サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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居場所のない人 
コンビニの前でたむろする若者を見ると
「居場所のない人」というイメージが浮かぶのではないだろうか。
居場所というのはホッとできるところ、受け入れてくれる場所だ。

キリスト教では、たとえばこうした若者たちは
クスリなど、「まちがった」安らぎを求めようとするという。
しかし安らぎを求めるのに、まちがったもなにもないだろう。
教会に行けば安らげるとは限らないのだ。

イエス・キリストは、居場所のない人の救い主だといわれている。
イエス自身が居場所のない流浪の人だったというのだ。
いや、むしろイエスは、あえて居場所を作らないようにしていたの
ではないか。

ハイデガー哲学における「故郷喪失」とは、存在忘却だが、
あえて居場所をつくらないことで、
かえって「個人」の存在は、強く意識されるといえる。

たとえば私のような主婦なら、妻や母という、ある意味幻想の
役割を、意識の上でかなぐり捨てたところで、私が明らかになる。

ところで韓流ブームはまだ続いているのだろうか、未だに空港に降り立つスターは大勢のファンに温かく出迎えられる。
しかし同じ韓国人、あるいは朝鮮人でも「在日」といわれる人々には、それこそ居場所のない、はかりしれない苦労があったといわれる。

あるいは「難民」と呼ばれる人々の、野垂れ死にしてもいいから
離れたかったそれまでの暮らしとは、どんなだっただろう。

イエスは、これら居場所のない者たちの神だ。
まやかしの慰めを口にするのではなく、
死と隣りあわせで生きろ、あなた自身であれと、
勇気づけてくれているのではないか。






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クリスマスは、「この世に使わされるために来た」という
イエスの真髄を心に迎える日だ。

聖書の一節に
「人の子が来たのも仕えられるためでなく、かえって仕える
ためであり、また多くの人のための、あがないの代価として
自分の命を与えるためなのです」とある。

イエスは弟子たちに
「支配することではなく服従すること、権威をふるうことではなく
仕えること、しもべになること、われ先にと人を押しのけるのでは
なく、他の人に機会を与えること」をしていきなさいと伝えた。

なぜなら世の中のものが入りすぎると、神の教会は沈没する。
私たちは世に出て行くもので、世に取り込まれるものではない。

「神の国としての教会を建てたい」とのイエスの御心を
まだ開かれていない弟子たちは取り違えた。
ヤコブとヨハネは
「私が右の大臣になる」
「私は左の大臣だ」と対立し、
それを見ていた他の弟子たちはブーブー文句を言った。
自分がそうなりたいからだった。

右だ左だと安住したがる
的はずれな弟子たちにのために、イエスはみずから
彼らの足を洗う、みじめな奴隷の姿となって
人に仕えるとはこういうことだと示した。
ここにこそ生きがいがあるよと。

今さかんに言われている「そうじ力で運がよくなる」みたいな
教えも、結局はこういうことだろう。
社会的地位のある人ほど、素手でトイレを磨くといい、とか。
もちろん考案した人は、意識していないだろうけれど、
色々な教えの源は、聖書のどこかに潜んでる。

余談だが、しかし聖書は分けて読むものじゃない。
それは誤解の元になる。
通して読むことで、スピリットのようなものを理解するのだ。

なーんにもわかっちゃいない弟子たちの足を洗う姿。
神自らが、腰布を巻いて、地面に這いつくばり、
一心不乱に洗う姿。
日本風であるなら、ふんどし一丁の姿だろうか。
マヌケで哀れな姿、それが十字架だ。
家畜小屋で生まれ、虐げられた人々の仲間となった
パフォーマーとしての、イエスの真骨頂がここにある。
花道を行く彼に、「キリスト!」と屋号を呼びたくなるほどだ。

ごめんなさいイエス様、
いいかげんにしておいた方がよさそうです。
でも私は、あなたの十字架の姿は、私たちの罪の犠牲ではなく
粉々に砕かれた謙遜の心とはこれだよという、
あなたの身体を張ったメッセージと受け取りたいのです。
いつも忍耐のまなざしを、ありがとうございます。


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聖書の根底を流れる一貫した精神、
それは自由の精神だ。
神に似せてつくられた人格は、本来自由なもの。
自分で考え、自分で選び取る。

クリスチャンとは、聖書の一言一句を誰かに
押し付けられた人間ではなく、イエスに似た、
自由な人間のことだ。

それはどんな人間だろう。
ニーチェによればイエスという人は、

まず偏見を持たない。
だから、とらえどころがない。
決まりごとを一切認めない。
自分の言葉のみを使い、言葉は記号としての価値しかない。
学問、芸術、政治、宗教、すべてにかかわりがない。
文化も知らない。つまり、
「この世」を否定する理由がない。

論理的に根拠を持って証明することを考えず
自分自身の精神を純粋に証明するだけ。
世の中のたくさんの教えや意見を知らず
だからそれらに出会っても否定せず、へーと思うだけ。
自分には光が見えているから、何でも素直に受け入れられる。
そんな人なのだという。

だからその死は他から強制されたものではありえない。
他にとらわれたもの、すなわち自殺とは違うのだ。
神に死を命じられて、すなわちそれは寿命なのだが、
「神よどうして」と嘆いていたというが
自由を奪われることに最後まで精一杯あらがったということだろう。
イエスはあくまで反逆者だったのだ。
それでも心の奥底は穏やかに死を受け入れる、
それが、光の見えている者だけが持てる、神への信仰なのだ。



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聖書の「姦淫を犯すな」という言葉を聞いて「とてもそんなことは
できない」という人は多い。ましてや情欲を持って女を「見る」
だけで姦淫を犯したことになるなんて、こんな宗教はいやだと。
でもそれは誤解である。

ある「富める青年」がイエスに「永遠の命を得るにはどうしたら
いいでしょうか」と尋ねる話が聖書にある。「富める」とは
金持ちで見栄えもよく才能あふれる、今でいうエリートだ。

イエスは「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んでは
ならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人
を、あなたのように愛せよ」と答えた。

青年はがっかりしただろう。それは律法学者の言うことじゃないか、
あなたまで戒め云々を口にするのかと。
「そのようなことはみな守っております。何がまだ欠けているんですか」。

青年は非の打ち所がなかったが、
罪を認めないという欠点があったのだ。
罪を認めたところからすべては始まるというのが、イエスの真意だ。

以前、「アー言えば上祐」という人がよく出ていたが、
イエスは彼のように言葉に対して答えようとするのではなく
相手の心を見抜いて、それに応えようとする人だった。

イエスは続けて、「売り払いなさい。貧しい人々に与えなさい」
と追い討ちをかけた。「欠点のないあなたならできるはずですね」
という真意の読めない青年は、突き放されたと誤解したまま
寂しく去っていった。

これでキリスト教を去る者は多い。
いや去るだけならいい。
芥川龍之介は、聖書を読み悩みながら死んでいった。
クリスチャン作家で有名な遠藤周作でさえ、晩年は仏教に
惹かれていく自分を抑えられなかったという。

みんなイエスの挑発を誤解しているのだ。
挑発に乗らない自信があるならいいが、真面目な人は
いきなり読むのは危険がともなう。
適切な指南書から始めたらどうだろう。



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イエスを見た人 
弱い、ドンくさい、オドオドしてる・・・どんな理由か知らないけど
何の罪もない子がいじめられているのを見るほど、腸の煮えくり返ることはない。
迷惑かけてるわけでも、わがままでもない、いやそうであってもイジメはあってはならないのに、ただ八つ当たりされているような子がいる。
うちの子がそれをやったら即座に叩きのめすところだが、よその子にそこまではできないのだ・・・

それでも生きているのだから、「強くなれよ」と祈ることはできる。
もし死んでしまったとしたら、「イエス様だ」と思うしかない。

戦争の犠牲者に対しても同じだ。
当事者がどうなろうと、それは彼らの責任だけど、
巻き添えになった者たちの悲惨さは、血を流し十字架にかかったイエスと重ねることしか、解釈できない。
神様でも仏様でもない、イエス様である。

彼らを見て、「二度とこんなことを起こしてはならない」と思うのか
「ごめんなさい、私は助かりました」と思うのか、
人それぞれに何かを「つかむ」ということだ。
「わかったよ」ということだ。
それが「アーメン」ということじゃないのか?

私がミック・ジャガーの「必死」のステージにイエスを見たのも同じ。
「見てしまった人」には義務があるのだ。
それは「わかったよ」ということがどういうことなのか、
どれほど大きなことなのか、自他に証明することだ。

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イエスの弟子の選び方 
「誰も滅びることなく、すべての人が救われて真理を知るようになる」
という志を抱いたイエスは、12弟子をどのように選んだのだろう。

イエスは彼の話を聞きにくる群衆の中から、まず「イエスは気が変になっている」「悪霊にとりつかれている」と頭から決めつけた律法学者たちを取り除いた。

次に、いつまでも群集に埋もれている人々も取り除いた。
彼らはイエスが誰なのかが知りたいのではなく、ご利益が欲しいため、
今で言う「占い」に惑わされるような恐れと敵対の告白をした。
「あなたは神の子です」

イエスは彼の志を継承できる人を探していた。
彼らを自分の身近に置くためだ。
そこで、教えを熱心に聞き入る人々の中から、
求める心、飢え乾く心を見分け、弟子に選んだ。

彼らなら、イエスの言葉をひとことも聞き逃すまいとするからだ。
彼らはイエスの身近で言葉のキャッチボールをし、いこい、
安らいだという。これ以上の「癒し」があるだろうか。

彼らはどんな人たちだったのか。

イエスはよくあるリーダーのように、いわゆる「世の基準」では
人を選ばなかったから、弟子といえど決して立派な人物ではなかった。

たとえば、「どこまでもついていきます!」と興奮して豪語しながら
最後には裏切ったペテロ。
計算高く、信仰心の薄いピリポ。
「彼らを焼き尽くせ!」とか言ってイエスに叱られたヤコブ。
彼はすぐ切れるので、周りは腫れ物にさわるように接していた。
すぐ武力に訴えようとする熱心党員シモンは、今で言う過激派・・・

こんな人間味あふれる彼らだから、さすがのイエスもリーダーシップが大変で、日々祈りをささげていたという・・・

それでもイエスは、欠点のあるひとりひとりを、まずはありのままに受け入れ、
愛を注ぎ、完全な赦しを与えた。
自分が変われば、相手も変わるのだ。
弟子は「こんな自分が」福音を伝える権威を行うために選ばれたという
「誇り」と「感謝」を覚え、恵みに応答しようとした。
そこから、ヨハネの「福音書」や「黙示録」は生まれたのだ。

クリスチャンとは、すなわちこのイエスの弟子のことである。






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