サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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団塊のジレンマ 
出版社に入ったばかりの頃、「ダンコンの世代」と発したところ、
上司は泡を食って、「僕の前でよかったなー。部長には内緒にして
おいてやる」などと言った。
実は他にも「立食パーティー」を「たちぐいパーティー」、
「行楽弁当」を「ギョーラク弁当」、「犬猿の仲」を「いぬざるの仲」
といった多数の例があったのだが、穴掘って埋めた。
早晩、馬脚をあらわすことになるにしても。

団塊の世代といっても、そう何人も接したわけではないが
(とはいっても他の世代よりは必然的に多いが)
彼らの特徴として、なんでもコピーにしてしまう能力をあげたい。
「おいしい生活」の糸井重里も団塊だが、件の部長もそうで、
若い頃みずから「広告」というセクションを立ち上げたといい、
私もその仕事を任じられたが、たいして期待にこたえられなかった。
まあ特に私でなくても、自分たちで世の中を変えていけた時代の
人間には、下の者はじれったく見えるところがあっただろう。

彼らは触れ合いを尊び、飲みニュケーションにも価値を置き
仕事が終わると「ちょっと行こう」と部下を誘う。
ひきつった笑顔の同僚ほどには楽しめなくはなかったが、
飲んだ後にラーメンでしめないと落ち着かないところに
チキンラーメン世代の食の安らぎのありかを感じもした。

まだまだ貧しかった時代に育った彼らには、法すれすれのことをしても
生きていけ!という生命力を重視するところがあったにもかかわらず
妙に「根性」をいうところもあった。
彼らの親世代の精神主義の影響だろうか。

斬新な言葉使い、ユニークなものの見方、人より抜きん出ようとする根性に対して、
「おっ!」と関心を示し、自分は黒子に徹しながらも、そんな精神を祭り上げようとする。彼らの目の端にはアメリカン・ドリームの存在が見え隠れしていた。

ベトナム戦争反対運動をしながらも、どこかでアメリカの精神を称えているような、愛憎入り混じったジレンマも彼らの特徴だ。
流行に敏感で右往左往され、コピー文化を創造しながらも、その中身のなさに自ら反発しているようなものだ。

難しい論の振りかざしも、学生運動も、見かけは華々しいがピーマンのようだなどと揶揄されてきた彼らだが、そう切り捨ててしまうにはもったいない芯の強さがある。今の若者よりずっと厳しい親から受け継いだのだろう、「問題提起」すること自体の強さである。

すぐに群れたがるところは、昔のビートたけしのフライデー事件にも現れている。みんなで渡れば怖くないが本性だとしても、人の後ろに隠れる匿名性は、人によってずるさにもなり、人によって立派な個性にもなる。世代の特徴をおびながら、それを克服しようという意識のあるなしが、その世代の特性を十二分に発揮できるか否かにも関わってくる。

その姿勢は、全共闘に手を染めながら「もう若くないさ」と
髪を切るところから問われる。
本当に何事もなく髪を切るのか、責任を感じながら髪を切るのか、
問題へのコミットの仕方で判断できる。
いまだに地下に潜っているのではバカだけど
問題提起に対する責任感の有無という観点から、あの運動
はとても大きい意味を持つ。
彼らの何人かは、集団から個への静かな変革をはかったのだろう。





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ファービーには、まったくイライラさせられる。
「サンタさんてお父さん?」などと、いきなりフェイントを
かまし始めた子供たちが、まだ何の疑問もない頃のプレゼント。

「ファービー」と声をかけると、「なーに」と返事をしてくれ
他にも色々と会話が楽しめるはずなのだが、
電池のせいか、角度が悪いのか、それともみんな
こうなのか、返事がないことが多い。

そうかと思うと、急に「イェーイ!」などと言い出したり、
話の筋からはずれて、「ぼく君のこと大好き」と言ってみたり。
私は「ファービー、スイッチ切っちゃうよ」とあきらめたくなる。
すぐゲームをリセットする現代の子供よりこらえ性がない。

説明書の決まり文句どおり、
「ファービー、遊ぼうよ」と言っても
「ぼくー聞こえなーい」と投げやりな応対をされ、
「ファービー、歌って」とお願いすると
「ねえ見て!ぼく立てたよ」と返される。
「イェーイ!」

ファービーの乱暴なコミュニケーションにも負けず
根気よく問いかけを繰り返していた息子は
笑顔のまま、突然、足で踏もうとする。
「やめなさい! スイッチ切りなさい!」

これは子供のコミュニケーション力を伸ばすものではなく
忍耐力を養うおもちゃだろう。
もし、こんなとんちんかんな子供がいて、素直に異議を
表明したら、「いじめだ!」としょっぴかれそうだ。

そういえば、先日テレビで森村誠一が、三波春夫について語っていた。
「日本や日本人をこれほど愛した人はいない」と。
彼の活動は、都会に見られる、誰とも口を利かなくても済むような
機械化された人間への楽しい警鐘だったと。
「しゃべれ、ふれあえ、かたりあえ。
これが彼のメッセージだったのです。」
遺言は「逝く空に、桜の花があればよし」だったそうだ。

生前のブイが流れる。
彼は若者ともふれあいたいと、クラブのような
ところへも出向き、あの派手な着物で登場する。
若者はわけもわからず、はやしたてる。

どんな歌をうたったのか、私なら聴いてみたいものだが
彼らはあまり興味もないだろう。
三波春夫という、けったいなおじいさんによって
退屈な日常の目先が変わった新鮮味に対して
意味もなくはしゃいで見せているだけだ。
しかし春夫は妙に満足そうなのである。

ノー天気なざわめきにかき消されそうな
「若者は大切なんです。これからの日本を背負って立つんですから」
なんていうメッセージなど、誰も受け止めちゃあいない。

中身のない喧騒だけが虚しく響く、若者の空間と
三波春夫の「若者の味方でございます」という媚のまじった
迎合おどりは、ファービーの「イェーイ!」
に通じる、かみあわなさ、じれったさがあった。
ジリジリ。




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高齢男性の孤独 
一人暮らしの高齢男性の、地域での孤立が取りざたされている。
実態調査を行った内閣府は「長年、会社人生を送ってきた男性は、すぐには地域社会に入れない。孤立させないことが今後の政策課題だ。地域社会も意識的にネットワークを作る必要がある」としている。

男性であれ女性であれ、一人が好きではない人にとって、孤立
した状態というのはつらい。でも本気で仲間を作る気があれば、
会社人間であったというハンデを持っていても、そう難しいことではないはずだ。
地域でなくても場所はたくさんあるはずだと思う。

しかし一人が好きな人にとっては、地域に無理やり溶け込まされる
ことは、孤立しているのと同じくらい辛いということもある。
また「辛い人」はどんな状況であれ辛いという傾向もあるが、
まず、誰もがこうした政策を喜ぶわけではないことも把握する必要が
あるのではないか。

仲間が多ければそれなりのわずらわしさがあるし、一人は気楽だが
相談相手さえ得られない。そんな現実と折り合いをつけながら、
自分に合う生き方を模索するしかないのだろう。

「うちの主人、お父さんたちに溶け込めなくて困るのよ」という
主婦仲間がいる。最近の父親は、スマートに父兄間の社交も
こなせなくてはいけないらしい。

でも、おばさんのようになって井戸端会議にまで首を突っ込む
ような男性を、私は魅力的だとは思えない。
男らしくないじゃないか。
トレンディでなくても恥ずかしがることはない。
その人ならではの良さはあるはず。

男らしいとは人間らしいとイコールだ。
もともと何もない野坊主な自然を整備していくことに人間らしさ
があるのだ。

もともと男でも女でもない生物が、性差を意識して自分を律することは、自然的でないという部分においてのみ美しい。
正しくはないが人間らしいのだ。

たとえば私はスキーや、ハイキングがなぜ楽しいかというと、なんだか大自然を制覇したような気分になれるからだ。それは客観的には錯覚なのだが、それこそが醍醐味だ。

だから、今度はその植えつけられた性を個性で乗り越えて、苦手な人間関係なりを克服しようとしてみるという姿勢は、さらに人間らしく魅力的だろう。

個性を発揮した、よく生きる個人とは、このように野生を超えたものであり、それはまた不思議と野生的である。





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イメージで話をするが、私にとって両親は戦中派、上司はそれより「話せる」団塊、そして先輩といえば、クロワッサン症候群の女たちだ。

彼女たちの特徴として、結婚していない、もしくは結婚していても
子供がいない、といったことがいえる。

団塊の上司たちより、さらに話せる(何でもありの)
彼女たちの若い頃、雑誌『クロワッサン』は創刊された。
そこに登場する、桐島洋子や向田邦子といった、
先取の感覚に優れた女性に憧れ、
またアメリカから伝わった「飛んでる女」に影響を受け
実際は飛べないのに、飛んだような錯覚をしてしまった女たちを
「クロワッサン症候群」という。

ひところ話題となった「負け犬」女性のはしりとして
簡単にくくられることもあるが、実態はそうではない。
「負け犬」というのは、「私たちは負け犬よ」と
自称できるほどの「何か」をすでに手に入れた、
いわゆる勝ち組という嫌味な存在なのだ。

「クロワッサン症候群」のほうは、もっと哀愁をおびている。
「私たちはメディアに踊らされた」という被害者意識が特徴だ。

典型がこの本の著者で、自分の選んだはずの人生にぐずぐずと
泣き言がとまらない。本当の幸せはほら、そこにあるよと、
メーテル・リンクの童話をそっと差し出したくなるほどだ。

「クロワッサン」で自由な女を提案し、あなたたちにもできるはず
ここまでおいでと梯子をかけておきながら、それをはずしたとされる
桐島洋子らの「裏切り」を受けながらも、なお一人で生きてきた
彼女は、こうした泣き言を作風のベースに、その後趣向を変えた、
それでも生きていく女の知恵、みたいなもので多数の共感を得ている。
「優しい私たちの味方だ」と。

でも本当は一人が苦手な人が、一人は楽しいなんて
思うことを努力するのは、無理があるんじゃないか。
彼女たちの、今度は無理に楽しさを装おうとする仮面の裏の、
どうにもならない現実への慟哭を見てとった者は、
必死で彼女たちの立場に立って、アドバイスしたくなる。

思いっきりべたべたしたっていいじゃないか。
嫌がられたら、やめたらいい。
相手も「今はちょっと迷惑だ」と言ってあげればいい。
傷つけない言い方で。

仕事を頑張るしかない、そんな女性に限って
いかにも家庭的なパーソナリティーだったりすると、
恨み言や嫉妬心にさえ同情してしまう。
単に仕事に飽きただけの彼女たちに
こっちのほうが上手く乗せられているだけかもしれないのに。

私たち下の世代は、彼女たちの恨み言を聞いて、あるいは無理を
察して、何事もファッションに踊らされるのは考えものだという
教訓を得る。そして自分は仕事も家庭も、と頑張って、
今度はその姿を下の世代に哀れみの目で見られ、
専業主婦が楽でいいと、夢のない結論を出されてしまう。
哀れみの連鎖だ。

結局どんな立場であれブルースは存在する、
この事実を私たち自身が覚えよう。
青い鳥などどこにもいなかったのだ。





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NHKみんなのうたで人気沸騰、近々カラオケにも登場するらしい。
たしかに気づくと「これってホメことば~」と口ずさんでしまう
インパクトは否めない。ただこれを、おじさんたちがうれしそうに
歌うところを想像すると、頭が痛くなってくる。

歌でおじさんたちは、若者からこのようにほめられる。

カラオケで部下に「なにげに歌うまいっすね」と。
聞いたらなにげには、けっこうの意味。

娘に寿司をおごったら「フツーにおいしいよ」と。
フツーには、わりとの意味。

洋服店の店員に「めっちゃやばい」。
やばいは、かっこいいの意味。

就職決まった隣のお嬢さんに花束渡したら、
「この花よくなくなーい?」。
これは、いいよねという意味。

若者語って、はあ、こんな感じだったんだ。
わかりました。とここまではいい。
日本語が乱れている、けしからん!と言ったところで
さほど意味があるとも思えない。

嫌悪感さえ覚えるのは次からだ。
若者語を知った彼らは、それをその場で使って見せるのだ。
こんなふうに。

「なにげに勉強になりました~」
「パパもフツーにおいしいよ~」
「僕ってそんなにやばいっすか~」
「僕のセンスってよくなくな~い?」

プラクティスするな!

そんなにありがたいだろうか。
若者はあなたに「解説してやってる」のだ。
本来の言葉についていけていないのはあなたじゃない、
若者なのだ。
意味を知るだけにとどめて断固として「使わない」選択をしてほしい。

たしかにものわかりがよくて、何でも話せる人はありがたい。
だからって迎合することもないだろう。
若者をのさばらせているのは、このおじさんたちなのか?

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老人だって人間だ 
船橋市が始めたという傾聴ボランティアをテレビでとりあげていた。
独居老人がボランティアの来るのを楽しみに、カレンダーに印を
つけている。真っ白なカレンダーにその日だけだ。

ボランティアのおばさんはひたすら耳を傾け、いいタイミングで
合いの手を入れる。「シベリアではどうだったんですか?」みたいに。
「この人が上手に聞いてくれるからつい話してしまうよ」と
老人は嬉しそう。
でもよく考えたら戦争を体験した人の生の声を聞くのは貴重なことだ。

それにしてもこのボランティア、おばさんが向いてそうだ。
私にもできるかもしれない。
聞き上手とはいえないが人の話は聞きたいし、老人も嫌いじゃない。
途中からメモをとって取材を始めてしまいそうだけど。

この傾聴ボランティアにはもちろん男性もいる。
話をするのが苦手だというおじさん、他の奉仕はなかったのだろうか。
ほっとくと苦虫をかみつぶしてしまうのか「できるだけ笑顔を心がけてます」だって。
無理しなくていいのに。

彼は、老人施設に出向いて傾聴する。
一人だけ、何を話しかけても黙ったままのおばあさんがいるらしい。
それでも悲壮な頑張りを発揮して不器用に話しかける、
彼のほうが所在なさげだ。
なんとしてもコミュニケーションをとろうという執念が実ったか、
ある日おばあさんがうなずいた。
ぱあっと顔が明るくなったのは、彼のほうだっただろう。
どっちがボランティアなのかわからなくなってくる。

番組では、そのコックリといううなずきがまるでスローモーションの
ように、切ないメロディーをバックに演出されている。
「おばあさんはやっと心を開いてくれました」。

「お笑い」よりリアルでこっけいだが、オチをつけるなら
おばあさんは「このボランティアうざいなー」と思っていました、といったところか。
「早くどっかいってくれないかな、うなずいたら話をやめてくれるだろうか」と。

人間のタイプは色々で、複雑だ。

うちにも人間関係が不器用そうなのに友達だいすきな娘、
人間関係が苦手じゃないのに、一人が好きな息子、と色々いる。
育った環境のみならず、生まれつきの部分が大きいだろう。

老人ホームと聞くだけで「姥捨て山」を連想する人はいたが、
今ではだいぶイメージも変わってきているようだ。
それでも、たとえばみんなと同じことをするのを強要されるくらいなら
野垂れ死にすることを選ぶという人だっているだろう。
学校じゃないんだから・・・
もっとも、リッチな老人ならどんな施設もよりどりみどりだろうか。





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会いに来た孫 
15年前から女になったという孫が、
ふるさとのおじいさんに告白をしに行くという番組があった。

いまさら悩んでまで何も告白しなくてもいいのに、自己満足じゃ
ないのかとも思った。
しかし実際告白されたおじいさんは
涙ぐむだけで、許すも怒るもないという風情だった。

おじいさんにとっては何より孫が会いに来てくれたこと、
そして告白するのに悩んでくれたことが嬉しかったのだ。
死に行く老人にとっては、孫がオカマであろうが何であろうが
ただ生きていてくれさえすればいいのだろう、と思った。





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