サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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利己的な身体 
理想はやっつけられるのではない―それは凍え死んで行くだけだ……
とニーチェは『この人を見よ』で語る。
他に調子を合わせることで自己喪失に陥っていた彼を救ったのは、
病気がちの身体だったという。
だからこそ「暴力的で不快な手段」をとらずにすみ、
現実的に考えることを余儀なくされたのだと。

「病気から、わたしは、いやでも静かに寝ていること、何もしないで
いること、待つこと、忍耐づよくしていることという贈り物を受けた
……だがそれはつまり「考える」ということなのだ!」

私は、先頃インフルエンザの際タミフルを飲み、
熱が下がらないのですぐに「熱さまし」を飲みという、
無茶をしたためか悪夢にうなされた一人だが、
別にそんな性急に直そうとせずとも、じっと寝ていること、
身体が自力で治るのを待つこと、そしてその間、否応なく
さまざまなことを考えさせられることで、想像以上の贈り物
を得られたかもしれないのだ。病んだ身体というのは、
「何でも出来そうだ」とはつらつとした声を発する身体より、
もっと沢山のことを命じてくれるのだから。

高熱に苦しんでいるときは本も読めない。
これが思いがけなく心と身体をリセットしてくれる。
茶道のけいこで、我を通そうとしたために身体が素直に動かず、
次の動作がスムーズに出ない人に、「どうも教養が邪魔をして
いるようですな」とからかう常套句があるが、
知識でがんじがらめになることは人から柔軟な自己を奪う。

ニーチェは、病のためにしばらく本を読まずにいたことで
静かになっていた自我が、再びポツポツと語り始めたとき、
最高の幸せを感じたという。
それを彼は「最大級の快癒」と名づけた。
肉体の快癒はその結果に過ぎないと。
しかしこの悦びは、本をもとから読まない場合には
得られないのだろう。

たとえはっきりとした病や災害に襲われずとも、
「仮想敵」を常に設定したいという心理が人にはある。
神という言葉はニーチェの前で使っちゃいけないんだろうが
あえて言えば、「神の肢体」の1器官である私は、
精一杯利己的に生きることだけが務めであるのだ。
自分を一段高くして他を同情することこそが全体の退化だと
ニーチェは言う。
どんなに利己的に生きても何が起こるかわからないし、
何よりいつかは居なくなってしまうことが唯一の事実なのだ。

どんなに良くしてもらっても「知らないからってバカにしているな」
などと少しでも感じてしまうと、その人と話をしたくなくなる。
いくら「それは大人じゃないよ」と言われても。
身体とはそういうものなのだ。
しかしだからこそ身体には、「道徳」によって失っていた自己を
再び蘇らせる力がひそんでいる。

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ニーチェの永遠回帰 
この暮れのクソ忙しい時に「ニーチェを語る」でもない
のかもしれないが、まあそう言わずおつきあい願いたい。

今朝のニュースで、少子化が進んでいるため50年後の日本は
65歳以上の高齢者が4割を超えると伝えていた。
私が20代の頃から、将来は高齢社会だと叫ばれていたため
今現在すでに4割ぐらいいっているような気がしていたが、
私が90歳くらいになってやっと、そうなるのだ。
長生きしたところで、人間の命のはかなさには変わりがないこと
を思った。

ニーチェの永遠回帰は、この有限な命のなかに、無限性をみようと
するものである。

生きていれば、絶えず襲ってくるシビアな状況に耐え切れなくなる
こともあるだろう。やっと切り抜けたと思ってつかの間の幸せを
味わうと、またどん底に突き落とされる。その繰り返しだ。
ニーチェはこの繰り返しに耐えうる強い生に価値を置いた。

人間誰しも自分のやったことの見返りが欲しいものだ。
でも強い生を生きていれば、そんなことは関係なくなる。
今この瞬間を楽しめるからだ。
ご褒美などない、のだ。

瞬間を生きれば善悪の基準もなくなる。
次の瞬間の私はどう感じるか、快と感じるのか不快と感じるのか
その時になってみないとわからないからだ。

たとえば目の前においしいものがあれば、味わって食べる。
繊細なハーモニーを心ゆくまで楽しみながら、ただ食べる。
世の中にはこれを食べられない人もいる、ありがたいありがたいなんて
思っていたら、瞬間を生きられないじゃないか。
それはせっかく与えられた、おいしいものを楽しめる生に対して
失礼だ。

あえて言えば、その生を精一杯自分のために享受することが、
食べられない人を助けることにもつながっていく。

でもたとえば、他人の体験をあたかも自分のように受け取ることは
破壊への道だとニーチェが言ったからといって、
じゃあ目の前の弱者を、かわいそうと思っちゃいけないのか
そんなことはないだろう。善悪の規範はないのだ。

そういう同情をいっさいするなということじゃなく、
自分を切り離してそこに念だけを送るのなら、とりこまれていない
から引きずられることもない。
だから次の瞬間、忘れることも出来る。

同じように自分のことも、あたかも人のことを見ているように
眺めながら、「私はどう感じるのか」という実験をワクワクした
思いで繰り返すこと。
他人から見て辛そうなことであっても、自分にはあくまで実験なのだ。
その繰り返される実験がすべてということだ。

いや、これが果たして永遠回帰に値するのか、
「説明ではない体現」なので定義できないが、だいたい
そういうことだ。

そこには絶対的な自己肯定がある。
しかし人間は日によって、体調によって、後ろ向きの気分になることも
あるだろう。自信のある人でも、たとえば日本のような国にいれば
大勢と考えの違う者の方が悪いような気にさせられるし、
これからますます一定の規範を求められる側面もある。
そんな、善悪の基準に合わせようとする、揺れ動く自分との戦いでも
あるのではないだろうか。

真剣という意味ではいわゆる武士道にも通じるし、想念がさわやかという意味では禅など、いわゆる仏教にもつながるだろう。

マゾですか?と言いたくなるほど、いつまでも悩みの中に居たがる
人は多い。でも、もういい!というまで悩んだら、次の瞬間に
それをやめることはできないだろうか。
悩みの大きさにもよるという人もいるだろうけど、みんな一個の
有限体ということでは等しい。
ただのそこへ戻るのだ。ゼロに戻るのだ。
肩書きの一杯ある人ほど難しいのかもしれない。それはわからない。
その人次第だろう。
あきらめる、というのとは少し違うが、その辺りで私は瞬間を生きているなあと感じられることはある。

永遠回帰は、冷静に物事を観察するだけでなく「試みる」という
ニュアンスもあるという。
苦しみへの回帰でもあるからこそ、運命を愛し、能動的に生を
何度でも実験するという積極的なビジョンが必要になる。

聖書でいうところの「再生」の本意はこのあたりにあるのでないか。
キリストが生まれ変わったとか、あるいは自殺したらいい所へ行けないよといった、宗教とは違う。

ポイントをおさらいするなら、これらのことを念頭に置いて
永遠回帰をしようとすれば、もうそれは永遠回帰ではない
ということだろう。

結局、青汁のコマーシャルが一番近いかもしれない。
「まずい! もう一杯!」。

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ニーチェは鬼コーチ? 
昨日、違った人間も受け入れることが平和につながると書いた。
受け入れるというのは存在を認めるということで、柔軟な姿勢が
大切だと言いたかったのだが、

やはり、弱者はかわいそー、強者はずるい、では何も始まらない。
日本はおそらく間違った近代化によって、混沌としてしまい
もうガツンとやられなければどうにもならないところまで
きている。そのガツンとやる強者がまた、ムードでもてはやされ
私たちは、わけのわからぬまま、どこかへ連れ去られようとしている
のかもしれない。

聖書をフィクション化したり、戦争を美化する映画がつくられたり
するのも、ある意味混沌に拍車をかける。

そこでニーチェを考えてみたい。
彼は「神は死んだ」で有名だが、「神は死んだ」の裏側には、
「人間がものごとを支配する時代が、本当の神を殺した」
という言葉がにじみ出てくる。
ルネサンスや古典を重んじていた彼にとって、近代へ進む時代の
流れは、あまりにも不吉なものに感じられたのだろう。
「アンチ・クリスト」の現代語版『キリスト教は邪教です!』
は、ニーチェというオヤジが、世を憂えて酒場でくだをまいている
ようで面白いが、それほど彼にとって本当の神は大切だったのだ。

ニーチェはその中で、「弱者を哀れむことで強者までダメになる
ことはない」と述べている。これも彼が哀れみやすい人だったこと
の裏返しにもとれるが、弱者は後ろからつきおとすべきだという
過激な論を展開していた。

これも混沌の中では、単なる弱い者いじめの奨励にとられかねないが、
これくらいの厳しさで臨まない限り、ものごとは進展しないのかも
しれない。日本でいえば平和ボケした人も、わたしたち戦争を知らない
人も、死と隣り合わせくらいの勢いで生きていけということではないか。与えられた命を大事にしろ、それが神への報いだ。人にとらわれている場合じゃないと。

ニーチェはやさしい鬼コーチなのだ。
ただきれいごとのいえない人なのだ。
ガツンとやる強者との違いは、相手を見ているということだろう。
自分の体面だけを守りたい人ではない。

明日もまたニーチェをお伝えします。


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三島由紀夫の茶番劇 
三島由紀夫は、完ぺき主義者だったのだろう。
自己の完成にも心血をそそいだ。
自分に欠けた部分が気になって仕方なかったのだ。
たとえば三島は運動神経がにぶかったために
そこにことの他こだわり、剣道も嘘の段位まで取得して
その気になっていたという。
貧弱な肉体も改造してマッチョにした。
簡単に言えば、見栄っ張りのナルシストだ。
これをかっこよく訳せば、
彼の人生は、彼の思うあるべき美の追求だったということになる。

あるべき美は、すべてを超越したところに存在する。
人で言えば超人ということだ。

三島は、全共闘との討論の中で天皇観を述べ
権威や征服者としての奔放な強者としての神がかった美しさの
純粋な持続とした。
「天皇はブルジョワなどではなく、日本の民衆の底辺にある観念、日本人の持続したメンタリティ、いわば庶民の超越項である。それをものにしなければ空間を理解できない時間を生きる民衆の心は掴めず、革命はあり得ない。徹底的な論理性は非論理的で非合理的な文化の上でこそ成り立つ。文化的概念としての天皇こそが、それゆえに革命原理、戦闘原理となりうる。」

三島は民衆を「空間を理解できない奴ら」とみなしている。
そう仮定するところの民衆を超越するものなど、支配者でしかない。
しかし彼は、天皇を人間でありながら神である、三位一体のような超人としてとらえている。
超人を神と同一視するということは、超人である自分をも神とする
ということだ。ここで彼はやはりナルシストだとの証明がなりたつ。

全共闘は、彼についてこのように結論付けた。
「三島は過去の歴史に規定された関係性の中でしか生きられず、日本文化に拘泥し、その幻想の中に喜びを感じている。 それは日本文化や日本人であるということに負けている、ということだ。自由であることを放棄した、そういう退屈な三島からは何も生まれない。」

三島は日本人の誇りを訴えたかった。
生命尊重のみで魂の死んだ日本人を嘆き、
「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を
諸君に見せてやる」と、自衛隊に期待した。
しかし裏切られ、自決したといわれている。
彼は生命尊重以上の価値の所在を自分に求めたということだ。
自衛隊には期待できないと、わかっていたのではないか。

彼は既にその崇高な志を政治に弄ばれている。
憲法改正と日本の再軍備をもくろむ政治家に支持されたという。
現在で言えば頭数欲しさに復党させたいために
「人間最後は情だよ」みたいな言葉に踊らされる人間の
おめでたさを、三島は駐屯地で演出して見せたのではないか。

三島のような自意識過剰のカッコマンは、通常ならみっともない
姿はさらさないように、用意周到になるところだろう。
恥を何より恐れた彼が、恥をさらし、茶番を演じたのだ。

それは自らを神になぞらえた、ナルシシズムの抹殺であり、
マゾヒズムに彩られた道化としての
本当の神への敗北宣言ではなかったか。
ここで三島は開けた人間として超越性を発揮したのだ。

超人としての完結は、その意味で最初の理想と合致する。
あるいはキリストのように、真の武士として蘇ろうとしたのか。




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