サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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宮沢賢治の童話『貝の火』とワイルドの『ドリアン・グレイの肖像画』は、キリスト教のフィルターをかけると類似点が見られる。前者の主人公うさぎがもらった玉と、後者のドリアンがもらった永遠の若さは、聖書でいう神から預かった「たまもの」を思わせる。それを彼ら主人公が勝手に振り回し始めたとき、玉には曇りが、肖像画の表情には歪みが、奇妙に生じてくる。やがて破壊の一途をたどる前兆としてのこれらの異変が生じる直前の、主人公たちの怖いものなしぶりと、それでも変わらぬアイテムの、あやしいまでの輝きも見事に共通する。
彼らはクリスチャンを自称しているわけではないし、宮沢はむしろ仏教徒として有名だ。たとえクリスチャンであったとしても、公言するには想像以上のリスクがあるだろう。あまりにも定義の幅があって誤解を受ける恐れがある。それならもっと自分の美意識にあった誤解を甘んじて受けるのがダンディズムだろう。
聖書という言葉の集合体に全身を拠りかからせることは、権力のある人の背中に隠れて顔だけを出し、「そうだ!」と言っていることに似たところがある。
解釈の違いから争いにも発展する。
しかし「そうだ」と言っている人々と直に会えば、自分も「そうだ」と思える部分において和んでしまう。それは仲間内の争いにはならないが、進歩はない。
ダンディというのは、人恋しくて感化されやすいオッチョコチョイたちの総称だろうか。
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バスの中で 
バスの通路をへだてた反対側に座る娘に、後ろから何やらしきりに話しかけている男性がいた。
全身うす汚れてランニング姿、さかんにブツブツ独り言を言うのも気になる。
娘が持っていたアメの袋を見て1個くれとでも言っているのかなと思った。しかし娘はいやがる様子もなく素直にうなずいている。さっきの遊び場で会った子供好きの親切なおばさんには迷惑そうにしていたのに。

夜、お風呂に入りながら「そういえば今日、ヘンなおじさんに話しかけられてたね。なんて言ってたの?」と聞くと、意外な答えが返ってきた。
「その足、どうしたのって」。
娘は少しアトピーがあり、夏はひざの裏がひどくなる。
「絶対掻いちゃダメだよ。おじさんも小さいときひどかったけど、直ったよって言ってた」。
そうか、アメをとろうとしていたのではなかったんだ。
私は子供のかゆいのには散々つきあってきたが、
自分がかゆいわけではないので、我が子といえども、心からわかってあげてはいなかった。
「直るよ」という一言をかけてあげたことはなかった。
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ヨン様がまた来日していたらしい。
一度あの、貼りついたような笑顔をテレビで見て
大変さわやかだった。
「冬ソナ」は1つだけ借りて見てみたが
好みではなかった。
女性や映像は綺麗だったが
「あのノスタルジックさがいいのよ」などと
さかんに「美」を強調した評判だったために
かえって「情欲」ばかりを感じた。
しかもその人間にとって自然なはずの情欲が
いやなものに思えてくる。
情欲はたとえだが、そうした「汚い」とされるものを
見えないところに押しやる、くさいものにはフタしろ的な精神は
世にはびこっている。
だからむしろそのくさいもの、いやらしいものを前面に
押し出しているものに「これは何だろう」と近寄ってみたくなる。
その中に「美」や、もしかしたら「聖」が発見できたら
感動ものだ。
それが私にとってはミック・ジャガーだったのかもしれない。
私もミックを書くことでフタをしていたくさいものはなかったか
目を開いて見る必要があるのだろうか。

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拙著『ミック・ジャガーという生き方』について色々と感想をいただいている。意外だったのは、感想以前に「ミック・ジャガーって、誰?」という人の多さだ。
「せめて顔写真でもつけて欲しかった」
「プロフィールがあるとよかったのに」
たとえばコアなストーンズファンのサイトなど見ると、日本中全ての人が当然知っているという錯覚を起こしそうになるが、考えてみれば、普通の年配者の方がずっと多いのだ。
それでも誰なのかわからぬまま、「あなたの力強さで最後まで読んだわ」と言ってくださるのは、ありがたい限りだ。

しばらくミックの映像からは遠ざかっていたのだが、先日久しぶりにVTRを見たら、またもや「ミックわかる、わかるわ」の世界に入りこんでしまった。
「思い込みだ」と言われればそれまでだが、私には彼の心の動きがひしひしと伝わってくるのだ。たとえばシェリル・クロウとのデュエットの場面では、ミックがシェリルをリードしようと四苦八苦しているのが痛いほどわかる。
シェリル、ミックにもっと身をゆだねてあげて!
ミックは表現として「俺について来い」がしたいのだから。
以前のティナ・ターナーとの場面でも感じたが、ミックがたとえばいきなり女性の手を引っ張ってどこかへいざなおうとする時、女性側の抵抗にあい、スムーズに行かないことが多い。
「有能な女性」の問題点が、如実に現れているのではないか。
もちろん自由に動いていいのだ。個性をアピールすればいい。
だけど肝心のところでは、どちらかに従わなければ秩序は保たれない。
ウチのように旦那が妻の顔色をうかがうケースも様々にあるが、それはそれ、これはこれだ。やはり男は立ててあげるべきものである。
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バス乗り場で 
3人の子供とベビーカーをかかえてバスに乗り込もうとしている
年若い母親を、後部座席に座って見ていた。
赤ちゃんをわざわざ抱っこしてから、ベビーカーを折りたたもうとしている。
バスはずっとエンジンを止めたまま、待っている。
ノンステップバスなのだから、ベビーカーのままひょいとかつぎあげたら?とはがゆくなる。でも彼女が力持ちとは限らないし、涼しい顔でパニクッている人もいる。四苦八苦している当人というのは、客観的に見て簡単なことにも気づかなかったりする。

子供がこれくらいの頃のことは、普段は記憶喪失のように忘れているものの、こうした風景に出会うと懐かしいような切なさが込み上げてもくる。
私はバスに段差があろうと階段であろうと、おろすのがもどかしくてベビーカーを子供ごと持ち上げた。オオザッパなのだ。
2人目を妊娠中の大きなお腹で、わざわざ電車に乗って気に入った産婦人科に通っていた。駅の長い階段を、気合をこめて2歳児の乗ったベビーカーごとかつぎあげ昇っていると、となりを昇る人がよく一緒に持ってくれた。そんな時こちらが躊躇していたら、人の流れに棹をさす。
だからお礼は後回しにしても、平然と持ってもらうのが義務だ。

他人はあわてふためいている人を前にどうしてあげてよいかわからないもの。善意に対しては、わかるように応じる。助ける方も、ちゃんと意志表示する。「何しましょうか?」「これしてください!」で、電車もバスも止まらない。
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データの内訳 
昨日、私自身が以前取ったデータの話をしたが、細かいことを
書き忘れていたことに気づいた。
今更だが補足すると、7割弱の若者がイエスと答えた
「働かなくても生きていけたら働きますか」の内訳は、
1働いて時間をつぶすが、5割
2自分のためが、3割
3社会参加が2割
同じ1でもヒマつぶしもあれば、働くのが趣味というのもある。
2でも自己実現もあればもっと稼ぎたいというのもある。
3でも、社会参加も社会貢献も。

7割という数字に隠れているこうした背景を無視して
先走ったことを言わない方がいい。

たとえば最近の、小学生が図書室で借りた本の数が、調査開始後
過去最高というデータを、「そうか。小学生も読書好きになったか、
それはよかった」というのは早計だ。
今年になって各小学校で目の色を変えて「読書しましょう」を
スローガンにしている。
『国家の品格』の影響だったりして。
朝の読書運動をはじめ、夏休みの宿題は30冊など。
嫌いな子にとっては修行か、拷問か。
好きな子なら、そんなこと言われる前にしているだろう。
「よしよし」と見ている親もだんだんうっとうしくなってくるほど、
いつまでもじっとして読んでいる子。
ウチを初めとする、長年の寝る前の読み聞かせも全く功を奏さない子。
2極化しているのでは、という話には深くうなずける。
と言って、一人の子が一生そうだと決めつけるのもおかしい。
また学校のやり方が間違っているとも言いきれない。
機会を与えられなかった子が、思いきり開眼することもある。
果たして読書がいいことである、とも言いきれない。
人それぞれだ。



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若者たち 
若者イコール、どうしようもない奴らという図式で見ようとする人
は多い。
メディアが「いかにも」というタイプばかりとりあげるからか。
実際に身近で接していないからだろうか。
深く接してみた結果だと言われても、全部に直結するわけでもない。
そりゃ年浅い分、色々と未熟ではあるだろう。
だったら年いってるのにこんなに未熟だという自分は省みなくていい?
もう免除されたと思っている人がいるなら、自分の方が危ないことを
知るべきだ。
バーのマダムが天職であるような細木数子の番組(今もあるのか?)で、チャパツで厚化粧の若者が叱られている、その事実ではなく「ハイ」と泣きそうなほど神妙な顔で聞こうとするその「意外さ」に目を向けてみたい。
以前、雑誌作りにたずさわり若者対象の意識調査を行った。
「働かなくても生きていけたらあなたは働きますか」との問いに
7割近くが「働く」と答えた。
世界中を旅して、おいしいもの食べてという発想にならないのか?
私ならそうしたいところだ。
しかしやる気や忍耐を持って事に当たろう、少なくとも基本的な事を
理解しようとする若者はたしかに存在すると認識した。
彼らにこそ明るい未来へ通じる、かもしれない道だけでも、用意するのが社会の役目だ。
「どうせ悪い奴らだよ」と開き直られては、それこそどうしようもない。
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齋藤孝 
彼は言葉では説明のつかないことも全て説明しようとする。
それは挑戦なのか、それとも当然出来ると思っているのか。
物事は実際的に進めていくべきとでもいうような、志を持っているのかすごい数の著作である。
その考え方は彼の専門である教育の本には絶大な説得力を発揮する。
独自の教育法を提唱していて実際いくつかの学校、幼稚園で採用され人気が高い。
これは管理的という面で、イギリスで今試みられているという教育法にも似ている気がするが、イギリス的ユーモアというものがあるとすれば、齋藤孝の立場は対極にある。
だから、まだ出ていないこれらの実験の結果は同一とはいえないかもしれない。
教育もの以外のエッセイなど、そこまで説明するか・・・というのがコメディーの域に達しているのもあり、趣向を変えて齋藤自身を楽しむことも出来る。
とはいえあくまで本人は大マジメで、彼の鼻イキの音がここまで聞こえてきそうである。
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今日から夏休み 
今日から子供らは夏休み。
人には「ぞっとするね」とか調子いいこと言いながら
内心ウキウキ、ワクワク気分。
これは、ほんの少しの負け惜しみを除けば
本音だ。
平常はお昼過ぎには帰ってくるので
ゆっくり外出もままならない。
夏休みは一日時間を気にしなくていい。
今日はどこに連れていこう。
子供を連れて楽しめるところ、というお題を与えられるのがいい。
探せば色々あるものだ。
ある日はプールで一緒に泳ぐのも楽しい。
ある日はちょっとリッチにホテルでバイキング。
ある日は図書館で私好みの絵本を押し付ける。
どうして私が選ぶのだ、二人とも本があまり好きじゃない。
結局私が楽しんでいるのか。
家にいたらいたで、どう過ごそうと考える。
計画を立てずにいられない状況が好きだ。
そろそろ自立して欲しいから、家事全般できることをやらせてみるか。
じっくり子供と向き合い、育児の立てなおしをはかる機会だ。

現実はどなりちらしてばかりかもしれない。
近所の子と遊ぶに任せ、一人家でだらける日もあるだろう。
休みの終わりにはぐったりしているのかもしれない。
それでもせっかくなら、どんと迎え撃って、ええじゃないかを踊る。
そうでなければ、やってられない。



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不祥事を起こした極楽とんぼの山本の所属していた野球チームを
解散すると、監督の萩本欽一が記者会見。
やめたくなければ、続ければいいじゃないか。
責任を取ってやめるというなら、黙ってやめれば?と思った。
長年続けたチームをやめるのはくやしいだろうが、
それを涙流して訴えてしまっては、すべて山本のせいだと
言っているようなもの。
まして自分の野球に対する夢を切々と語るにいたっては、
いいとこどり?とすら思う。
欽ちゃん、はしゃぎすぎ。

しばらく続いた大雨で河川が氾濫し、流された人もいるという。
おじいさんを助けようと川に入った若い孫が重体だと聞いたが
その後どうなったのだろう。
もし助からなければ、軽傷で済んだおじいさんは
この先一生、重荷を背負うことになるのだろうか。
他人事かもしれないが、寿命を前には老いも若いもない。
問題は生き切ったかどうかだ。
その人なりの生き方を全うしたかどうか。
命をかけて人を助けるとき、
見ていられず、居ても立ってもいられず飛び込んだのかどうか。
それとも困った人は助けるべき、あるいは親なら助けるべきと
すりこまれ、それを実行したのか。
後者であるなら、助かった者も救われない。
気の乗らないことは、なるべくしないほうがいい。
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衝動の正体 
秋田女児殺害事件について、イライラしたから殺したと自供した犯人。
この母親は人間性を問ううんぬんではもう語られなくなっているが
それは別として彼女はヘルスチェックをしていたのか、ちょっと気になった。
身体と心は密接に結びついている。
いくら、きれいな心を持とうとか、生活を楽しもうとしても
身体が良くなければ、気力もなくなる。
お金があってもダメだ。
一般的な病は気からといった言葉もなぐさめにもならない。
たとえば検査を受けることで防げた衝動は、思った以上に多いだろう。
病院へ行くことでかえって具合が悪くなるというなら
自分で気をつけるしかない。
疲れたら休む。イライラしてたらリフレッシュする。
それが子育てという責任を果たすということ。
一般論だが、とても見過ごされやすい。
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プレイルームで 
雨が降るとよく行くプレイルームへ子供を遊ばせに行った。
下の子が3,4歳時までは、危なっかしくて見ていられず
そばについてまわっていたが、5歳にもなれば、いや公園で遊んでいる
様子を見て、もう大丈夫と判断していたので、離れた所で本を読む。
ジャングルジムや、綱のタワーなど、どこまでも高く上っていくのを
全身に力を込めて監視しながら、本を読む。
プレイルームの張り紙を見ると、「就学前のお子さんには付き添いが必要」だそうだ。就学前と就学後では1年しか違わないにもかかわらず、
近所の母たちも小学校へ上がるとすぐ、自転車で友達の家へ行かせ
何時間も外へ放り出して特に気に留めている様子もない。
幼稚園までの手厚さはどこへ行ったの?と驚くほど、
ファジーな自分なりの判断がおきざりにされているケースも見られる。
それはこういう張り紙といった、便宜上の形にとらわれた結果なのか。
張り紙の続きを読むと、いきなり語りかけ口調になっている。
「おかあさん。おしゃべりしたり、本を読んだり、お母さんが違う方を
向いてることに、子供は敏感です。お母さんの気を引きたくて色んな事をします。それが事故にもつながるのです。目を離さないでください」
きっと親が何かに夢中になっている間の事故が多くて困っているのだろう。
しかし本を読んじゃいけないのか。
今までの育児は間違っていた?
彼らの小さいときから、本を読むのだけはやめられなかった。
密室でおっぱい育児に明け暮れながら
「今日の楽しみはあの抹茶アイスを食べること。うふふ」と
怪しい微笑を浮かべる日が続いても、本の世界があったから
乗りきれた。
もちろん、子供と遊ぶ世界にのみ没頭している時も多い。
本など読んでる場合じゃない時も多かった。
でも、本を読みながら子供を育てて来たと言ってもいい。
それでも子供から目を離した覚えはない。
子供に注意した次の瞬間、本の世界に入れる芸はすぐ身につけた。
そうだ、子供を柱にくくりつけて仕事をしていたという、岡本かの子
という人だっていた。それでも太郎にうらんでいる様子はない。
きっと形ではない親の愛情を感じていたのだろう。
形にとらわれるな、とわかっていても、「おかあさん。」など
語りかけ口調で迫られると、
簡単にうろたえる自分に、また出会ってしまった。
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電車の中で 
電車の中、うるさく騒ぐ子供に母親が注意する。
「あのおじさんがにらんでますよ」。
これはたしかに無責任な物言いと非難されるだろう。
だけどただ「人が見てるよ」「おこられるよ」と言ったことを
責められるだろうか。
彼女は静かにさせたい一心でせっぱつまっていたのかもしれない。
子供は「よその人」を持ち出せば言うことを聞くのかもしれない。
ただチラッと見ただけで「最近の母親は人のせいにして」などと
無責任に「今時の者」に片付けようとするから、母は追いこまれる。

と、このように一方の肩を持つと、たとえば若い母親など
「そうそう。秩序も何もオールオッケーね」と解釈する人がいるが
それは違う。
秩序を守るのが前提。子供のしつけも親の責任。
自分なりに責任を果たそうとし、様々な努力をしてはじめて
できないことにはNOと言えるのではないか。
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田原総一朗 
先日「朝まで生テレビ」を久しぶりに少しだが見た。
田原総一朗が人の話をズバズバとさえぎるのに、自分が語るときは
誰にもさえぎられなくていいな、などと思って見ていた。
出演者一同を待機させての独壇場だ。

長年ヨメの立場にがんじがらめにされてきた主婦など、中には「私なんてダメだ」の呪縛にとらわれている人がいる。全然そんなことないのにと、腹立たしくなるほどに。
ところが田原総一朗は出演しているどんな知識人に対しても
「何言ってんだかわけわかんない、次!」とか、容赦ない。
これは、先ほどの悪い意味でのマイペースな彼でなく、
こうした主婦などにとっての、いい意味でのパフォーマーに見えてくる。
誰だって自信などないといえばないし、基本的に人間に賢いもバカもない。賢いことを読んだり発言するといった訓練の違いじゃないか、と思えてくる。
どんな知識人も、子供に見えてくる。
いや敬意は示しつつも、相手の「子供」を大切に接してあげれば、
相手の魂が喜ぶのではないか、ということだ。
人間に差はないことは基本であっても、その上で理解できないほどの
違いも生じてくること、そして気分の悪くなる「絶対許してはならないこと」については、クールな目で考えていかなければならないことを覚えたい。
あれ、熱くなってたら田原総一朗がどこかに行ってしまった。
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まつりの顔 
京都では、祇園祭のそろそろクライマックス。私は母の胎内にいた頃
山鉾に乗ったことがあるらしい。女人禁制の聖域とされているそこへ、
母はどういういきさつかスイスイと上がって行き、
あとで「めったにないこと」「お腹の子は運がいい」などと
祭り関係者から言われたとか。
最近では戦車に女を乗せるようになったとかいうが、「女は汚れている」とでもいう考え方がある。
巡行は、四条河原町の呉服屋さんの2階から何度か見たことがある。
その店がウチの祖母など御得意さんばかりを呼んで、部屋を用意していたものだ。歌舞伎役者が夫婦連れで何気なくいたりする、そんな場の最前列に陣取って見ていると、想像力を働かせない限り、
まつりの血と汗といったものは伝わってこない。
天上の人たちが「よろしおしたなー」と言って終わり、という感じだ。
そして20代の頃、地方出身の友達に案内されて何度か
そぞろ歩いた祇園祭もまた、まったく違った顔をしていた。
あれからまったく行かなくなってしまったけれど、記憶の中の祭りは
まだ鮮やかに饒舌に語りかけてくる。
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稽古するひと 
拙著のプロフィールに、趣味 茶道、剣道などと書いた。
趣味などと書くかフツー?とも思ったが、他に取りたてて書くこともないしミックという西洋人を書いたからといって、西洋かぶれはしてませんといったちょっとしたエクスキューズもあったと思う。
実際は今、どこかの教室に通っているわけでもない。
いつでもしようと思えばたしなめる程度には続けてきたし、
もちろん機会があれば楽しみたいから、ウソという事にもならないかと
判断した。
茶道剣道といった道のつく世界というのは
つきつめれば芸事で、ひたすら技術をみがく世界だ。
日本舞踊、バレエなどもかじったが、華やかな舞台の楽屋裏では、
けばけばしい化粧に象徴される、場末感の漂う世界があった。
バカにしているのではなく、これがエンターティナーとカタカナにするとかっこいい芸人の、現実の一面である。
茶道は総合芸術ともいわれるように、芸事の中に
芸術性を見出す側面はあったにしても、
匠の技をみがくことと、精神性といったものは
まったく別個に考えるべきものである。
飛躍するかもしれないが、たとえば昔帝国陸軍が政治を行ったことで
戦争という事態を引き起こしてしまったことと無関係ではない。
精神性という大義名分のもと、まちがった解釈をしてしまった。
剣道はそのまま武士道精神にはつながらないのだ。
ひたすらワザをみがく中において、ふっと出てくる精神の働きだけが
普遍性だ。
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となりの人 
40歳になって初めて、先祖から子供たちへと脈々と流れる
縦のつながりを意識し始めた。
彼らはどんな人だったんだろうと、親などに尋ねてみた。
父方のひいおばあさん、母方のおじいさん、
彼らは、貧しい人々にことのほか尽くした人物だった。
施しを与えるときに、懐紙の上に乗せてあげていたというエピソードを
聞くとき、誇らしさを感じた。
相手の尊厳を大切にしようという思いが、懐紙には宿っているからだ。
あなたの隣人を愛せよという教えが聖書にはある。
右の頬を打つ者には、左も与えよ。
下着を取ろうとする者には、上着もやれ。
1ミリオン行けと強いる者には、
一緒に2ミリオン行きなさいと。
困った人には福祉の心。明るく忍耐強く、引きずられず。
必要以上にかかわるのは、おこがましいこと。
誰でも困った人になり得る。ふんぞり返っている場合じゃない。
困った時には、ただ黙って静かにしていよう。
神の声が届くまで。
金正日という、隣りの困ったおじさんを日本がどう扱うのか、
世界中が注目している。
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今春、ミック・ジャガーこそがサムライであるという趣旨の本を
書いた。特別武士道について学んだわけでもないが、彼のファンになり
その生き方を検証していくうち、直観的に彼には「武士道精神」があると感じ、裏付け作業をしたというわけだ。
サムライが日本人でなければならない事はない
という主張も含まれている。
というか、いいものは、そのまま世界のものだ。
だいたい日本に今武士はいないし、昔だって一握りの存在だったはず。日本人だからサムライだと言って世界に向けてわけもわからず騒ぐのを、わけのわかった外国人はどう見ているのだろう。
私もせめて、もう少し武士道を知ってから発言するならしてみたい。
そうした意味で、サッカーの日本選手団のチーム名もやめて欲しかった。
何がサムライで何がブルーなのか、つけた人の事情はわからないが、
サッカー選手だから、どうしてサムライなのか?
それにかこつけた「日本人でござい」という変なカッコのサポーターが
増えることは予測できたと思うのだけれど。

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アメンボを飼う男 
息子はまだ小さいため帰宅が異様に早く、もうひと遊びにつきあわされる。
最近はもっぱら川遊びだ。
魚やカニもいるけれど、自分にはまだつかまえられないと悟ってか、
彼はアメンボ採りにチャレンジし始めた。
「見て見て。捕まえてきたよ」と、少し年長の子たちに見せ、
「なんだ、アメンボかよ」と言われても得意げだ。
翌日には開き直ってか、自らを「アメンボ採りでーす!」と
公言してはばからないところが、情けなくも頼もしい。
小さい虫かごに、大きいのと小さいの二匹。
アメンボにも色々いるんだ、と今更ながら思った。
その大きいのが活きが良く、何度もかごから出そうになる。
「逃がしに行こうよ」と言っても「嫌だ」と彼はふたを閉めた。
中で暴れるアメンボが気になりながらも1,2晩を明かした。
もちろん全部死んでいた。
小さいのより、元気のいい大きいのがのびているのをじっくりと見た。
ど根性大根がくたばってしまったか、というような寂しさを覚えた。
これを見て喜ぶのがサディズムの本領か、とふと思った。
いやそんなふうにはとりたくない。
色んな気持ちの汲める人になれ、アメンボが浮かばれるためにも。
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一流の人 
高校を中退し通信制の大学で学びながら、あるマンモス塾の事務に
パートで雇われたことがある。
何百人という応募者に、心理テストみたいなものまでさせて、
採用は2,3人というものだ。
パートというのにそうそうたる顔ぶれが集まっているように見えた。
信じられなくて後に訊ねてみた「どうして私を採ってくれたのですか」
雇ってくれた人は恥ずかしげもなく「君はね。目が輝いていたよ!」
と言った。
彼は間違ってしまったのかもしれない。
でも、つくづく思うのは、世の中には外面の条件にとらわれずに
相対する人を純粋に判断する人は、案外多いということだ。
彼らこそ一流の人と名づけたい。
出る杭は打たれるといわれるが、打つのは二流、三流の人だ。
単に自分を脅かしそうなものはみなこわい。
相手を見ることをせず、形にとらわれ、無条件に切り捨てる。
一流の人、だからといって必ずしも地位が高いとも限らない。
その辺のおっちゃん、おばちゃんが、そうかもしれない。
少し関連するが、究極のお嬢というのもどこにいるかわからない。
といいつつ、テレビを見ていてこれは、と思ったのは
天皇家から嫁いでいった清子さんだ。
天皇制の是非はともかく、エレガントさでいえば美智子様の右に出る人はいないと思うが、娘の清子さんも注目に値する。
学習院の卒業式では袴姿の同窓生の中、なぜか一人簡素なスーツを着ていた。結婚式も普通の晴れ着で、簡素なことこの上ない。
私こそ外見にとらわれているのか、いや違う。
あの姿勢こそ、究極だと思う。
お金にあかせた、けばけばしいお嬢様が我が物顔にはびこるのは
ちょっといやだ。
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中田の引退 
サッカーについては無知といっていいほどだが、有名人としての
中田選手の印象としては「堂々とした人」というものがある。
彼がもっとずっと若い頃のイタリアでの記者会見などが好例だ。
「おなかがすいたから、会見を終わりにしましょう」。
ああいう、若いのに妙にふてぶてしいのは個人的には好みではないが、超然とした人物というのは多少はそうなるのも仕方ないのだろう。
あのような物言いは、国際舞台ではウケがいいはずだ。
私のヒーヒーか、ヒーヒーヒーかのおじいさんに竹内下野守という、
日本人で初めてヨーロッパに渡った、という人がいるが、彼のオランダに着いての答弁もたいそう評判が良かったと聞く。
オランダ側の「オランダと日本は他国と違い、親友というべき間柄だから、この渡来は将来ますます親交を篤くするものである」との言葉に
「親切の取り扱いかたじけない。ついては日本とオランダとの親交は
200年来なれば、貴国のことは余国ほどには知らない」と答えたものだ。
やはり堂々としているのが、なめられない秘訣なのか。
中田のことを「まだ若いのにもったいない」という人も多い。
しかしこれも、若いとかそういう事は超えてしまっているのだろう。
中田と自分を比較するわけにはいかないが、「完全燃焼」という感じだけはなんとなくわかるような気がする。
先日あるプロテスタント教会の牧師の奥さんに「私はひとつの所に長く
いることができない。サークルでも遅刻もせずに精勤するかと思うと、
突然、人生短い、次行け!とばかりに、2度と行かなくなってしまう」と
話した。たいして何がわかったわけでもないのに良くないよねと
言ったつもりが、彼女は大マジメに「それってすごく、聖書的かも」と言った。
何が聖書的であるのか、浅学の身には見当もつかないが、
彼女なりに真理に通じると感じる何かがあったのだろうか。
自らの成長の為に常に見えないものを追っていくハングリー精神を満たすのに、必ずしも同じステージでなければいけない、ことはないのかもしれない。

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空腹の人 
主婦は夢の自由業であると誰かが言ったがたしかに一面そうだ。
でもそれはあくまで自分のペースで動けることが前提。
それなら戦って自由を勝ち取れ。
知恵を働かせるのだ!
他の誰も替わってくれない、それでもしなければならないことを
するときに知恵は生まれてくる。
たとえば私の場合。
ある夕方、お腹がすいてイライラ、食事を作るのもおっくう、
それでも子供は時間になればピーピーと口をあける。
適当な物を与えておけば、すぐに風邪ひきという報復が来る。
落ち着け、そんな時の簡単メニューがいくつか用意してある。
ブログの趣旨からはずれるけれど一品紹介。
フラフラとかろうじて台所にたって鍋にお湯をわかす。
冷蔵庫に転がったアスパラとブロッコリーをザクザクきざみ、
パスタとともに塩ゆで。バターをまぜて冷ましておく間、
トマトとあればセロリを葉っぱごときざみ、ツナ缶と投入。
塩コショウ、パプリカ、たっぷりのマヨネーズであえたら出来あがり。
野菜を切るのもいやだというなら、すきっ腹にビールを流し込み
朦朧としながら切ればいい。
好きなDVDでもセットして、床にどっかりとあぐらをかき、
一人ムシャムシャと食す。
官能的に。動物的に。
子供たちが食卓につく頃には、先にたいらげてごちそーさん。
お腹も気分もおさまり、身体もスムーズ。
今日は一品だけだから、食後にフルーツヨーグルトでも出しましょう。
笑顔で言える余裕が生まれている。
何でも完璧にしようとがんばることはない。
育児も家事も、ワイルドで行こう!
腹が減っては戦は出来ぬ。
戦いは、きれいごとじゃない。(大げさか)
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真剣の人 
剣道2段の取得に向けてはりきっていた20代の頃、仕事を終えたヨレヨレの姿で、毎日道場に通った一時期があった。
そこは高段者の男ばかりの道場で、私が女であり、年齢も段も下だからと、笑顔を交え優しく手ほどきしてくれる人もあれば、
情け容赦なくしごこうとする人もあった。
女だからと甘く見て欲しくないなどと、口先では言えても
実際そうされると、実に面白くないものである。
しかしその人はさりげなく人の動きを観察して
良くないところを諭してくれたので信頼が持てた。
たとえば「何か言われたからといってすぐ今やっている行動をやめるな。終わらせてきりをつけてから次の事をしろ」などと言ってくれるのだ。その人も私に何か言ってやろうと構えているのではなく
普通に人のことを見ているだけだ。
ただ本当に「見ている」だけだろう。
その意味でごく自然な行為だったといえる。
こういう事が、今子育てする中で生かされている。
同じようなことを子供に言っている自分を発見するとき
その人は私の中でよみがえっている。
永遠の命とはこのような事をいうのかもしれない。
大男に体当たりして何度も転がされ、立ち上がっては向かっていく。
こういう場面の方が、優しくされたことより残るのはなぜだろう。
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のさばる人 
3,4年も前だったろうか、その頃恒例になっていたスキー旅行に
本を持っていって旅館で読んでいた。
親戚の男性が目ざとく見つけて、人のものを覗きこんだ。
人の本のタイトルが気になる人と気にならない人がいるものだ。
それは置いておいて、彼は人のものについてこう叫んだ。
「わーはっはっは。紳士道と武士道!こんなの読む奴いないぞ!」
「あっそう。ほっといてよ」
だからあなたはみんなの読む漫画が好きなのね。
おっと子供のけんかはやめておこう。
別にみんなと違うことを自慢したいわけじゃない。
しかしこれは隠すべき本だったのか。
たいして参考にならなかったから、家に置いておくべきだったか。
それとも、彼の前では「飾らない私」でいるべきじゃなかったかも。
のさばらせたのは、私か?

謎めいた言葉ばかり発する人がいる。
もうクセになっているんだろう。
わかる人にはわかるよねーというニュアンスがある。
ムードを読めという。
それを理解できない自分を責めてはいけない。

私も物を書くときなど、つい謎めいた表現になることがある。
でもそれはたぶん「これは断定できない事柄だ」とか
「あからさまに言うのは美意識的にどうか」といった
認識があってのことだ。
少なくとも「かっこいいだろ、俺」という気分ではないはずだ。

「わかるだろ、俺」というのも苦手だ。
たとえば、私がミックという男のことをたまたま上手くまとめたからと
「じゃあお前、男のことがわかるんだろ?」と解釈されても困る。
私は女きょうだいだからか、男に憧れをもっている。
ロマンに導かれて理解に努めた、わからないシロートの一生懸命さ
それだけが形になったのだと思う。
「言葉の裏を読め」とか「男には強がりってものがあるんだ」とか、
だいたい私には冗談も通じない。
言葉をそのまま受けとって悩んだり心配したり大変だ。
だからといって、いい気にならないで欲しい。
そのまま「のさばる人」のカテゴリーに放りこみたくなるから。
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能見正比古 
血液型で性格を判断するのは、日本人くらいらしい。
外人は、星座の話しかしない。
なぜだろう。血液型の何が日本人に訴えるのか。
探ってみるのも楽しそうだ。
15歳の頃、血液型を最初に提唱した能見正比古の書いた
何冊かにはまった。
性格判断の域を越えた人間性の追及が理知的に書かれていた。
「血液型は占いではない、科学だ」というのが彼のテーマだったろう。
残念ながら、それらの本を残してすぐに彼は亡くなった。
あとを受け継いだのは、息子だ。
その後血液型はブームになった。
お祭りめいた、何でも4つのタイプに分ければいいだろうという
安易さに不快感を覚えて私はどこまでも遠ざかった。
性格をそんな一言で言いきれるわけがないだろう。
バラエティ番組にとりあげられ、大騒ぎしている表面の見えないところで、本当の血液型ファンになったかもしれない人々が「根拠がない」という信念をますます強くしたに違いない。
それは能見正比古の一番嫌ったことじゃなかったか。
父の志はもっと高いところにあったはず。
それともまずブームにしてから、去ったあとに何か別の展開があるのかとひそかに期待もしたが、特になさそうだった。
しかし息子のお陰もあってか、ちまたには独自に研究している人々が
多くいるようなので、悪いことばかりでもない。
残るべきものがあれば残るだろう。
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オノヨーコ 
今朝のテレビにオノヨーコが、
ポール・マッカートニー、リンゴ・スターらと
出ていた。
相変わらずイケイケぶりは健在なようだった。
先日彼女の昔の本をブックオフで買った。
『ただの私』だ。
どこからどう見たって、ただものではない彼女が
自分をそう呼ぶのは嫌味と取る人もいるかもしれない。
彼女のことだから、そう突っ込まれることも計算済みだろう。
その本の中の、彼女が1973年に「婦人公論」に載せたという
「日本男性沈没」が痛快だった。
男は女に精神誠意尽くさなければならない。
たとえばあなたの「主女」のはしごが毎度のことでも、
ご飯を何度もあっためなおして、心から「おかえりなさい」と
迎えてあげられるようでなくてはならないと。
「それ、いいじゃん」と思うのは私ぐらいかと思っていたが、
オノヨーコに言わせれば女はみなこれを望んでいる。
これが本来の男の姿であるべきということは、
こういう面の際立つ男性が、女にモテルということになるのか?
オノヨーコは手足のなくなるまで1ヶ所に座りつづけた
ダルマを例にとり、男はみんなマゾヒストだと説く。
忍従の2文字こそ、男の一生のすべてとまで言いきる。
それは女にはマネのできないものであるだけに、偉大なのだと。
ジョンとの関係はどうだったのだろう。
私も、たとえばサロン・ド・プロのCMの、ミックジャガー似の
美容師さん(美容師と言ってはいけないのか)に、頭をいじられ、
イスをくるくるまわされたい。ご飯をつくって、ひたすら待っていて欲しい。
ワイルドな顔にそこはかとない女っぽさを漂わせた彼に。
しかし私たちはオノヨーコを目指すべきではない。
あの人はアーティストであり、スターという任務を持った人だ。
自身満々そうな顔の陰に、それなりの涙があるはず。
私たちはまず、あえて主男に忍従してみよう。
それが本性じゃないのなら疲れるけれど・・・
そこから何か生まれるものがあるのか、確かめるのも悪くない。
女は女に生まれるのではない。女になるのだ。
本にはオノヨーコのサインが記されていた。
彼女の女は繊細な文字に現れていた。
ただのあたし! おのようこ と。
結局男らしさも女らしさもない。
繊細さが命なのだ。

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フザケ屋。
彼に会うと私のフザケ屋がムクムクと首をもたげ、
2人は黙ってうなずきあう。
最近会ったフザケ屋は、私の甥だ。
血は争えないのか、と複雑な気分にもなった。
旅行の行き帰りの車で我々はフザケ合い、周りはあきれかえった。
その時私は完全に小学生のレベルだ。
いやそんなものは超越している。
しかし彼と恋愛はできそうにないな、とふと思う。
君とはいつまでもいい友人でいたい。
私はかたわらで微笑んでいる、その子の弟の方に惹かれる。
あ、今彼なんか言った? うーん。ごめん笑えなかった。
そんなことより、君は色んなことに目配りが利いて、
人にさりげなく手を貸しているよね。
兄がボーっとしたり、何かに熱中して返事もしない時にも、
緊張の面持ちで横に控えている。
本題に入ろう。
とても無理があると思うがストーンズのミックとキースでいえば、
兄がキースで弟がミックだろう。
今やセレブのミックだが、その実地道なかたぶつだと私は思う。
彼について一冊の本まで出した私だ。
好きなタイプの男について語るのはとっても楽しかった。
「ミック・ジャガーについて書いてるの?とてもあなたらしい」
と友人は言ったが、甘やかされて育った私はキースだろう。
天然系で、「そうじゃないだろー」と人々につっこまれている。
このやり方でどんどん行くが、理系でかたぶつな夫はミックだ。
先日まったく同じ境遇の奥さんと
「どうして話も合わないのに結婚したのかしらねー」と
なぐさめ合った。
文系は理系に。フザケ屋は、かたぶつに。
人は自分にないものにひかれてしまうのか。
いやそれ以前に尊敬するのだ。
地道な人の厳しさに。
私の本を読んで「ミックって結局キモの座らない
中産階級のビクビク男だってことも言えるね」といった人がいたが、
それだからこそ、だ。
ミックの場合はだからあんなにビックになった。
私はいつまでもミックや、ミックのような人々の味方でありたい。


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ロハスな人々 
私の住むこのあたりは、緑の山や川のせせらぎという自然に囲まれている。新鮮な野菜もとれ、子供を育てるにはもってこいのところ。
一体どこの国からやってきたの?というようなデザインの巨大な蛾が、
何日も玄関先に止まっていたりもするところ。
まあ言ってしまえば、田舎だ。
刺激に飽きた都会人が、究極の贅沢を求めて住むのもアリだ。
ロハスな人々が好んで住みつくのか、ここに住むとロハスにならずにいられないのか。子供のママたちも、若いのに隠居したような人が多い。
あまりに健康指向だ。
たしかに私も、欲しかった子供が授かった時点で
もう人生のゴールとでもいうような安心感にみまわれ、
後は健やかに生きていこうとばかりに、
オーガニックな食生活やヨガにはまったこともあった。
でもそれは基本であってそれ以上ではない。
家事も嫌いじゃない。太陽の下、ピンとしわを伸ばしたシーツを干す。
主婦ならこんな小さなことに幸せを感じられるようでなければ、と自負していた。
でもこれも、基本であってそれ以上じゃない。
完璧な家事は趣味でやって欲しい。
子供は5歳も過ぎれば手がかからなくなる。
働くでもないロハスなママたちが、
睡眠の足り過ぎたピチピチの肌をしてドラマの話をしている。
ピカピカの笑顔がまぶしすぎて、なんだかもったいないようだ。
もっと違った笑顔が見てみたくなる。
たとえば好きなことにトチ狂って、眼の下にクマなんかできた
睡眠不足の鬼気迫る笑顔なんかがいい。
悪趣味だろうか?



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