいうちから厳しく育てるべきだ。
成長してから困らないために。
甘やかし放題であとから厳しくしてももう遅いかもしれないけれど。


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以前は夫とけんかするとあるものでいやされていた。
ばつの悪い思いを抱え送り出した翌朝ひらく本だ。
著者たちはいっせいに「妻が悪い」と言ってくれる。
あなたが悪いと。
「宮仕えのすまじさを知らずにぜいたく言うな」
「女が我慢すればかわいい奴だと思われてうまくいくのだ」
前後の脈略やニュアンスも無視して「ああやっぱり」と
思えるものをピックアップして満足している。

その種のマゾヒズムはたとえば宗教の信者獲得に
なくてはならぬものだ。
でもそれで罪悪感をますます強くした挙句
一時的な安心と引き換えに
結果的に女性の慈愛心がカラカラにひからび
ひそかに人の不幸を喜びとするような悪循環が生まれたとしても
そんなこと誰も責任とってくれない。

主婦など何でもまず「家族に相談してから」と言う人がいる。
たとえば資格を取るとか、勉強をする程度のことでもだ。
家計や家事、育児のことも自分なりに考慮に入れて、
それでもしたいこと。それが相談してだめだったら
自分を抑えるのだろうか?
それはせっかくの自立の芽だったかもしれないのに。
根本的な自信の持てないあなたを変えるきっかけかもしれないのに。

相談すればそれでらちが明くと思うのなら甘いのではないか。
人にはそれぞれの価値観があり、年配者ならなおさら
今さら変えることはむずかしい。
何でも家族単位、仲間単位という方法は
誰かが自分の尊厳を捨てることで成り立っているのだとしたら?
しかも無意識のうちに。

説得や説教には限界がある。
まだしも行動を見てもらう方が希望が持てる。
筋が通っていれば心を動かしてくれるかもしれない。
長い目で家族を、ひいては自分を守るために
あえて荒療治が必要なこともある。
自分で自分を痛めつけていると感じるなら
思い切って抵抗してみればいいじゃないか。

もちろん家族は大切だ。
でも自分の人生の最後を恨みつらみで終わらせないことは
もっと大切だ。

もっとも、本気でしたいことがあるなら、誰に言われなくても
革命という言葉の意味を知らなくても
それをしているだろう。
家族の皆さんも、迫力負けすることうけあいだ。






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ローリング・ストーンズのボーカル、ミック・ジャガー。
62年のデビューから現在に至るまで
第一線のスーパー・スターでありつづけた人。

不良でセレブ
アーティスティックなビジネスマン
きゃしゃでマッチョ
優等生で反逆者
フェミニストであり男尊女卑
保守であり、革新

これらをまとめて、イギリス的ユーモアという。

多芸多才でありながら天才肌ではなく
ただひたすら努力を重ねてきた偉人。
哀しいくらいに一生懸命、苦しいほどに生真面目。
それが彼の素顔である。

イズムを固守しようとする姿勢は
日本的ダンディズムともいえる武士道に通じる。

そんな彼の使命は、キリストを生きることだった!

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天職を得た人 
初めて自分の書いたものが活字となって本屋にあるのを見たときは
嬉しかったが複雑だった。それは、レジ横によく置いてある
「これから出る本」という小冊子。
25歳だった私は「出版社の新人100人が選ぶ100冊」とかいう
企画に参加したのだ。たった3行だが、森茉莉の『私の美の世界』に
ついて書いた。この特大号は、ゴールデンウィークをはさんで
いつもより長く書店に出ていた。
その間私は生きた心地がしなかった。
「部長は手に取ったに違いない」

雑誌に載せる広告文に重大なミスをやらかして、大目玉をくらったところだ。
またなんか言われるんちゃうか。
「何だこの文章は! 会社の恥だ」
言われてもいない言葉が頭の中をリフレインする。

休み明け、おそるおそる出社すると部長は入り口の所で既に
「お出迎え」の姿勢をとって待機していた。
うやうやしく中に迎え入れられると、後は「絶賛」の嵐だった。
たった3行は、よほど彼の趣味にあったらしい。
赤鉛筆でぐりぐりと丸をつけながら・・・先輩たちに「特にここだよ」と
言って回りながら・・・身がすくむ。
著者でもないのにここまで喜ばれちゃっていいの?
わけのわからないまま、安堵感とともに
「この人は幸せな人だなあ」という思いが湧きあがってきた。
根っからの編集者だな。人の文章にここまではしゃげるとは。
彼は天職を得ているんだ!

「あれもこれも出来ます」という人より
「これしかないけど最高なんです」という雰囲気の人って
素敵じゃないか。

人に文章を誉められたのはこれくらいで、後は覚えていない。
とすれば、それは、なかったのだ。
この時の印象が強過ぎたのか。
オニの編集者の無邪気な姿は、それだけ残るものなのだ。

人はやっぱり一人では生きていけない。
こうした数少ない人の承認に支えられ、導かれて
また私も書こう、書けると思えるのかもしれない。

いや、書こうと思った時に、はじめてそうした情景が浮かんでくるのだ。
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ふたりのおきさき 
こういうことになるずっと以前、知り合いがこんなハナシをしていた。
「私の友達が紀子さまと同級生だったんだけど、彼女スゴイらしいわよ。
礼宮にターゲットをしぼって必死にアピールしてたんだから。
それはもうやり過ぎくらいに」。
まあやんちゃそうな礼宮の方が魅力的かなと思ってはいたが
ここまで好かれたら本望だろう。
紀子さんは、皇族に入ること自体を狙っていたわけじゃなく
彼女なりのバイタリティーの発露が嫌味なほどだったのだろう。

目から鼻に抜けて天井を突き破るような雅子妃より、大人しそうな紀子妃の方が、実は女性特有の根性があったとは言えるかもしれない。

でも知り合いの言いたかったことは「見かけに寄らず何考えてるか
わからないわよね」という敵意に満ちたものだったろう。
女性は案外やみくもにトップを狙ってくるような野心があるから
こうした感情論になりがちなところがあるのかもしれない。
でも紀子さんは将来の天皇(?)の母ということも意識してなかったと思う。
そこがしなやかな強さのポイントであり、結果は結果に過ぎない。
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男子誕生に思う 
子供は本来つくるものではなく授かるものということ、また天皇を神とするような考え方があってはならないことをふまえつつ、あえて言いたい。
天皇家としては、日本の伝統にのっとった形で継承をおこなう立場というものがあり、その意味で秋篠宮夫妻は伝統を守るため、身体を張って男子をつくったのだと思われる。
いざという時に「身体をはる」ことが彼らの独壇場だ。言いかえれば
そうした1つの「尊厳」を示すことしか、彼らにすることはないのだから。
とはいえそうしたあり方は人間の基本でありながら、とても難しいことだ。
だから「見本」としての意味もあるのだろう。

「雅子様がかわいそうだ」というちまたの声もあったが、
彼女も天皇家に嫁いだ覚悟があるなら、当然喜ぶことだろう。
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羊のような日本人 
日曜日、運転免許の書き替えに行った。
「うわっ何これ」というほど、かなり人が並んでいたのだが
誰一人として手間取る人がいないために列がスムーズに消化されて行く。
外国のこういうところへ行ったことはないが、
日本人の一糸乱れぬ動きっぷりに感心した。
唯一変わったことをするとすれば、それは私のような気さえする。
こんな日本人なら、少しでも人と違うと、「どうしよう」と
戸惑うのも無理のないことだろう。
言ってみれば、みんな草をはむ羊のようだ。
もちろん中にはけだもののような人もいるが、日本の場合犯罪者にしても
むしろ日頃自分を抑え過ぎていたために、本来は小出しにしないとバランスが
取れないのかもしれない獣性が、内面で膨らんでついに暴走してしまったようなケースが多い気がする。
ニュースを見ていると加害者も被害者も、身の置き所のないようないい人ぶりが現れていて居たたまれない。

こんな日本人にそもそも競争だらけの資本主義はお似合いじゃないというのが
格差問題などの現象に出ているのではないか。
堀江被告にしても、つかまっても反省の色もないところを見ると
彼はある意味「何でもあり」の時代の犠牲者なのかと思う。
間違った論理であろうとへたに頭がいいために、辻褄が合ってしまうという
ヤツだ。
こういう人々にたとえば古き良き武士道を説いたとしても最早
かたなし。

そうしたことを気づかせるために、彼の存在意義はあるのか。
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メディア戦略の限界 
出版社勤務の頃、本のコピーを書いてきたので、
メディアを意識した表現というのはくせになる事もわかるが、
そうしたものにいつまでもたぶらかされるほど国民は甘くないことが
小泉首相の支持率低下に現れている。
いったい本質は何なんだ?と気づかないほどみんなバカじゃないから。

作家でいえばある意味彼は初期の林真理子のような人だった。
徹底したメディアの利用、コピーライトの才能、上昇志向。
でも、コミュニケーション能力は結果的に最大の武器ともいえる。
たとえばどんなに劣悪な環境にあっても、コミュニケーション力が
あれば、あまりヘンな役は振られないものだったりする。

しかし本人が「それだけで行ける」と調子に乗ってしまうと
とんでもない方向に行く。
うまく泳げる人ほど勉強が必要だと自覚しなければ。
リーダーをまかせるにはあまりにこわい人だったのではないか。
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人間なんて 
こんなコマーシャルがあった。
「ふーちゃんは、あなただけを好きになるよ」
人形なのだが、他の人が抱くと自らいやがるらしい。
パパが近づいて思いきり嫌われている。「パパいや!」
ほらね。あなただけだよ。
コマーシャルは繰り返す。

子供を天使だと思っている人がいたらお目にかかりたい。
あなたのイメージするようなほほえましい子ばかりじゃない。
上には機嫌をとり、下にはいばりたおす男の子。
流行なのか、赤ちゃんっぽい芝居がかった口調の女の子。
ずるくてせこくて、見るに耐えない、聞くに忍びない。
そんな子どうやって好きになれというのか。

しかしみんなこうやって生きていくのに必死なのだ。
子供はある意味人間のエゴの縮図。

自分の場合はどうだっただろう。
子供らしい純粋さの断片だけを思い出すことはできる。
たとえばかわいそうな人をテレビで見ると、番組の最後に告知された募金を
私もしたいと親に申し出る。「クリスマスのプレゼントいらないから」。
しかし実際はどうだったか。
どこかで期待していたのだ。
「そうは言ってもクリスマスになれば買ってもらえる」と。

なんと母は妹だけにおもちゃを買い、私は一人で留守番させられた。
申し訳程度に買ってきてくれたおもちゃを見て不満が一杯だった。
「リカチャンのお面セットか・・・」
人間がかぶるのならまだしも、リカちゃんが色々に変身してどうするんだ。いらないや・・・
母が私の好きなものを把握していなかったことが白日のもとにさらされる。
向こうは向こうで感謝のかけらもない娘に不満そうだ。

偉そうなことを言っても私などこんなものだ。
私なんてというより、「人間なんて」こんなものだろう。
ららーらーらららららー
吉田拓郎がギターをかき鳴らす。

だから人のことは本当はとやかく言えない。
いいも悪いもない。

ただひとつ、イデオロギーの上にあぐらをかくことのみ批判したい。
そして批判の対称はまず自分であるべきなのだろう。

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10年も前の新婚時代のことだ。
私が結婚したのは、子供を持って自己中心の世界から脱却したいからだった。
夫について移って来た新天地でさっそく子作り計画に励んだが、ほどなく流産した。
そんなはずじゃなかった。
近所に住む、夫の同僚の奥さんは「出来ない」」とこぼしていたが、結局先に身ごもった。
暇な主婦の子作り競争だ。
彼女と日がな1日駄弁る日々にいいかげんあきていたが、趣味を持たない彼女は私にべったりと寄りかかってくる。世に知れた大会社の社長令嬢で、ドラマを見ながら「あんなアパート絶対住めないよねー」なんて言う。
ぼろアパートで一人生きてきた私はうなずくことができなかった。
妊婦の荷物を持ってあげながら「私は何をしているんだろう」と思い、
彼女を避けるように、不妊検査や鍼に通うようになった。
ルサンチマンや強迫観念は、人をすきだらけにするものらしい。
鍼の先生のお誘いで「とってもよかった」セミナーというところへ行こうと決めた。
癒されるためならお金は惜しくなかったということか。
旦那を説得し、宿泊費と交通費、3日間の受講料10万をぶんどって大阪へ行った。
自己紹介やグループ分けのあと、全員参加の様々なトレーニングをこなす。
たとえば私がこれからどんなに不幸になっていくのか思いつく限り語るというもの。子供に戻って親に言えなかった不満をカタルシスするもの。
絶妙のタイミングで流される、長淵剛やさだまさし、中島みゆきといった
暗いとされる歌謡曲がわざとらしい。
結局はこの泥臭さが、日本人に一番訴えるものなのだろう。
だんだん主催者側の意図が読めてきた。
自己批判をさせておいてトレーナーがそれについてコメントする。
「あれ?今私が言ったことを繰り返しているだけじゃないか」。
横一列に並ばされるとトレーナーが一人一人に耳元でささやいていく。
ボソッとしたその殺し文句を、床にくずおれんばかりにして受ける女性。
何を言ったか知らないが「私だけにかけてくれる一言」は貴重なのだろう。
おそらくその場のきまぐれなのに。

一日目が終わり、ほんの少数だがぷりぷり怒っている人もいた。
しかし大半は、もうすっかり雰囲気に酔ってしまっていた。
2日目には完全に覚めていたが、こうなったらすべてのトレーニングを
大はりきりで楽しんでやろうと決めていた。
自分を捨てろと言われれば、その気になって大声を出してみた。
2日間わたしたちは閉ざされた空間からトイレに行くこともままならなかった。
集団催眠術の常套手段とは後で知ったことだ。

極めつけは最後のトレーニングだった。
2重の輪になってフォークダンスの要領で変わっていく相手に合図する。
「目をそらす」「握手する」「抱き合う」だったかな。
どれを選択してもいいので、私は最後まで握手で通したかったが
次第にみんな抱き合っていくので、多勢にさからえず同じようにした。
最後にはみんな抱き合って、思惑通りというわけだ。
「わかったよー」と言って泣き出すいいオッサンがいる。
みんな笑顔だ。
この中の何人が本心は冷めているのか見当もつかない。
だって私も実はどこかで感動してしまっているのだから。

最終日の朝、目をつぶらされ手をひかれて、いざなわれた。
どこへ連れていかれるのかもうわかっていたので、目をあけたかったができない。
私をセミナーへ誘った鍼の先生が花束を持って待っていた。
もう一人そこへたどり着いた男性は目をあけたとたん泣き出した。この人はマジで目をつぶって「何だろー」と歩いてきたのか? 絶望的だ。

当然ながらみんな3倍高額の次のステージに誘われた。
決意した人がみんなから拍手喝さいを浴びている。
断った私はあせったスタッフに別室へこっそり連れられた。
そこには目の据わったそれでなくとも人相の悪いデブのトレーナーが居た。
何を言っておどされたのか、耳に入っても受けとめないように精神統一していたので、もう覚えていない。
口ほどでもないあきらめのいい彼に比較的早く解放されたらしい私は
帰途で「やったぞ」という気分だった。自分のことをだまされやすいだろうと思っていたが、意外と大丈夫だ。
ぼろアパートでここまで成長してきた自分に乾杯。
しかし世の中にだまされやすい人は一杯いて、そっちの方がこわかっ
た。
だまされていると決めつけるわけにもいかないのだが。
だから私にできることは、鍼の先生に黙って本を貸すことだけだった。
『洗脳されたい』にはセミナーの実態が事細かに載っている。
判断するのは、彼だ。

先生は修行を積み重ね、ずいぶん上のステージまでのぼりつめていた。
その彼が数日後「読んだよ。申し訳なかった」と、今後の治療費をタダにして
つぐないたいと言って来た。
お言葉に甘えて一度だけ行ったが、さすがにそれ以上は遠慮した。
お互い得るものがあったのなら、それでいいとしたかった。
余計なことだったのかもしれないが、もう確かめる術もない。






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子宮筋腫が大きくなったので医者に「手術しては?」と言われたが拒んだ。
命に関わりない限り、手術などしないに越したことはない。
基本的に自分を守るのは自分だけだと思えば、
「なんとなく」という動物的カンをともなった人間的知恵を
おろそかにはできない。
手術や輸血がこわいというのもそのひとつだ。
もちろんそんな直感から入ったのち、調査というあとづけが必要となる。
そこで初めて情報が生きたものとなる。
そうすれば結果的に「敗北」したとしても得るものがある。
転んでもただでは起きないということだ。

たとえば新首相を選ぶについても、やみくもに情報だけを集めても
わからなくならないだろうか。
演説を聞き比べても、同じ言い方で内容は正反対ということもある。
特に美しい表現で彩られていては、そちらに目がうばわれがちだ。
とはいえ、もう首相になることが決まっているらしい彼が、
「元首相」たちを1件ずつ訪ねて「おっ、総理」とあいさつしている。
その場面を見ただけで、なんとなくいやになる。
年老いた母親が自慢の息子の訪問に「おっ社長、よく来たな」などと
茶化して言うのとはハナシが違うのだ。
公の場でヨイショし合っても仕方ないだろう。



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