サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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いまだにシリーズが始まると大人気である。
老いも若きも、日本人の基本的に好きな話だということだ。
山岡久乃、藤岡琢也が亡くなっても、何事もなかったかのように
話の進んでいる今の状況は知らないが、
相変わらず同じようなトラブルを抱えているんだろう。
このシリーズが始まった、えなりかずきの幼少の頃から
日本人は何にも変わっちゃいない。

昔少し見て覚えている話をいうと、長山藍子演ずる長女が
働きに出て帰ってくると、家は散らかり放題、夫と長男長女は
何もしないで「ごはんまだー」とぷりぷり怒っている。
針のむしろ状態で、彼女は急いで家事をする。
立ってるものは親でも使えばいいのに。
いや、あぐらを掻いた人間にはそれも言いにくい。

彼女はお姑さんには恵まれていて、夫婦喧嘩の際は、
息子より嫁の肩を持つような、どこにいるのかという
できた姑なのだが、それだけに自分の本心は明かさずに
ひっそり老人ホームに入ろうとする。

私がもし老人なら、きっと老人ホームのほうが清々するので
どこか綺麗なところに入れれば率先して探すだろうが、
こういうドラマでは例外なく、本心は家族と過ごしたいのだ。

というより、息子夫婦の気持ちを知りたいのだろう。
彼らが「ひきとりたい」と思ってくれればそれで満足なのだ。
そして長山藍子は、ある日何かのきっかけで姑の本心を知り
迎えに行く。抱きついて涙を流す。
「気がつかなくてごめんなさい。迎えに来ました!」
本心を言えなくてごめんなさい。探させて悪いわねと
姑があやまるのじゃないのだ。
本心を言えない人の方が偉いわけだ。
うーん日本人、まわりくどすぎる。

これを見て、自宅介護が最高のあり方なんだと、
自分の本心を偽る人も日本人なら出てきかねない。

「隣人」は、気にしたくなくても気になってしまうものだから、
成り行きで家族が介護することもありだと思うし、
お姑さんのほうが小さくなっているケースも多いだろう。
今後はまた、介護の環境もどんどん変わっていくのだろうが
昔は嫁が想像を絶するほどの犠牲を払うことも多かった。

なぜかといえば、「こうあるべき」という誰が決めたかわからない
常識でみずからを縛り、疑問を感じることもなく従うからだ。
今後も、あやしげな、国の家庭教育推進運動という大義名分や、
あるいは細木数子らの後押しを受けて、高齢者が若者に形だけの
常識をふりかざしかねない。
もちろん常識のない者には言わなければ伝わらないこともあるが
自分以外はすべて非常識と決め付けていないか、一度考えて欲しい。

「日本人は変わらない」ことは、百恵さん人気の長さにも現れている。
病院の待合室などで週刊誌をめくると、百恵さんが
パッチワークを作った、長男の就職がどうした、と
相変わらずだ。
引退してもう25年はたつだろう。
彼女のような生き方はよほどめずらしく、そして日本人好みなのだ。

その週刊誌では芸能リポーターの梨元勝が、「彼女は女性の生き方の見本だ」と語っている。
彼も相変わらず男の頓珍漢ぶりをよくあらわしてくれるが、百恵さんが引退したのは、そんな犠牲精神からじゃない。
自分が主婦を見下しているからといって、あえてそれになろうとする、などと決め付けては困る。
彼女が引退したのは、自分の持てなかった暖かい家庭を持たないことには死ねなかったからだ。

そして彼女の人生スケジュールからすれば、あの若い時期に引退するのがちょうど良かったというだけだ。
「自分を犠牲にしない人間の見本」とされなければおかしい。
ゾウの時間ネズミの時間というが、同じ人間でも時間の捉え方は人それぞれで、彼女の芸能界に存在した時間は、彼女にとっては充分すぎるほど長いものだったかもしれないし、一般論でははかれないものだ。

はかれるのは、日本人の精神は根本的に変わらないということ。
なかでも目立つのが、犠牲的精神。
ではなく、犠牲的精神を尊ぶ精神。

今さら変わらないものを無理に変えようとするより、
その上でどうしよう、ということではないだろうか。


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あやまる日本人 
たまには変わった番組も見てみるものだ。
NHKの日本語講座・・・ネタの宝庫だ。
日本語講師の指導が、色々考えさせられる。

たとえば「うーん、そこはもう少し恐る恐る頼んだほうがいいですね」。
明るい、よく通る声と、発音明瞭なNHKらしさで、きっぱりと言い切ってくれるのだ。

生徒の外国人、アジア系、ヨーロッパ系など数人も、時代錯誤なとぼけた味を出している。

それにしても「恐る恐る言え」とは、恐れ入る。
そんなに身を縮こませなければダメか。

「すみません」「すいません」というのもある。
なんであやまらなければならないのだろう。
英語のエクスキューズミーなら堂々としているのに。

そう思って「ごめんなさい」「ありがとう」などと意識的に使い分けてみたこともあったが、混乱して逆に使ってしまうのでやめた。

何を謝っているのか自分でもよくわかっていない、平身低頭さの中に
甘えを含んでいる、そんな日本人らしさが言語にもあらわれている。
「よろしくお願いしマース」など、どうにも訳しようがない。

私たちは腹立たしいほど、骨の髄まで日本人ときているらしい。
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羊のような日本人 
日曜日、運転免許の書き替えに行った。
「うわっ何これ」というほど、かなり人が並んでいたのだが
誰一人として手間取る人がいないために列がスムーズに消化されて行く。
外国のこういうところへ行ったことはないが、
日本人の一糸乱れぬ動きっぷりに感心した。
唯一変わったことをするとすれば、それは私のような気さえする。
こんな日本人なら、少しでも人と違うと、「どうしよう」と
戸惑うのも無理のないことだろう。
言ってみれば、みんな草をはむ羊のようだ。
もちろん中にはけだもののような人もいるが、日本の場合犯罪者にしても
むしろ日頃自分を抑え過ぎていたために、本来は小出しにしないとバランスが
取れないのかもしれない獣性が、内面で膨らんでついに暴走してしまったようなケースが多い気がする。
ニュースを見ていると加害者も被害者も、身の置き所のないようないい人ぶりが現れていて居たたまれない。

こんな日本人にそもそも競争だらけの資本主義はお似合いじゃないというのが
格差問題などの現象に出ているのではないか。
堀江被告にしても、つかまっても反省の色もないところを見ると
彼はある意味「何でもあり」の時代の犠牲者なのかと思う。
間違った論理であろうとへたに頭がいいために、辻褄が合ってしまうという
ヤツだ。
こういう人々にたとえば古き良き武士道を説いたとしても最早
かたなし。

そうしたことを気づかせるために、彼の存在意義はあるのか。



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