サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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3日ほど前テレビで「たかを育てる少年」をテーマにしたヒューマンドキュメンタリーをちらっと見た。ハンディのある少年が、様々な出来事を経ながら育てたタカをいよいよ空に放つ日が来た。
大勢の見物人がいっせいに拍手をし抱き合う。

一緒に見ていた夫が「タカは死んでしまうだろうな。これだけ保護してから放しても生きていけないよ」と言う。
ふと「この人たちアメリカ人?」と聞いてみた。
「そうだ」。
ああ、またやってるな。
まったくどっちが解放だかわかったもんじゃないぜ。

つい先日遅れ馳せながら見た映画とリンクした。
75年のアカデミー賞受賞作品「カッコーの巣の上で」
犯罪者で「自由人」の主人公が、刑務所労働のいやさから精神病院に逃げ込む。そこで出会ったのは、外界との接触を自ら絶った患者たち。
彼らを強制収容とみなした主人公は、「そんなことではいけない」と
スポーツや釣り、乱痴気騒ぎなどを教える。
次第に「自由」の味を知った患者たちは、現実に踏みとどまることをしなくなり、やみくもに暴走し始める。それは破滅への道だった。
たとえば女とひとときの至福を経験した後、冷徹な管理者である看護婦に「お母さんに言いつけますよ」と言われ自殺した患者。彼などはどちらが幸せだったのだろう。彼はママがわりのうるさい看護婦に、もはや安らぎを覚えていたのかも知れないじゃないか。彼は毎日の室内ゲームに楽しそうに興じていた。彼の世界はそこにあったかもしれないのだ。
主人公はそんなものは退屈だった。しかし誰もがみな、自分と同じボヘミアンだと思ったら大間違いだ。
それに、人にはそれぞれ生きるペースという権利がある。
それをまるっきり無視する横暴には首をかしげざるを得ない。

主人公は病院から危険人物とされ植物人間にされてしまう。
しかし彼に共感していた一人のスパイがいた。
彼はインディアンとして白人から差別を受けてきた過去から、人と話をすることをやめていた。この映画で救われた人物がいるとすれば、ただ一人、「抵抗したらバカをみる」と、従順に生きることを選んできた彼だろう。彼は「お前一人ここに置いておけない」と主人公を殺害し、自分は病院を脱出していく。
外の世界への出口である窓ガラスの割れる派手な音は、「私をつかまえてくれ」と言っているように聞こえた。

ちなみにカッコーに巣などない。他の鳥の巣に卵を押し込んで子育てさせるのだ。まさしく無責任の象徴とはいえないだろうか。

反体制とはそんなものじゃないはずだ。
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植物採集の人 
親子で植物採集という企画に参加した。
かんかん照りに長そで長ズボンでも苦痛じゃなかったのは
ひとえに指導の先生がおもしろかったから。
何がって存在そのものが。
植物が何よりも好きなために、子供たちのどんなくだらない質問にも
嬉々として答えている。
楽しそうな人を見ているのはとても嬉しい。
ずんずん歩いていくあとを「どこまでもお供します!」
という気になってしまう。
夢のある男に貢いでしまう女がいるとすれば
そんな気持ちが少しわかった。
そういえば生命保険のCMで「ディズニーランドへ行って何が面白かった?」
と聞かれて「パパ」と答えるこまっしゃくれた子供もいたなあ。
親バカそうな語り口もなんだか不快な1本だった。
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一人でお化け屋敷 
昨日行った遊園地のことをもう少し書こう。
今月で閉園というさびれ感一杯の奈良ドリームランド、
待ち時間も少なく、曇り空の時間も多く、比較的快適だったが
それでも夏の遊園地、一服の清涼剤を求めお化け屋敷へいざ、
という段で、そんな年頃の息子がこわがり、私も外で待つことになった。
出てきた夫と娘が「あーこわかったー」「あれはやめておいて正解だったよ」
などと言うのでどうしても見たくなり、
彼らが木陰でジュースを飲む間一人で行ってみようと決心した。

結論を言えばまったくこわくなかった。
私は方向音痴なので、目を凝らして足元を見据え、方向を確かめて手探りで歩くのに精一杯、お化けなど眼中になかったのである。
一度だけ曲がり角を曲がる際、鬼に金棒で殴られそうになって叫んでしまったのは不覚だったにしても。

怖さの正体というのは、暗闇で、どっちに行けばいいかわからない不安感に尽きると、改めて意を強くした。
それをいったん「こわい、どうしよう」と思えば必要以上に怖くなるし、
「誰か助けて」と思えばそこにいる人に全面的に寄りかかってしまう。
すべては自分次第ということだ。
ジェットコースターなどの怖い乗り物も基本は同じ。
誰もそんなこと考えて乗ってはいないと思うが。

むしろ感じるべき怖さが麻痺してしまうのは考えものだ。
こわいものはこわくて当然である。
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子供たちが奈良の遊園地は初めてなので、今月で閉園となる
奈良ドリームランド行きを決行、近場だけどたまには1泊をと
荒木陽子著『愛情旅行』にあった奈良ホテルを選んだ。
本では、夫のアラーキーが当初クラシックホテルならではの旧館を予約したが
息の詰まりそうな狭さに新館に変えてもらったという話が出てくる。
旧館は改装中で見ることができなかった。
それでもベッドの上に、バスルームに、時折漂う古めかしい香りの正体は何だろう。
私は旅館よりホテルの合理性が肌に合うが、たとえばいわゆる洋食にしても、本場のものより、日本風の繊細な技巧がほどこされたものが最高なのは言うまでもない。
ドリームランドでも、木製コースターの細かい足組みに感動、またジャングル巡航船の次々出てくる動物たちに目頭が熱くなる。これらは閉園後壊されるのだろうか。またもや頭の中にブルースが鳴り響く。

ちょっとホテルでリフレッシュすれば、遊園地のハードスケジュールもなんのその、帰宅後の家事がはかどるはかどる。
女ってそんなもんだと陽子さんはどこかで書いていた。あやされて喜んでいる場合じゃないが、精力旺盛な旦那を持った妻の気持ちってどうなんだろう。
夫婦のことなど他人には計り知れないが、アラーキーは常に妻という、得体がしれないマグマのようなドロドロとしたものを抱えていたんだろうなとは思う。
それはヘタすると自己破壊にも通じるやばさをもつ。
「あとがき」でアラーキーは、安井かずみに先立たれてすぐに再婚した加藤和彦を、「仁義がない」(あんなのありか?ずるいよなー)と書いていた。
彼はドロドロに殉じたのか。
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チェコ絵本展 
「チェコ絵本とアニメーションの世界展」へ行った。
チェコアニメの独特の色彩やシュールさが好きだったが
絵本も同様、キッチュな詩的世界が展開されていた。
会場ではアニメ映画が次々上映され、子供も飽きずに過ごせた。

トゥルンカは、手塚治虫に影響を与えたというが
それならチャペックは長谷川町子じゃないか。
ひょうひょうとした動きのある絵は、初期のサザエさんを彷彿とさせる。
テレビアニメになる前の漫画本の。
ネタだけはテレビでも健在だが、原画の味は失われている。

チェコ人の勤勉性もあるのだろうか、精魂のこもった職人ワザと心意気が
そこかしこに感じられた。
子供のための絵本でありながら子供だましでない。

ビロード革命以後の自由化で(あるいは他の諸事情もあってか)
表現法も様々に広がったが、それならなおさら本という伝統は大切に
守り続けられねばならない。
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マドンナ 
マドンナいよいよ来日!とCMでさかんにやっていた。
たしかこの間来日したばかりなんじゃ?
スマップスマップにまで出ていたんじゃ?
彼女も安くなってしまったものだ。
これで良かったのか?
それともどこかで間違ったのか?
その点ミック・ジャガーは違う。
ライブでは見世物小屋に出ていそうな芸人感を放出しながら
こういうことにはならない。
それが彼のプライドだ。
たとえばバラエティーに出るのなら
ギターのロニーという適役に一括して任せるだろう。
私は関係ないよという顔をして。

マドンナは自らのコンサートを芸術だと豪語していた。
おそらくそのことについて「ビーイング・ミック」の中で
エルトン・ジョンが「彼女、アーティスト気取りがいただけないね」
といいミックもうなずいていた。
マドンナはイギリスに移り住んで長いようだが
(今は知らないが)
生粋のイギリス人はイナカくささには敏感でイジワルだ。
せめて言わなきゃ良かったのかもね。
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私の初めての著書は期せずして、ミック・ジャガーと、武士と、キリスト教を掛け合わせることで生まれた。プロテスタント教会には書き始める2年前から出入りしていたものの、武士については、それまで興味も知識もさほどなく、なぜこうした発想が出てきたのか、どこでどうロックスターと結びついたのか、なにより本にまでなったのか不思議だった。
その後、プロテスタンティズムと武士道ということを言っていた内村鑑三という人がいたことに気づいた。また彼の一族と、母方の祖母の一族と、同じ町内に住んでいたということを最近知り、おこがましくも何かあるのかと思った。
祖母の祖父は高崎藩士だったが、明治維新の武士解体で、東京に出て人力車の商売を始めたという。
そして、車を人に全部持って行かれてしまったという。
お役ご免となった没落武士のブルースがひしひしと伝わってくる。

高崎公園に内村鑑三のこんな碑があるらしい。
上州人は無智無才、剛毅朴訥でだまされやすいが、ただ正直をもって万人に接し、至誠神によって勝利を期す

京都に嫁ぎ、今はまた高崎で一人静かに暮らす母を時々訪ねるが、
今度行ったらこの碑を見てみたいと思う。
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役者と責任 
世の中には無責任極まりない人もいれば、必要以上に責任をかぶりたがるような人もいる。いい人は心を病むなどと言われるが、ことは単純なものではない。しかし責任の所在ということをあえて簡素に解釈しようとするとき、能舞台にのぞむ役者のあるエピソードに思い至る。
戦のない時世にあった武士が自ら舞ったという能。
彼らは戦へのエネルギーを、自らへの挑戦に置き換えた。
能には武士の美学が反映されている。

本番前、舞台衣装を身にまといながら、彼らはまさしく責任の所在についてやりとりするのだ。
美術工芸の粋をこらした、ずっしりとした衣装の重みはすべて、最後にしめる一本のひもにかかっている。和服とはそうしたものだ。
最後のひとしめをする直前、衣装係は役者に聞く。
是か非かを。
是といえば最後、責任はすべて役者のものだ。
演じるうちにどんなアクシデントがあろうと最後までやりとおさねばならず、もし中断するようなことがあれば、役者は切腹をしたそうだ。
本当の責任とは命をかけるほどの重みをもって扱うもののようだ。
軽々しく考えないほうがいいのかもしれない。
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ストロー突き刺し事件 
先日5歳の息子の歯が抜けた。
棒のような歯だったのにはわけがある。
彼は1歳から3歳まで、歯茎にストローを刺していたのだ。
3歳の時、口からポロっと短く切ったストロー状の
物体が出てきて、霧が晴れたようにすべては明らかになった。

まだまだ何でも口に入れる1歳の頃だ。
家にはパイプ枕があった。
そして穴があいていた・・・
それがストローの正体だった。

彼はパイプの1つを歯のカバーとして2年を過ごしたのだ。
缶詰の鮭の中骨のような歯が心配で、歯医者に行きもした。
若い先生は深刻そうに、「こんな歯は見たことがない。半年に一度レントゲンをとって、経過を観察する必要があります」と言っていたっけ・・・

中国のてん足ではないが、ひ弱なマッチ棒のような歯は哀愁をさそった。
子供をこんな風にしてしまうのだけはよそうと思った。
「歯が生えるか生えないかはわかりません。生えるとすれば今月中には出てきます」と今回言われていた。
そして昨日ぽっちりと白いたくましい大人の歯が頭を出しているのを見たとき、みんなで申し合わせたような拍手をした。
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姜 尚中 
最近テレビでよく見るが、この人の発言にはいちいち「なるほど」とうなずかされる。
「中国や韓国はぶーぶー言うな」という意見の夫も、「この人の言うことは好きだ」なんて言う。内容をちゃんと聞いているのだろうか。この先生はあなたと正反対のことを言っているはずだが。
それに気づかせないような何かがあるのか?
だったらそれはいいことなのか?
靖国賛成ではないにしても、「中国に対する戦後処理も終わっているはずだ」という夫と、「そういう、処理したから、金を出してやったから、文句は言えないだろうという考え方、態度がそもそもいや」という私。
両者の唯一の掛け橋がこの姜尚中だろうか。
掛け橋とは何かを端的に言ってしまえば「魅力」なのだろう。
たとえば常任理事国入りをしたいがために各国を訪問し始めた日本、なんていうのは魅力がない。
まあ結論を急がず「掛け橋」のプロセスを重視して、今後も注目してみたい。
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家庭的なあのひと 
本やブログを書いておいて何だが、これらを「読んでね」とはなかなか言えない。それでも本については、機会をみて少ないながら伝えてきた。
子供を通じた母親仲間の中には「私より主人の方が読んでるわ」という人もいて、チラッと見かけるだけの彼らにストリップして見せているような気分も否定できない。
我々母親にもいつも和やかに接してくれるお父さんがいた。
家庭的で子煩悩な彼なら、奥さんに借りて読んでるかななど勝手に思っていたが、実際は逆のようで、内容には興味がないらしかった。「まえがき」だけを見て「佐藤さんらしいな、主婦だけにあきたらない」と言っていたという。
この言葉の響きを、私は肯定的に受けとめられなかった。

我々の母親たちは核家族・専業主婦のはしりだったからか、私の夫含め保守的な男性はまだまだ多い。というかそれも男というものの性質の一端をあらわしているのだろうか。私のようなはみ出し者は彼らから、「大人しく主婦やっとけ」と頭を抑えつけられている気がする。
いい身分じゃないか。
いったい何が不満なんだ。
女性解放運動に従事してきたフェミニストたちも、彼らにかかればまとめて「青筋をたてる人たち」のカテゴリーに入れられてしまいそうだ。

彼らこそいったい何が不満なのか。
実は彼ら自身が男女を超えた本当の性役割を生きていないせいだったりして。
しかし、である。
じゃあ最初から、制限しませんご自由にどうぞと言われて得るものはあるのか。まず男らしくあろうと努め、何かが違うと感じ、気づいたときに初めてオリジナリティーは得られていくのではないか。
元も子もない言い方だが、しばられている人は美しい。
正常と異常のハザマで狂わないように生きていく。
性役割にしばられつつも自分を見失わずに生きていく。
人間美を問うことで、しばるものさえも生かせればいい。
独自の道を歩み出すといっても、そうスムーズにいくものじゃないが。
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おしゅーとめさんと 
しばらく夫の故郷へ帰省していた。
花火大会や墓参りなどサクサクとこなすなか
おしゅーとめさんと近所のスパへ行った。
髪を乾かそうとすると、パウダールームを
アジア系外国人のグループが、我が物顔で占領していた。
私の出てくるずっと前からかなり長く使っているようだ。
先に出たおしゅーとめさんも困っているだろう。
風呂場でも傍若無人な人たちと思って見ていたが
誰も何も言わない。私はそこで先頭に立って
「間違ったことはやめなさい」とは言いたくない。
ただ普通に感想を述べることはできるはずと思う。
少しの憤りは声の大きさになって現れるかもしれない。
しかし断じて、けんかを売ってはいない。

おしゅーとめさんに「あの人たち長いこと使って困りますねー。誰も使えないんですよ」と言ったら彼女は明るく「そうかしら?いいじゃない」のようなことを言った。

グループは私の言葉で気づいたらしく、しぶしぶ席を立った。
基本的に誰でも言えばわかるのだ。その意味で悪気はない。

帰り道立ち寄った親戚の家で、おしゅーとめさんは
セキをきったように先ほどのグループの行為がいかに間違っていたか
訴え始めた。
なんだ、充分過ぎるくらい怒ってたんじゃん。
それならあの場でせめて同意をして欲しかったな。
そういえば彼女は「何でもないじゃない」などといいながら
すがるような目をしていたなあと情けなく振り返った。

ことなかれ主義を廃そうと実践しているような
たとえば中島義道の本を面白く読むが、
日本人特有のムードを大事にする和の精神を
全面否定はしたくない。
だからあからさまに宣戦布告はしないが、
言わずにいられぬことを表現するくらいのことは普通にしたい。

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炎天下の駐車係 
殺人的な猛暑の中、定年後のアルバイトなのか駐車場の誘導係をしている老年期の男性を見かける。
施設に入るとき立っていて、出るときにまだいると、「何時間交替なのだろう」「あんなぴっちりした長そでの制服、熱射病にならないか」と気になって仕方ない。
「男は体力があるはずだ」とまぼろしをふりはらう。
場合によってはこんなに心配な駐車場のおじいさんと、3年前けんかした。
何かを高飛車に命令され、思いきり言い返してしまったのだ。
私はおっとりとして見られがちだが、以前は時々やった。
相手はいつも男性だ。
悪いが「男は冷静に話を聞いてくれる」という思い入れがあるのだ。
駐車場係も次に会った時は笑顔だった。
論理を下からコツコツ積み上げるように話を理解する彼らはあまり怖くない。
逆に女は何を言い出すかわからない怖さがある。
私も、サッカーでいきなりゴールをねらってくるような話の展開をして、彼らに「オイオイ、いきなり何だ」とアワを食わせているかもしれない。

男社会で器用に生きるキャリアウーマンたちは、子宮でものを考えるようなあり方を抑えつけて、けっこうストレスがたまっているんじゃないだろうか。ホルモンを無視しては女性は語れないところがある。
男女平等とはそれぞれの特性を生かしてあるもの。だから、男は男のよさがあるだろうと信じて、敬意を持ちたいのだ。

今週一杯このブログはお盆休みをいただきます。ごきげんよう。
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小林カツ代 
「シンプル料理」を謳った本は数あれど、「実際どこがシンプルなんだ?」というものが多い。その点彼女の料理は元祖シンプルといって間違いない。「小林カツ代の」が謳い文句にかかわらず、すべてシンプル、言いかえればワイルドが軸になっている。

あみだされた料理の数々は、料理研究家というよりも料理教室の先生や文筆活動に忙殺された働くお母さんの、必然的帰結だ。生活それ自体を目的としたリアルな、「必要は発明の母」だ。

息子のケンタロウは幼い頃、バスの車中に置き去りにされそうになったと語る。自分一人で降りようとし、「子供が一緒だったのだ」と気づいたときのカツ代の、驚いてうろたえた表情が今も忘れられないと。年子を自分の手で育てた彼女の生々しいエピソードだ。

おしゃれさを求めるムキには支持されないであろう彼女の料理だが、自分で素材や味付けなどアレンジすればいい。料理などしている場合じゃない人も「地に足をつけることができる」一品がすぐ出来る。味見をした時生きている実感も味わえるだろう。
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教会の日曜学校 
近所の教会の日曜学校に集まる子供たちの目当ては、
多くの場合、お友達に会う、お菓子がもらえる、イベントがある、
そんなところだろう。聖書の暗誦もゲーム感覚だ。
奉仕とはいえ主催者が気の毒なほどイベントを増やしている教会がある。子供たちはさんざん飲み食いし、当たり前のようにあいさつもなく出て行く。
日曜学校やイベントを足がかりに教会が目的とするのは、簡単に言えば信者を増やすこと。実態は信者イコール教会員だ。だからこの教会はどういう宗派でなどとキリスト教の中の位置関係の説明などしない。
いったん信者になれば、これらの負担は集中する。教会の奉仕をせよという無言の圧力があり、それで自滅する人もいると聞く。
「いい人に思われたいのかもしれない」と誰かが言っていた。
お得なのはおいしいところだけ参加して信者にならない人々。
「これだけ遊ばせてもらったのだから奉仕でお返しを」などと、責任感の強い人も危ない。
だからといってただ「信じなさい」「教会に来てね」と言われてもその気になるものだろうか。
じゃあ青年部が若者向けにロックンロールパーティーをしましょう。バンドも入れてね・・・痛いだけだ。興味のない人はさぞうるさいことだろう。
民青じゃないけど、自らを青年と名乗るセンスがもういただけない。
多くの人は、聖書が学びたいというより、何か具体的な悲しい出来事があって神にすがろうとする。その出来事はもしかしたらいいことだったのかもしれないのだが、自分をどこまでも被害者だと思ってしまう。
物事を一面的にしか見ない、腹立たしいほど、いい人。
逆に本当にスピリチュアルな世界に興味がある人は反発してしまう。

迷える子羊が本当に目をつぶってしまってはしゃれにならない。
見えにくい目を、それでも目一杯あけて羊飼いについていくものでなくでは。


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田中康夫 
おしゃれに気を配った太ったおじさんが、ひそかに足の爪にだけはマニキュアを塗っていそうなオカマっぽさを漂わせ、簡単にひっくり返りそうな声を発して何かをまくし立てているイメージで、独特の気持ち悪さがあるが惹かれる人だ。
政治家というより作家としてのパフォーマーぶりに興味が湧く。
キーワードは「粉骨砕身」だろうか。
「なんとなく、クリスタル」をはるか昔に読んだ。文中にファッションなどのブランド名が注釈つきで次々出てくるのが特徴だった。
たとえば私などは「ブランドなど興味がない」などと言いたがり、そうしたスタンスの言動に終始するだろうところを、田中康夫はブランドまみれの現代社会という「現実」に、自ら立ち向かってそれを制覇してから物を言え!といっているようにもとれる。そんなメッセージがあの、ねちっこいまでの細かいリサーチに潜んでいる気がした。
彼は昔から必要以上に人々に叩かれてきた。
いかにも私を嫌ってくださいといった憎たらしい物いいで、世間を挑発し批判を一身に受けつづける、そのマゾヒストぶりに男を見ることができなくはない。
単に身を粉にして活動している人には感動するし、戦っている人は応援したくなる。人間にはどうしてもそういう理屈抜きのところがある。
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靖国参拝のこと 
小泉首相がまた靖国へ行くと頑張っているという。
公約は守るべきって、それは自分が言ったことじゃないか。
単純に言っても人が(中国が?)いやがることはすべきでない。
いやがるだけの根拠もある。
「強気」とはそんなことに使うものではないだろう。
それ以前に、戦犯も含めた死者の霊は
神として崇められるためにあるのではない。
私たちが人間ひとりひとりの尊い命を思い
もう2度とあんなことを繰り返さないと決意をあらたに
日々再生することにあるのだ。
ことさら被害者意識を強調することにどんな未来があるというのか。
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バカボンパパ 
子供に昔のアニメを色々と見せている。
「チキチキマシン猛レース」「トムとジェリー」、
「ひみつのアッコちゃん」「ムーミン」、
性教育なら「メルモちゃん」がいい。
こんな小学生いないだろうと夫は言うがそうだろうか。

たとえば娘の毎週見てる「プリキュア」のような
馴れ合いの友情物語に「成敗する!」など正義正義と
うるさいのよりは、自分も見ていたものの方が
安心感がある。

「天才バカボン」を一緒にチラッと見てみた。
パパが常識を次々とくつがえしている。
何もとらわれていないから、誰もとれないチエの輪も
おちゃのこさいさいだ。
「何も考えないでやるといいのだ」。
彼こそが真の芸術家だろうか。

「先生は学校で難しい話をするから嫌いなのだ」。
この言葉である討論番組について考えた。
視聴者代表にも語らせる目論見で、客席から様々な
意見が採用されていたが、ある若者が
「難し過ぎて、何言ってんだか、わかんねーんだよ」
と発し、居並ぶ知識人が一様にしゅんとして苦笑いしていたもの。
私はその男の子のあまりのふんぞりかえりぶりに
おもわず「じゃあこちらもわかるように話しますから
あなたもわかろうと努力したら? 自分はいいの?」と
画面に言いたくなったが、でも、難しい言葉だけが
飛び交うサークルから仲間はずれにされたような感覚は理解できる。
 
違う番組で同じようなことを若者に言われた舛添要一は
「えっこれが難しい? 全然難しくないじゃない」と言ったが
想像力がないのだろうか。

バカボンパパは「そんなにことさら難しく言わなくたって
訳せば案外誰にでもわかることなんじゃないの?」と
言いたかったんじゃないだろうか。

自分が大人になりすぎていると思う方はバカボンを試しては
いかがだろう。
ちなみに私は小1の頃「西から昇ったお日様が東に沈む」
という主題歌をまともに信じて理科のテストに回答し
採点に抗議をしに行ったという恥ずかしい思い出がある。
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子供と能楽 
先日観世会館で、子供と一緒にお能を楽しもうという変わった企画が
あったので行ってみた。
しかしただでさえじっと出来ない子供に、よりによって能とは。
上の女の子は、バレエなら大丈夫というのは確認済みだ。
それは単にきれいなドレスが見たいから。
でも「きっと何か残るものがあるから見せるべき」という人もいる。

案の定ものの5分と持たず、2人はそわそわし始めた。
舞台に注目するのは、派手なアクションなどのアミューズメントだけだ。「あれは何だろう」「あーびっくりしたー」のような。
まあ子供のことはいい、私はだんだんノリ出した。
足でリズムをとり、上半身がスイングし始める。
ライブコンサートのごとし。
頭まで振り始める前に我にかえり、あたりを見渡した。
そんなことをしている人は誰もいなかった。
肩身が狭くなり、やめた。
連日の暑さで参っているのか、居眠りしている人も多い。
こんなところまで来てと、今度は笑いがこみあげて困った。

そのうち上の子が小さく鼻をすすり始めた。
こういう音は、真剣に見ている人にとっては
非常に気になるだろう。
そろそろ限界かと思ったところへ下の子の
「おしっこ」「のどかわいた」攻撃。
はずみがついた私は席を立った。
子供連れでいいとはどういう了見なのだろう。

確かにおとなしく見ている子もいた。
でもそれはボーっとするのが上手なのかもしれない。
世の中にはこういうのを興味深く見る
おりこうさんもいるのだろうか。
馬の耳に念仏、豚に真珠、猫に小判という言葉もあるが、
馬ではなく人間ならば、念仏などありがたくもないと
思うのもいいだろう。
きっとそれが人間の生命力だから。
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美輪明宏 
昔はけっこう好きだった。というのも、私は女っぽい男性に
興味があるし、あのように非常識なかっこうで正論を言うのが
みんなと同じように面白かったから。
ただ何冊か本を借りて読むうち、この人の意見は多分に敵意が
入っているなと思うようになった。
たとえば正負の法則を語った本では、家を建てるというプラスをした後には、必ずやマイナスが待っているということが書かれている。
これじゃ、脅しじゃないか。
あの呪いのかけ方は、細木数子にも似ている。
2人は数年前の「サッチー騒動」で、「私は何も言いたくない」としながら、電話やVTRでコメントするという話題への入っていき方も同じだった。
細木は何と言っていたか忘れたが、美輪のは、その時点で充分やり玉にあげられているサッチーの、息の根をとめようとするものだったことを記憶している。
たしかに言っていることはなるほどと思う。
女は女らしくしろ。そりゃそうだ。そういう当然のことを言う人が、当時あまりにもいなかったから、斬新だった。
でも特に個々の事情にまで思いを馳せてくれているわけでもなさそうだ。
彼はビッグになって、そうなってしまったのだろうか。
いずれにしても、その意見がルサンチマンに支配されたものだとしたら、意見された者の結果も、あまりいい方向へは行きそうにない。
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武士はどこにいるのか 
夜、2人の子供の寝顔に注意深くキスをしながら、ふと自分を遠くから見つめるあの目が介入してきた。
この状態は、一体なんだろう?と。
守るものが多すぎる。
私はこんなに遠くまで来てしまった。
常に、いつでもゼロに戻れるという水面のように静かな気持ちを持ちつつも。
これはちょっと、武士の気分かもしれない。
武士とは何かを守る人だ。
女であってもできる。
たとえば、たいくつな日常を守るための、非日常。
非日常とは家の中でも出来る、ちょっとした「知恵」だ。
決まりごとにとらわれないということ。

志や信念を守るための、異質な者への寄り添い。
それを心からできることが、愛するということ。
人間には難しいが、やってみる価値はある。

秩序や伝統を守るための、現実との戦い。

これらは、いつでも死ねる覚悟をしながら生きていく、武士の姿に通じる。
そう思うと、現代社会にも武士はたくさんいるのだ。
一般に言われるのとは違う、神に哀れみを受ける、本当の弱者だ。
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弱者はどこにいるのか 
第一線で働くビジネスマンが言う。
「俺はノホホンと生きてる奴らには出来ないことをやってるんだ」。
そんな信念だけを支えに、過剰な労働時間にも耐え、
育児もかえりみず、奥さんは不自然なお受験に走ったり、
あげく家庭崩壊したり、心や身体を病んでしまっては意味がない。
「のほほんと生きてる奴」は仲良く今を楽しんでいる。
弱者などどこにいるかわからないのだ。
彼らは見えないところにこそ潜んでいたりする。

問題なのは、弱者のうっぷんは、さらに弱いものへと向かうこと。
悪循環のどこにハサミを入れたらよいものか。
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病児の心理 
この夏はヘルパンギーナやプール熱など、子供の風邪が流行り、
息子も先日ついに感染してしまった。
「熱が何日も下がりませんよ」と予告されていたので、逆に
妙な安心感があるが、本人は予告の内容など理解できないはずなのに連日熱が出ても不安感はないようだ。
自分を客観視する「全然直らないねー」という言葉に
絶望感はみじんもない。
淡々と事実をそのまま述べているだけだ。
せいぜい、つまんないなーと思っているくらいだ。
これが子供特有の、物事をそのまま受け止めるという
ある種の強みだ。
子供はヘタな希望を持たないから絶望もない。
これが大人だったら、大変だ。

私は2人目出産後、原因不明の高熱で1週間再入院した。
風邪で発熱した感覚で「今日はもう下がるだろう」と
たかをくくっているところへ、また高熱が出て、
それが何日か続くとすっかり弱気になってしまう。
熱の出る夕方が恐怖のときとなり、でも少し期待し、
やっぱり出たかと絶望感にみまわれる。
入院が一生続くかのように、果てのない砂漠行脚を始めてしまう。

希望は持ったほうがいいとか、持たない方がいいとか、
ケースによるとか、色々な議論があるが、
病児の心理にヒントが隠されているように思う。
子供は今この瞬間のみに生きている。
だから、かわいそうがるのだったら、即行その場で楽しませてあげればいい。
歌を歌ってあげる。お話を聞かせる。じゃんけんでもいい。

子供はいつから希望を持ち始め、大人になり、
あるいはもう希望など持たなくなってゆくのだろう。
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若いおばあちゃんたち 
一般に「子育てって大変だよね」というのは、誰を指して言っているのだろう
たとえば都会で身よりもなく、夫の帰りも遅く、一人で家事も育児もきりまわし、しかも「育てにくい子」を育てている場合と、地域ぐるみや親掛かりで、夫も協力的で、「育てやすい子」を育てているのとではまさしく雲泥の差だ。

60歳代くらいの女性が、何人か子供を預かっている様子であたふたしているのを見ることがある。私たちの親世代だ。
いくつであろうと、根っからの子供好きという人はいて、見ていたらすぐわかるが、この世代の女性には案外、子供が実は苦手という感じの人が目立つのだ。
戦中のどさくさで育って、自分が生きるためというより食べていくのに精一杯、子供のしつけなどどうしていいかわからない中で、ただ我が子という責任感のみでなんとか育て上げてきたんじゃないだろうか。それを今度は孫だといって、「当然でしょ」という娘に押し付けられているのだったら、気の毒だ。
若い頃の体力があるわけでもない。逆にまだ体力のあるうちに、自分のし残してきたことを模索する必要のある人もいるかもしれない。
責任感や世間体だけにとらわれて、柄にもないことをしてルサンチマンをつのらせていくのであれば、問題だ。
たしかに孫の手も借りたい時期には、ばばの手も必要。
無理のない程度に楽しんで手助けしてあげて、少子化対策で充実してきた一時保育や、2歳から入れるようになった幼稚園や、あらゆるところを賢く利用すればいい。
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ナンバーをふる人 
息子はクルマより電車派で、日がな一日でも遊んでいる。
某所で電車に手を振ると、多くの運転手さんがプッとホーンを鳴らしたり、手を上げて挨拶してくれる。これはあまり大きな声で言えないことなのかもしれないが、息子のうっとりとした憧れのまなざしを見ると、何も言えない。
ガーガーとうるさい音をたてて電車を床にはわすのも、真剣なまなざしを見ると注意の言葉を飲みこんでしまう。
彼は床にはいつくばり、電車を真横から見て、あっちのワールドをさまよっているのだ。
異次元の旅から戻ると、今度は電車をていねいに並べ、なにやら分類し始める。
ウルトラマンでも、バスでも、みな整列させ、ナンバーをふって楽しむ。
こんな風に物を系統立ててとらえたがるのは、男の子に多い気がする。私もこういうことを始め出すとはまりそうだが、普段はたとえばある音楽をいいと思っても、わざわざ名前を覚えたりはしない。感覚が喜べばそれでよし。

人を使う立場にある人が、部下たちをチェスのコマのように、盤のマス目をあっちへやったりこっちへ動かしているのにも似ている。
統制という行為から生まれる不正があるとすれば、これらの人々はむしろ率先してこれを正そうと尽力する立場にあるのかもしれない。



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