サムライ、キリスト、ニーチェ、沢田研二… そしてミック・ジャガー
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突っ込みまくったまま序章で止まっているので
書評にはならないのだが、感じたことを書いてみよう。
著者によれば、これまでのさまざまな知見から、
「男と女の間には深くて暗い川がある」ことは間違いないのに
世の中にはそれを認めたがらない人が多いという。
つまり女性らしさとは、後天的な学習でのみ作られるものと
信じている人がいて、なぜ男女差があってはいけないと考えるのか
わからない。
ふむふむ…

なぜ男女差があってはいけないと考えるのだろう。
と、思って読み進めると、たとえば「男性は自分より背の低い女性を
見ると保護欲がそそられるものだ」とある。もちろん例外はあるけれど
その例外を持ち出して、鬼の首をとったように攻め立てるのは
人間の本質を理解できていない、という。

たしかに例外だけを言う者の目的は、相手を言い負かすこと
だったりする。それでは進歩がないだろう。
だけどあまりにも、例外を「切り捨てる」ような表現が多いので、
男女差があってはいけないという極論さえ出てきたのではないか。

アンケートをもとにした傾向による、としっかりうたってあっても、
それからずらずらと並べられる事例の表し方には、
どれも首を傾げてしまう。
たとえば、女性というのはきれいなものが大好きで、
花に3000円払っても欲しがるが、男性なら100円でももったいない。女性は何より快を重視し、恋愛にも命をかける。
男性は社会的な位置が不明瞭だと精神的に不安定になる。
女性は経済的に困らなければ、働かなくても平気だ。

例外をあげるな、といわれそうだが、これらの例は
やはり作られてきた性差ではないのだろうか。
たとえば男でも花の好きな人は「男のくせに」といわれて育つ。
なぜ例外が発生するのかということを解明するのは科学では
大事なこと、というのなら一般論がなぜ発生するのか
の解明も聞いてみたい。

女性は嫌いな男性から触られたら、ゴキブリか蛇にでも
さわられたようなおぞましさを感じる。
そうだろうか?
どの例をとっても、自分も含め逆の事例ばかりが思い浮かぶ。
例外をあげてわめきたくなる人の気持ちも分かる気がしてきた。

そして、男性は「女性にとって何でもないところで傷つく」
というくだりで私は本を閉じた。
それは、「相手に見下されたり、拒絶されたり、疑われたり、
軽蔑されること」だという。
男性の受けるショックは、女性の何倍もあるのだという。
「男を殺すのに刃物は要らぬ、ちょっとなじればそれでいい」
のだそうだ。
たしかに「男の傷つきやすさ」って独特だな、と思ったこともある。
でも女性だってしっかり傷ついていて、傷つきたくないから
図太いオバハンになっていくのだ。
これじゃ、女性には何も気づかわなくていいみたいに聞こえる。

細かい事例よりも、もっと大きなところで男女差はある、と思う。
たとえばこの著者の全体を流れる表現の仕方こそが
男のものと感じるし、
女性には、男性に「コイツ、マジでバカじゃないか」と
思わせるところがたしかにある。
そして、そういわれることを女性自身喜んでいるような
ところもある。

もちろん本質を見極めようとする態度は大事だ。
だからこそ、鬼の首を取ったような反発も出てくるのだろう。
「性差に興味がある」という点では反対者も著者と同じ場にいるのだ。
反発を経てあらためて、「男女間には深くて暗い川がある」
という論にかえるなら、それがその人の真実だろう。

(と、ここまで書いて、著者を検索してみると、セクハラで
逮捕されていた。恥ずかしながら知らなかったが、本文中の
嫌いな男に触られておぞましがる女の特性はどう理解できるのか。
自分が「嫌われている」とは思わなかったのだろうか。
それとも「例外」に希望をたくしたのか)
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「利己的に生きる」については、しかしある種の資質が要るようだ。
私は、この前会ってきた甥の一人、そして自分の下の息子とともに
「自分のことしか考えていない」あるいは「何も考えていない」
人々として、はからずもひとつのユニットを結成しているが、
(本や音楽、ゲームに一日中でもひたれ、周囲が見えず、
そのため誰もが周知のことを何日もたってから
「あれどうなった?」というような特徴を持つ)

今回中学生になる甥は、そのことで親や祖母に注意を受けて、
さすがにそろそろどこかで「こんなことでいいのか」と気に
し始めていたようだが、もっと非国民的な私という叔母が、
それでも40年、意外とフツーに生き抜いていることに
安心したようだ。「あれでいいみたいだ」と。
思いがけず私は彼の希望の星となったわけで、よかった。

「戻ってこれない者は、タミフルを飲まないほうがいい」
と言われるほど何かに夢中になることの裏には
案外ペシミズムのようなものが巣食っているのかも知れず、
そう書くとなんだかカッコいいが、利己主義者なりに
ふと我に返ると辛いものはある。
行ったきりの安定を覚えると不安定とのギャップが激しいから。

宗教に逃げようとしたこともあった。
「ロハスな生き方」のようなものに癒されようともした
(それも残念ながら宗教だ)。
しかしいつしか不安定を生きる以外ないことを知った。

私もまだ発展途上だが、甥に伝えるとしたらそれだろう。
「人に伝える」ことは我が身をふりかえらせる。
たまには「戻る」ことを選択してみたくもなる。
そうすれば次に「行く」ときはもっと快感が得られるだろう。
えらそうに言うことじゃないが(充分えらそうだが)
利己主義ナニが悪いというメッセージにもなりえるかもしれない。
心の友よ、強く生きていこう。

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先週、イギリス人英語講師の殺害事件のニュースが世間を騒がせた。動機についてさまざまに憶測されているが、美しい女性に対するストーカー行為もさることながら、私が気になったのは、日本に来たことも慈善事業の一環であるかのようなクリスチャン然とした被害者の人物像だった。彼女のちょっとした物言いなどに、哀れまれることに敏感な加害者を刺激するような要素が、もしかするとにじみ出ていたのかもしれない。

イギリスにも日本にもクリスチャンはいて、かもし出すオーラは良くも悪くも世界共通だが、逆にイギリスには日本にはない独特の趣向を持った観光スポットが存在する。私が昔行って一番ワクワクしたのは、「ロンドン・ダンジョン」だ。同じ人形館でもマダムタッソーのようにメジャーじゃなく、日本人も見当たらないそこは、どこよりもリアルなお化け屋敷だった。王室の血塗られた歴史、貴族たちの処刑シーンなどが蝋人形で再現されている。日本では考えられないことだが、このエグさが大変私の趣味に合った。

病気の流行や自然災害、残忍な事件の数々。こうした暗黒面ばかりこれでもかと表現されると、きれいな顔をして口をぬぐってまで守る日本の「伝統」なんて何ほどのものだろうと思わせられる。

犯罪者の拷問の方法、死刑の方法が細かく知らされ、スタッフの兄ちゃんに角で待ち伏せされて驚かされ、追いかけられ。裁判にかけられるとあの人もこの人も何を言おうが「有罪!」の判決をくだされ。やることなすこと子供じみていて面白かった。場内撮影も自由だが、断頭台の前で記念写真など撮ったらさいご心霊が映っていそうだ。

理想的なことを語ろうとするとき、だからこそおちゃらけたくなるような苦痛がともなう自分を、見えない誰かが、「何やってんだ!」とムチ打つ。意志がなければ理想は守れない、無責任はよくないと自分に言い聞かせ、いいかげん疲れたとき、こんなお化け屋敷が細胞を蘇らせてくれる。

そのリアルすぎる非日常の空間に、悪ふざけの過ぎるどうしようもない自分こそが、もっとも生き生きしているのだという現実をつきつけられ、妙に癒されるのだ。鼻水とよだれをたらし、「だまして悪かったよ」と、ヘラヘラしながら白旗をあげたくなる。

目に見える法律や、添うべき形式があろうがなかろうが、我々が何でも勝手に決めていいわけじゃないという限界を、暗闇の不安の中につかみ取ることで感じる安らぎが、そこにはあるのではないかと思う。できることは自分の足元を見すえて地を踏みしめ歩くことだけなのだ。


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若者を信じる 
2003年の大阪ドームに参戦したあと乗り込んだタクシーで興奮状態の私に、運転手は「ローリング・ストーンズ? それおっちゃんらの年代やん」と言った。私をいくつに見ているのか、明らかに若者として認識されている様子に気を良くしながらも、なおもミック・ジャガーがいかにパワフルであったかなどを熱く語ると、「そら、西洋人は我々とはもう身体がちゃうやろ」とのことだった。

たしかに彼らは草食動物のような日本人とはガタイからして違う。
石造りの街並みが象徴するようなイギリス人の頑強さに比べて日本は、地震を初めとする自然の脅威に常にさらされ翻弄されてきた。しかしそのためか日本人は、打ちのめされる都度ひょろひょろと立ち上がる負けじ魂を身につけた。

種類は違っても、63の老体にムチを入れながら平然とライブを続けるミックジャガーのしぶとさにも同じスピリットは確認でき、日本人に共感と希望を与えてくれる。身体はついていかなくても、その精神を意地でも見習うことは出来るのだ。

それはどんなものだろうか。
たとえば日本の憲法を作ったのは、まだ年若いアメリカ青年たちだったというが、そこには「失われたアメリカ」の自主独立の精神が込められた。この若者特有の青臭さと無茶なまでの理想主義を守るのは、ロックだましいを大切に育んできた大人だからこそできることだ。
彼らは倒れても倒れても、ファイティングポーズで起き上がってくる。

その「意地」は、逆に無常観を際立たせ、周りが見えない不安を吹き払う役割を担う。どんな脅威にもびくともしない、目に見えぬ石造りの頑強さがそのとき静かに再生する。

若者は無茶だから、危なっかしいからと阻害することはできない。差異の確認と否定を経て得られた慈しみで見つめれば、「彼らと私たち」という見えない境界がとっぱらわれた、哀れみではないただの共感へといざなわれる。錯綜する周囲の情報に盲目的に踊らされるのではない、島国の一歩引いた冷静さと、ロックの熱さで彼らを信じるのだ。

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ケンポーとバイブル 
キリスト教を信じてひたすら「人のために」東奔西走してみると
なんとなく自罰的になってくる。
そんな時、なにげに憲法をひもといてみると、目からウロコだ。
日本人はこんなに権利をもらっていいのか。
全部私のものなのか。
そうだ、あなたのものだ。
ただし、この権利という言葉、原文ではrightだったという。
このニュアンスで解釈すると
rightには、自分のすべてを受け入れてくれるような、
涙が出るほどのあたたかさがある。
それでいいんだよと、励ましてくれているようだ。
ゆるされたところから、道徳も始まる。

憲法は強い者たちがのさばり過ぎないように設定してある。
神のボディーの、私たちは肢体であるという考え方だ。
ひとつが暴走すれば、全体は成り立たない。

神はあえて、さまざまなランゲージをつくり、私たちに
意思の疎通を難しくさせたと聖書にある。
それは聖書を流れる自由精神の一環だ。
どう解釈しようと、「私はあなたを捨てない」。

神に限界はないのだ。
しかし人間に絶対の自由はないから、法がいる。
あとから付け加えられた、たくさんの法については
矛盾点を検討していく必要があるが、憲法については
そう簡単に変えるわけにはいかない。
なぜなら97条にあるように、「これは自由を求める人々が
長い闘いを経てようやく手に入れた成果である。この成果は
多くの厳しい試練を越えて今まで続いてきたもので
どんな時にも侵すことのできないものとして
今の時代と後の時代に、信頼にもとづいて手渡される」ものだからだ。

聖書は文学的であるとしばしば言われるが、
その理念は憲法と通低している。
この抽象性に私たちは自己を投影できる。
その諸観念はきれいごとであるとも言え、
それを言ってしまえば憲法もつくりものに過ぎない。
でもだからこそ、それは守り育てるべきものだと言えなくはないか。
有限の中において、現在進行で生きるのだ。

ところでもうひとつ憲法にうたわれる国民という言葉に
注目すると、原文ではpeopleとなっている。
これは人々の意味であり、ただの民であるととれる。
自由精神ということを念頭に置いて解釈すれば、
なおさら広い意味である「人々」のほうが、rightだろう。

もちろん国民というニュアンスを投影したければしてもいい、
しかし少なくとも、主体であるpeopleあっての国だ。
「日本人である」という自覚がある者は、民に含まれる。

キリスト教では、民のことを「神に仕える者としての人間」と
定義している。あたかも神がクリスチャンに
「私はあなた方を捨てない」と言っているかのようだ。


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「おふくろさん」考 
森進一のヒット曲「おふくろさん」について作詞家が
「森には歌わせない」と、憤慨しているという問題はまだ
尾を引いているらしい。
森サイドが勝手に付け加えた歌詞である、
「いつも心配かけてばかり、いけない息子の僕でした」は、
たしかに作詞家の意図するであろう趣旨とは正反対で、
全体をぶち壊している。

それを、「歌うな」と言われたらやめればいいものを、
「はいはい」と受け売りしておきながら、歌い続けた
卑しい態度が、問題視されたのだと思う。
あの歌詞を省くと誓うのかが問われているのに、悲壮感をただよわせて
連日「おわびをしたい」攻勢をかけても、それはまた
「作詞家がわがままで僕を苦しめる」というメッセージにしか
なっていないところが、ことをこじれさせたのではないか。

おふくろさんで歌われている内容を私なりに解釈すれば
母の愛であり真実というものは、目には見えないけれど
空にある星にもなれば花にもなる「シンボル」だということだ。
そこには希望や理想をいくらでも投影できる。
目に見えるものには嘘が入っても、シンボルは無限だ。

実際、一見チャランポランな親がいつまでも子供に慕われて、
子供のために粉骨砕身つくしてきたような親が
子供に疎ましがられているようなケースは多い。
こういうことは人間には解せないけれど、でも何か、あるのだ。

たとえば親の、子供に向き合う真摯さといったものは、
目には見えない。感じとるものだ。
それらは子供の中にひそかに息づいている。
そんなものを後生大事に抱えてくれていたら
親としてはこれ以上のことはない。
親というのは本来、目に見える見返りを求めないものだからだ。
そしてそれが、愛であり真実だろう。

「真実などない」人間にあって唯一守られるべきが、
その、親というシンボルの、ほんのひとかけらの純粋性だ。
それを侵されてはならないから、戦うのだ。
作詞家の気持ちはよくわかる。
でもそれを、目に見える戦いを持って守ったら
「おふくろさん」は汚されてしまうではないか。
あの騒動が、その証拠だ。
だから作詞家は宣戦布告はしないほうがよかった。
見えないところで、森と関係者にノーを言い続ける。
何度裏切られても言い続ける態度は、
相手に作詞家の真実を残すかもしれない。

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やっぱり嫌なんだ 
夫方の親戚のおばさんから、子供の入学祝が送られてきた。
速達だったので、その日のうちに「着きました」とお礼の
電話を入れるべきだ。だが私は、なぜか悠長に葉書をしたためて
返事をした。

次の日、おばさんから、「入学祝は届いたのかしら」と
電話が来た。しまったやはりすぐに電話を入れるんだった。
こういう礼儀に人一倍うるさい人だと知っている。
何を差し置いても電話の一本くらい入れられないことはないだろう。

私は何を躊躇してしまったんだろう。
きっと、話をしたくなかったのだ。
コンタクトを取りたくなかったのだ。
この人でなければ、すぐに電話していたのだ。

「誰が解釈するのか? われわれの欲動である」と
ニーチェが静かに語り始める。

「世界を解釈するのはわれわれの欲求だ。われわれの衝動と
その衝動のおこなう受容と拒絶だ。すべての衝動は一種の
支配欲であり、それぞれの自分のパースペクティブを持ち、
自分以外のすべての衝動に対してそれを規範として
押しつけたがっている」

めちゃくちゃ大げさだろうか。

おばさんごめんなさい、まだかまだかと電話の前で
返事をお待ちのことだったでしょう。
すぐに電話して、世間話のひとつもすれば済んだこと
だったのに。
それさえもしたくないという感情が露呈してしまった。
それは、沈黙のメッセージにだってなりえる。
いや彼女はそんなことには気付かず、いつものように
「若い人はまったく」と腹を立てていることだろう。

一度話をしてしまえば、話題の豊富な楽しいおばさんだ。
中曽根前首相の名前入りの勲何等とかいう賞状の飾られた、
おかたい警察官一族に嫁ぎ、長男の嫁として姑にも
つかえてきた。私の姑にあたる小姑たちにも頼りにされ
「模範的」な良妻賢母でずっと通してきた。
今は夫も亡くなり子供たちも帰ってこず、一人で寂しそうだ。

私から「おばさん元気ですか?」の電話の一本も入れても
いいくらいなのに、こんな返事さえ返さないなんて、
彼女の生きてきた世界では、信じられないことだろう。

だけど、「すぐ返事しないと!」というあせったような思いが、
ゆっくり椅子に座り、手紙を書くという、正反対の行動に
走らせてしまった。

そして、私はこの自分の行為をいかようにも言い訳できる。
美しい言葉で、道徳にさえできなくはない。
こんなところにニーチェを持ち出しているくらいなのだから。

ギリギリまで自己と対峙しないと、「嫌なんだよー」という
本当のところは見えてこない。

「そうだよねー返事返さなきゃ届いたかどうかわからないのに
私ったらバカバカ」と自動的に自分だけを悪者にしてことを
納めることもできる。それが習慣になっている人も多い。
「ダメだねー」という声が常にこだましている。

そうして人はどんどん真理から離れていく。
いや、これさえも私の個人的解釈かもしれない。
ニーチェが、「真理などない」と言ったのは、そこに人間が
からめばからむほどに、どんどん生まれる「捏造」が、
汚らしくて耐えられなかったのだろう。
自分だって人間なのに!

おばさんもおそらく、さまざまな捏造に翻弄されてきた、
ある意味犠牲者なのだ。

限界を意識しながら、そのなかにおいて悪あがきすること
しか我々に道はないのではないだろうか。




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