サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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派より近所の 
キリスト教の教えには、思えばなじめないところがあった。
たとえば「再臨」という有名な教えがある。
終末の日、突然信者だけが空にビューンとひきあげられるという。
こんなアクロバットを何のツッコミもなく信じてしまうこと自体に
思わず笑ってしまった。
笑い事じゃない。だって地上に残された非信者はみな破滅ということ
だから。

こうも言われた。
「あなたのためにイエス様は十字架にかかってくださった」
有難がらなければいけなかっただろうか・・・

「あなたは偶然生まれたと言われたらどうです、ショックでしょう。
選ばれたと思いたいですよね」
偶然生まれたのかもしれないんだけど・・・・

こんな発言は問題だろうか。
でもそう思ったのだから仕方ない。
本当にピンと来なかったのだから。
まあ黙っていたけど。

牧師が礼拝の最後にする両手を広げたお祈りは、実際
どんなことを言っているのか、説明を受けたことがある。
私が訳すと、こうなってしまう。
「信者たちよごくろーさん。
今週も悪魔のはびこる世の中でよく耐えた。
来週も負けないで耐えてくれ。
神はもうすぐ私たちだけを迎えに来てくれるから。
さあ、散ってゆけ!」
そこには敵対心しか残らないのではないか。

勉強会のようなところに参加していたときは、直接
牧師さんに色んな質問を、これでもかとぶつけていた。
納得できるものもあれば、そうでないものもあった。
そのうち、この勉強会は教会員へのステップだと気付き、
教会員とはどんなものなのか、心の準備もできないまま
だったので、参加するのをやめた。

信者もじっさい色々だ。
「こんなことを疑問に思う」と言えば、
「それを言ってみた?なんて言ったのか聞きたい」
と身を乗り出す人。
「とにかく信じればいいのよ。理屈から入るのはダメ」と言う人。

聖書については、逆に理屈抜きで、
「こういうことだろう」と、ぐんぐん入ってきた。

自分なりの解釈じゃまずいのだろうか。
たとえば天国という概念は、自分の心が喜んでいれば
いつでもそこが天国だということじゃ、いけないのか。
これじゃリベラル派になってしまうか。
派閥など、神の前にはないと思うんだけど。

今、私は礼拝だけに通っている。
献金をする前の決まり文句に「献金は強制ではありません」という
のがある。
礼拝や献金をする資格は、神の前に平等だということだ。
しかしこれらが強制されてするものじゃなく、自主的にするものなら
私はどこの教会へ行って礼拝してもいいということになる。
カトリックでもいいのか?
それはだめだという暗黙の了解がある。

自分中心になりがちの世界から、神中心の世界へ
週に一度意識を切り替えるために出席しているのだ。
派閥より、近所であるかどうかのほうが、重要だ。

私のような教会になじめぬ者は、無教会派をすればいいのか
というとそうではない。
「私たち、無教会ですね」と、手を取り合った時点でどこでも
同じじゃないか。
人はどうしても自分の意見に賛同してくれる仲間を求める。
でも、そこで失われがちな独自性なり客観性を追求していくという
一匹狼の存在価値も失われる。
なあんて、なんかすごくかっこいいことを言い出しているので
もうやめよう。
ただ、だから近所の教会でいいと言いたかっただけだ。
基本的に、どこでも誰とでも話は通じるのだから。


















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侵されざるもの 
今更ながらの話だが、このFC2ブックマークというのは
ある日突然ことわりもなく設置されていたものである。
そのことについて多少の不快感を覚えながらも、
それを行動に変えることもせずにいた責任は私にもある。
大騒ぎして消すほどのことでもないと放置していた。
でもちゃんと意識した以上、やはり消すことにする。

それと少し関連するが、この前の日曜日、礼拝に出かける前に
教会から電話があり、「今日、献金の当番になっていますが
大丈夫ですか」という。
「は? 私は教会員ではありませんが」
「教会員じゃなくてもそれくらいできるだろうと思いまして」
「でも献金係りについては、教会員の仕事と書いてあったので
お断りします」
「わかりました」
「またお話お聞きします」と言って切ったが、後味悪かった。
献金袋を配るくらいのこと、別にいやなわけじゃない。
勝手に当番にされていたことが、いやだったのだ。

私のあずかり知らぬところで、いつの間にか教会員にされている
なんてことも困るので、小さいことが肝心だ。

相手の声の調子は笑顔のそれだったが、こうして改めて書いてみると
ずいぶん詰問調だ。
それこそ、鈍感でいいとこどりの、私という甘ちゃんに対する
責めを、小さいところから始めているのかもしれない。
もう礼拝にも出ないほうがいいのだろうか。

私は、教会員になることについても洗礼と同じように
矢も盾もたまらない形の「行動」によって、なりたかった。
まだその時期ではないので、ならないというまでだ。
しかしその時期は来ないと、どこかで判断しているのに、
通い続けている私が間違っているのか。
いや誰も間違ってるなんて言ってないのはわかってる。

ただ、自分を正当化してあげなければ他の誰が自分を守って
くれるんだ。

洗礼や教会員になることを強制する教会が多いが
うちはそれはしませんと聞いていた。
そんな自由さは、自分の考えにあうだろうと短絡的に
決めてしまっていた。
自由さは、あわないのかもしれないのに。

日本人なら、「もういい加減わかれよ。それだけ居座ったら
教会員ってことになるだろ」ということになるのかもしれない。
「ただほど高いものはない」ともいう。

いい大人なんだから判断つくだろ。
でも私はいい大人じゃない。
いい大人になりたくないから、あえて気付きつつ通っていた。

向こうの「なあなあ」の姿勢に応じて、私も気が向いたときに
手伝いをしたこともあったし、初めのころにはイベントにも
出席していた。子供と私の献金分払っていれば
礼拝には堂々と参加できるだろうと判断した。

でも無意識の強制があるなら、初めから強制してくれ、とも思う。
常識知らずは、縛られないと判らないし、逆にそこで初めて
どうしても譲れない自分、というものが強固にわかる。

染まりやすい自分の、それでも何者にも何色にも染められない
部分と言ってもいい。

時にはこれってなんだろう、とあとから理由付けを迫られる
私というのもある。
たとえば、家に帰ると息子の友達がのんきな顔で出迎えてくれる。
思わず「不法侵入だ!」と叫びたくなる自分は何だろう。

相手はクレヨンしんちゃんと同じくらいの子供だ。
なにをそんなに目くじら立てることがあろう。
「お母さんに言ったの? なんて言ってた?」と
それこそ詰問している。

生理前でどうかしちゃってるのか。
それとも後で考えれば、ちゃんとした思想になるのか。

侵されない自分を知っていく過程は、
部屋のかたづけにも似ている。
もはや情だけになって怨念のこもっていそうな、
だから余計捨てられなかった「いやげ物」などを
少しずつでも思い切って処分して、
最低限の物に囲まれた、好みの空間をつくっていく過程に。

いっそのこと教会をやめたくなったが、
「これを言われたから行かない」わけではないので
もう少し通ってみることにする。




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声高なものには警戒を 
私の行っている教会は、プロテスタントだ。
みんな、そこまでしか知ろうとしない。
え、その先があるの? 知ってどうするの、別に知りたくもない。

無理もないことだ。
私も最初は、子供の遊び場を求めて足を踏み入れたんだもの。
時には子供をスタッフが見てくれ、いいお話が聞ける。
食事も供され、ズボラ母には持って来いの場所だった。

私の場合は、その先があった。
キリストに惹かれて、また教会員の考え方のようなものに
疑問を持つところがあって、色々リサーチし始めたのだ。
そして教会がアメリカから伝わった福音派であること、
原理主義も包括していることを知った。

本当はそうしたことを、洗礼まで考えている相手には
言うべきだろう。
なめられているんじゃないか。

福音派といえば、ブッシュ大統領がその「純粋な」使命感を
あおって選挙票にとりこみ、イラク戦争の正当性に使われた
派だということを踏まえよう。これ、現実だ。

目的もスタンスも見失った状態で、
教会の細胞集会などに誘われるまま参加すれば、
どうしても声の大きい人の意見に引きずられる。
母親ロボットなどをして、意識の眠っている時期は
なおさらそうだろう。

書物などでも、日頃使わないような難しい言葉で書かれているものに
無条件の絶対性をみることはないだろうか。

同じように、組織の長の説得力ある発言には無条件に同調し
あたかもそれが自分の意見であるかのように取り込んでしまう
ことはある。

いや案外、本当の長の言うことには普遍性があるものだ。
むしろ自分が組織に長く属し、長のような気分になっている時
に何を言い出すかわかったもんじゃない。

婦人会など、お茶飲み会の目的も兼ねた癒しの場で
想像以上に危険なサブリミナルが行われているかもしれないのだ。

結局頼れるものは自分の感覚しかない。
なにか不快を感じたら、そこを入り口に元をたぐってみる。
自省心、ユーモアといったバランス感覚が何より大切だ。
日本人のファジー感は捨てたもんじゃない。
大いに評価されるべき、と思う。

もっともバランスといっても、振幅の大小はある。
振り子が振り切れるほど、その場に浸ってみなければ
わからないこともあるのだが。

まずは自分は何派に属するのか調べてみてはどうだろう。
そうした姿勢を持って疑問を呈するのに、
何のやましいことがあろうか。
同じグループだからといって口をつぐんでしまうのが
忠誠だろうか。





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お祈り会は苦手 
数年前キリストを信じて教会に出入りするようになった。
夫に「キリシタン」とからかわれながらも、
礼拝だけは熱心に通い続けている。
でも各種の集会、婦人会にはなじめないままだ。

まずお祈りがダメなのだ。
それらに出席すると、必ずみんなで祈る。

たとえば何か崇高なものと出会って、ひれ伏したい気持ちになったり
願いたい事がある、嬉しいことがあって思わず感謝、それならわかる。
私など「これって苦しいときの神頼みだよな」と気づきつつも
思わずすがる。指を組んで合掌し、アーメンも忘れずに。
こんなのだけじゃだめらしい。

困っている人、身体をこわして臥せっている人、悩み多い人
そんな彼らの名前を一人ひとりあげ、ていねいに具体的な事情
まであげて、そしてみんなで祈るのだ。

私なら、この場で名前をあげられたくはないなあ。
しかも本人のいないところで・・・
こういう感覚の人間がいることすら想像つかないみたいだ。

この場で一回、そして家でもう一度彼女のために祈りましょうと
任務を果たすみたいにするのはごめんだ。
家でもう一度って、宿題じゃないんだから。

忘れたようでも彼女のことがどこかで気になっている、
忘れたいのにまとわりつく、そんなもやもや自体が、
彼女に対する祈りなんじゃないだろうか。

「こういう所がいやだよね」と笑い合える相手でもいれば
まだ行く気にもなるのだろうか。
一種類の考え方しか認めないような雰囲気が、苦手だ。

しかし人は誰しも居場所を求めているから、たとえ何か疑問が
あったとしても、見ないようにして、
その場所にすがりたくなる気持ちもあるだろう。

そういう自分も、心が弱った時には、扉を叩きたくなるのだろうか。
みんな温かい笑顔で迎えてくれそうだ。
そしてどんどん骨抜きにされてしまいそうだ。

弱いからこそ強く生きていこうと思うのだ。
一人ひとりとは楽しく接することができても、集まりとなると
2の足3の足を踏む。




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禊と、ラーメンと 
食欲については恥ずかしい思い出がある。
気功の会という、ちょっぴりあやしいグループで、極寒の季節
滝に打たれに行くことになった。

山奥に入るほど険しくなってくる道を分け入り、
飛び石を伝って川を渡る。
いつもは取り澄ましたような男たちが手を貸してくれる。
極限状態にあって仲間を思いやり、女性を守ろうとする彼ら・・・
本当はこれ位ひょいひょいと渡れるのだが、
それでは面目がつぶれるだろうとお世話になる。
もちろん、悪い気分じゃない。

滝に着き、身を切るような水の中に入っていく。
いったいこんな所で何をしているんだ、
と我に返るような人なら、ここには参加していないだろう。
すぐそばに轟々と流れる滝はあるのだが、
わざわざ打たれることもなく、温泉のように入って出た。

それでも温泉と違ったのは、手足が死人の色をしていたことだ。
「スゲー」とまじまじ見つめた。
セルロイド人形をもっと白くしたようなこの足は誰のものなんだろう。
思索に入っている場合じゃなく、身体がガタガタ震えだした。
寒い!
いいタイミングで、ホストのように気の利く気功の先生が
火を起こしてカップラーメンを配る。
やったーラーメンだ。
「なんだ箸が足りないぞ。みんな一本ずつだ」。
身体を温めながら3分を待つ間、一人の男性が気絶した。

みんなが取り囲み介抱する。私ももちろん気になったのだが
それよりラーメンどうするんだ。
一部始終を横目で確認しつつ、ラーメンに貪りついた。
一本の箸が間抜けだが、そんなことどうでもいい。
「あっ気がついた」「思ったとおり大丈夫そうだ」
すべて食べながらの確認だ。

いざという時こういう人間だ、私は。
元教師の、行儀にうるさい気の先生もあきれはてているだろう。
その晩みんなでイノシシ鍋をつつきながら、依然として
罪悪感にさいなまれていた。
先生が口火を切る。
「あれ、どう思った?」
私のことか。
「よかったよね」
「うん」
「あのラーメン食ったところ」
「そうそう」
男たちはまたもや一致団結していた。
すでにお互いが言わんとしているところを分かり合っている、
この連帯感はいつもながら見事だ。
とりあえず、食欲は恥ずかしいことじゃないらしいけど。

もしかして彼らは、サバイバルに強い
ワイルドなパワーを女性に見ているのだろうか。
奴ら脂肪がついてるだけじゃないぞと。
それは一種の畏敬の対象になる反面
軽蔑にも、底知れぬ脅威にもなりえる。
得体の知れぬものは、とりあえずやっつけておかなければ、
という本能は弱い者たちの常、か?

あるいは男性を、ハンデキャップのある人に対するような
いたわりの思いで見るのもひとつだ。


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食欲があるのなら 
自分が食べたいものを我慢して子供に譲るということができない。
おいしいものがあれば、ジャンケンしてでも奪い取る、「信じられない」親だ。
おかげでうちの子達は「自分がもらえて当然」とは思っていない。
旦那の「なんだぁ?コイツ」という視線に罪悪感さえ覚えなければ、
食欲は満たされるし、いい子が育つ。
食べたい欲求を抑えて菜食主義にしてまで、長生きして何をするのか。
たんぱく源がお豆腐じゃ、物足りないだろう。

もっとも今まで自分を抑えて来た人が、いきなり我がままになるのは
難しいだろう。自分でも加減がわからなくなっているかもしれない。
どこまでが純粋な食欲か?がわからないのに無理をすることはない。

私は幼いころから「あの人は、あーいう人だから」とあきらめられてきたので、何をしても大丈夫なところがある。
居候していた家を追い出され、高校中退という悲劇的事態にあったとき
でさえ、「何か考えがあったのだろう」と、取りあって貰えなかった。
親戚の誰一人、同情さえしてくれない。
こういうケースもあるのだ。

食欲については、恥ずかしい思い出がある。
明日書いてみよう。
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10年も前の新婚時代のことだ。
私が結婚したのは、子供を持って自己中心の世界から脱却したいからだった。
夫について移って来た新天地でさっそく子作り計画に励んだが、ほどなく流産した。
そんなはずじゃなかった。
近所に住む、夫の同僚の奥さんは「出来ない」」とこぼしていたが、結局先に身ごもった。
暇な主婦の子作り競争だ。
彼女と日がな1日駄弁る日々にいいかげんあきていたが、趣味を持たない彼女は私にべったりと寄りかかってくる。世に知れた大会社の社長令嬢で、ドラマを見ながら「あんなアパート絶対住めないよねー」なんて言う。
ぼろアパートで一人生きてきた私はうなずくことができなかった。
妊婦の荷物を持ってあげながら「私は何をしているんだろう」と思い、
彼女を避けるように、不妊検査や鍼に通うようになった。
ルサンチマンや強迫観念は、人をすきだらけにするものらしい。
鍼の先生のお誘いで「とってもよかった」セミナーというところへ行こうと決めた。
癒されるためならお金は惜しくなかったということか。
旦那を説得し、宿泊費と交通費、3日間の受講料10万をぶんどって大阪へ行った。
自己紹介やグループ分けのあと、全員参加の様々なトレーニングをこなす。
たとえば私がこれからどんなに不幸になっていくのか思いつく限り語るというもの。子供に戻って親に言えなかった不満をカタルシスするもの。
絶妙のタイミングで流される、長淵剛やさだまさし、中島みゆきといった
暗いとされる歌謡曲がわざとらしい。
結局はこの泥臭さが、日本人に一番訴えるものなのだろう。
だんだん主催者側の意図が読めてきた。
自己批判をさせておいてトレーナーがそれについてコメントする。
「あれ?今私が言ったことを繰り返しているだけじゃないか」。
横一列に並ばされるとトレーナーが一人一人に耳元でささやいていく。
ボソッとしたその殺し文句を、床にくずおれんばかりにして受ける女性。
何を言ったか知らないが「私だけにかけてくれる一言」は貴重なのだろう。
おそらくその場のきまぐれなのに。

一日目が終わり、ほんの少数だがぷりぷり怒っている人もいた。
しかし大半は、もうすっかり雰囲気に酔ってしまっていた。
2日目には完全に覚めていたが、こうなったらすべてのトレーニングを
大はりきりで楽しんでやろうと決めていた。
自分を捨てろと言われれば、その気になって大声を出してみた。
2日間わたしたちは閉ざされた空間からトイレに行くこともままならなかった。
集団催眠術の常套手段とは後で知ったことだ。

極めつけは最後のトレーニングだった。
2重の輪になってフォークダンスの要領で変わっていく相手に合図する。
「目をそらす」「握手する」「抱き合う」だったかな。
どれを選択してもいいので、私は最後まで握手で通したかったが
次第にみんな抱き合っていくので、多勢にさからえず同じようにした。
最後にはみんな抱き合って、思惑通りというわけだ。
「わかったよー」と言って泣き出すいいオッサンがいる。
みんな笑顔だ。
この中の何人が本心は冷めているのか見当もつかない。
だって私も実はどこかで感動してしまっているのだから。

最終日の朝、目をつぶらされ手をひかれて、いざなわれた。
どこへ連れていかれるのかもうわかっていたので、目をあけたかったができない。
私をセミナーへ誘った鍼の先生が花束を持って待っていた。
もう一人そこへたどり着いた男性は目をあけたとたん泣き出した。この人はマジで目をつぶって「何だろー」と歩いてきたのか? 絶望的だ。

当然ながらみんな3倍高額の次のステージに誘われた。
決意した人がみんなから拍手喝さいを浴びている。
断った私はあせったスタッフに別室へこっそり連れられた。
そこには目の据わったそれでなくとも人相の悪いデブのトレーナーが居た。
何を言っておどされたのか、耳に入っても受けとめないように精神統一していたので、もう覚えていない。
口ほどでもないあきらめのいい彼に比較的早く解放されたらしい私は
帰途で「やったぞ」という気分だった。自分のことをだまされやすいだろうと思っていたが、意外と大丈夫だ。
ぼろアパートでここまで成長してきた自分に乾杯。
しかし世の中にだまされやすい人は一杯いて、そっちの方がこわかっ
た。
だまされていると決めつけるわけにもいかないのだが。
だから私にできることは、鍼の先生に黙って本を貸すことだけだった。
『洗脳されたい』にはセミナーの実態が事細かに載っている。
判断するのは、彼だ。

先生は修行を積み重ね、ずいぶん上のステージまでのぼりつめていた。
その彼が数日後「読んだよ。申し訳なかった」と、今後の治療費をタダにして
つぐないたいと言って来た。
お言葉に甘えて一度だけ行ったが、さすがにそれ以上は遠慮した。
お互い得るものがあったのなら、それでいいとしたかった。
余計なことだったのかもしれないが、もう確かめる術もない。









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