サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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きのうの師匠 
昨日の茶道教室で聞いたハナシを少々…
ちょっとした仕草で「この人はお茶をやっているな」というのがわかるらしい。
逆に言えばそうなってこそ、やっているかいもある。

「お手前」をして客がお茶を飲んでいるとき手をひざにおいて待っているが、
その時の手も、丸みをおびるようにすると綺麗だとか。
まず指をそろえてピンと伸ばしてから
心もち丸みをおびる、その絶妙なかげんがミソだけど、
それはあらゆる動作にいえる。

その手を使って、日常の動作、例えば髪をかきあげることひとつに
違いを出そう!ということ。
若い人の手ならなおのこと美しい。

師匠自身は70を過ぎてからはもう人に綺麗と思われたいとか
いう気持ちもなくなったらしい。
そして普通はそうなっていくものらしい。

あとこんなことも聞いた。
あるお茶の先生のお宅を訪ねると、高齢とはいえ玄関にダンボールが
積んであって、茶人として残念だったと。
家の中はどうであれ、玄関はいの一番に綺麗にしなければいけない。
あいたたたた、耳が痛い。

「うちは玄関より家の中の方がマシなんです」と言うと、それならそのように
張り紙に書いて貼っておいたらどう?と言われた。
そうかそれもいいアイデアかもしれないな。

でも私は「あら何この人、だらしないわねー」と思われて
実は中が綺麗なほうがいい。表面だけ取り繕ってる人には疑問を感じるから…

ってのは言い訳だな。

人は形をまず見るもんなんですよ。何を隠そう私もそうだ。
きれいにしよ。
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求道の人 
先日の「お茶」には、若い男性が出席していた。
以前ここに通っていた学生で、今は仙台に住んでいるが京都に来た折には
参加していくという。というかわざわざ用事を作って来るのか。

楽しく一緒に稽古をするうちに、この人がどうしてお茶を始めようと
思ったのか知りたくてたまらなくなった。
なぜだろう、キマジメそうな人だったからかな。
でもそんなこと、いきなり聞かれても、私だって返答に困る。
だけど知りたい。

と思っていたら、帰りのバスが偶然同じだったので、雑談の中で
思い出したように聞いてみた。
やはり返答に困ったようだった。
だけどこの人は私以上に魅せられている、お茶の世界に。
それはどういったものだろうか。

茶道にはさまざまな先生がいるが、「ただ所作を覚えればいい」と
言われることが多い。だけど私は理屈も言って欲しいと常々思ってきた。
たしかに身体で覚えるものだが、いちいち納得して前にすすんだほうが
私には楽しく身につくと思う。
わりと男性にはそういう考えの人が多いのではないだろうか。
そして魅せられたら最後、どんどん研究してしまう。

だけどどの教室も圧倒的に女性が多いから、参加する時点で
腰がひけてしまう若者も多いことだろう。
ある意味、茶道とは本来男性のものかもしれないのに
人口が少ないのは残念だ。

「そうです、この教室は先生が解説を入れてくれるのが気に入っています。
僕が理系のせいだと思うけど」。
彼の欲する説明と私のそれとはちょっと違うのかもしれない。
理系の人はぼかしやあいまいさが気持ち悪いみたいなところがあるからな。
割り切れないことだってあるのに。

でもおそらく彼は「どういうことなのか」知りたいと共に
茶道の精神性にも触れたいんだろう。だけど
その生真面目さがエスカレートして仇となってはいけない。
だから先生も極端に言えば「動作を覚えるだけでいい」となるんだろう。

でも先生によっては、「そんなこと誰もわからないから
とりあえず決まりごとを覚えておけ。つべこべ言うな」みたいなやり方もある。
いいか悪いかは別としてそのあたりは、こちらが見極めて
合う師匠に出会えたら幸せなこと。

彼は「利休本来のお茶に帰ろう」みたいな会があれば参加したり、
「武家茶道」というものがあると聞けば調べたり、フットワークも軽く
求道しているようだ。
だけどそれらは日頃のお稽古のなかにチラチラと散見できるものかもしれないな。

見ようとすれば、見える。
見ていても、見ようとしなければ、何も見えない。
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お茶の稽古に行く 
しばらくさぼっていたお茶のけいこを再開する。
私の参加しているクラスは平日の午前中の、ご年配の先生ばかりが
集うクラス。私など初心者のようなもの。

この室礼にはこの茶碗にこの蓋置きに…など、さまざまな決まりごとを
把握するだけで手一杯。蓋置きというのはおかまの蓋を置く物。
瀬戸物や竹など素材はさまざま。

「今日は意地悪して、この蓋置きにしましょう」と、一人の先生が用意してくれた
それは、青磁のつるりとした「一閑人」という置物。
一人の閑(ひま)な人が井戸を覗いている、という解説だけで既におかしい。

そういえば一人の目玉オヤジのような物体が、置物に首から下をぶらさげるように
して、ちょこんと付いている。可愛いといえば可愛い。

さて、茶道とはお茶を立てて飲むばかりのものだから、とりあえずは
するべきことをするための所作を始める。抹茶を入れたらお湯をさすのだから
お釜の蓋をあけなければならない、ここで蓋おきを所定の位置に置き換える
動作が入る。目玉オヤジをどうにかしなければ先へすすまないのだ。

お茶の先生、冗談を述べているわけじゃないのだが、「はい、対面して」
と、目玉と対面するように指導してくる。照れるじゃないか。いや
目玉オヤジ本人は井戸を覗いているのだから、目は合わさないで済むはずなのだが
なんだかバツが悪い。悪いことはそれほどしていないつもりなのだが…

とまどっていると、「はいしっかり」と檄が飛ぶ。
ここで噴き出したりする人は他にいなかったのだろうか。
その真面目ぶりこそがおかしくて、笑いがこらえきれない。

もちろん目玉オヤジ(こんなこと絶対言っちゃいけません!)も神の匠だから
その前には私たち人間など取るに足らないものとしてひれ伏すべきだろう。
だからって笑っちゃいけないわけじゃない。

やっとの思いで所定の場所に置き、気を取り直してお手前をすすめる。
途中で「頭あぶり」という指導が入る。
え、なんですって?
「あたまあぶり」。
なんと、目玉オヤジのはげ頭を
釜のかかっている火のほうへ倒せというのだ。
きっとみんなグルだ。私をだまそうとしているに違いない…

確かにオヤジ、火にかざされて「あっちっちー」と言い出しそうだ。
かわいそうに。どんなお手前だこれは。

あまりに紆余曲折あって時間がかかったものだから、
「これでもうしっかり覚えたでしょう」と言われたが、
覚えたもなにも、目玉オヤジしばらく夢に出てきそうです。



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一期一会ということ 
言葉の使い方には慎重でありたい。
というのも、その場のつくろい言葉は調子よく聞こえるからだ。
多くの人とめまぐるしく接する人々にとっては、クセになっているのかもしれないし、それが彼の精一杯の誠実さの表現なのかもしれないが。

私にはそう聞こえる以上は、せめて自分は、たとえば言葉に不自由な外人が、しぼり出して使うかのような言葉のみを扱いたい。
日常のたわいない会話だからこそ、それをしたいと思った。
それでもいらないことを言ってしまうことはある。

しかしそんな切迫感を持って人と接することが、一期一会ということにつながってくるのだろう。

おもてなしの極意もその辺にあるのではないか。
もてなす側、もてなされる側とも切迫感に置いて平等だ。
もてなされる側だからといって、力を抜いてしまっていいのとは違う。

もてなされるときも、この切迫感を持ってすれば、たとえば相手のもてなしのテーマが肌でわかってくる。
緊張するのではなく、(とはいえどこかで緊張はするから疲れるけど)
ごく自然にこの切迫感を持てる人になりたい。
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稽古するひと 
拙著のプロフィールに、趣味 茶道、剣道などと書いた。
趣味などと書くかフツー?とも思ったが、他に取りたてて書くこともないしミックという西洋人を書いたからといって、西洋かぶれはしてませんといったちょっとしたエクスキューズもあったと思う。
実際は今、どこかの教室に通っているわけでもない。
いつでもしようと思えばたしなめる程度には続けてきたし、
もちろん機会があれば楽しみたいから、ウソという事にもならないかと
判断した。
茶道剣道といった道のつく世界というのは
つきつめれば芸事で、ひたすら技術をみがく世界だ。
日本舞踊、バレエなどもかじったが、華やかな舞台の楽屋裏では、
けばけばしい化粧に象徴される、場末感の漂う世界があった。
バカにしているのではなく、これがエンターティナーとカタカナにするとかっこいい芸人の、現実の一面である。
茶道は総合芸術ともいわれるように、芸事の中に
芸術性を見出す側面はあったにしても、
匠の技をみがくことと、精神性といったものは
まったく別個に考えるべきものである。
飛躍するかもしれないが、たとえば昔帝国陸軍が政治を行ったことで
戦争という事態を引き起こしてしまったことと無関係ではない。
精神性という大義名分のもと、まちがった解釈をしてしまった。
剣道はそのまま武士道精神にはつながらないのだ。
ひたすらワザをみがく中において、ふっと出てくる精神の働きだけが
普遍性だ。
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真剣の人 
剣道2段の取得に向けてはりきっていた20代の頃、仕事を終えたヨレヨレの姿で、毎日道場に通った一時期があった。
そこは高段者の男ばかりの道場で、私が女であり、年齢も段も下だからと、笑顔を交え優しく手ほどきしてくれる人もあれば、
情け容赦なくしごこうとする人もあった。
女だからと甘く見て欲しくないなどと、口先では言えても
実際そうされると、実に面白くないものである。
しかしその人はさりげなく人の動きを観察して
良くないところを諭してくれたので信頼が持てた。
たとえば「何か言われたからといってすぐ今やっている行動をやめるな。終わらせてきりをつけてから次の事をしろ」などと言ってくれるのだ。その人も私に何か言ってやろうと構えているのではなく
普通に人のことを見ているだけだ。
ただ本当に「見ている」だけだろう。
その意味でごく自然な行為だったといえる。
こういう事が、今子育てする中で生かされている。
同じようなことを子供に言っている自分を発見するとき
その人は私の中でよみがえっている。
永遠の命とはこのような事をいうのかもしれない。
大男に体当たりして何度も転がされ、立ち上がっては向かっていく。
こういう場面の方が、優しくされたことより残るのはなぜだろう。



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